映画 『星に願いを。』と 『イエス‐道』(22)
以前のブログでも、主題歌などの歌詞や映画の内容の重要なポイントを解説することを試みてきました。
今回のブログでは、竹内結子(函館の病院に勤める看護師、青島奏 役)・吉沢悠(1回目の交通事故により目も口も不自由になってしまった青年、天見笙吾 役)の二人が主演の映画『星に願いを。』に焦点をあててみたいと思います。この映画の中に、『イエス-道』に深く関わってくるような“貴重なメッセージ”が隠されているのです。実は、前回のブログを書きながらも、私は、次回のブログで書きたいテーマはこれに決まりだな・・・と、想っていたのでした。
ところで、この映画は、東宝から配給されたもので、2003年4月12日に公開された邦画です。日本の劇場で2001年に公開された1999年の香港映画 『星願 あなたにもういちど』のリメイクとされています。私は、ずーっと以前にこのDVDをレンタルで観たことがありましたが、最近になってこの『星に願いを。』の本が自宅のテーブルの上に置いてあったのを目にしたのです。どうやら家族の誰かが読んでいるようでした。そこで私は、昔 観たこの『星に願いを。』の映画を、再び、じっくり観てみたいと想い、さっそくAmazonに中古のDVDを注文したというわけです。
この『星に願いを。』をまだ観たことがない方は、この機会にぜひ一度、DVDなどで観られることをお勧めします。
この『星に願いを。』という映画をじっくりと観ていった時に、『イエス-道』に深く関わってくる“キーセンテンス”が何かについて、私はすぐにピンときました。皆さんは、それが何であるか、わかりますか?
それは看護師の青島奏(あおしまかな)が自分に語った言葉と、天見笙吾(あまみしょうご)に向かって発した言葉の2つです。つまり、
「どうして いままで気づかなかったんだろう」と、奏が自分自身に問いかけた言葉、そして、それに続いて、
「どうして もっと早く言ってくれなかったの」と、奏が笙吾に向かって大きな声で語った言葉です。
実は、この2つの“どうして・・・”に、私は注目しているのです。この言葉の中に奥深いメッセージを私は感じ取るわけです。
なぜ、この2つの言葉がそれほどまでに重要なのでしょうか?
ここでポイントをキチンと押さえておかないと、この映画は単なる“ラブファンタジー”で終わってしまうのではないか・・・と、想うのです。
(12月20日 日曜日 22:43に更新)(12月21日 月曜日 23:50に更新)
「どうして もっと早く言ってくれなかったの」と奏が言いましたが、では、なぜ笙吾は、アロー生命保険会社の景山(かげやま)を名乗っている自分こそが実は“車にはねられて死んだあの天見笙吾”であるという事実をもっと早く奏に言わなかったのでしょうか? それは、この映画を観れば明らかなように、自分からそれを言ってしまえば、この世界から瞬く間に自分が消えてしまうことになるからです。もちろん、笙吾はそれは避けたかったので、自分が"天見笙吾 "であることを奏に言うことは出来なかったわけです。奏が自分で気づく必要があったのです。
また、「どうして いままで気づかなかったんだろう」と奏が言いましたが、笙吾がアロー生命保険会社の景山として奏に度々接触を試みて、様々な証拠やサインを与えました。それにもかかわらず、“天見笙吾”であることに奏は気づくことができませんでした。機が熟さないとわからないもの。従って、仮に「もっと早く言ってくれ・・・た」としても、奏がアロー保険会社の景山と名乗る彼が“天見笙吾”であるという事実を受け入れることはできなかったのではないか・・・と、私には想えるのです。死んでしまった人には、もう決して会えない。記憶だけが鮮明に残っているだけ。このような『思い込み、既成概念、常識、固定観念』といったものが、実は、奏がアロー生命保険会社の景山と名乗る人物が“天見笙吾”であるという事実を認めることを邪魔するわけです。
こういった『思い込み、既成概念、常識、固定観念』といったものがあると、たとえ十分な証拠、疑いようもない証拠が与えられていたとしても、人の直観力や感受性を極度に鈍らせてしまい(マタイによる福音書13章13節~15節、コリント人への第2の手紙3章12節~15節を参照)、その結果、『大切な事実や真実や真理』に気づくことができなくなってしまうというわけです。このように心の目が閉じている状態、心の目の視力が極端に落ちてしまっている状態(マタイによる福音書6章23節を参照)、霊的な盲目。これは、“内なる光”が暗くなっている状態(同6章23節を参照)とも言えます。これこそが目に“梁”がある状態(同7章3節~5節を参照)であると、イエスが山上の説教の中で説いていたわけです。
奏がアロー生命保険会社の景山が“天見笙吾”であることに気づくためには、どうしても“きっかけ”が必要だったのでした。それは、奏の姉が交通事故に遭って、病院に運ばれた後の笙吾と奏との接触、やり取り、かかわりの中で、これまで幾度となく与えられてきた数々の証拠やサインが、ようやく今、アロー生命保険会社の景山という人物こそが奏が会いたいと想っていた“天見笙吾”だったという事実と結びつくことになるのです。景山という人物が、“天見笙吾”そのものであるという“今まで見えていなかった事実”を否定するものはもはやどこにもない・・・と想える程に、奏は確信を持つに至ったのでした(ヘブル人への手紙11章1節を参照)。
「どうして いままで気づかなかったんだろう」。気づくためには、もちろん、一定量の情報や証拠やサインが必要となってきます。しかし、それだけでは不十分なのです。それらがどんなに潤沢に与えられたとしても、もし心の目が開いていないなら、心の耳が開かれていないならば、見ても見えず、聞いても聞こえずの状態になってしまうのです(マタイによる福音書13章14節~15節を参照)。気づこう、気づこうと想って、気づけるわけではありません。心が厚く覆われていて、気づく能力自体が低下している状態の中にあっては、気づこうと想うことはあり得ないわけです。
日頃から、心の感性を高め、感知能力を増していくことが、“気づき”に繋がっていくわけです。では、“気づくこと”において、役立つこと、確実なノウハウというのは、一体、何なのでしょうか?
実は、その答えを見つけるのに役立つヒント、示唆が聖書のあちらこちらに散りばめられています。たとえば、使徒パウロは、「・・・愛のうちを歩きなさい」(エペソ人への手紙5章2節を参照)と書きました。。
イエスは、次のように言われました。
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書15章12節)
イエスや使徒たちがここで言っている“愛”というのは、もちろん、この世における常識的な“愛”を言っているのではありません。自分を愛してくれる人、自分に対して好意をもっている人、自分を慕っている人などを“限定的に愛すること”を言っているのではないのです(マタイによる福音書5章43節~48節を参照)。敵・味方、良い人・悪い人、愛すべき人・憎むべき人などと区別することなく、分け隔てすることなく、いかなる人をも包み込んで愛していくことを言っているのです。
これは“寛容という愛”なのです。真の愛は“寛容”そのものなのです。使徒パウロは、愛の特徴の筆頭にこの“寛容”をあげているのです(コリント人への第1の手紙13章4節を参照)。
使徒パウロは、 「あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、・・・」(ピリピ人への手紙1章9節)とも述べましたが、私たちの愛も、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わってくるならば、この“寛容という愛”も比例して、増大してくるわけです。人を受け入れる許容量が増えていくのです。器が増々大きくなっていくのです。包容力・度量・寛容力のある人間、懐が深~く、広~い人間になっていくわけです。
実は、このような“寛容という愛”こそが、人の感覚を鋭くし、感知能力を磨いていくもの、すなわち、その人に“気づき”をもたらしていくものではないだろうか・・・と、私は想っているのです。
“寛容という愛”、言い換えれば、これは“さばかない愛”です。“寛容な人”は、さばかないのです。さばかない人は、“寛容”なのです。偽りのない、真実の愛の“核心部分”は“寛容”によって構成されているのです。
人は、さばくことを止めた時に、さばくというマインドのプロセスを停止した時に、実は、“気づく能力”が格段と高まってくるものなのです。人から教えられて“わかる”というものではなく、“自分自身で気づいていく”ことがとても、とても大切なのです。このことが、映画 『星に願いを。』において最も重要なポイントなのではないか・・・と、私は観るのです。
このような視点から、「どうして いままで気づかなかったんだろう」と自分自身に問いかけをした奏の言葉をじっくりと味わいながら この『星に願いを。』という映画を観ていく時に、私たちとって単なる“ラブファンタジーの映画”で終わるのではなく、人に与えられた人生というものを生きていく道について想いを巡らしていく貴重な機会にもなり得るのではないでしょうか?
こんなふうに『星に願いを。』を観ていった時に、この映画の重要な主題は“気づく”ということにあるのではないだろうかと、私は想うわけです。すぐ近くに存在していたのにもかかわらず、盲点になっていたために、あるいは、何かに遮られていたために、見えていなかった、感知することが出来なかった・・・・・そういうことに“気づく”ということ。
長年にわたって聖書を探究してきて、私が想うことは、聖書を読んだり、観たり、研究したりしていく際にも、同様に“盲点”、“見過ごしてしまっている大事なこと”、“なくてはならないただ一つのこと”があるのではないか・・・ということ。それは、神に熱心に祈ることでも、イエス・キリストに対する信仰を表明することでも、聖書を“マインド”を駆使して熱心に学ぶことでもないと想うのです。
こんなふうに述べると、熱心なキリスト教信者は当惑するかも知れません。もちろん、そういったことが無駄だと申しているわけではありません。もし“あること”に気づかないと、キリスト教の教えは土台から崩壊してしまうのではないか・・・・と危惧しているのです(マタイによる福音書7章21節~27節、同13章10節~16節を参照)。
聖書を『神の言葉』と捉えた時に、その中で最も重要な教え、盲点になってしまう教え、最優先して評価されるべき教え、なくてならない教えをたった一つに絞り込んでいった時に見えてくるものというのは、イエスが山上の説教で説いた“さばくな”という教えではないかと、私は想うのです。このことに“気づくこと”が、聖書を“神の言葉”と信じている人々、聖書を“信仰の拠り所”としている人々、聖書を“聖典”として受け入れて真面目に学んでいる人々、“縁”があって聖書を今も学んでいる人々にとって必要不可欠なことではないでしょうか。
もちろん、聖書やキリスト教に縁がないような人々にとっても、この普遍的な真理である“さばくな”という教えを自らの人生における様々な経験と通して気づいていくことは、十分可能だと想います。
この“さばくな”という真理の重要性に気づいて、これを実践しながら自らの人生を生きていくときに、人としての“意識進化”が進んでいくと想います。過去という時間に囚われることがなくなり、過去のしがらみからその人の“想い”が解放され、自由になっていくのです。これまで過去のことに引きずられ、過去の記憶情報に囚われ、過去という時間の中に存在しているバーチャルリアリティーの世界の中で生きてきた人が、そこから抜け出して、“今、この瞬間、瞬間”という唯一リアルな時間を生きていくように、大きくシフトするのです。
(12月25日 金曜日 23:34に更新)(12月28日 月曜日 22:54に更新)(12月30日 水曜日 22:46に更新)・・・
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