“最高の自分を引き出すー『意志力』(その2)”
このブログは、“最高の自分を引き出すー『意志力』(その1)”からの続きです
“さばく”ということのメカニズム・仕組み・プロセス
さて、ケリー・マクゴニガルは、意志力を強化するノウハウの一環として“自分に思いやりを持つこと”の重要性を教えていますが、当ブログではこれを別の視点から観ていきたい想います。このようなノウハウとは違ったアプローチで意志力の強化という同じ目標を達成を図っていきたいと考えているのです。
ケリー・マクゴニガルはスタンフォード大学で教えているのが『思いやりの科学』という講座だとすれば、私が当ブログで書いているのは『さばくということに関する科学』の講座と言えるかも知れません。人の人生に暗い影を落としている究極の原因と考えられる“さばく”ということをいろんな角度から光をあてて観ていって、分析し、解析していくことで答えを見つけだして、その結果、意志力を強め、人生を好転させていこうと想っているからです。
“さばく”ということのメカニズム・仕組み・プロセスがどのようなものかということを知ることによって、意志力が働くのを妨げている要因・原因というものを実際に取り除いていくことも可能である・・・と、私は考えているのです。
なぜなら、人は 自分をさばいている限り、“自分に思いやりを持つこと”はできないものだからです。逆に言うと、自分をさばくことをやめた時に、自分に“思いやりを持つこと”が可能なのです。
これは、ある意味、同じことだと想います。“自分に思いやりを持っている人”は、“自分をさばいていない人”でもあるのです。逆に言うと、“自分をさばかない人”は、“自分に思いやりを持っている人”でもあるのです。
ほとんどの人は、“知らずに”と言いますか、“無意識的に”と言いますか、他人をさばき、かつ、自分をもさばいているものです。生まれつきなのか、あるいは、後天的に染みついてしまったというのでしょうか、“さばく”という習性や癖が身についてしまっているものです。
“さばくこと”と“愛すること”は、対極にあるものだと私は想っています。さばいている人は、“愛すること”の意味を知らないと言えます。さばかない人は、“愛すること”の意味を知っていると言えます。従って、山上の説教の中で イエスが「人をさばくな」という場合、それは「人を愛しなさい」ということの裏返しでもあるのです。
ここで、“さばく”ということを科学していきたいと想うわけですが、科学の基本は、先入観や偏見、バイアスした考えを持たずに、じっくりと現実や現象を観察していって、そこから一定の法則、メカニズム、仕組みなどを解明していって、そこからさらに発展させていって、その真逆の“さばかないこと”はどういうことなのかを知ることが重要になってきます。でも、この段階では、それはまだ『仮説』の域を越えません。その後、解き明かされてきた法則やノウハウを実際に自分の人生の中で適用(=実践)してみて、その仮説が本当(=事実)であったかどうかを実証、あるいは、確証していくというわけです。これが、“科学者”としての本来の姿勢と言えるのではないでしょうか?
聖書の信仰というものも、このような探究の姿勢がとても大切なのでは・・・。そうでなければ、聖書の信仰が“盲信”、“誤解”、“思い込み”、“妄想”になってしまうおそれがあるからです。ヘブル人への手紙11章1節によると、信仰とは“見えない事実を確認すること”であると記されています。この確認作業に科学的な手法を取り入れることが必要なのではないか・・・と、私は想うのです。
人の『人生の意味や意義』、『人生における謎、不思議さ、複雑さ、問題や課題』というものを解き明かしていくためには、人の心の法則の中に組み込まれてしまった、あるいは、染み込んでしまった “さばくということ”がどういうことなのかをよく観察してデータを収集して、分析し、解析していくことによって、 科学していく・・・。それによって究極的な答えを見つけていく・・・これがとても重要なことではないか。そのように、私は想うのです。
それでは、“さばく”ということが、一体、どういうことであるのかを様々な角度から 見つめていきたいと想います。なぜなら、“さばく”ということの実態やメカニズムというものが分かってくると、それとは正反対の“さばかない”ということのコツも掴めるようになり、その結果、自分の人生においてもっと“さばかない生き方”を実践しやすくなるからです。
中島美嘉の『WILL』の歌詞に再び注目
中島美嘉の『WILL』というナンバーを私が聴いていて、最も“意味深”に聴こえてくる“あるフレーズ”があります。運命の支配に翻弄されることなく、自らの意志で決めていって、自由を生きていくための秘伝というものが“あるフレーズ”に隠されているように、私には想えるのです。
それは、「瞳(め)を閉じて見る夢よりも 瞳を開きながら WOW WOW」というフレーズです。このフレーズは、2回 出てきます。
このフレーズは、一体、何を意味しているのでしょうか?
「瞳(め)を閉じて見る夢」というフレーズが暗示していることは、今、自分の目の前にある現実・現象・置かれている状況などに目を閉ざしたり、目を逸らしたままで 夢を追い求めるという生き方です。でも、目を閉じている状態のままで、たとえ どのような夢を自分の心に想い描いたとしても、運命の支配から逃れることはできないということ。
運命の支配から自由になって自分の人生をしっかりと生きていく上で大切なことは、「瞳(め)を開きながら・・・」とあるように、今 現に自分の目の前にある現実・現象・置かれている状況などから目を逸らすことなく、あるがまま認め、受け入れていくこと、しっかりと観察していくこと。言い換えると、自分の目の“梁”を取り除いた澄んだ目で、ハッキリと見ていくこと、しかもさばかずにじっくりと観ていくこと、外見・外面・表面的なことに惑わされることなく、それらを引き起こしている究極の原因といえる“目に見えない事実”というものを察していく、捉えていく、気づいていくこと・・・・・・これが重要なことなのです(マタイによる福音書6章22節~23節、同7章1節~5節を参照)。
さばかないこと、ゆるすこと
イエスが山上の説教の中で説いた教えの“核心”というのは、『さばかない』ということであり、それと同じような意味合いの『ゆるす』ということである・・・と、私は観ています。ここに最も注目しているのが、実は、私が当ブログで提唱している『イエス-道』なのです。ここが従来のキリスト教と比べて、観る視点が大きく異なっているところと言えます。
『さばかない』ということ、あるいは、『ゆるす』ということが、実際、どういうことなのかを悟らない限り、キリスト教は完成しない・・・と、私は想います。つまり、『さばかない』という生き方に全面的にシフトしていかないと、キリスト教の信仰というのは “盲目的な信仰”、“近視眼的な信仰”になってしまうおそれがあると想うわけです(マタイによる福音書23章16節・17節・19節・24節、同15章14節、マルコによる福音書8章18節、ルカによる福音書6章39節、ペテロの第2の手紙1章9節を参照)。
以前にもこのブログで書いたように、使徒パウロは、「信仰・・・によって律法を確立するのである」(ローマ人への手紙3章31節)と述べましたが、私はさらに進んで、「さばかないことによって信仰が確立されるのであり、その結果として、律法が確立されることにもなる」と言いたいのです。
さばかない(=寛容という愛)ためのコツ
使徒パウロは、以下のようにテサロニケ人にあてた手紙を書きました。
「すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して善を追い求めなさい。」(テサロニケ人への手紙5章14節~15節)
寛容の愛をもっている人は、さばくことをしないものです。逆に、さばかない人は、寛容の愛をもった人であると言えます。
このような“寛容の愛”というものを考えるにあたって、“善と悪という問題”が出てきます。ここで使徒パウロが述べていることは、“悪”をもって“悪”に報いないように心がけること、そして、お互いに、また皆に対して“善”を追い求めることによって、結果的に、人は“寛容の愛”の人になれるんだ・・・ということを述べているのではないと想います。 むしろ、人が寛容になった時に、“悪”をもって“悪”に報いないようになれるのであり、また、お互いに、また皆に対して“善”を追い求めることも可能になってくる・・・というのが真実ではないだろうかと、私は想うのです。
もちろん、人は寛容になろうと想っただけで、寛容になれるというわけではありません。寛容になるためのコツは、“さばかない”ことにあります。言い換えれば、“さばく”という自分の中にある『マインドの働き・プロセス』を停止することが、寛容になるための秘訣といえるのです。
ヨブの人生に学ぶ
“善と悪という問題”に対して、人がどのように向き合い、対処していくのかが、人が寛容になれる否かということを考えるにあたって、とても大切なことになってきます。旧約聖書のヨブ記を観ると、その答えがわかってきます。ヨブの人生を俯瞰していくと、それに関する貴重な真理が見えてきます。
ヨブに関して、次のように旧約聖書のヨブ記の中で描写されています。
「ウズの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ、正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。」
「主はサタンに言われた、『あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか』。」(ヨブ記1章8節)
つまり、ヨブは“悪”に遠ざかることを意識的にやっていたのです。“悪”に遠ざかろうとすることは、その真逆の“善”を強く意識していて、かつ、“善”を追い求めようとしていたということが伺えます。そして、その当時の人としては神が認めるほど全く、かつ、正しい人間であり、神にも忠実であったヨブは、そのような生き方を守り通していった結果、逆に、あのような悲惨な試練を引き寄せてしまったのでした(ヨブ記3章25節を参照)。そして、“善”を追い求めるために、“悪”に遠ざかろうとするような生き方を もし最後の最後まで貫いていたとしたら、おそらくヨブの試練は解決することのないまま、この世におけるヨブの人生は終わっていたのではないか・・・と、私は観るのです。このことをヨブの人生から学び取ることは、とても重要なことです。
ヨブが採用した『“悪”から遠ざかるように心がけることが“善”を追い求めることに繋がり、結果的に、“善”を手に入れることができるはず・・・』というような発想は、人間的に考えれば、一見 納得がいくものであり、論理的にも間違いがないように想えるかも知れません。でもこのような二元論的な善vs悪というふうに対比させて捉えるような『善悪の固定観念』こそが人間界における様々な不幸の根底にあるのです。
従って、イエスが山上の説教を通して私たちに教えようとされたことは、ヨブがやったこのような方法ではなかったのでした。つまり、ヨブとは全く異なった意外なアプローチだったのでした。イエスが、私たちに示された最善の方法・生き方というのが、なんと
「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)
ということだったのです。
これは、試練に遭遇する前のヨブには、想像することもできないような方法・生き方だったのでした。実際、試練に遭って苦しんでいたヨブがこのことに気づくまで相当な時間を要しました。でも、ヨブが最終的にこのことに気づいたとたん、ヨブの前から“残酷に想えたような試練”は霧が晴れるようにサーっと消え去ってしまったのでした。
ヨブがサタンと直接対決して、サタンに打ち勝った結果、試練が解決したというのではなかったのです。サタンと争うことなく、戦うことなく、ヨブの試練は解決していったというのが真相なのです。
自分が抱えている問題を解決しようとして、自分の外側にサタンという敵という存在を作り上げて、それと戦おうとしてはならないのです。“善”を追い求める自分の道を塞いでいるのは、究極の悪の存在といえるサタンだと決めつけて、そのサタンに戦いを挑もうとしてはならないのです。
それはちょうど、小学生がプロの横綱を相手に相撲をとって勝とうとするようなものです。勝敗は、勝負をする前からわかっています。大相撲にも不戦勝があります。でも、大相撲の場合は、戦う相手がケガをしたりして休場した時に、戦わずして自分の勝ち星となります。ヨブの試練の背後には、確かにサタンが関与があったことが記されています。でも、このようなヨブの場合にも、やはり不戦勝こそ、勝利の秘訣なのです。たとえサタンが関与しているとは言え、ヨブは“善と悪の大争闘”に巻き込まれてはならなかったのです。
では、どのようにして人はそのような“善と悪の大争闘”に巻き込まれてしまうのでしょうか? それは、『善悪の固定観念』に囚われてしまった時なのです。『善悪の固定観念』というフィルターを通して、この世に起こる現象や現実や事象や諸問題を観て、問題の解決を図ろうとした時なのです。ヨブとヨブの3人達の間で論争した内容というのは、実に、このような『善悪の固定観念』という既成概念の枠内のものだったのでした。だから、どんなに激しく論争しても、また、時間をかけて論争し尽くしても、そこからヨブの試練を解決できるような答えを見つけることは出来なかったのでした。
ところが、ヨブはイエスがこの地上に誕生するはるか以前の人間でしたので、イエスの山上の説教の核心とも言える「さばくな」という真理に触れる機会は、当然のことながら、ありませんでした。では、ヨブの場合、どのようにして「さばくな」という普遍的な真理に気づくことができたのでしょうか?
ヨブ記38章を観ると、ヨブと3人の友人たちとの間の論争が十分に尽くされたのを見計らって、主みずから つむじ風の中からヨブに答えられたことがわかります。主は、地球の創造、地上の生き物、空を飛ぶ鳥、海の源、地の広さ、気象現象、天体などの具体例をヨブに見せることによって、神の創造計画の偉大さ、広大さ、深遠さ、緻密さ、きめ細やかな配慮と優しさなどに関する溢れんばかりの情報をヨブに提供されたのでした。この時、神の広大な知識、深遠な知恵、悟りの深さに触れた時に、ヨブは自分がいかに無知だったかということに気づかされたのでした(ヨブ記42章1節~3節を参照)。『井の中の蛙、大海を知らず』という諺にもあるように、自分が持っている情報が不足過ぎていたため、ヨブはこれまで間違って“さばいていた”、思い込みで“さばいていた”、『既成概念や固定観念』というフィルターを通して観て、決めつけて“さばいていた”ことに気づいたのでした。その時、ヨブはキッパリと“さばくことをやめた”のです。ヨブの場合においては、主によって“大海”という世界へと引き出され、これがきっかけとなって“さばくのをやめた”ように想えます。つまり、自分の中にあった先入観、偏見、洗脳、狭小化な考え、狭い視野に基づいた価値判断などを手放して、自分の『マインドの働き』を停止して、ゼロにリセットしていったというわけです。・・・・・・
(3月12日〈土〉23:43 更新)(3月19日〈土〉6:26更新)(3月20日〈日〉23:57更新)(3月25日〈金〉22:34に一部改訂して更新)
・・・・・・“最高の自分を引き出すー『意志力』(その3)”に続いています・・・・・・に。
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