碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

碧川企救男の欧米見聞記 (48)

2011年06月05日 12時56分45秒 | 碧川

ebatopeko

 

 

      碧川企救男の欧米見聞記 (48)

 

     (???の話 東西比較)

 

  (はじめに)

 鳥取県米子市ゆかりの人物で、日露戦争に対しても敢然と民衆の立場から批判を加えたジャーナリスト碧川企救男は、1919(大正8)年第一次世界大戦の講和条約取材のためパリに赴いた。
 
 中央新聞の記者であった企救男は、社長の吉植庄一郎に同行したのである。彼にとってはじめての外国旅行であった。『中央新聞』に載せた紀行文を紹介したい。
 彼のジャーナリストとしての、ユーモアをまじえた鋭い観察が随所に見られる。

 ジャーナリストの碧川企救男は、取材ののときもつねに着流しであったのでこれという洋服がなかった。洋行する企救男が着るものもなく困っているのを見かねた、義理の息子で詩人として著名になった三木露風(企救男の妻かたの前夫の子)が、洋服を見つくろってくれた。

 三木露風は、企救男の長男道夫と一緒に万世橋の近くの柳原に行って、吊しの洋服を買った。既製服会社の現在の「タカQ」だという。背の低かった企救男にぴったりの洋服であった。

 横浜から「コレア丸」いう船に乗船し、ヨーロッパ目指して出発した。このときの航路は、まず太平洋を横断しアメリカの西海岸サンフランシスコを目指した。この出発のとき、企救男の母みねと妹の豊は、横浜のメリケン波止場で見送ったあと、磯子の若尾山から彼の乗船した「コレア丸」が水平線の彼方に隠れるまで眺めていたという。

 碧川企救男はコレア丸で太平洋を横断しアメリカ西海岸に着いた。そのあと鉄道でアメリカ大陸を横断し、東海岸からさらに大西洋を越えてパリの講和会議を取材した。そのあとイギリスに渡ったのである。

 

      (以下今回)

 碧川企救男の海外生活は二ヶ月半になる。そのうち航海中の日数を差し引くと、陸上にいるのは約一ヶ月半である。その間に外国の都会生活と日本の都会生活を比較して、色々と記してきたが、ただひとつ残っているものがある。

 それこそ碧川企救男に言わせると外国の都会生活を極楽とし、日本の都会生活を地獄とするものであると言う。この一事を挙げると、いかに国粋保存主義者でも、日本が良い国、文明の国、外国に対していささかも恥ずからしぬ国とは言えないであろう、と

 実際この一事を挙げたならば、日本国民はほとんど顔色なしであろう。日本の兵士は強い、日本人は清潔を好む国民である。日本には沢山の学者がいる。日本の児童は敏捷である。日本の婦人は立派である。日本の法律は外国以上のものがある。

 碧川企救男はさらに続ける。もし外国の人からこの一事を言われたら、僕ら日本人はグーの音も出ない事がある。この一事とは何であろうか?

 碧川企救男の一ヶ月半の欧米滞在において、碧川企救男はこの一事を回想するたびに、日本の野蛮国なることを痛切に思うのである。

 せめて東京市(引用者注:当時は東京は市制であった)だけでも、この一事を立派にしてくれたらどうであろうと、碧川企救男は思うのである。

 パリ平和会議(引用者注:第一次世界大戦の講和会議)に、五大強国の一つとして世界に権威を誇っている日本国民、しかも首府の東京においてさえ、この一事が行われていないというのは、実に恥ずかしい次第である。その謎の一事とは何か?

 この一事とは即ち日本の便所である。碧川企救男は話が汚いので、余り多くを言いたくないがといいながら、彼が今まで滞在してきたアメリカでも、フランスでも英国でも、この一事だけは実によく出来ていると言う。

 そして碧川企救男は言う。「僕らの国の日本は、この一事だけが最も悪く出来ている。この一事を考えると、実に恥ずかしくて外国人に対して挨拶のしようがなくなる」と。

 ということは、大正時代の半ばでも、東京ではトイレ事情は極めてひどかったということを示している。

 大正デモクラシーの旗手である吉野作造は、「東京には公衆便所といったものは全くない」と、語っている。
 

 また、江戸浅草に明治33年(1900)に生まれた、永六輔の父親中順は、「明治末期には東京でも、往来で立ち小便をしている女はいくらでもいた」と記している。また、大正に入っても「だんだん減ってはいるが、こういう現象はいくらでも見られた」とも記している。

 ということは、大正時代も東京で、男女とも立ち小便をところ構わず、自由にやっていた、ということを示している。

 それが、町中にニオイをまき散らしていたのであろう。東京に住む碧川企救男が嘆くのも無理はない。

 

 パリ人は、むやみやたらとビールだの葡萄酒だのを飲む市民である。しかれば、サンゼリセーでも、シアターの大通りでも「辻便所」が沢山にある。大通りにある。それは裾の方を鉄板でちょっと囲んで、上は広告塔になっている。

 しかもこの「辻便所」たるや、始終清水で洗い清められているから、いささかも臭気を漏らすような事はない。パリは最も進歩したる大下水を有する都である。

 碧川企救男は、18世紀のヴェルサイユ宮殿のことをご存じなかったようであるが・・・。

 倫敦にも大道の真ん中に「辻便所」が出来ている。倫敦のは多くは地下である。階段を下りて行くと、そこに便所がある。

 清水が上から流れているものもあれば、また番人が一定の時間をおいて、ジャージャーと清水を流して不潔を洗い去るようにしているのもある。そしてこれらの汚物は、下水を通じて海に流されてしまうのである。

 ところが日本のはどうであろうか?と碧川企救男は嘆息する。思えばこれは「辻便所」だけではない。どんな棟割り長屋でも「惣雪隠」などいうものはない。不潔物は一々水で流されるようになっている。

 碧川企救男は言う。この汚い問題について多くを語りたくない。されど記憶せよ、日本は、・・東京だけでも・・この便所の改良をしない限りは、どんなことをあっても世界に向かって、何物をも誇ることの出来ないことを。

 碧川企救男はさらに次のように言う。、ここに謹んで東京市会議員諸君の健康を祈る。そして賢明なる市会議員諸君がいつになったら眼が覚めるであろうかを見たいと思う、と。

 今のようでは恐らく彼の生涯の間には見られぬかも知れないが・・・・と。

 ここには、1919年における欧米諸国の公衆便所の状況と、日本のそれとの対比が極めてリアルに記されている。

 今や日本では、公衆便所の密度と普及率は世界でもトップと言われており、大正時代とは全く様相を異にしている。それは日本の文明化、日本人の清潔好きや、かの有名な二大トイレ製造および販売業者の発展に拠るところが大きいのかも知れない。

 また、日本が世界でも有数の降水量をもつ国であることも、その洗浄化に寄与していると考えられる。

 今の日本のトイレ事情を見たら、碧川企救男はどんな感想を持つであろうか?



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