意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

12/30(水)22:46更新:映画『星に願いを。』と『イエス‐道』(22) ブログ(131)

2015年12月30日 22時46分19秒 | 映画ブログ


映画 『星に願いを。』と 『イエス‐道』(22)

 


以前のブログでも、主題歌などの歌詞や映画の内容の重要なポイントを解説することを試みてきました。


今回のブログでは、竹内結子(函館の病院に勤める看護師、青島 役)吉沢悠(1回目の交通事故により目も口も不自由になってしまった青年、天見笙吾)の二人が主演の映画『星に願いを。』に焦点をあててみたいと思います。この映画の中に、『イエス-道』に深く関わってくるような“貴重なメッセージ”が隠されているのです。実は、前回のブログを書きながらも、私は、次回のブログで書きたいテーマはこれに決まりだな・・・と、想っていたのでした。


ところで、この映画は、東宝から配給されたもので、2003年4月12日に公開された邦画です。日本の劇場で2001年に公開された1999年の香港映画 『星願 あなたにもういちど』のリメイクとされています。私は、ずーっと以前にこのDVDをレンタルで観たことがありましたが、最近になってこの星に願いを。』の本が自宅のテーブルの上に置いてあったのを目にしたのです。どうやら家族の誰かが読んでいるようでした。そこで私は、昔 観たこの星に願いを。』の映画を、再び、じっくり観てみたいと想い、さっそくAmazonに中古のDVDを注文したというわけです。


この星に願いを。』をまだ観たことがない方は、この機会にぜひ一度、DVDなどで観られることをお勧めします。


この『星に願いを。』という映画をじっくりと観ていった時に、イエス-道』に深く関わってくる“キーセンテンス”が何かについて、私はすぐにピンときました皆さんは、それが何であるか、わかりますか?


それは看護師の青島あおしまかな)が自分に語った言葉と、天見笙吾(あまみしょうご)に向かって発した言葉の2つです。つまり、


どうして いままで気づかなかったんだろうと、が自分自身に問いかけた言葉、そして、それに続いて、

どうして もっと早く言ってくれなかったのと、笙吾向かって大きな声で語った言葉です。


実は、この2つの“どうして・・・”に、私は注目しているのです。この言葉の中に奥深いメッセージを私は感じ取るわけです。


なぜ、この2つの言葉がそれほどまでに重要なのでしょうか?

ここでポイントをキチンと押さえておかないと、この映画は単なる“ラブファンタジー”で終わってしまうのではないか・・・と、想うのです。 

12月20日 日曜日 22:43に更新12月21日 月曜日 23:50に更新


どうして もっと早く言ってくれなかったのが言いましたが、では、なぜ笙吾は、アロー生命保険会社の景山(かげやま)を名乗っている自分こそが実は“車にはねられて死んだあの天見笙吾”であるという事実をもっと早くに言わなかったのでしょうか? それは、この映画を観れば明らかなように、自分からそれを言ってしまえば、この世界から瞬く間に自分が消えてしまうことになるからです。もちろん、笙吾はそれは避けたかったので、自分が"天見笙吾 "であることを奏に言うことは出来なかったわけです。奏が自分で気づく必要があったのです。


 また、どうして いままで気づかなかったんだろうが言いましたが、笙吾アロー生命保険会社の景山として奏に度々接触を試みて、様々な証拠やサインを与えました。それにもかかわらず、“天見笙吾”であることには気づくことができませんでした。機が熟さないとわからないもの。従って、仮に「もっと早く言ってくれ・・・た」としても、がアロー保険会社の景山と名乗る彼が“天見笙吾”であるという事実を受け入れることはできなかったのではないか・・・と、私には想えるのです。死んでしまった人には、もう決して会えない。記憶だけが鮮明に残っているだけ。このような『思い込み、既成概念、常識、固定観念』といったものが、実は、アロー生命保険会社の景山と名乗る人物が天見笙吾”であるという事実を認めることを邪魔するわけです。


こういった思い込み、既成概念、常識、固定観念』といったものがあると、たとえ十分な証拠、疑いようもない証拠が与えられていたとしても人の直観力や感受性を極度に鈍らせてしまい(マタイによる福音書13章13節~15節、コリント人への第2の手紙3章12節~15節を参照)、その結果、大切な事実や真実や真理』に気づくことができなくなってしまうというわけです。このように心の目が閉じている状態、心の目の視力が極端に落ちてしまっている状態(マタイによる福音書6章23節を参照)、霊的な盲目。これは、内なる光”が暗くなっている状態(同6章23節を参照)とも言えます。これこそが目に“”がある状態(同7章3節~5節を参照)であると、イエス山上の説教の中で説いていたわけです。


がアロー生命保険会社の景山天見笙吾”であることに気づくためには、どうしても“きっかけ”が必要だったのでした。それは、が交通事故に遭って、病院に運ばれた後の笙吾との接触、やり取り、かかわりの中で、これまで幾度となく与えられてきた数々の証拠やサインが、ようやく今、アロー生命保険会社の景山という人物こそがが会いたいと想っていた天見笙吾”だったという事実と結びつくことになるのです。景山という人物が、“天見笙吾”そのものであるという“今まで見えていなかった事実”を否定するものはもはやどこにもない・・・と想える程に、確信を持つに至ったのでした(ヘブル人への手紙11章1節を参照


どうして いままで気づかなかったんだろう」。気づくためには、もちろん、一定量の情報や証拠やサインが必要となってきます。しかし、それだけでは不十分なのです。それらがどんなに潤沢に与えられたとしても、もし心の目が開いていないなら、心の耳が開かれていないならば、見ても見えず、聞いても聞こえずの状態になってしまうのです(マタイによる福音書13章14節~15節を参照)。気づこう、気づこうと想って、気づけるわけではありません。心が厚く覆われていて、気づく能力自体が低下している状態の中にあっては、気づこうと想うことはあり得ないわけです。


日頃から、心の感性を高め、感知能力を増していくことが、“気づき”に繋がっていくわけです。では、“気づくこと”において、役立つこと、確実なノウハウというのは、一体、何なのでしょうか?


実は、その答えを見つけるのに役立つヒント、示唆が聖書のあちらこちらに散りばめられています。たとえば、使徒パウロは、・・・のうちを歩きなさい」(エペソ人への手紙5章2節を参照)と書きました。。


イエスは、次のように言われました。

わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書15章12節) 


イエス使徒たちがここで言っている“”というのは、もちろん、この世における常識的な“”を言っているのではありません。自分を愛してくれる人、自分に対して好意をもっている人、自分を慕っている人などを“限定的に愛すること”を言っているのではないのです(マタイによる福音書5章43節~48節を参照)。敵・味方、良い人・悪い人、愛すべき人・憎むべき人などと区別することなく、分け隔てすることなく、いかなる人をも包み込んで愛していくことを言っているのです。


これは“寛容という愛”なのです。真の愛は“寛容”そのものなのです。使徒パウロは、愛の特徴の筆頭にこの“寛容”をあげているのです(コリント人への第1の手紙13章4節を参照)。


使徒パウロは、 「あなたがたのが、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、・・・」(ピリピ人への手紙1章9節)とも述べましたが、私たちの愛も、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わってくるならば、この“寛容という愛”も比例して、増大してくるわけです。人を受け入れる許容量が増えていくのです。器が増々大きくなっていくのです。包容力・度量・寛容力のある人間、懐が深~く、広~い人間になっていくわけです。


実は、このような“寛容という愛”こそが、人の感覚を鋭くし、感知能力を磨いていくもの、すなわち、その人に“気づき”をもたらしていくものではないだろうか・・・と、私は想っているのです。


寛容という愛”、言い換えれば、これは“さばかない愛”です。“寛容な人”は、さばかないのです。さばかない人は、“寛容”なのです。偽りのない、真実の愛の“核心部分”は“寛容”によって構成されているのです。


人は、さばくことを止めた時に、さばくというマインドのプロセスを停止した時に、実は、“気づく能力”が格段と高まってくるものなのです。人から教えられて“わかる”というものではなく、“自分自身で気づいていく”ことがとても、とても大切なのです。このことが、映画 『星に願いを。』において最も重要なポイントなのではないか・・・と、私は観るのです。


このような視点から、どうして いままで気づかなかったんだろうと自分自身に問いかけをしたの言葉をじっくりと味わいながら この星に願いを。』という映画を観ていく時に、私たちとって単なる“ラブファンタジーの映画”で終わるのではなく、人に与えられた人生というものを生きていく道について想いを巡らしていく貴重な機会にもなり得るのではないでしょうか?


こんなふうに星に願いを。』を観ていった時に、この映画の重要な主題は“気づく”ということにあるのではないだろうかと、私は想うわけです。すぐ近くに存在していたのにもかかわらず、盲点になっていたために、あるいは、何かに遮られていたために、見えていなかった、感知することが出来なかった・・・・・そういうことに“気づく”ということ。


長年にわたって聖書を探究してきて、私が想うことは、聖書を読んだり、観たり、研究したりしていく際にも、同様に“盲点”、“見過ごしてしまっている大事なこと”、“なくてはならないただ一つのこと”があるのではないか・・・ということ。それは、に熱心に祈ることでも、イエス・キリストに対する信仰を表明することでも、聖書を“マインド”を駆使して熱心に学ぶことでもないと想うのです。


こんなふうに述べると、熱心なキリスト教信者は当惑するかも知れません。もちろん、そういったことが無駄だと申しているわけではありません。もし“あること”に気づかないと、キリスト教の教えは土台から崩壊してしまうのではないか・・・・と危惧しているのです(マタイによる福音書7章21節~27節、同13章10節~16節を参照)。


聖書を『神の言葉』と捉えた時に、その中で最も重要な教え、盲点になってしまう教え、最優先して評価されるべき教え、なくてならない教えをたった一つに絞り込んでいった時に見えてくるものというのは、イエスが山上の説教で説いた“さばくな”という教えではないかと、私は想うのです。このことに“気づくこと”が、聖書を“の言葉”と信じている人々、聖書を“信仰の拠り所”としている人々、聖書を“聖典”として受け入れて真面目に学んでいる人々、“縁”があって聖書を今も学んでいる人々にとって必要不可欠なことではないでしょうか。


もちろん、聖書やキリスト教に縁がないような人々にとっても、この普遍的な真理であるさばくな”という教えを自らの人生における様々な経験と通して気づいていくことは、十分可能だと想います。


このさばくな”という真理の重要性に気づいて、これを実践しながら自らの人生を生きていくときに、人としての“意識進化”が進んでいくと想います。過去という時間に囚われることがなくなり、過去のしがらみからその人の“想い”が解放され、自由になっていくのです。これまで過去のことに引きずられ、過去の記憶情報に囚われ、過去という時間の中に存在しているバーチャルリアリティーの世界の中で生きてきた人が、そこから抜け出して、“今、この瞬間、瞬間”という唯一リアルな時間を生きていくように、大きくシフトするのです。

12月25日 金曜日 23:34に更新)(12月28日 月曜日 22:54に更新)(12月30日 水曜日 22:46に更新・・・


     *       *       *      

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12/20(日)22:09更新: “わたしは道である” ―『イエス‐道』(21) ブログ(130)

2015年12月20日 22時09分04秒 | イエス-道


『イエス‐道』(21)わたしはである

 

「私はもう長い間、“信仰”を持っています」などと言う場合があります。“信仰”を捨てることなく、もう20年、30年、あるいは、50年以上も、“信仰”を持ってきました。これを、特定の宗教を長年信じてきた人が自分のステータスであるかのように思ってしまうケースも実際にあるのではないか・・・。


でも、“信仰”というのは、本来、“持っている”と表現されるような“所有物”ではないように、私には想えるのです。信仰”というのは、“生きていく道”であり、“人が人として、どのように生きていくかという生き方”の問題だと想うのです。新約聖書のへブル人への手紙(口語訳聖書から引用)には、次のように書かれています。


「わが義人は、信仰によって生きる。」(へブル人への手紙10章38節


信仰”というのは、“持つもの”というよりは、“生きていくもの”というニュアンスがあるのです。従って、ただ単に、“信仰を持っている”ということだけなら、果たして、何の意味があるのだろうか・・・と想ってしまうのです。その信仰は本当に"生きて働いている"のだろうか・・・と。


ところで、イエスは、弟子のトマスから「よ、どこへおいでになるか、わたしたちにはわかりません。どうしてそのがわかるでしょう」と聞かれたことがありました。その時のイエスの答えは、「わたしであり、真理であり、である。だれでもわたしによらないでは、のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14章6節)でした。


今回のブログでは、イエスが“わたしはである”という場合、これは何を意味しているのであろうか・・・ということについて、皆さんと一緒に“想い”を巡らせてみたいのです。この“”というのは、同時に、“真理”でもあり、“”でもあるのです。


イエスは、“人が生きていく”として、一体、どのような道を示されたのでしょうか?


実は、試練の真っただ中にいたヨブも、その“”を模索していたことがわかります。ちょっとここでヨブ記を観てみましょう。


「しかし知恵はどこに見いだされるか。悟りのある所はどこか。人はそこに至る道を知らない。・・・それでは知恵はどこから来るか。悟りのある所はどこか。これはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にも隠されている。滅びも死も言う、『われわれはそのうわさを耳にしただけだ』。これに至る道を悟っておられる。彼はそのある所を知っておられる。彼は地の果までもみそなわし、天が下を見きわめられるからだ。」(ヨブ記28章12節~24節


この“知恵や悟りに至る”を見いだすことは、そんなに容易いことではないようです。でも、は“これに至る道』”をご存じであるというわけです。私は、“知恵悟りに至る”も、“にアクセスしていく”も、実は、同じではないだろうかと想っているのです。


イエスは、“にアクセスしていくわたしである”と語ったのです。それが、先ほど引用した「わたしであり、真理であり、である。だれでもわたしによらないでは、のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14章6節)とイエスが語った言葉の意味なわけです。ここで、イエスというを通らなければ、のみもとに行くことができないという場合、イエスを頭で知っているとか、知識として知っているとか、そういうマインドという思考を働かせていくことによっては、アクセスする道は開かれないことを覚えておきたいと想います。マインドを作動させてしまうと、逆に、妨げとなってしまうのです。神にアクセスすることができなくなってしまうのです。


人の眼前に“”が開けていくというのは、ヨブ記を読むとかなり困難をきわめるように想えますが、実は、とても単純なことなのではないのか・・・。その道は案外、私たちの身近なところにあるのではないか。私にはそんな風に想えるのです。


イエスは、言いました。

 「よく聞きなさい。をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」(マタイによる福音書18章3節


その“”を見いだせるかどうかは、その人のの問題と言える・・・というわけです。また、次のようにも言われました。


 「幼な子らを・・・わたしのもとに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である。」(同19章14節) 幼な子のような心があれば、"天国に至る道"は容易に見い出だすことができるというわけです。

  「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(マルコによる福音書10章15節


つまり、幼な子でさえわかるのが、“”なのではないか。いや、幼な子だからこそ”がわかると言えばよいのでしょうか。

12月10日 木曜日 23:06更新 (12月15日 火曜日 23:17更新) 


イエスはまた、“”に関して次のようにも述べています。  

   「滅びにいたる門は大きく、そのは広い。そして、そこからはいって行く者が多い。にいたる門は狭く、そのは細い。そして、それを見いだす者が少ない。」(マタイによる福音書7章13節~14節)たとえこのように"見いだす者が少ない細い道"であったとしても、幼な子のような心があれば、いとも簡単に見つけることができるのです。


ここを読むと、一般には「イエス・キリストを神の子と認め、救い主であると信じるということ」が、“命に至る細い道”ではないかと考えると想います。ところが、必ずしもそうとは言い切れないところもあるのです。やがて、キリスト教信者の多くが、その“天国に至る道”を生きていなかったことが判明する・・・と、イエスは言われるのです(マタイによる福音書7章21節~27節を参照)。


イエスが説いた“”、「私は・・・である」と言われたその“”が何かを知る手がかりは、使徒パウロが記したコリント人への第1の手紙1章18節~30節の中にもあります。


「・・・『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』と書いてある。…・・この世の知恵を、愚かにされたではないか。この世の知恵によってを認めるに至らなかった。・・・」


ここでエデンを想い起してみて下さい。エデンにおいてが“に食べるなと命じられていた善悪の木”から取って食べようとした時に、「賢くなるには好ましい」と思って食べたと記されているのです(創世記3章6節を参照)。聖書が言う“”の根底・背景には、このようなことがあったのです。ここから“この世界の思考の流れ”が変わってしまったわけです。この世の中の人々の“思考の潮流”というのは、このような“賢さ”であり、“知恵”なのです。ところが、このような賢さ知恵を駆使しても、を認めることや十字架の言に秘められた救いの奥義神の力神の知恵を認めることに関しては全く役には立たない・・・と、パウロはここで明言しているわけです。実は、この世の知恵や賢さというのは、言うなれば、マインドから生み出されてくるものだからです。“直観によってあるがまま観る”というのではなく、『過去の記憶情報の集積であるデータベース』に検索をかけて、そこから得られた情報と比較し、分析・解析して最終判断して、決めつけたり、思い込んだりしていくというプロセスを通るマインドの働きに基づくものです。これが、“さばく”という思考パターンの実体なのです。このようなマインド思考を働かせて考えていこう、判断していこうとする時に、『目に見えない事実・真実・真理・実体』を捉えていく手段となっている信仰は、正常に作動することができなくなっていまい、心にかかった覆い(=目の前の)も取り去らていない状態なので、を認めることも、十字架の言に秘められた救いの奥義を悟ることもできなくなってしまうのだ・・・と、使徒パウロは述べているわけです。実は、幼な子のような心”というのは、このような覆いがかかっていない心を言っているのです。


では、イエスが説いた“細い”というのは、何なのでしょうか? を認めることを可能にし、十字架の言奥義を知ることができるようになる“細い”を生きるために必要なことは、一体、何なのでしょうか?


その答えは、さばく”という思考パターンから脱却することなのです。これまで当たりのように、何気なく、無意識のうちに思わず、長い間やってきた“さばく”という思考プロセスを凍結すればいいわけです。つまり、“さばかない”で観ていく、捉えていくということをこれから自らの人生を生きていく上での基本指針として、日々の生活において実践していくわけです。これが、イエス山上の説教で説いた最も重要な教えであり、核心的な教えであると言えるのです(マタイによる福音書7章1節~5節、24節~27節を参照)。この時、人はイエスの“”、すなわち、『イエス-道』を歩むようになるのです。イエスを信じて生きる、イエスと共に生きる・・・ということは、実は、こういうことなのです。として生きていく上で、また、意識進化を遂げていく上でも、“さばかないで生きる”ということは、とても重要なベース、土台、礎、基盤となってくるのです。


間違いなく、正確に、厳密にさばく”ということよりも、むしろ、“さばかない”ことの方が、実は、人間にとっては楽なのです。“誤ってさばいてしまった”ために、新たな不幸やトラブルを自分の人生の中に生じさせたり、招き寄せたりしていることがいかに多いことか・・・。


イエスは、「あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしだれもさばかない。しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである」(ヨハネによる福音書8章15節~16節


私たちの場合、“さばかない”方が無難で、安全で、得策で、メリットが大きいと言えます。私たちが人を“さばいた”その量りで、私たちもさばかれてしまうことも忘れてはなりません(マタイによる福音書7章2節を参照)。


また、“さばかない”ことの実践によってもたらされるメリット・効能としては、心の目の視界を遮っている“”が確実に取り除かれていくことであり、その結果、“肉眼では確認のできないような隠れた事実・真実・真理など”がはっきり見えてきて、そのような貴重な情報が堰を切って心に流入してくるということです(マタイによる福音書7章1節~5節を参照)。これが、信仰が正常に作動している状態と言えるのです(へブル人への手紙11章1節を参照)。つまり、“信じる”ということにおいて、信仰の目が心の中で開かれていることがとても重要なのです。


イエス救いを宣言された十字架上の犯罪人も、宮で祈って義とされて家に帰っていった取税人も、実は、このようなプロセスを経て、“命に至る道”へと入っていったのです。・・・・・

 12月19日 土曜日 9:28更新 12月20日 日曜日 22:09に改訂更新 


・・・・・この内容は、次のブログ 『イエス‐道』(22) “星に願いを”(邦画) 』に続いています・・・


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12/10(木曜日)21:49更新 ブログ(129):『イエス‐道』(20)“取税人とパリサイ人の祈り(4)ーラオデキヤ”

2015年12月10日 21時49分04秒 | イエス-道

このブログは、内容的に 『イエス-道』:(19)“取税人とパリサイ人の祈り(3)―エデンへの回帰と反転”からの続きです


“取税人とパリサイ人の祈り(4)-ラオデキヤ”



“宮においてに祈ったという取税人パリサイ人”というイエスが語った譬を、黙示録3章14節~22節にある『ラオデキヤの教会へのメッセージ』という視点から捉えていくと、一体、どういうことが見えてくるのでしょうか?


富む者となるために、・・・火で精錬されたの金」(=義と認められる信仰)、裸の恥をさらさないため身に着ける・・・白い衣」(=イエス・キリストにある、これによって罪がおおわれ、ゆるされるということ)、「見えるようになるため、目にぬる目薬」(=心の目を明らかにする、はっきり見えるようにして下さる知恵と啓示との霊神の聖霊)の3つの要素が、このラオデキヤへのメッセージにおいて重要なポイントになっています(ヨハネの黙示録3章18節)。


でも、この3つは、実は、一つである、一体である・・・と、私は観ています。つまり、この3つのうちのどれか1つや2つだけを持っているということはあり得ないのです。3つすべてを持っているか、さもなければ、3つすべてを持っていないか・・・このいずれかなのです。


そして、この譬の中のパリサイ人というのは、3つすべてを持っていなかった人を象徴していると言えます。でも、このパリサイ人は「自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もない」(ヨハネの黙示録3章17節)、裸の恥をさらさないために立派な義の衣(=自分のこれまでの人生における輝かしい業績、功績、実績)を着ている、また、目薬がなくても自分はハッキリ見えている・・・と思い込んでいたのです。このパリサイ人は、いわば“裸の王様”だったと言えるのです。このようなパリサイ人に象徴される人というのは、このように “エデンにおいて生じたというほころび究極の原点”に回帰しておらず、従って、そこから反転すること(=さばくことをやめること)もしていない人なのです。つまり、このパリサイ人は「いちじくの葉をつづり合わせて」(創世記3章7節)、言い換えれば、自分のマインドが考え出した方法を使って、自分のほころびを覆い隠したので大丈夫だ、万全だ、これで義と認めてくれるはずだ・・・と “さばき”、決めつけたというわけです。


一方、譬の中の取税人というのは、白い衣・金・目薬の3つすべてを手に入れた人を象徴しているのです。つまり、この取税人は、 “エデンにおいて生じたというほころび究極の原点”に回帰して、自分「自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であること」(同3章17節)に気づいた上で(つまり、この取税人は“裸の王様”ではなかったのです)、自らのほころびを「いちじくの葉をつづり合わせて」創世記3章7節覆い隠そうとはしなかったのです。さらにそこから反転していった(=さばくことをやめてしまった)人を象徴していると言えるのです。言い換えれば、この取税人は自分の現状や現実というものを一切割り引くことなく、あるがまま認め受け入れた上で、ゆるしを求めたのでした(ルカによる福音書18章13節を参照)。が用意し、提供した方法である「皮の着物」(創世記3章21節)を身に着けたのでした。これによって、彼は「義とされて」(ルカによる福音書18章14節)自分の家に帰っていったというわけです(ローマ人への手紙4章5節~8節を参照)。


この『宮においてに祈るパリサイ人取税人の譬』は、“によって義とされること”を教えようとして、イエスによって語られたものでした(ルカによる18章14節を参照)。いわゆる『信仰による義認』という教えです。そして、この教えにおいて重要な3つの要素(=を象徴する信仰白い衣が象徴するイエス・キリスト、そして、目薬が象徴する知恵と啓示との御霊)が、ラオデキヤ教会へのメッセージの中にすべて網羅されているというわけです。使徒パウロもまた、この3つの要素を網羅して、次のように明確に述べています。

「わたしたちは、御霊の助け(=目薬)により、信仰(=金)によって義とされる(=白い衣)望みを強くいだいている。」(ガラテヤ人への手紙5章5節


この3つの要素は、一体であると、私は述べました。でも、信仰による義認』という教えにおいて特に重要なものは、目薬で象徴される御霊の助けではないか・・・と、私は観ています。


使徒パウロは、エペソ人への手紙の中で、「どうか、わたしたちの主イエス・キリスト栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わってを認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように・・・」(エペソ人への手紙1章17節~18節)と書いていることに注目したいです。


御霊の助けによって、人の心の目が明らかにならない限り信仰も正常に作動することもないし、によって義と認められることもあり得ないからです。心の目が明らかとなって(=はっきり見えるようになって)初めて、“見えない事実を捉えていく信仰”が正常に働くようになるのです。また、イエス・キリストにある(=白い衣)が着せられ、罪がおおわれ、ゆるされるという“によって義と認められる”という体験、これまで盲目状態だった心の目がはっきり見える状態になった時に起こるものなのです。


しかし、皆さん、ここで注意していただきたいことがあるのです。



盲点


では、私たちの心の目を明らかにして、それによって“肉眼では捉えることが出来ない霊的な真実・事実・真理栄光”をはっきり見えるようにして下さるという“知恵と啓示との霊(=聖霊)”を熱心に祈り求めることをすればいいのでしょうか? 実は、そうではないのです。もちろん、そのことを祈り求めるということは、大切なことだと想います。ここに“盲点”があるのです。うっかり、重要なことを忘れてしまいがちになることがあるのです。それは、一体、何だと想いますか?


それは、イエスが山上の説教の中で説いた「さばくな」という実践的教え、そして、これと対となっている「自分の目から梁を取りのけるがよい」という実践的教えです。これはどういうことかと申しますと、人が何かや誰かを“さばいている”限り、“知恵と啓示との霊(=聖霊)”はその人の目を明らかにして下さるというサポートをすることができないからです。さばきまくっている人は、自分の方からそのような聖霊の働きを邪魔しているのです。“私は結構です、必要ないです”と、自分から断っているようなものです。


人が“さばくのをやめた”時に、聖霊は“心の目を明らかにして下さい”という要請をようやく正式に受理することができるのです。つまり、聖霊は当の本人に妨害や抵抗をされることなく、その人のために自由に働けるようになれるというわけです。


これは、ゆるしの原則と同じことです。イエスは、山上の説教において主の祈りに触れたすぐ後に、次のように語りました。


もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたのも、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」(マタイによる福音書6章14節~15節


この原則が、実はそのままそっくり聖霊のサポートを受けるにあたっても、当てはまるのです。なぜなら、人をゆるすということは、すなわち、人をさばかないということだからです。逆も真なりで、人をさばかないということ、イコール、人をゆるすこと・・・だからです。人をさばいたまま、人をゆるすという矛盾した行為というのは、いかなる人にも決してできないからです。


つまり、イエスが山上の説教で説いた数々の教えの中でも最重要な教え(少なくとも、私はこのように想っています)というべき「さばくな」という教えを自ら実践していく、自分の生き方の中心軸にしていく、自分の人生を生きていくための原則にしていく時に、たとえどんな人であれ、ゆるしていくことが当たり前のことにとなっていくのです。そして、ゆるしも、そんなふうに生きていく人と共にあるのです。この時、神の聖霊も喜んで、自由に、気兼ねなく、その人をサポートすることができるのです。


考えてみて下さい。十字架上でイエスよってパラダイスへの救いを宣言された例の犯罪人は、知恵と啓示との御霊に祈り求めてから、「イエスよ、あなたが御国の権威を持っておいでになる時には、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)と言ったのではありませんでした。イエスに対して最後まで悪口を言い続けていた(=つまり、さばき続けていたもう一人の犯罪人と違って、この犯罪人は自らさばくことをやめてイエスをあるがまま観ていった時に、すぐに知恵と啓示との御霊が彼の心の目を明らかにすべく、長い間かかっていた“”を取り除き、その結果、見えない事実・真実・真理はっきり見えるようになっていったのでした。だからこそ、イエスよ、あなたが御国の権威を持っておいでになる時には、わたしを思い出してください」と、彼は言うことができたのでした。この言葉は、まさに彼の信仰(=心)の目が開けたことの証でした。この犯罪人が“イエスが何者であるか”をはっきりと知ったこと、また、彼の心の目が天の父寛容とゆるしの愛に満ちた栄光をあるがまま観た”ことをイエスは瞬時に感知したのでした。だからこそ、イエスは 「よくよく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(同23章43節)とすぐに答えられたのでした。


譬の中の取税人も、同様です。聖霊を熱心に求めたからではなく、パリサイ人とは対照的に、さばかなかったからこそ知恵と啓示との御霊による心の目を明らかにするというサポートが与えられて、“ゆるしと寛容の愛とあわれみに満ちた天の父栄光”をこの取税人はあるがまま観ることができたのです。だからこそ、取税人は、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈ることができたのでした。


山上の説教の冒頭の方で、イエスは語りました。「心の清い人たちは、さいわいである。彼らはを見るであろう」と(マタイによる福音書5章8節)。


さばいている人の心というものは、怒り、憎しみ、怨念、執念、苛立ち、不平不満、復讐心、敵意、殺意、悪意などで一杯なのです。心がどんより曇っているのです。心には濃い闇があるのです。心が汚れているのです(マタイによる福音書15章10節~20節を参照)。そして、そのルーツというのは、これまでも述べてきたようにエデンにあるのです。


一方、これまでさばいていた人が、さばくことをキッパリとやめた時に、神の聖霊はその人の心を照らし、心の目の“(=覆い)”が取り除かれて栄光をあるがまま見えるようになっていくわけです。それと同時進行で、人の心も透明になり、清められるのです(コリント人への第2の手紙3章12節~18節を参照)。そして、これは、自分の問題を含めて、この世のすべての問題のルーツがエデンから始まったことに気づいて、というほころびの発端となったところ(=さばいたということ)から反転させていけばいいわけです。つまり、マインドの働きが優位になってしまって、さばいてしまったところにほころびの起源があったことに気づいて、“さばかない”、“ジャッジしない”という生き方に徹していくのです。そこに、救いの活路が見えてくるのです。心の潜んでいたへと切り替わっていくのです。これまで長い間、囚われていた“想い”が解き放たれ、自由になって、そこから“想い”における創造性に目覚めて、自らの新しい人生を創造して、造り上げていけばいいのです。“想像”というのは“想い”が像を結んでいく、すなわち、現実を造り上げていくということで、“創造”に繋がっていくからです。


この“想い”が『善悪の固定観念』、『善悪の二元論』、『善悪の相対論』、すなわち、『物事を善・悪でさばく』という長い間の囚われから完全に解放され、真の自由の中を羽ばたいていくようになる時に、“想い”の中に秘められている本来の創造性が発揮されるようになっていくのではないか・・・。この“想い”を強め、拡大していくことが、“生きた信仰を働かせていくことに繋がっていく・・・”と、私は観ているのです。


 (12月5日 土曜日 22:05更新)  (12月10日 木曜日 21:49更新) 


・・・・・・続くブログは、ブログ(130):『イエス‐道』(21)“わたしが道” です・・・   

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12/4(金曜日)23:20更新 ブログ(128):(19)“取税人とパリサイ人の祈り(3)" ーエデンへの回帰と反転

2015年12月04日 23時20分53秒 | イエス-道

このブログは、『イエス-道』:(18)“取税人とパリサイ人の祈り(2)―エデン”からの続きです


『イエス-道』:(19)“取税人とパリサイ人の祈り(3)‐エデンへの回帰と反転”


私は、この譬の中で義とされて自分の家に帰っていった取税人ルカによる福音書18章9節~14節を参照イエスから十字架上で救いを宣言された犯罪人ルカによる福音書23章39節~43節を参照との間には共通点がある・・・と、私は観ています。


その共通点というのは、譬の中のパリサイ人とは違って、盲目ではなかったという点です。つまり、彼らの心の目の視界は“”によってブロックされておらず、見えない真実・事実というものがハッキリと見えていたということです。


この取税人も、また十字架上にかけられていた犯罪人も、自分たちが生きてきたこれまでの人生を振り返ってみたところで、の前に差し出せるような“輝かしい功績や実績、善行、誇るべきものなど”は、何も見つからなかったと想います。もし、彼らの心の奥底から出てくる“に申し上げることができる言葉”があるとするなら、それは「神様、罪人のわたしをおゆるしください」(ルカによる福音書18章13節)・・・、この言葉以外に、に語る言葉としては、彼らには思いつかなかったのではないかと、想うのです。


譬の中のパリサイ人の場合は、自分がいかにこれまで立派な人間だったか、義人だったか、善人だったか、どれほどの素晴らしい功績や実績を自分の人生の中で積み重ねてきたかということ(実は、これが“いちじくの葉”をつづり合わせて、自らの罪によって生じた“ほころび”や“恥”を覆い隠そうとする行為が暗示しているものなのです)をに申し述べようとするのです。それを根拠に、自分こそ優先的に救われるはず・・・と思い込んでいるのです。でも、このように考えていたパリサイ人義と認められなかったと、イエスは言われるのです(ルカによる福音書18章14節を参照) 。


でも、この取税人十字架上にかけられていた犯罪人は、微塵にもそのようには想っていなかったのです。むしろ、“私はに救われるのに値しない人間である”と想っていたのです。救いと交換できるような価値あるものを、自分は全く持ちあわせていないことをよく知っていたのです。の前では、まさに“裸同然”である自分の現実をよく知っていたのです。それでも、彼らは“裸同然の自分”を『いちじくの葉のようなもの』(=マインドが考え出した産物)をつづり合わせて覆い隠そうとはしなかったのです。みずからが考え出し、提供されておられる“皮の着物”(=神の小羊なるイエス・キリストの身代わりの義という着物)で覆われることを、彼らはに祈り求めたです。それが、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」という言葉にはっきりと現われているのです。つまり、盲目になっていたパリサイ人と違って、彼らの目は澄んでいてマタイによる福音書6章22節を参照)、はっきりと見えていたので(同7章5節を参照)、“ゆるし”を、“寛容の愛とあわれみに満ちた”、“善人と悪人を分け隔てをしない完全な愛”をしっかりと、ありのままに認めることができたのです。だからこそ、彼らは義と認められ救いにあずかることができたというわけなのです。


これが、『イエス-道』から観て、解析した“信仰によって義と認められる”という“信仰による義認”の教えと言えるのです。


ここで、もう一度、使徒パウロによる“信仰による義認”について述べた奥深い言葉を直観で体感してみて下さい。あえて、説明はしません。蛇足になってしまうでしょうから。


「しかし、働きはなくても、不信心な者をとするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。ダビデもまた、行いがなくても義と認められた人の幸福について、次のように言っている、『不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。認められない人は、さいわいである』。」(ローマ人への手紙4章5節~8節


ここで、パウロが何を言いたかったかがピンとくる人は、もしかしたら心の目が開かれている人かも知れません。



エデンへの回帰


前に、当ブログ『取税人とパリサイ人の祈り(1)』の中で、救いにあずかるようになるためには、“エデンに回帰していく”・・・ということを述べました。つまり、人類の“”というものの起源・ルーツをエデンの園で起きた出来事における霊的な意味を知っておくことがとても重要になってくるのです。それがわかったら、それをひっくり返していく、すなわち、それを反転させていけば、そこに救いの道が自ずと観えてくると、私には想えるのです。


実は、『取税人とパリサイ人の宮での祈り』という譬を通して、イエスはそういうことを教えたかったのではないか・・・。


エデンの園における“罪のルーツ”というのは、に食べるなと禁じられていた“善悪を知る木の実”を人が取って食べたところにあると聖書的には捉えることができます。その“善悪を知る木の実”を食べると、「あなたがたの目が開け、のように善悪を知る者となる」(創世記3章5節)と言って、へび二人それを食べるように誘導しました。そして、が実際にその木を見てみたところと、「それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいたにも与えたので、彼も食べた」(同3章5節)とあります。「すると、ふたり目が開け、自分たちが裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」というのです(同3章7節)。


このようにして始まった“罪のルーツ”を解析していくと、一体、何が観えてくるのでしょうか? 


私には、このエデンの園で起こった出来事の中に重要なポイントが隠されているように想えてならないのです。へびは、善悪を知る木から取って食べると、「目が開け、のように善悪を知る者となる」と言いました。ところが、実際には、二人がそれを食べた後に、と全く同じように善悪を知るということにはならなかったのでした。


へびに誘われるまま、“善悪の木の実”を見たところ、それは「食べるに良く目には美しく賢くなるには好ましい」と思われ、それから口にしました。そして、夫にも与えたというのです。つまり、それを食べても何ら問題はないという“思い込み、“見た目がすべて”という考え方、すなわち、外見の美しさ、表面的なきらびやかさなどに惑わされている状態と同等な賢さ(=知恵)ではなかったのです。むしろ、“善悪の固定観念という二元論的な発想”に囚われて物事を見たり、判断したり、解釈したりするようになってしまったということです。言い換えれば、マインドを駆使することによって もたらされる賢さであり、知恵なのです。エデンにおいて始まったこのようなマインド主導の世界が、地球の人類全体を飲み込むようになるのです(ローマ人への手紙5章12節~21節を参照)。このマインド主導の世界が、まさに“この世”なのです。そして、マインド主導の発想で、区別したり、分け隔てしたり、差別したり、比較したり、競合したり、競争したり、争ったり・・・と、さばくことが人間の性(サガ)となってしまっているわけです。これが当たり前のようになっていために、もはや何の違和感も感じなくなっている状態なのです。


このようなマインド主導の世界というのは、神の世界とは接点を持たないのです。マインドによる発想自体が、目の前の“”となってしまい、をあるがまま観ることを妨げてしまうのです(コリント人への第1の手紙18節~2章16節、マタイによる福音書13章14節、詩篇18篇25節~26節を参照)。どうしてもそのものを偏った観かたや捉え方をしてしまうものなのです。


この“”が心の目から取り除かれている人こそが、まさに“心の清い人”なのであり、イエスが山上の説教の冒頭の方で、「心の清い人たちは、さいわいである。彼らはを見るであろう」(マタイによる福音書5章8節)で言われたのは、実はそのことだったのではないか・・・と、私は観ているのです。


これまで長い間、自分の想いマインドによって支配されていた、囚われていた、縛られていたということに気づいていくということが、実は、“霊的な覚醒”への第一歩となるのです。そして、自分の中でこれまでフル活動していたマインドの働きを停止していった時に、目に前には“救いの道”が観えてくるのです。イエスは、「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者は多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイによる福音書7章13節~14節)と、山上の説教で語りました。私は、マインド主導で生きていくことこそが『滅びに至る門』、『広い道』であり、一方、マインドの働きを停止する術(すべ)を身に着けて、自分をがんじがらめにしてきたすべてのことから想いを解き放って、自由な状態にしていくことが『命にいたる門』、『細い道』となるのではないか・・・そんなふうに、私は観ているのです。


このようなコツを身に着けて、魂の救いを実際に体験していったのが、例をあげると、十字架上で救われた犯罪人であり、イエスが語った譬の中の取税人であり、試練から救われたヨブだったのです。



エデンへの回帰、そして、反転


ヨブは、試練に遭った時に、「わたしはで母の胎を出た。またでかしこに帰ろう」(ヨブ記1章20節)と言いました。ある意味において、ヨブが試練に遭って、自分が持っていたものがことごとく奪われていった時に、“裸の状態の自分を気づいた”ということ。すなわち、エデンにおける原点(創世記3章6節~7節を参照)に回帰していったと言えます。でも、そこからが大事なのです。“原点のさらなる原点”とも言うべきところに回帰していって、そこを反転させていけばいいわけです。


つまり、“善悪の木の実を食べた”ということが暗示しているのは、“善悪の固定観念を自分の中に取り込んでしまった”ということなのです。のように賢くなれると思い込んで・・・。ところが、その賢さというのは、“の賢さ”ではなくて、“マインドが造り上げ、築き上げ、積み上げていく賢さであって、人はそれによって、“のようになろう”、“をも凌駕しよう” 、あるいは、“の存在すらも否定する”といったような傲慢な想いまでも持ってしまったわけです創世記11章1節~9節を参照)。そこには、高慢や高ぶりの精神さばきの精神がプンプン匂うのです(ヤコブの手紙4章6節~16節を参照

 

エデンにおける“原点のさらなる原点”というのは、“さばいた”というところにあります。“さばく”ということは、何かを基準にして、それと比較して判断したり、評価して、最終的な裁定を下すことを意味します。そこには、決めつけがあり、思い込みというものがあるのです。わずかな情報や知識だけで、軽率な判断・評価・最終決定・ファイナルアンサーを出してしまうことが、“さばく”ということです。そして、“さばく”ということの背後には、様々な固定観念があるもの。その最たるものが、“善悪の固定観念”と言えるでしょう。このような固定観念というフィルターを通して、人は“さばいていく”わけです。


では、エデンにおけるその“究極の原点”に回帰していって、そこから“反転させていくには、実際どうすればいいのでしょうか?


それは、“さばくこと”の全く反対のことをやればいいわけです。つまり、“さばくことをしない”、“ジャッジしない”ということです(マタイによる福音書7章1節を参照)。これを実行、実践していくことが、“反転させていく”になるのです。人類にが入ってきた“究極の原点(=さばいたということに、実は密接に関係している)”に回帰していって、そこを反転させていくところに、実に、救いの道が開け、見えてくるのです。イエスの山上の説教の中でさばくな”と説いたことは、実に、重要なメッセージだったと言えます。


「悔い改めて、わたしを信じなさい」、「わたしの名によって、天の父に祈りなさい」、「ゆるしを信じなさい、そうすれば救われる」などとイエスがたとえ語ったとしても、それによって人が実際に救われていくというのは、至難のわざである・・・と、私は想うのです。イエスが語った多くの教えの中から、「さばくな」というたった1つの教えを取り除いただけで、イエスの語った他のすべての教えは崩れ去っていく・・・と、私は観ているのです。それほどまでに大事で、なくてはならない教えというのが、まさに「さばくな」という教えであると言えます。


そして、この「さばくな」(マタイによる福音書7章1節)という教えとペアーになっている教えと言うのが、「自分の目から梁を取りのけるがよい」(同7章5節)なのです。この2つは、“コインの裏と表”のような関係にあると言えるのです。では、何のために自分の目から“”を取りのける必要があるのでしょうか? 


それは、“はっきり見えるようになる”ためです(同7章5節を参照)。はっきり見えていないからこそ、人はさばいてしまうのです。目に“”が存在しているから、はっきり見えないのです。さばくことをやめることで、人は自分の目から“”を取り除くことができ、その結果、はっきり見えるようになるのです。私がここで言いたい霊的メカニズムが、お解りいただけるのでしょうか?


実に、十字架上の例の犯罪人は、自分の人生がまさに終わろうとしていた直前に、“さばかずにイエスを観たので、イエスのうちのある真理(=見えない事実)がはっきり見えたのです。だからこそ、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)と言うことができたのでした。そして、彼がパラダイスに救われることを、イエスに宣言されたのでした。


また、イエスが譬の中で語った取税人は、パリサイ人と違って、“さばかなかった”からこそ、すなわち、目の“”が取りのけられていたからこそ、ゆるしをあるがまま、はっきり見ることができたのです。だからこそ、取税人は「神様、罪人のわたしのおゆるしください」と祈ることができたのです。


つまり、十字架上の犯罪人も、譬の中の取税人も、人類史上に罪という問題が生じたきっかけとなった“さばいた”という行為を反転させ、“さばくことをやめた(=マインドの働きを停止させた)”ことで、善悪の固定観念からも自分の想いが解き放たれて、自由となって、魂の救いを得たのであり、義と認められ、ゆるされたのです。


・・・・・・“取税人とパリサイ人の祈り(4)‐ラオデキヤ”へ続きます・・・・(11月26日 木曜日 23:08更新中) (11月29日 日曜日 0:15更新)  (12月4日 金曜日 23:20更新)   


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