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松崎克己 初期エスペラント功労者 ②
私のブログで取りあげている「碧川企救男・かた」については、ブログをご覧頂きたく存じます。
ほとんど知られていないが、鳥取県米子市の生んだ平和を愛した先駆的ジャーナリスト、碧川企救男(みどりかわきくお)の生涯を
安部宙之助『三木露風研究』、
山下清三『文学の虹立つ道』、
碧川企救男『拾有七年』、
堅田精司編『碧川企救男論説集』、
潮地ルミ「時の流れと碧川」、
門奈直樹『民衆ジャーナリズムの歴史』などを参考にして記しています。
碧川澄『ちゝはゝのふるさとを訪ねて』ー碧川 澄の山陰紀行ー
(これについては、私のブログに紹介しています)
エスペラントについては、後藤斉「続・エスペラント言語文化史の試み」を参考にしました。
碧川企救男の平和を求めつづけた、ジャーナリストとしての良心を、米子在住の一人としてぜひ地元の人々の心に感じ取っていただきたいと思います。
(以下今回)
1911年、野々村繁と豊の間に武雄が生まれ、つづいて素子、文子が生まれた。
野々村繁には前妻との間に正雄と幾久子もおり、結局豊は五人の母親になったのである。
野々村繁は、日露戦争(194~5)でその功労により「金鵄(きんし)勲章」をもらったほどであった。「金鵄勲章」は軍人の中でも軍功、戦功抜群の者に与えられるものであった。
野々村繁は、島根県八束郡秋鹿(あいか)の出身で、彼の愛馬は「ヤツカ」と言ったが、これも出身地からとったものであろうか?
彼は「砲兵」で、砲弾を並べていても、彼は手で触わると不良弾を見つけたという。また、数学を得意とし晩年も図書館で数学の本を読んでいたという。
野々村繁は松江中学でかのラフカディオハーン(小泉八雲)に英語を学んだ数少ない一人であった。晩年は『小泉八雲全集』をよく読んでいた。
彼、野々村繁は、出雲出身であるため、出雲弁(ウズモ)でそれが抜けず、訛りが抜けなかった。また彼の風貌も朝鮮人と間違われるほどであった。
のち、大正12年(1923)のいわゆる「関東大震災」において「朝鮮人虐殺事件」がおこった。このとき各地の「自警団」による朝鮮人摘発事件があった。
このとき、野々村繁もあやうく捕まりそうになった。そのとき、たまたま通りかかった昔の部下が「大隊長殿!」と声をかけてくれたので難をまぬがれたという。
また、碧川企救男もこの「関東大震災」のとき、朝鮮人をかくまったということで、警察から問い合わせを受けたことは私のブログで記している通りである。
この豊の嫁した野々村繁の姉の子(ということは野々村繁の甥))に松崎克己がいた。