碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

米子生まれの名優 乙羽信子 (76)

2017年02月25日 14時37分11秒 | 乙羽信子

ebatopeko


 

          米子生まれの名優 乙羽信子 (76)

 
               (演技派づいた新米女優)


 

    (はじめに)

 新藤兼人監督は2012年(平成24)5月29日、満100歳で亡くなられた。ご冥福をお祈り致します。今はあちらで、久しぶりに妻の乙羽信子と映画談義をしておられる事と思います。 

 映画俳優「乙羽信子」は、あまり知られていないが鳥取県米子生まれである。乙羽信子は言わずと知れた昭和の名優で、映画監督新藤兼人の妻であった。

 彼女の生涯を、『どろんこ半生記』(「人間の記録38、日本図書センター」、江森陽弘氏による聞き書き。底本は、『どろんこ半生記』昭和56年、朝日新聞社)にたどってみる。

 興味のある方は、ぜひお求めいただいてお読み下さい。

 新藤兼人『愛妻記』(岩波書店、1995.12)、新藤兼人『ながい二人の道』(東京新聞出版局、1996.8)も参考にした。


 

    (前回まで)

     新藤は「愛妻物語」に続き、「原爆の子」を企画して大映に提出した。大映は製作するにあたって内容を検討したところ、この映画の社会性とか内容の深刻さが問題になって、拒否してきた。

 永田雅一社長は渡米中だし、米国のご機嫌を損じてはいけないと思ったのだろう。とにかく、大映の意向にそわないのだ。「原爆の子」の主演は乙羽信子で、「愛妻物語」のコンビ・宇野重吉さんも出演してくれた。

 映画の社会性や思想性もそうだが、乙羽信子を「汚れ役」にすることも大映の中で問題になったらしい。人妻役ですら、やっと許可されたのだ。「百万ドルのエクボ」に、これ以上アカをつけてはいけない、ということである。

 「原爆の子」は、原爆が投下された広島が舞台。家族の中でただ一人生き残った女教師が、何年かたって広島を訪れ、教え子たちを訪ねて歩くというドラマだ。その女教師役をぜひ彼女にと新藤はいった。

 ドキュメンタリーにまとめた反戦映画で、乙羽信子を狂言まわしみたいに各所を巡歴させ、子どもたちの消息を追求していくという脚本の構成だった。

 そのころ、徳田秋声
(注:彼は尾崎紅葉の門下で、泉鏡花・小栗風葉・柳川春葉とともに、「紅門四天王」と呼ばれた。生田長江は1911年「新潮」において彼を自然主義文学の頂点と評した。その作品には「足迹(そくせき)」、「黴(かび)」、「爛(ただれ)」などがある)

の「縮図」も新藤がシナリオ化したそうだが、「徳田秋声」と聞いただけで大映はソッポを向いた。大映という企業の「壁」は堅牢きわまるものであった。

 結局、昭和二十五年三月に新藤らが結成した近代映画協会の自主製作ということになり、劇団民芸の力を借りることになった。

 問題は乙羽信子の出演である。大映専属の彼女の立場では、他社出演は不可能に近かった。乙羽信子は再び松山英夫重役に掛け合った。

 大映の「壁」の厚さをわきまえてはいたが、性懲りもなく、「企業の判断」にぶつかっていった。

 答えは決まっていたが、「原爆の子」の女教師役はあきらめきれない。「愛妻物語」のとき以上のしつこさでくいさがった。


 

  (以下今回)

 「エクボのファンが泣きますよ、こんな汚れ役をやっては」
 大映の幹部たちが口々にいうのだが、「エクボのファン」に怒られても、「百万ドルのエクボ」が「一円五十銭のエクボ」に値下がりしても、「原爆の子」に出演したい。乙羽信子は新藤のところへ相談に行った。
 
 何日かたって大映がひとつの条件を出してきた。「原爆の子」に出演してもいいが、これに出たあと、会社の企画はなんでもやってほしい、というのだ。彼女は承諾した。

 大映おすすめの「初恋やっとん節」という娯楽映画には、いろいろの理由をつけて出演しなかったが、あの種の映画が、また回ってくるに違いない。そのときはそのときで、再び拒否し続けてやろう。

 まだ新米のくせに、ああでもない、こうでもないと屁理屈ばかりつけていると、いまに放っぽり出されるかもしれない。先輩のある女優には「乙羽ちゃん、演技派づいちゃったわねえ」と皮肉をいわれた。

 しかし、映画女優というのは自分で脱皮し、生きる道を切り開いていかないと、思うように映画会社の型にはめられてしまう。新藤も同じ意見で、私に「協力してほしい」といった。

 新藤もイチかバチかの勝負なのだ。「原爆の子」は製作費が少ないので、近代映協と民芸が半分ずつ金を出し合った。近代映協は製作スタッフを、民芸は俳優を受け持った。スタッフには東宝争議で退職していった人たちが加わった。

 二十七年(注:昭和である。西暦では(1952)になる)五月、スタッフは広島へ向かった。
 広島へのロケは長期間だったので、なるべく製作費を安くしたかった。乙羽信子らは安い旅館を探した。三食つき一泊五百円の宿を二軒みつけ、六畳の間に三人も四人も寝た。

 自動車は使わず、スタッフは自転車で市内を走り回った。広島の街には原爆の爪痕(つめあと)が残っていた。

 

 



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