碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

『拾有七年』を読む  (27)

2010年11月12日 11時05分53秒 | 『拾有七年』を読む

  ebatopeko

 
 

             『拾有七年』を読む  (27)

 

  (「養生館」と妻「碧川かた」の乳母との出会い) 


  (前回まで)

 『拾有七年』は、米子の生んだジャーナリスト碧川企救男の紀行文である。庶民の立場をつらぬいた彼は、日露戦争時においても、民衆の立場からその問題性を鋭くつき、新聞紙上で反戦を主張した。

 碧川企救男は、鳥取中学(現鳥取西高等学校)を出て、東京専門学校(現早稲田大学)に進学するため郷里を出た。それから17年ぶりの明治四十五年(1912)、郷里鳥取の土を踏んだ。その紀行文である。

 明治四十五年(1912)、完成したばかりの「山陰本線」に乗り、兵庫から鳥取に入り、昔碧川企救男が鳥取中学(現鳥取西高校)にいたときの記憶を呼び覚ましていった。当時の旧友のあれこれとの交流、思い出に碧川企救男は十七年ぶりの感慨にふけっていた。

 また碧川碧川企救男は、妻の父の墓にもこの機会に詣でた。妻かたの父は幕末維新の時代、鳥取藩の家老であった和田邦之助信且であった。没後従五位を贈られ、のち明治41年(1908)には従四位を追贈された。

 幕末期、松田道之は京都において、和田邦之助は鳥取にあって東西呼応して鳥取藩を佐幕派から勤王派に転じさせたのである。徳川家ともっとも関係の深い因幡藩を勤王へと導いた鳥取の中心人物の一人であった。

  鳥取中学で上級生の室長(四年生)らは、毎朝の掃除を一・二年生がすることを決議しようとした。それを知った碧川企救男ら下級生は、ここに階級闘争の幕を開けた。幸いに二年生は寄宿舎全生徒の過半数であった。

  碧川企救男が旧制鳥取中学に在学していたころは、夏・冬の休みには自宅に帰省した。企救男の家は米子であったので、鳥取から米子まで歩いて帰った。その二日半の道のりを思い出すのであった。

 とくに冬の雪の時は、腰くらいまである雪をかき分けながら帰ったのであった。それにひきかえ、現在(明治45年)山陰線が通るようになってたった二時間半で米子に帰り着くという便利さを実感するのであった。その道筋を思い起こす旅であった。

 碧川企救男は二十年前の悪戯を思い出した。それは中学一年(明治二十四年のころ)のときであった。大きな試験を終え、帰省の途中であった。朝早く鳥取を発って、湖山池に来たのは七時ころであった。

 湖山池を出てトンネルと越え、「水尻の池」という小さな池に来た。」。一緒だったのは、悪友五人連れであった。この池の手前に来ると道の傍らに一匹の土竜(もぐら)を発見した。

 なにしろ腕白盛りの碧川企救男らである。すぐに引っ捕らえて処分の方法を協議した結果、誰かの発案で水尻の池まで持っていき、池の真ん中でこれを水の中に放り込むことに決した。

 哀れなる土竜は、たちまち糸でくくられて渡し船に持ち込まれ、ついに湖に放された。土の中を潜ることしか知らぬ小さな動物は、小さな波紋を描いて藻掻き藻掻がいてやがて池の底に沈んだ。碧川企救男ら腕白仲間は、手を叩いて喝采した。 

 しかしこの悪戯は、たちまち天罰を受けることになった。三時間後、晴れていた天候はにわかに暴風雨となり、傘を折られ荷物を濡らされた彼らは、青谷というところで、昼飯を食べたまま半日を空しくて、挙げ句の果ては、ここに泊まることを余儀なくされた。

  寄宿舎の厳格な生活から出て、いわゆる籠の鳥が故山の古巣に帰る時に羽を休める処は、すなわち温泉宿であった。宿は「たばこや」という旅館で、親切な愛想のよいお婆さんがいた。

 彼らは到着すると先ず温泉である。湯から上がると、一団が着いたことを耳にした村の菓子屋が、菓子箱を持って小さな旦那衆の懐を絞りに来た。ソレ饅頭、ソレ菓子とたちまちのうちに一箱は空になってしまう。

 そのうち、下女が晩飯を持ってくると、今まで蟻の如く甘きについた一団は、すぐ車座になり、二三人の下女を中心にして、茶碗を握った腕があっちからもこっちからも出てくる。

   また碧川企救男は三徳山に行ったときのことを思い出した。暑中休暇に帰省するときのことであった。碧川企救男と小山は、特に一行と別れて野宿しても構わぬから、三徳山に回ろうと鹿野に入り、この幸盛寺の前から三徳の山越えをした。

 三徳山の宿に着いたのは、夜の七時頃であった。 真夜中、突然どうした拍子か蚊帳の二方の吊り手がバタリと切れて、麻の冷たい蚊帳が二人の上に落ちた。 それでも我慢をして、午前一時というのに三徳山の恐ろしい宿を出発した。皓々たる月が山路を照らし、ススキの葉陰には金剛石のような露が光っていたのを今でも憶えている。

  青谷で記憶しているのは、この村の竹輪のうまいことである。現在も青谷では竹輪が名産である。その竹輪は「アゴ竹輪」という。アゴとは「トビウオ」のことで、鳥取ではトビウオのことを「アゴ」という。

  青谷は漁村であるが、鳥取県にとって誇りとすべき村であると碧川企救男はいう。それは日本人の手になる日本最古の英字新聞「ジャパンタイムズ」は、実にこの青谷から出た人々が最初から経営しているからである。

 明治三十年(1897)三月二十二日、日本人の手による現在の「ジャパンタイムズ」が創刊された。その中心人物が日野町出身の頭本元貞であり、また青谷の武信由太郎であった。さらに初代社長として経営を指揮したのは、彼ら二人の先生にあたる同じく青谷出身の山田季治であった。 

 実に青谷出身の人たちが日本最古の英字新聞「ジャパンタイムズ」の創刊、経営の最大の功労者であったことを忘れてはならないと碧川企救男は力説する。              


   (以下今回)

 碧川企救男は、さらに西に向かう。泊の停車場を離れると、やがて車窓の北に淡水湖が現れる。東郷池である。この湖水を隔てて山陰第一の秀峰大山がその後ろ姿を見せている。その大山の下のこんもりとした山は、その昔名和長年が後醍醐天皇を奉じて北条氏の軍と戦った「船上山(せんじょうさん)」である。

 湖は東西二十町、南北二十五町、橋津の港に口を開いて、付近は緑の山。松の丘は連なっている。松崎駅というのが今から碧川企救男が向かう「養生館」へ行くために降りる処で、駅に降りると直ぐ前に湖水の中に浮かんだ「養生館」が見える。彼はここに泊まって我が国の美しきを誇りたいと思った。

 碧川企救男らが中学生であったころ、米子・鳥取間を往復するに、この「養生館」は少し回り道になるので余り寄らなかった。それでも度々贅沢をしてこの宿によったものであった。

 東伯の誇りはこの「養生館」があることである。いや山陰線が開通してから最も利益を得ているのは、城崎温泉とこの養生館であろうと碧川企救男は思った。

 城崎温泉は但馬の一隅にあって、ずいぶんと古くから知られていることは、大石良雄の父が、この温泉宿で大石良雄の父が良雄の実父と養子の約束をしたというのでもわかるという。しかし大石良雄の養子説にはいろいろと意見がある。良雄の父は良昭であるが実父が早世したので、良雄は祖父の良欽の養子になったという。

 ともかく城崎温泉は療養所であって、一夜泊まりの旅客には適さないが、その点「養生館」は、一夜泊まりの旅客に大変喜ばれている。

 この養生館も、碧川企救男らが泊まったころから数えておよそ20年を経て、随分変わった。昔はほとんど池の中の一軒家で、浴槽(この温泉は池の水の中から湧くため、とくにその傍の水を埋めて家とした)は波の上に浮いていた。

 ところが、その規模と建物が大きくなるに従い、今まで浮き城であった家の周囲は次第に埋まって、今は半島のような形になった。そして「養生館」には、毎夜百余名の旅客が集まり、温泉を賞し池のウナギを賞美した。

 館では、自家用の発電所まで作って大いに客を迎えている。碧川企救男がこの日泊まった夜も、百四十名ばかり客があった。おそらく、主人に碧川企救男の名前を告げなかったならば、彼は満員をもって拒絶されるところであった。

 碧川企救男が名前を告げると、取り次ぎの下女は幾度も頷いて「左様で御座いますか。松崎からお婆さんが来て待って居られます」と、繰り返し奥の一間に通された。

 碧川企救男を待っていたのは、彼の妻「碧川かた」の乳母であった。「碧川かた」については別稿の「鳥取の生んだ女性解放の先駆者 碧川かた」に詳しく述べているので参照されたい。

 そこで述べているように、碧川企救男の妻「碧川かた」は、鳥取池田藩の家老和田邦之助信且の二女として母「みね」との間に、明治二年(1869)に生まれた。→ 但しその出生については、明治三年説、明治五年説もある。

 さて、この日碧川企救男がこの「養生館」に着くというので、乳母は朝からこの宿に来て遠来の珍客を待ち受けていたのであった。しかしこの乳母と碧川企救男とは一面識もない。

 乳母の希望は、その乳を飲ませた妻の連れ合いに会えば、妻すなわち碧川かたの消息が聞くことが出来ると思っていたのである。

  ここで碧川企救男の妻「碧川かた」の出生の地について、一般に鳥取藩のある鳥取であると考えられているが、実はこの乳母のいた松崎であった。

 そのことについては、別稿の『鳥取藩 幕末 因幡二十士事件』の⑥の「和田邦之助信且」の項に詳しく記しているので参照されたい。家老であった邦之助は「かた」の生まれた明治二年(1869)には隠居して彼の領地である松崎に在ったのである。

 

 碧川企救男が部屋に案内されるのを待てないかのように、弓のように腰を曲げて部屋に入ると「私はこれでこの世に思い残すことは御座りませぬ。もう死んでもよろしゅう御座います」と言って泣いた。

 碧川企救男は晩餐をしている間も、乳母は妻「かた」の幼時を語り、自分の過ぎ越し方を回顧して、さまざめと泣いたり笑ったりしていた。碧川企救男はこの乳母のさまを見て、如何にも生みの親より養い親というものの愛情を感じざるを得なかった。

 彼女は今年七十歳と称している。その長い奮闘の歴史を回想して、妻に乳を飲ませていた往時を、今眼前に読み返している。そのページには特に赤や青で注意の線が引いてあるのであろうと、碧川企救男は思った。

 最後に乳母はこう言った。「私は毎日神様に、奥様や子供衆が丈夫であるよう、祈って居りましたが、ただ旦那様はまだお目にかかったことがありませんでしたので祈りませんでしたが、明日からは旦那様のことも祈りますんで御座います」と繰り返した。

 碧川企救男はこう思った。「僕の身について、祈ってくれる人がこれで漸く三人になった。二人は今も在す父母、しかし今一人はここに新たに加わった妻の昔の乳母!」と。



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