碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

鳥取藩 幕末 因幡二十士事件 ⑥

2007年09月13日 10時57分30秒 | 因幡二十士事件

                      ebatopeko

 

     鳥取藩 幕末 因幡二十士事件 ⑥

 

 (二十士事件の周辺)    和田邦之助信且

 

 和田邦之助信且(のぶかつ)は、鳥取藩家老である。

 大正期における婦人参政権運動に大きな功績のあった碧川かたの実父でもある。

 私が「二十士事件」を調べようとしたのも、実は碧川かたの実父である和田邦之助の実像を知りたいという気持ちからである。

  鳥取藩では、家老になる家系は「着座十一家」とよばれる。その中から家老が選ばれ月番で藩政を執行する形がとられた。  

 和田氏は、家老として5500石の石高で、鳥取藩家老の中では四番目の位置である。鳥取の中部、倉吉往来の松崎に領地を持つ。

  和田邦之助信且は、安政三年(1856)二月、和田信元の死をうけて家督を相続した。十八歳のときである。
 実は邦之助は、同じく鳥取藩着座の一家である鵜殿藤輔の第三子である。和田信元が子無く、二十歳で亡くなったことによってあとを継いだのである。  

 邦之助は安政四年(1857)四月家老職に補せられた。十九歳であった。安政六年五月、職制改正で武事大奉行に補せられ、刑獄御用懸、守衛方軍用御用懸、船方を兼ねた。

 文久元年(1861)三月、職制再び改まり、邦之助は御軍式方総督となった。二十三歳のときである。

 文久二年四月には、邦之助は江戸御留守詰並びに大坂瑞見山御陣営巡視を命ぜられ、五月鳥取を発し、まず大坂に出て陣営視察を終えた。

  九日には、江戸に向かうため大坂を発した。このころ藩主池田慶徳公は、江戸を立って日光をを拝し、木曽路を経て鳥取に向かおうとしていた。

  このころ、尊王攘夷運動が盛り上がっており、京では各地の浪士が集まっていた。かれらは、しきりに禁中に出入りし、朝幕間には微妙な状況が醸し出され、治安は悪化していた。

  国元では、家老らが情勢を十分に捉えられず、右往左往していた。邦之助は、このままでは藩主慶徳が国に帰還の途次、その渦中に巻き込まれ、いかなる事態が起こるやも知れないと恐れた。

 そこで、邦之助は京の情勢を伝え、藩主を迎えるため美濃の国河渡駅におもむいた。江戸詰めを免じられ藩主慶徳に付き従って鳥取に帰った。

  この行動に対し、藩内では批判するものがあり、ついに邦之助は職を免じられた。

 翌文久三年(1863)二月、慶徳公は京都にあったが邦之助は召されて上京し、京地のことに与った。そして、慶徳公の大坂巡視、加茂両社行幸に付き従った。二十五歳であった。

  三月十六日、慶徳公は鳥取に帰るにあたって、邦之助を京に留めて京地のことを司らせた。尊王攘夷派の公卿三条実美は、邦之助に書を送って、その尊攘の志深く、よく一藩の向かうところを指導せるを激賞した。

  さらに四月四日、中川宮に拝謁した。十一日中川宮の男山行幸に際し流言があり、宮は密かに邦之助に命じて非常を警戒せしめた。邦之助は手兵を率いて八幡を護った。

  七月、慶徳公は京で朝議に参与した。 八月十七日、二十二士が京都本圀寺に、黒部ら鳥取藩重臣四人を襲ういわゆる「二十士事件」が起こった。

  この二十士事件に邦之助が与っているとの声があり、邦之助は慶徳公に釈明のため拝謁しようとしたが、家老荒尾千葉之助は、慶徳公がこの事件に邦之助が関わっているのではと疑いを持っていることを示唆した。

 これを聞いた邦之助は、痛憤し切腹しようとした。   

 このことについて、『贈従一位池田慶徳公御伝記』(以下『御伝記』とする)には、

 「是に於て、遂に所謂(いわゆる)二十士斬姦の事あり、・・・河田左久馬、この上は、斬姦以て世の公に対する疑惑を一掃せんと志せり。是が為には、窃(ひそ)かに着座和田邦之助に謀(はか)る処ありしと伝ふ」

 この二十士事件の行動について河田左久馬らが「和田邦之助に謀」ったととれる記述である。
 また、九月二十四日の記述にも、

 「着座和田邦之助は、是春より在京せしが、時勢の進むにつれ、頗る慷慨(こうがい=感情が高まって嘆くこと)の気を発し、少壮有志周旋方の重ずる処にして、彼の河田左久馬等二十二人の事を挙ぐるに当りても、其使嗾(しそう=けしかけること)に出たりとも伝へらる」 

 と、和田邦之助が本圀寺事件をけしかけ、事件に関わっているということを、伝聞という形ではあるが示している。それを裏付ける事実、証拠は示されていない。

 

  これは、河田左久馬らが本圀寺に黒部らを襲った前日すなわち八月十六日、池田慶徳公を譏(そし)る張り紙が堺町御門外、倉橋治部卿表門・寺町天性寺門柱等に張り出されたことをきっかけとしている。
 
 その詳しい内容は、別稿で記しているが概略は、張り紙が慶徳公の勤王の志に疑問を呈し、天皇による攘夷親征の御盛挙を妨げているというものである。

 慶徳公に対する誹謗は一に君側の侍臣である黒部権之介らが上下を離間し、公の勤王の御志を抑止しているからと考え、彼ら藩主の侍臣を殺害して公の正大の思召を天下に示そうとしたものであった。 

 邦之助は、

 「八月十八日、前夜二十二人の事ありしを聞き、直に公に謁せんとす」

 しかし、家老荒尾千葉之助は、

 「これを抑へ示すに、公の疑惑邦之助に及べるを以てし、其身辺を検す」

と言われ、

 「邦之助、痛憤措(お)かず、屠腹せんとし、御留守居安達清一郎座に在りて止むれども 聴かず。・・・邦之助、其身の疑はれしによるか、爾後狂疾を発し、是より出でず。」

と、自ら腹を切ろうとした。安達清一郎は、これを止めようとしたが聞き入れなかった。たまたま東館(鳥取新田藩、鹿野藩)主池田仲立が参殿しており、邦之助信且を慰め諭してこれを思いとどまらせた。

 しかるにこの張り紙について、『御伝記』には、

  「一には、前日の張り紙も、左久馬(河田左久馬)等が故に行へるなり、と伝ふ」

 とあり、本圀寺事件の重臣殺害のきっかけとなった、八月十六日の、藩主池田慶徳公に対する誹謗の張り紙も、河田左久馬ら殺害実行者によって書かれたものとの、指摘もある。

 これは、「本圀寺事件」の根幹に関わることで、その真相が解明されることが望まれる。

 

 しかし、邦之助は藩主池田慶徳公の疑いが自らに向けられていることにショックを受け、気が触れてしまったのである。その様子は、

 「人皆其陽狂なるを疑ふ。日を経て癒えず」

とある。「陽狂」であるが、これは「佯狂(ようきょう)」の間違いではないか。「佯狂」とは、広辞苑に「狂気をいつわりよそおうこと。にせきちがい。」とある。

 すなわち、藩主の自らに対する疑いで、まわりの人を驚かせる狂気の様相を見せていたのは、実は狂気を装っていたのではないだろうか?狂気をよそおわざるを得ないところに彼は追い込まれたと私は思う。

 さらに、幾日経ってもその狂気の様相は変わらず、ついに九月二十四日慶徳公は、「公、是日、緩々(ゆるゆる)保養すべし」と帰国を許された。 

 そして十月十四日、漸く旅程に就いた。京都にあった有志は、ことごとく彼の出発を惜しんだという。

 そして、十二月になって病気恢復の望みがないとして隠居を願い出、家を嗣の信美に譲った。わずか二十五歳のことである。

 

 和田邦之助信且の人となりは、「忠純にして剛毅夙(つと)に国事を憂ふ」といわれた。

 その忠純律儀なる証として、かれが和田家を継いだ安政三年から時を経ず早々と万延元年には先代信元の弟である敬之(信美)を嗣としている。

 邦之助は、もともと和田家の人ではなく、同じ着座家の鵜殿氏であっ。かれは家督を継いだときから自分のあとは、もともとの和田家に譲ろうと考えていたのである。
 
 「剛毅夙(つと=早くから)に国事を憂ふ」については、挿話として、彼がまだ実家の鵜殿氏にあったときの話がある。

 当時、外国船がしきりに日本近海を脅かしていたときの話である。

 ときの鵜殿家当主藤輔は、命をうけて本牧(ほんもく)=武蔵の国、警衛の役に就くことになった。そのときかれの二人の兄は父の供をして付いて行こうとした。しかし、末弟の信且はわずか歳十五であったが、「死を以て争い」二兄を止めてひとり自ら父に従ったという。  

 また、京にあったとき、有志を指導して尊王攘夷につとめ、その名声は禁中、官位・身分の高い人々にもよく聞こえていた。そして「賢太夫」と称された。

  文久三年、隠居して鳥取松崎で病気療養をしていたが、廃人同様のすがたであったという。そして朝晩、鳥取の方角に向かい遙拝して、主君池田家に対する忠誠をあらわしていたという。

 しかし、実際はかれは終生狂気をよそおい片田舎に隠居していたのではなかったか。隠居したときの年齢がわずか二十五歳であったことを思い合わせても私はそう考えるのである。

 かれは、明治三十三年(1900)に 亡くなったが、歳は六十二歳であった。そのことから逆算すれば邦之助の生年は、天保九年(1838)ということになる。

  没後明治四十年(1907)、朝廷から旧功を記録し、従四位を贈られた。彼の尊王の志を認めてのことであろう。

 碧川かたが生まれたのは明治二年(1869)とつたえられているが、それはかっての家老和田邦之助信且が隠居して松崎にあったときであり、かたは彼が31歳のときの子である。

 かれの複雑な立場から「かた」は、すぐに堀家に養子に出されたものと思われる。

 

 



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。