碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

『ちゝはゝのふるさとを訪ねて』 (24)

2013年07月24日 14時43分57秒 | 『ちゝはゝのふるさとを訪ねて』

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     『ちゝはゝのふるさとを訪ねて』 (24)

         ー碧川 澄の山陰紀行ー 

 

 (はじめに)

 碧川 澄は、「碧川企救男・かた」の長女として明治38年(1905)に生まれた。ただ、碧川企救男の兄である長男碧川熊雄・なをの夫妻には子どもがなかったので、碧川 澄は生後80日で長男の熊雄の養女となった。

 そのため彼女が父と言っているのは碧川熊雄のことであり、母と言っているのは「なをの」のことである。

 碧川 澄は名前からわかるように、碧川熊雄・企救男の父である碧川真澄の名前からとったものである。養父母となった碧川熊雄・なをの夫妻は、澄をこよなく愛し可愛がった。澄もよくなつき、ながらく養女であることを知らなかった。

 『ちちははのふるさとを訪ねて』は、碧川 澄が父である碧川熊雄・実父企救男の故郷山陰であり、母である碧川なをの・実母かたの故郷でもある山陰をはじめて(実際は3歳くらいのときに米子に行ったらしい)旅した紀行文である。そこには昭和30年代の出雲、松江や米子の様子が活写されており、実に貴重なものである。 
 
 なお碧川 澄は戦前に立教女学校を出て、東京中央郵便局の外国郵便課につとめていた。澄はエスペラントに堪能であったため、それを生かしたのであった。しかし、昭和16年(1931)結核に罹り、昭和18年5月手術によって奇跡的に回復した。

 結核から回復して片肺となった碧川 澄であったが戦後、自らの経験を生かし結核を病んでいる方々のための奉仕活動に、日夜没頭するのであった。戦後まもなく結核は食糧不足の日本での国民病といわれ、その患者は200万人とも300万人とも言われた。 

 ごく少数は入院出来たが多くは自宅療養であり、その方々の回復のために活動したのであった。彼女の行動に対して昭和23年、千葉県は結核予防事業功労者として表彰するにいたった。

 また「保健同人社」に入り、ここでも療養者を慰める活動を展開し、昭和27年(1952)からは「ラジオ東京」から毎週一回、「療養手帖」を碧川 澄の企画で放送した。彼女は「療養のママさん」として全国の療友に呼びかけ、全国の寮友はひたすら枕元のラジオに耳を傾け、その声に慰められたたのであった。テレビのない時代の療養者の星であった。

 また、「保健同人社」は昭和30年(1955)、長島愛生園のハンセン病患者「玉木愛子」の自伝『この命ある限り』の出版をにおこなった。その編集に携わったのが碧川 澄で、一週間にわたって岡山の愛生園に泊まり込み、玉木愛子と交流し出版にこぎつけたのであった。

 この碧川 澄の療養者に対して心を尽くす姿勢は、碧川企救男・かたの娘で、澄の末妹にあたる碧川 清の姿勢に共通するものがある。(注:碧川清については、私のブログの別稿、「碧川 清」のことー生涯を看護にーにおいて詳しく述べている。参照いただきたい)

 この碧川 清は、碧川 澄がこの『ちちははのふるさとを訪ねて』を記した昭和36年(1961)には、日本初の「重症心身障害児施設 島田療育園」の総婦長として迎えられている。

 このように碧川 澄は常にまわりの人々、とくに病める人や弱い立場にある人のために、自らの最大限のサポートを捧げたのであった。何よりその人たちが少しでもやすらげる事が彼女の願いであった。

 今回この『ちちははのふるさとを訪ねて』を紹介することにあたり、碧川熊雄・企救男および碧川なをの・かたの孫であり、碧川 澄の子にあたる潮地ルミ様、碧川葆・浩子様ご夫妻のご支援をいただきましたことに厚く御礼申し上げます。  

 この紀行文は昭和36年(1961)7月19日から出雲市で開かれた「婦人民生児童委員代表者研究協議会」に埼玉県代表として出席した碧川 澄の記した謄写版(ガリ版)の鉄筆で書かれた記録である。その生の息吹を伝えるために、出来るだけ原文を忠実に再現したいと思う。


 

 (明治は遠くなりにけり)  その3 

     中村徳吉叔父の思い出、西村・碧川家子供の遊学

 

  (以下今回)

 私の記憶はそのころからはじまる。もちろん私はまだ学校にいっていない。おぶわれたか、抱かれたかその記憶はないが、電車通りの菓子屋でチョコレートの小箱をよく買ってもらったことは忘れられない。

 当時はキャラメルもまだなかったころなのに、どうしてあんな小さなパンやにチョコレートがあったか不思議だが、おそらくそれは舶来のものではなかったろうか。マッチ箱をひとまわり大きくしたような青い箱には、西洋風の景色の水彩画のカードがはってあった。

 味はミルクチョコレートのような甘さややわらかさはなく、苦味のつよいものだったが、そのころよくあった白と赤の風船に似た“みかん玉”とともに私の大好物だった。

 そのころの中村の叔父は医科の大学生(注:東京帝大)で、私の身体を診察することもあったように覚えている。医者としての尊敬と信頼をもちはじめたのもそのころからだったらしい。

 後に私に藤村詩集をくれたり、ハイネ詩集をクリスマスにおくってくれたのもこの叔父であった。

 内町の西村の家を見てから、その通りをまっすぐ行って西村の古い家を見に行った。この家は今は酒屋にでもなっているのか家の前にはゴタゴタと何かおいてあった。

 町全体としても小汚く、やはり古い家々がひしめきあっているようなところである。裏には倉があるというので少し離れ見たが、あんまりはっきりしない。

 叔父(注:黒見の叔父万)にパラソルを持ってもらって、写真をとってみたらひどくこっけいなものになって叔父にすまない。

 この家にはこの家での思い出やかなしみを持っていたであろう。
“立町の家を売って小さい内町の家に引き移った”ということは、おそらく西村家の歴史の中での一大革命であったにちがいない。

 がんこで通っていた祖父(注:西村佐司衛)、やさしい祖母(注:西村みつ)が、こんな小さい町でどんな決心でこれを実行したことか。くらしが左前になったためとは考えられないし、考えたくもない。その説明を私は誰からも聞いていないし、ほんとうのことを知っている人も今はいない。

 ただ、やはり考えられることは、叔父たち(注:西村卯と徳吉)の遊学とその下の正次叔父(注:西村家の卯、徳吉、万の兄弟のさらに下の弟の正次である。残念ながら彼のことはよくわからない)の将来の遊学のためも考えていたのでもあろう。

 また一つには、一番最初に手離した母(注:長女なをの)の岡山県高梁の順正女学校(注:母ははじめ同志社に入ったが、のち順正女学校に変わった)への遊学のための学資も必要だったかもしれない。ずっと以前、葉茶屋だったと聞いたが収入は何によったのだろう。

 黒見の大叔父に信玄袋を背負わせて母につき添わせ、中国山脈を越え九十九折とかいう峠を通ってはるばる岡山に出さしたというから、学資も当時としては莫大なものであったろう。

 それはそれとして、こうした子供の勉学に対する一大決心については今でも驚異的に感じるのだが、その決心にいたらしめたものがやはり明治20年ごろから山陰の米子に流れこんだキリスト教の影響を西村でも、碧川でも受けて、西村では母から祖父たちに、

(注:西村佐司衛は碧川真澄の次いでに米子で二番目に受洗している。それゆえ「母から祖父に」は何かの間違いでは?)、碧川では祖父(注:碧川真澄)から伯母(注:澄の父熊雄の妹の豊のこと。それゆえ伯母でなく叔母の間違い?)たちにつたわり、

 同じころ、碧川では伯母(注:叔母?)が14才で米子からはるばる東京築地の立教女学校に入学している。

 つづいて私はこの旅行で一番訪ねたかった天神町の碧川の旧い家のあたりに向かった。途中、寺町の西村の家の寺にゆき、墓参をすました。



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