碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (24)

2014年08月01日 11時43分20秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

          ebatopeko
  

 

       長谷川テル・長谷川暁子の道 (24)

 

  (長谷川テル その22) ー全世界のエスペランチストへー ⑨

 

  (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「清」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

    実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルを知っていたと思われる。

 長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

 日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と長谷川テルは結婚するにいたったのであった。

 長谷川暁子の母長谷川テルについて記す。

 長谷川暁子の著作『二つの祖国の狭間に生きる』、『長谷川テルー日中戦争下で反戦放送をした日本女性ー』、家永三郎編『日本平和論大系17』長谷川テル作品集、中村浩平「平和の鳩 ヴェルダマーヨ ー反戦に生涯を捧げたエスペランチスト長谷川テルー」を中心として記す。


 

  (以下今回)

 前回の私のブログに対して、7月30日にgothit氏からコメントがあり、戦前の女性エスペランティストの会として、「クララ会」があったこと。

 そして1934年12月から翌1935年2月ごろの会合には、長谷川テルも碧川(注:澄であろうか?)も積極的に参加していたらしいこと。長谷川宅で「クララ会」が開かれたとの記録もあること、等を御教示頂いた。

 私も「クララ会」の存在は存じていたが、その具体的なことについてはわからない事が多く、知りたいことばかりである。

 なにはともあれ、戦前の戦争への道をたどりつつあった日本において、平和を旗印とする「エスペラント運動」が脈々と市井の人たちによって営まれていたことを、もっと多くの現在の日本国民に知って頂きたいと思うのである。

 

 

   <長谷川テルのつづき>

 

  香港の五月

 とりわけ「保証された平和」のおかげで、それは華やいでいる。
 去年の五月、私はこの町にいた。
 しかしながら、どんなに青ざめてくらしていたことだろうかー追放されていたのだから。 愛する中国は、私をその胸に受け容れてはくれず、また帰るべき祖国もなかった。

 ことし、私は戦う中国の中心地にいる。
 生まれて初めて、赤い五月どんなに美しくどんなにすてきなものであるかを知り、自ら見たのだ。ーああ、私、ベルダ・マーヨ(みどりの五月)が!

「五月の花」は最初、この広大な「侵略行進曲」の序曲がかなでられた満州に育った。  それから、この花はもう九回も咲いた。年ごとに、ますます数多く、遠い東北からこの西南へと!
 今月、この花は重慶に赤く開いているが、それは兵士の屍の上にだけ咲いているのではない。

 そして、次の五月には?
 おお、だれが何を恐れるのか?
 必要とあらばー
 どのようにでもいい、全重慶が赤く染まるがいい。
 全中国が、くる年もくる年も真赤に染まるがいいのだ。

 やがて、そのときがきっと来る。
 緑の大陸のいたるところで、
 五月の花が、いまと違った新鮮さをもってほほえむときが。
 花は血潮をむだに吸っているのではない。



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