意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

3月25日(金)22:34更新 “最高の自分を引き出すー『意志力』(その2)”

2016年03月25日 22時34分40秒 | イエス-道

 

“最高の自分を引き出すー『意志力』(その2)”



このブログは、最高の自分を引き出すー『意志力』(その1)からの続きです



さばく”ということのメカニズム・仕組み・プロセス


さて、ケリー・マクゴニガルは、意志力を強するノウハウの一環として“自分に思いやりを持つこと”の重要性を教えていますが、当ブログではこれを別の視点から観ていきたい想います。このようなノウハウとは違ったアプローチで意志力の強化という同じ目標を達成を図っていきたいと考えているのです。


ケリー・マクゴニガルはスタンフォード大学で教えているのが『思いやりの科学』という講座だとすれば、私が当ブログで書いているのは『さばくということに関する科学』の講座と言えるかも知れません。人の人生に暗い影を落としている究極の原因と考えられる“さばく”ということをいろんな角度から光をあてて観ていって、分析し、解析していくことで答えを見つけだして、その結果、意志力を強め、人生を好転させていこうと想っているからです。


さばく”ということのメカニズム・仕組み・プロセスがどのようなものかということを知ることによって、意志力が働くのを妨げている要因・原因というものを実際に取り除いていくことも可能である・・・と、私は考えているのです。


なぜなら、人は 自分をさばいている限り、“自分に思いやりを持つこと”はできないものだからです。逆に言うと、自分をさばくことをやめた時に、自分に“思いやりを持つこと”が可能なのです。


これは、ある意味、同じことだと想います。“自分に思いやりを持っている人”は、“自分をさばいていない人”でもあるのです。逆に言うと、“自分をさばかない人”は、“自分に思いやりを持っている人”でもあるのです。


ほとんどの人は、“知らずに”と言いますか、“無意識的に”と言いますか、他人をさばき、かつ、自分をもさばいているものです。生まれつきなのか、あるいは、後天的に染みついてしまったというのでしょうか、“さばく”という習性が身についてしまっているものです。


さばくこと”と“愛すること”は、対極にあるものだと私は想っています。さばいている人は、“愛すること”の意味を知らないと言えます。さばかない人は、“愛すること”の意味を知っていると言えます。従って、山上の説教の中で イエスが「人をさばくな」という場合、それは「人を愛しなさい」ということの裏返しでもあるのです。


ここで、“さばく”ということを科学していきたいと想うわけですが、科学の基本は、先入観や偏見、バイアスした考えを持たずに、じっくりと現実や現象を観察していって、そこから一定の法則、メカニズム、仕組みなどを解明していって、そこからさらに発展させていって、その真逆の“さばかないこと”はどういうことなのかを知ることが重要になってきます。でも、この段階では、それはまだ『仮説』の域を越えません。その後、解き明かされてきた法則やノウハウを実際に自分の人生の中で適用(=実践)してみて、その仮説が本当(=事実)であったかどうかを実証、あるいは、確証していくというわけです。これが、“科学者”としての本来の姿勢と言えるのではないでしょうか?


聖書の信仰というものも、このような探究の姿勢がとても大切なのでは・・・。そうでなければ、聖書の信仰が“盲信”、“誤解”、“思い込み”、“妄想”になってしまうおそれがあるからです。ヘブル人への手紙11章1節によると、信仰とは“見えない事実を確認すること”であると記されています。この確認作業に科学的な手法を取り入れることが必要なのではないか・・・と、私は想うのです。


人の『人生の意味や意義』、『人生における謎、不思議さ、複雑さ、問題や課題』というものを解き明かしていくためには、人の心の法則の中に組み込まれてしまった、あるいは、染み込んでしまった “さばくということ”がどういうことなのかをよく観察してデータを収集して、分析し、解析していくことによって、 科学していく・・・。それによって究極的な答えを見つけていく・・・これがとても重要なことではないか。そのように、私は想うのです。


それでは、“さばく”ということが、一体、どういうことであるのかを様々な角度から 見つめていきたいと想います。なぜなら、“さばく”ということの実態やメカニズムというものが分かってくると、それとは正反対の“さばかない”ということのコツも掴めるようになり、その結果、自分の人生においてもっと“さばかない生き方”を実践しやすくなるからです。



中島美嘉の『WILL』の歌詞に再び注目


中島美嘉の『WILL』というナンバーを私が聴いていて、最も“意味深”に聴こえてくる“あるフレーズ”があります。運命の支配に翻弄されることなく、自らの意志で決めていって、自由を生きていくための秘伝というものが“あるフレーズ”に隠されているように、私には想えるのです。


それは、「瞳(め)を閉じて見る夢よりも 瞳を開きながら WOW WOW」というフレーズです。このフレーズは、2回 出てきます。


このフレーズは、一体、何を意味しているのでしょうか?


瞳(め)を閉じて見る夢」というフレーズが暗示していることは、今、自分の目の前にある現実・現象・置かれている状況などに目を閉ざしたり、目を逸らしたままで 夢を追い求めるという生き方です。でも、目を閉じている状態のままで、たとえ どのような夢を自分の心に想い描いたとしても、運命の支配から逃れることはできないということ。


運命の支配から自由になって自分の人生をしっかりと生きていく上で大切なことは、「瞳(め)を開きながら・・・」とあるように、今 現に自分の目の前にある現実・現象・置かれている状況などから目を逸らすことなく、あるがまま認め、受け入れていくこと、しっかりと観察していくこと。言い換えると、自分の目の“”を取り除いた澄んだ目で、ハッキリと見ていくこと、しかもさばかずにじっくりと観ていくこと、外見・外面・表面的なことに惑わされることなく、それらを引き起こしている究極の原因といえる“目に見えない事実”というものを察していく、捉えていく、気づいていくこと・・・・・・これが重要なことなのです(マタイによる福音書6章22節~23節、同7章1節~5節を参照)。



さばかないこと、ゆるすこと


イエスが山上の説教の中で説いた教えの“核心”というのは、『さばかない』ということであり、それと同じような意味合いの『ゆるす』ということである・・・と、私は観ています。ここに最も注目しているのが、実は、私が当ブログで提唱している『イエス-道』なのです。ここが従来のキリスト教と比べて、観る視点が大きく異なっているところと言えます。


さばかない』ということ、あるいは、『ゆるす』ということが、実際、どういうことなのかを悟らない限り、キリスト教は完成しない・・・と、私は想います。つまり、『さばかない』という生き方に全面的にシフトしていかないと、キリスト教の信仰というのは “盲目的な信仰”、“近視眼的な信仰”になってしまうおそれがあると想うわけです(マタイによる福音書23章16節・17節・19節・24節、同15章14節、マルコによる福音書8章18節、ルカによる福音書6章39節、ペテロの第2の手紙1章9節を参照)。


以前にもこのブログで書いたように、使徒パウロは、「信仰・・・によって律法を確立するのである」(ローマ人への手紙3章31節)と述べましたが、私はさらに進んで、「さばかないことによって信仰が確立されるのであり、その結果として、律法が確立されることにもなる」と言いたいのです。



さばかない(=寛容という愛)ためのコツ


使徒パウロは、以下のようにテサロニケ人にあてた手紙を書きました。


「すべての人に対して寛容でありなさい。だれもをもってに報いないように心がけ、お互に、またみんなに対してを追い求めなさい。」(テサロニケ人への手紙5章14節~15節


寛容の愛をもっている人は、さばくことをしないものです。逆に、さばかない人は、寛容の愛をもった人であると言えます。


このような“寛容の愛”というものを考えるにあたって、“という問題”が出てきます。ここで使徒パウロが述べていることは、“”をもって“”に報いないように心がけること、そして、お互いに、また皆に対して“”を追い求めることによって、結果的に、人は“寛容の愛”の人になれるんだ・・・ということを述べているのではないと想います。 むしろ、人が寛容になった時に、“”をもって“”に報いないようになれるのであり、また、お互いに、また皆に対して“”を追い求めることも可能になってくる・・・というのが真実ではないだろうかと、私は想うのです。


もちろん、人は寛容になろうと想っただけで、寛容になれるというわけではありません。寛容になるためのコツは、“さばかない”ことにあります。言い換えれば、“さばく”という自分の中にある『マインドの働き・プロセス』を停止することが、寛容になるための秘訣といえるのです。



ヨブの人生に学ぶ


という問題”に対して、人がどのように向き合い、対処していくのかが、人が寛容になれる否かということを考えるにあたって、とても大切なことになってきます。旧約聖書のヨブ記を観ると、その答えがわかってきます。ヨブの人生を俯瞰していくと、それに関する貴重な真理が見えてきます。


ヨブに関して、次のように旧約聖書のヨブ記の中で描写されています。


「ウズの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ、正しく、を恐れ、に遠ざかった。」


サタンに言われた、『あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、を恐れ、に遠ざかる者の世にないことを気づいたか』。」(ヨブ記1章8節


つまり、ヨブは“”に遠ざかることを意識的にやっていたのです。“”に遠ざかろうとすることは、その真逆の“”を強く意識していて、かつ、“”を追い求めようとしていたということが伺えます。そして、その当時の人としてはが認めるほど全く、かつ、正しい人間であり、にも忠実であったヨブは、そのような生き方を守り通していった結果、逆に、あのような悲惨な試練を引き寄せてしまったのでした(ヨブ記3章25節を参照)。そして、“”を追い求めるために、“”に遠ざかろうとするような生き方を もし最後の最後まで貫いていたとしたら、おそらくヨブの試練は解決することのないまま、この世におけるヨブの人生は終わっていたのではないか・・・と、私は観るのです。このことをヨブの人生から学び取ることは、とても重要なことです。


ヨブが採用した『“”から遠ざかるように心がけることが“”を追い求めることに繋がり、結果的に、“”を手に入れることができるはず・・・』というような発想は、人間的に考えれば、一見 納得がいくものであり、論理的にも間違いがないように想えるかも知れません。でもこのような二元論的なvsというふうに対比させて捉えるような善悪の固定観念』こそが人間界における様々な不幸の根底にあるのです。


従って、イエスが山上の説教を通して私たちに教えようとされたことは、ヨブがやったこのような方法ではなかったのでした。つまり、ヨブとは全く異なった意外なアプローチだったのでした。イエスが、私たちに示された最善の方法・生き方というのが、なんと

さばくなマタイによる福音書7章1節

ということだったのです。


これは、試練に遭遇する前のヨブには、想像することもできないような方法・生き方だったのでした。実際、試練に遭って苦しんでいたヨブがこのことに気づくまで相当な時間を要しました。でも、ヨブが最終的にこのことに気づいたとたん、ヨブの前から“残酷に想えたような試練”は霧が晴れるようにサーっと消え去ってしまったのでした。


ヨブサタンと直接対決して、サタンに打ち勝った結果、試練が解決したというのではなかったのです。サタンと争うことなく、戦うことなく、ヨブの試練は解決していったというのが真相なのです。


自分が抱えている問題を解決しようとして、自分の外側にサタンという敵という存在を作り上げて、それと戦おうとしてはならないのです。“”を追い求める自分の道を塞いでいるのは、究極の悪の存在といえるサタンだと決めつけて、そのサタンに戦いを挑もうとしてはならないのです。


それはちょうど、小学生がプロの横綱を相手に相撲をとって勝とうとするようなものです。勝敗は、勝負をする前からわかっています。大相撲にも不戦勝があります。でも、大相撲の場合は、戦う相手がケガをしたりして休場した時に、戦わずして自分の勝ち星となります。ヨブの試練の背後には、確かにサタンが関与があったことが記されています。でも、このようなヨブの場合にも、やはり不戦勝こそ、勝利の秘訣なのです。たとえサタンが関与しているとは言え、ヨブは“の大争闘”に巻き込まれてはならなかったのです。


では、どのようにして人はそのような“の大争闘”に巻き込まれてしまうのでしょうか? それは、『善悪の固定観念』に囚われてしまった時なのです。『善悪の固定観念』というフィルターを通して、この世に起こる現象や現実や事象や諸問題を観て、問題の解決を図ろうとした時なのです。ヨブヨブの3人達の間で論争した内容というのは、実に、このような『善悪の固定観念』という既成概念の枠内のものだったのでした。だから、どんなに激しく論争しても、また、時間をかけて論争し尽くしても、そこからヨブの試練を解決できるような答えを見つけることは出来なかったのでした。


ところが、ヨブイエスがこの地上に誕生するはるか以前の人間でしたので、イエスの山上の説教の核心とも言える「さばくな」という真理に触れる機会は、当然のことながら、ありませんでした。では、ヨブの場合、どのようにして「さばくな」という普遍的な真理に気づくことができたのでしょうか?


ヨブ記38章を観ると、ヨブ3人の友人たちとの間の論争が十分に尽くされたのを見計らって、みずから つむじ風の中からヨブに答えられたことがわかります。は、地球の創造、地上の生き物、空を飛ぶ鳥、海の源、地の広さ、気象現象、天体などの具体例をヨブに見せることによって、の創造計画の偉大さ、広大さ、深遠さ、緻密さ、きめ細やかな配慮と優しさなどに関する溢れんばかりの情報をヨブに提供されたのでした。この時、の広大な知識、深遠な知恵、悟りの深さに触れた時に、ヨブは自分がいかに無知だったかということに気づかされたのでした(ヨブ記42章1節~3節を参照)。『井の中の蛙、大海を知らず』という諺にもあるように、自分が持っている情報が不足過ぎていたため、ヨブはこれまで間違って“さばいていた”、思い込みで“さばいていた”、『既成概念や固定観念』というフィルターを通して観て、決めつけて“さばいていた”ことに気づいたのでした。その時、ヨブはキッパリと“さばくことをやめた”のです。ヨブの場合においては、主によって“大海”という世界へと引き出され、これがきっかけとなって“さばくのをやめたように想えます。つまり、自分の中にあった先入観、偏見、洗脳、狭小化な考え、狭い視野に基づいた価値判断などを手放して、自分の『マインドの働き』を停止して、ゼロにリセットしていったというわけです。・・・・・・

 

(3月12日〈土〉23:43 更新)(3月19日〈土〉6:26更新)(3月20日〈日〉23:57更新)(3月25日〈金〉22:34に一部改訂して更新)

・・・・・・“最高の自分を引き出すー『意志力』(その3)”に続いています・・・・・・に。 

     *       *       *        

 

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3月6日(日)6:03更新 "最高の自分を引き出すー『意志力』(その1)"

2016年03月06日 06時03分00秒 | イエス-道

 

最高の自分を引き出す-意志力



今回のブログでは、“スタンフォードの奇跡の教室”で有名なケリー・マクゴニガル(心理学者)が教えている“意志力”について、想いを巡らせてみたいと想います。

 

ケリー・マクゴニガルの『最高の自分を引き出す法DVDブック]』を参考にしながら、“イエス-道”の視点からも人の“意志力”というものを今回は観ていきたいと考えているわけです。彼女の科学的な分析も加えての心理学的アプローチで行き着いた結論と、“イエス-道”が説いている教えとの類似点も見えてくるので、とても興味深いものがあります。


最高の自分を引き出す”ためには、自分の“意志力”というものを上手に活用していかなければならないようなのです。


今回のテーマは、聖書の中でも取り扱われている重要なテーマでもあります。特にローマ人への手紙7章で、使徒パウロ意志”の問題そのものに真剣に取り組んでいる様子が見受けられます


「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、をしようとする意志は、自分にあるが、それをするがないからである。すなわち、わたしの欲しているはしないで、欲していないは、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っているである。そこで、をしようと欲しているわたしに、がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ人への手紙7章18節~24節)


これから分かるように、意志の問題というのは、自分の意志が望んでいるをしないで、逆に、自分の意志が望んでいないを行ってしまうという問題にいかに対処していくかということ、また、心の法則罪の法則が熾烈な戦いを挑んでくるという問題をどうやって納めていくか、その答えを見つけていくこと。言い換えれば、意志力というものを窮めていこうとすることは、救いどこにあるのかということを探究することでもあります。人の意志力というものを真正面から取り組むことをせずに、素通りしてしまうと、真の救いというものも見えてこないのではないか・・・と、私は想うわけです。


人の意志力がキチンと働いていない時には、その人の信仰は“依存的な信仰”になってしまうのが落ちで、“成熟した信仰”へと発展していかなくなってしまうのではないだろうか・・・と、私は危惧するのです。また、意志力が正常に作動していない状態で、がむしゃらな信仰生活を送っていこうとしている人の心の中では、絶えず葛藤や欲求不満や不平不満などが渦巻くことになります。意志力信仰が、共に一体となって働くことこそが重要なのです。


人間が抱えているそのような“重大な問題”に、私たちはこれから挑もうとしているわけです。この問題に対する答えは一体どこにあるのか・・・それを見い出そうとしているわけです。今回のブログで書こうとしていることは、意志力を作動させていくためのコツは、一体、どこにあるのかということについてです。

 


中島美嘉が歌う『WILL


ところで、中島美嘉が歌う『WILL』というナンバーがあります。皆さんもご存知かと想います。この歌詞の中で、3回繰り返されるフレーズがあります。それは、

運命の支配ではなくて 決めていたのは 僕の「WILL」”

という箇所です。私はこのフレーズを以前から注目していました。


運命に支配されて生きていく人生は、むなしいもの。それは、自由を生きているというよりは、何かに流されて生きているということ。何かに囚われて生きているということ。喜びも生まれてこないかも。生き甲斐というものもない・・・と想うのです。


運命に翻弄されて人生を生きるのではなく、むしろ、自らの意志(=WILL)で自分の将来の人生を動かしていく、人生を決めていく、人生を切り開いていく、人生を創造していく・・・そのことのために、実は、人生というものが与えられている・・・・・私は、そのような気がします。


ケリー・マクゴニガルは、「意志力というのは、もっている人ともっていない人がいるというような性質でもなければ、美徳でもなく、脳と体で起こる現象である」(最高の自分を引き出す法[DVDブック]』の29ページ)と述べています。


従って、自分の意志の力発揮できる状態できない状態の違いを知っておく必要があるわけです。そして、ケリー・マクゴニガルによると、心拍数数や呼吸などの数値を測定していった結果、前者が『休止・計画反応』の状態であり、後者が『闘争・逃走反応(=ストレス反応)』の状態であることであることが突き止められているというのです。従って、意図的に心拍数を下げ、呼吸を遅くするような体の状態にもっていくこと、睡眠を取って脳を十分に休めておくこと、血糖値を一定レベルに高めておくことは、意志力を発揮することにおいて役立つというのです。


先ほど引用した使徒パウロの言葉に、「をしようとする意志は、自分にあるが、それをするがないからである。・・・」とありましたが、人に与えられたその“意志力(=Will Power)”の重要性をキチンと認めて、それを発揮させていくということが自らの人生を生きていくにあたって必要なのではないか。信仰を強調するあまり、意志力の重要性が見失われてはならない・・・、ただ信じればいいんだということではない・・・と、私は想うわけです。


 

意志力における3つの力


ケリー・マクゴニガル(スタンフォード大学の心理学者)は、意志力には3つの力があると述べています。


(1). ‘I Will’ powerやる力)・・・大きな視野で物事を見て、長期的な目標を見失わずに、たとえ困難であっても、こうしてよかった、とあとから思えるようなことをするための力。脳の前頭前皮質の左側の部分が、このような『困難なことを行なう力』を司っているというのです。この脳の部分が働くと、私たちはやる気を起こし、難しくてもやってやろう、という気になるというのです。 

(2). ‘I Won't’ powerやらない力)・・・一方、脳の前頭前皮質の右側の部分は、誘惑に抵抗するという重要な役割を持っているという。たとえ体じゅうが誘惑に負けて目の前の快楽に走ること望んでも「イエス」と言おうとしても、脳のこの部分はきっぱりと「ノー」というのだそうです。自分自身がよくない方向に傾き、自己破壊的な行動に走りそうになった時に、「ノー」という力なわけです。

(3). ‘I Want’ power望む)・・・これは、気が散ったり、誘惑に出会ったりしても、自分が本当に望んでいることを忘れない、「望む力」というわけです。この力は、常に自分にとって大事な目標を忘れず、こういう人生にしたい、というビジョンをはっきりと思い続ける力であって、「やる力」や「やらない力」と勝るとも劣らない重要なスキルであり、力であると、ケリー・マクゴニガル博士は述べています。


そして、彼女は“意志力の科学”というスタンフォード大学の講座で、「最高の自分」を引き出すために知っておくべき“5つの考え方”を紹介しているというのです。その具体的な内容に関しては、直接最高の自分を引き出す法DVDブック]』などを読むことをお勧めします。この本を読んだり、付属のDVDを観たりすると、科学的な裏付けのある幾つかの貴重な情報に触れることができます。



では、これから、ケリー・マクゴニガルが述べていることの中で、特に私が注目している点について取り上げて、そこに想いを巡らせていきましょう。それは、『イエス-道』における核心部分とオーバーラップする点、あるいは、共鳴する点でもあるのです。



自分に思いやりをもつ


ケリー・マクゴニガルは、「自分を批判したり恥に思ったり、罪悪感を抱いたりするよりも、自分に対して思いやりをもったほうが、はるかに自己コントロールを発揮することができる・・・。実際、罪悪感や恥の意識や自己批判のせいで自己コントロールが弱くなることはあっても、強くなることはありません。自分を許し、自分の抱えているストレスや苦しみ、そして自分の弱ささえも受け入れることで、私たちは強くなれるのです。」(『最高の自分を引き出す法[DVDブック]の75~76ページ)と述べて、喫煙に関する“拷問テスト”についての実験結果を紹介しています。実に興味深い内容です。


ケリー・マクゴニガルは、80~83ページの中で、次のように述べています。それは、意志力を強化する方法の一つは、自分に思いやりをもつようにすることだというのです。つらいことがあったら、自分への思いやりをもってじっと見つめる自分に対する思いやりをもちながら、自分の感じている欲求や苦しみにじっと注意を払っていく自分の欲求を素直に受けとめてじっと見つめながらも、思いやりをもつ


このように、ストレスに対して、自分に対する思いやりをもって対処していくと、ストレスや欲求に関連する領域の活動が鈍くなり、さらに重要なことに、ストレスや欲求に関わる脳の領域と、欲求に反応して行動を起こさせる脳の領域との連絡が、途絶えることがわかったというのです。このようなことが、科学的に検証されたというのです。


また、自分に思いやりをもった時に、意志力が深く関係している前頭前皮質が働くようになるとも述べています(88~89ページを参照)。自分の失敗を恥じたり、罪悪感を抱いたりすると、意志力が奪われてしまう。しかし、自分に思いやりをもてば、それと逆のことが起こるというのです。


このように、自分に思いやりをもつことが、意志力を強化することに繋がることを科学的にも裏づけつつケリー・マクゴニガルは述べているわけですが、『自分に思いやりを持つ』ということはとても大事なことではないか・・・と、私も想います。


自分に思いやりをもつこと』(これは、英語では“self compassion”となっていますが)は、ケリー・マクゴニガルが述べているノウハウの中で最も重要なものであり、注目に値すべき点ではないか・・・と、私は観ているのです。


この『自分に思いやりをもつこと』ということは、表現を換えて言うと、どういうことなのでしょうか?


実は、これは当ブログでこれまでずーっと一貫して述べてきた『自分をさばかないこと』と内容は全く同じことなのです。『さばかないということ』は、『寛容の愛を持って自分をあるがまま認めて、優しく包み込むようにして受け入れていくこと』です。

ところで、この『さばかないこと』を実践していくことは、簡単なように想えますが、実際は結構難しいことかも知れません。これまで、あまりにも“さばくこと”に人は慣れ過ぎてしまっているからです。


人が“さばく”生き方から『さばかない』生き方を移行していくためには、まず、“さばくというプロセス”の実体、正体、メカニズムをよく知っておく必要があります。では、それはどういうことなのでしょうか?


ケリー・マクゴニガルは「意志力の科学」の講座で、以下のように述べていることは、とても興味深いことです。


「科学者になったつもりで考えることです。科学者は実際に起きている現象を、偏見をもたずに好奇心をもって観察します。物事がどのような仕組みで働くかにとても興味があり、自分自身でさえその興味の対象になります。みなさんも科学者になったつもりで自分自身をじっと観察し、どういう仕組みになっているかを解き明かしてみましょう理解を深めるにつれ、その仕組みをうまく利用できえうようになります。自分自身を対象に意志力の実験を行っていると考えれば、新しい考え方や行動のしかたを色々試し、その結果を観察することができます。」(95~96ページ


「また、私がいつもお勧めしているのは、自分のさまざまな側面を知ることです。・・・・私自身の経験からも言えることですが、あまり感心できないようなことをしようとする自分も含め、色々な自分を理解するうちに、もっとほかにどんな側面があるのか知りたくなりますそうやって自覚を深めるほど、どんな自分になるかを選択できるようになるわけです。」(96~97ページ


今、引用した内容というのは、まさにイエスが山上の説教の中で説いた「さばくな」という教えの核心を突いている・・・と言えます。自分自身を“さばかない”ということは、『善悪という固定観念』で自分を批判したり、非難したり、レッテルを貼ったりせずに、むしろ自分の様々な側面を知ろうとすること、あるがままの自分を観察していくこと、認めていくこと、理解していくこと、包み込むように受け入れていくことを意味しているのです。そのようなことをやっていくにつれて、自分の目にある“”が取り除かれていって、現に起きている物事や現象の背後にある道理や仕組みがハッキリと観えるようになり、自ずと解き明かされていくようになります。そして、意志力というものがフルに発揮されていって、自らしかるべき選択をして、自ら答えを見つけていくようになります。これが、“依存”と“意識の退化”とは真逆の“自立”と“意識進化”へとシフトしていく道と言えるのです。


このために、当ブログでは“さばくこと”と“さばかないこと”のメカニズムや仕組み、プロセスというのはどういうことなのかについて様々な角度から光を当てて、解明しようとしているのであり、そして、解ったことを皆さんにもぜひお伝えしたい、あるいは、シェアーしたいと想っているわけです。

(2月23日〈火〉22:50更新)、2月24日〈水〉21:20 補足して更新)(2月27日〈土〉20:15更新、2月28日〈日〉23:09 補足更新)(3月1日〈火〉0:07 補足更新)(3月3日〈木〉22:47更新)(3月6日〈日〉6:03 補足し改訂更新 


・・・・・・“最高の自分を引き出すー『意志力』(その2)”に続いています・・・・・・


     *       *       *        

 

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