碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

『ちゝはゝのふるさとを訪ねて』 ⑳

2013年07月10日 15時11分57秒 | 『ちゝはゝのふるさとを訪ねて』

 

ebatopeko




      『ちゝはゝのふるさとを訪ねて』 ⑳

          ー碧川 澄の山陰紀行ー 

 

 (はじめに)

 碧川 澄は、「碧川企救男・かた」の長女として明治38年(1905)に生まれた。ただ、碧川企救男の兄である長男碧川熊雄・なをの夫妻には子どもがなかったので、碧川 澄は生後80日で長男の熊雄の養女となった。

 そのため彼女が父と言っているのは碧川熊雄のことであり、母と言っているのは「なをの」のことである。

 碧川 澄は名前からわかるように、碧川熊雄・企救男の父である碧川真澄の名前からとったものである。養父母となった碧川熊雄・なをの夫妻は、澄をこよなく愛し可愛がった。澄もよくなつき、ながらく養女であることを知らなかった。

 『ちちははのふるさとを訪ねて』は、碧川 澄が父である碧川熊雄・実父企救男の故郷山陰であり、母である碧川なをの・実母かたの故郷でもある山陰をはじめて(実際は3歳くらいのときに米子に行ったらしい)旅した紀行文である。そこには昭和30年代の出雲、松江や米子の様子が活写されており、実に貴重なものである。 
 
 なお碧川 澄は戦前に立教女学校を出て、東京中央郵便局の外国郵便課につとめていた。澄はエスペラントに堪能であったため、それを生かしたのであった。しかし、昭和16年(1931)結核に罹り、昭和18年5月手術によって奇跡的に回復した。

 結核から回復して片肺となった碧川 澄であったが戦後、自らの経験を生かし結核を病んでいる方々のための奉仕活動に、日夜没頭するのであった。戦後まもなく結核は食糧不足の日本での国民病といわれ、その患者は200万人とも300万人とも言われた。 

 ごく少数は入院出来たが多くは自宅療養であり、その方々の回復のために活動したのであった。彼女の行動に対して昭和23年、千葉県は結核予防事業功労者として表彰するにいたった。

 また「保健同人社」に入り、ここでも療養者を慰める活動を展開し、昭和27年(1952)からは「ラジオ東京」から毎週一回、「療養手帖」を碧川 澄の企画で放送した。彼女は「療養のママさん」として全国の療友に呼びかけ、全国の寮友はひたすら枕元のラジオに耳を傾け、その声に慰められたたのであった。テレビのない時代の療養者の星であった。

 また、「保健同人社」は昭和30年(1955)、長島愛生園のハンセン病患者「玉木愛子」の自伝『この命ある限り』の出版をにおこなった。その編集に携わったのが碧川 澄で、一週間にわたって岡山の愛生園に泊まり込み、玉木愛子と交流し出版にこぎつけたのであった。

 この碧川 澄の療養者に対して心を尽くす姿勢は、碧川企救男・かたの娘で、澄の末妹にあたる碧川 清の姿勢に共通するものがある。(注:碧川清については、私のブログの別稿、「碧川 清」のことー生涯を看護にーにおいて詳しく述べている。参照いただきたい)

 この碧川 清は、碧川 澄がこの『ちちははのふるさとを訪ねて』を記した昭和36年(1961)には、日本初の「重症心身障害児施設 島田療育園」の総婦長として迎えられている。

 このように碧川 澄は常にまわりの人々、とくに病める人や弱い立場にある人のために、自らの最大限のサポートを捧げたのであった。何よりその人たちが少しでもやすらげる事が彼女の願いであった。

 今回この『ちちははのふるさとを訪ねて』を紹介することにあたり、碧川熊雄・企救男および碧川なをの・かたの孫であり、碧川 澄の子にあたる潮地ルミ様、碧川葆・浩子様ご夫妻のご支援をいただきましたことに厚く御礼申し上げます。  

 この紀行文は昭和36年(1961)7月19日から出雲市で開かれた「婦人民生児童委員代表者研究協議会」に埼玉県代表として出席した碧川 澄の記した謄写版(ガリ版)の鉄筆で書かれた記録である。その生の息吹を伝えるために原文のまま記したい。


 

  (米子の夜)その3   最後の天神祭

 

  (以下今回)

 また、日清、日露、そしてこの間の戦争といい、この宮にも武運長久ののぼりが立ちならび、朝から詣る人もあったのだろうになど思ううち、叔父は、この25日のお祭りを最後にこの天神様は加茂神社に合祀され、この土地はどこかに売られると私にささやいた。

 なんとさびしい話であろう。それにしても私はよいところに来合わせたようだった。前を流れる川は天神川、町の名も天神町。そしていまに“昔はここに天神様があったものだ”と語られるようになるかもしれない。あさっては その最後ののまつりだという。

 “お前のお母さん(注:母なをの)も、まつりには、いい着物を着てここに来たものだ”と、叔父はまたしてもそんな宵宮の夜は店がいっぱいに立ちならび、こどもたちがきそってその前に立つ話しなどをしてくれた。

 叔父は明日は朝から方々につれていってやるといって、私に今夜はゆっくり休むようにすすめてくれた。知恵(注:智恵?)さんにおくられて、まだ陽のある町を宿に帰ったのだが、京橋でみる大山は美しいと聞いていたが、今日はそのかげも見えないで、せっかく米子に来たのにとさびしく思う。

 帰った宿の部屋はまた御難である。上の三階の広間の宴会がたけなわらしく、唄うおどるのにぎやかさが天井からぢかにひびいてきて、バタンバタンと男のおどりが頭の上でされてはがまんもならず、また部屋がえをたのんで、やっとおちついて米子の一夜をすごせたのがこの部屋である。

 私はたのしみにして向かった夕食の膳に、やはり両親や祖父母たちのたべたであろう魚や野菜をもとめたが(気もちの中で)しかし、型のようなおさしみとおすましと焼きもの、洋食めいた一皿には、そんな味のある筈もなく、むしろ香の物の中に新鮮な米子附近の土の匂いや色、そして塩押しのさっぱりした舌ざわりがここでも私の旅疲れをいやしてくれた。

 夕食後、私は町に出てみた。夏の間、ここで土曜の晩は土曜市というのが立って賑やかだと聞いていたので、宿のある明治町から人の流れに身をまかせて、万能町から道笑町の商店街に入っていった。

 まだ地図も案内書も買っていないので、人波の中でまず書店を探しはじめたがなかなか見あたらない。一体何という町を歩いているのだろうと、そばの人に聞いたら道笑町である。

 何度もきいたことのある町の名である。昔からここは商家が多かったが、今も婦人服地、電気器具、家具等の店々が、まったく近代的な飾りつけで人々の足をとめている。

 私はときどき目をあげてはこうした近代的な店をもつ建物全体をながめて、ためいきに似た思いをした。

 それはこの道笑町だけではなく、そこにつづく法勝寺町(?)もおなじであるが、この商店街はビニールの屋根をもつアーケードになっていて、家によってはその建物の上部がまるでビニール板で2分された家さえもあったのである。



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