なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

給食とグレンミラー

2005-04-20 17:33:31 | 昭和
上の写真は昭和30年の戸畑小の給食風景です。木製の机とイスに仲良く並んで皆で給食を食べています。ただ、この写真には一つだけ間違いがあります、それは、教室の中はこの写真のように暗くはなかったと言う事です。今夜は底抜けに明るくにぎやかだった昭和30年初めの僕達の給食時間にご案内します。
 勉強嫌いな僕が学校に行く目的は二つあった、友達と遊べる事と給食がある事だけだった。当時僕達の食料事情はかなり悪かった、食品は僕達の歩いて行ける範囲内でしか調達できなかった、魚は下関から売りに来る行商のおばちゃんから、豆腐は近くの同級生のH君から、野菜や調味料は駅前の市場に母は毎日のように買い物に行っていた、食品を保存する冷蔵庫などまだない時代だった。我が家の朝食はご飯に漬物、そして豆腐とか菜っ葉の入った味噌汁が年中無休で提供された。夜はそれに煮魚や根菜類の煮物が少々付くくらいだった。しかし、小学校に入学してからは違う、毎日違う給食のメニューは僕達の期待を裏切らなかった。大きなパンと牛乳、それについてくる「タカマーガリン」。どれをとっても今まで食べた事のない未知の食事だった。僕が覚えているのは小1から小2位まで続いた、戸畑小での給食時の「儀式」である。配膳が終わり先生も僕達も机に座り、校内放送が始まるのを待つのだ、その校内放送は今でもハッキリ覚えている。「よい子の皆さん、これから給食を頂きます。美味しい給食を食べる事が出来るのは「進駐軍」の兵隊さんのおかげです。みなさん、感謝して食べましょう、それでは、いただきます。」それだけではない、BGMにアメリカの音楽が流れるのだ、曲名の紹介まである「この曲はアメリカのグレンミラー楽団のアメリカンパトロールです」。毎日日替わりでBGMも変わるのだ、殆どが軽快なテンポのグレンミラーの曲だった。僕達の充実した給食の材料はアメリカ軍からの贈りものだと聞いた、小麦粉、牛乳(とは言っても脱脂粉乳をお湯で溶いただけのもの)当時の民間人が手に入れる事の出来ない食材で僕達の給食は作られていたのである。小さな教室に定員を超す児童がいる教室で一斉に給食を食べる光景を想像して欲しい、金属の食器の触れ合う音、笑い声やみんなの話す声が校舎の外まで聞こえるのだ、そして、スピーカーから聞こえるしゃれたグレンミラーの音楽。その当時の僕達の給食は時代の最先端だったのではないだろうか。今思えば当時の給食など現代の小学生が見たら手を付けないだろう、しかし、僕達にとって学校の給食時間は明るい未来が見えるようなひと時だった、みんなの笑い声、話声そしてグレンミラー。

昭和・田植え体験

2005-04-19 16:44:24 | 昭和
上の写真は昭和30年頃の戸畑区の鞘ヶ谷付近の空撮写真である。画面上真中が鞘ヶ谷競技場、道路を挟んで両側には八幡製鉄所の社宅群が広がっている。鞘ヶ谷競技場の上は現在戸畑バイパスが通っているが、その頃はまだ小高い空地のままである。今夜はこの鞘ヶ谷を中心に話を起こして行こう。
 「明日は農家に田植えの手伝いに行きます、各自長靴とタオルと水筒を持ってきなさい」。翌日僕達は先生に引率されて学校から南方面にある鞘ヶ谷をめざして歩き始めた。僕達は自分達の校区から外に出ることは無かった、僕達のその頃の行動範囲は通学路の範囲内である。鞘ヶ谷の名前は知っていたが行くのはその日が始めてだった。戸畑市役所を過ぎて天籟寺に差し掛かるころから道は砂利道になり所々水溜りも出来ていた。僕達の通学路はその頃からわき道をのぞいて舗装されていた、やはり、田舎だと思った。天籟寺を過ぎてまもなく左手に小高い丘があり、そこは数段の段々畑になっていた。僕にとって畑や田んぼは初めての農村風景だった。重く立ち込めた雲、立ち込めるモヤに中に霞む田んぼはモノクロ写真のようだった。すべりそうになりながら畦道を登っていくと田んぼの中にいた農家のおじさんやおばさんは僕達「都会の子」を歓迎してくれた。僕達は早速、田植えの手ほどきを受けることになった、中腰のまま、手際よく苗を泥水の中に植え込んでいく。簡単な作業に思えたが、意外と難しい、中腰のまま、後ずさりできないのだ、泥の中に深く埋まった長靴を引き抜くだけでも大変である。中には足を移動する時にバランスを崩して尻餅をついたり、ひっくり返ったり田んぼの中は泥と子供達のすさまじい戦いが繰り広げられていた。普段は静かなこの棚田もその時は子供たちの嬌声と笑い声で梅雨空が晴れそうな感じだった。翌日学校に行くと先生が「昨日田植えをして皆さんはお百姓さんが苦労してお米を作ってくださっているのがよく分かったと思います。これからは、ご飯を残したり粗末にしないで最後の一粒まで食べるのですよ」。僕はその時先生に反論したかった。「先生!僕達はご飯を残すほど沢山もらっていません、本当はもっと食べたいのです」。この頃食料事情はやや改善されたと言っても僕達の食卓は粗末な一汁一菜の食事だった、育ち盛りの子供達はもっとご飯が食べたかったのである。その後昭和40年には戸畑バイパスが出来て鞘ヶ谷から棚田は消滅した。それと同時に八幡製鉄所の社宅街として人が増え独身寮やマーケットができて現在の街の原型が出来上がったのである。先日10年ぶりに鞘ヶ谷を訪れる機会があった。木造の社宅は撤去され、おしゃれなマンションや食品スーパー・スピナやホームセンター・アルファが立ち並ぶ戸畑の郊外で一番大きな商業施設に変貌していた。ホームセンターの二階の駐車場から眺めても当時の面影は全く残っていない。この下を八幡東区に向かって走る市道がわずかに当時の面影を留めていた。上の戸畑バイパスを走る車の騒音が一瞬止まって静かになった時、あの日この付近の棚田で歓声を上げた僕達の声が聞こえたような気がした。

若松・あの夜

2005-04-18 17:27:58 | 昭和
上の写真は昭和30年頃の若松渡し場である、市営バスの発着所があり、左上には渡船が見える。この当時の渡船の利用者は一日3万人にも上り終日賑わっていたという。現在の利用者は一日3千人、渡船は今でも毎日休む事なく運行されている。そして、渡し場の風景も殆ど当時のままである
 僕が小学校2年生の冬の日だった。その日は前日まで降り続いた雪もやんで朝からおだやかな天気に恵まれた。教室に入るとO君が駆け寄って来て「Tちゃん、高塔山で水晶が採れるちゃ、今日一緒に行かんね?」僕は二つ返事で「いいよ、学校が終わったら渡し場で待っとうけん」そして、僕とO君は渡船に乗って若松渡し場から高塔山をめざした。子供の足で30分位の距離である。高塔山に着いた僕達は「少年山師」のごとく赤土や小石を竹ベラで手当たりしだいに掘り返した。そして、ついに最初の一個目を見つけた、赤土の中から直径5ミリ程の水晶がキラリと顔をのぞかした。明らかにガラスとは違うその輝きに僕らは感嘆の声をあげて、次から次へと穴を掘っていた。暫くすると僕達のポケットには大小数十個の水晶が収められていた。そして、いつの間にか太陽も沈んで、辺りを夕闇が包もうとしている時間になっていた。冬の日が暮れるのは早い。時計など持つはずもない僕達は大慌てで下山した。山を下りた頃には街は闇になっていたが前日からの雪が残っている通りは月明かりもありそれほどの暗闇ではなかった。若松渡し場を目指している僕達はなかなか目的地にたどりつくことが出来ない。昼間と夜では街の光景が変わるのだ、若松の市街地は碁盤の目のように道路が作られそれが迷路になっている。僕達は道に迷ったのだ、不安と焦燥感にかられながらも迷路からの脱出を試みている時、背後で女の人の声がした。「僕達 どうしたの?どこに行くの?」振り向くとそれは綺麗な着物をまとった、色の白い、背の高い「きれいなお姉さん」だった。O君はすかさずお姉さんの前に歩みより言った「僕達は戸畑から来ました、高塔山から帰りに道にまよいました」直立不動で大きな声でしゃべるO君の声は緊張していた。そのお姉さんは「そうね、じゃ渡し場まで連れて行ってあげる、さあ、こっちよ」と僕とO君の手を左右の手で掴むとお姉さんはゆっくり歩きだした。僕もO君も緊張していた、お姉さんの化粧のいい香りは生まれて初めての香りだった、それに、お姉さんの柔らかでしっとりした手の温もりも初めての経験だった。僕はこの世のものとは思えぬ未知の世界から来た女の人のように思えた。渡し場までの道をどのように辿ったのか覚えていない。渡し場に着いて僕はお姉さんの顔を正面から見た、卵型の顔、目が大きく、形のいい唇、肌の色はどこまでも白くそして長い首は背をさらに高く見せていた。僕とO君は「ありがとうございました」と大きな声でお礼を言って戸畑行きの渡船に急いで飛び乗った。船に乗ってからも下りてからも僕もO君も無言だった。家に帰ったのはそんなに遅い時間ではなかった、父は夕食を食べながら晩酌をしていた、多分7時位だったと思う。僕は父と母にきれいなお姉さんに渡し場まで送ってもらったことを話した。すると、父が大きな声で「バカタレが!それはパンパンじゃ」。僕「パンパンちゃなんね?」両親はそれに答えず無言だった。僕はそれが夜の街で春を売る女性だと知ったのは中学生になってからの事だ。その夜の体験は8歳の僕に大人の女性を意識させた初めての経験だった。僕の理想の女性像の原点はあの夜の{きれいなお姉さん」だった。歳月が流れること数十年後、僕は「あの夜のきれいなお姉さん」を発見した。それは、竹久夢二の愛したモデルであり後に妻となる「お葉」だった。夢二の美人画のモデルは殆どが「お葉」である。細面の目鼻立ちのすっきりした顔に長い首。その「お葉」にあの日の「きれいなお姉さん」が重なってくる。昭和30年頃の若松渡し場の写真に少年時代の甘く切ない思いが蘇る、また、春を売らざるを得なかった、やさしい「きれいなお姉さん」のその後の人生を思った。あの日の夜の思い出は僕の幼年時の忘れられない想い出として「水晶」のようにキラリと輝いている。

昭和30年代・夏休み2

2005-04-17 20:08:12 | 昭和
小学生の夏休みのイベントは何と言っても海水浴に尽きる。今と違って娯楽と呼ばれる物がない時代、ましてや昭和30年代前半にプールなどの施設はなかった、夏の娯楽は海水浴だけだった、僕の父は鹿児島県串木野の出身だ親や兄弟はみんな漁業に従事しており泳ぎはみんな達者だった。そんな父の血を引いた僕は泳ぎは得意だった。後年40歳代後半にプールに通い始めコーチについて正式な泳ぎを教わってコメ(個人メドレー)で泳げるまでに半年はかからなかった。水が好きなのだ、だから、上達も早かったと思っている。そんな、泳ぎ好きの子供にとって海で泳ぐのは水を得た魚のようだった。若松の小石海水浴場、その奥にある脇田にもよく通っていた。そんな、海水浴通いで、忘れられない海水浴の想い出がある。戸畑港から遥か北に藍の島と言う小さな島がある。港から船で30分位だったと記憶している。その日は近所のおじさんが子供達を引き連れて藍の島海水浴場に連れて行ってくれる事になった。初めて行く海水浴場だ、船も若戸渡船と違って、大きく本物の船の形をしている、僕達子供はわくわくしながら乗船の時間を待った。その船から少し離れた所にこれまた大きな台船が停泊していた。その船は「糞尿船」だった。岸壁に止めた糞尿車から、作業のおじさん達が天秤棒に糞尿の入った桶を肩からぶら下げて岸壁と船に渡した細い板の上を器用に渡りせっせと糞尿を台船の四角の穴の中に投入していた。昭和30年前半までは各家庭の糞尿の収集は全て手作業だった。僕達はその作業のおじさん達を「肥え汲みのおじさん」と呼んでいた。糞尿で満タンになった台船は僕達の船より先に港を出た。次は僕達の船の出港だ、岸壁をゆっくり離れた船は大きなエンジンの音をさせながら一路藍の島に進路をとった。洞海湾を出て暫くすると海の色がきれいなコバルトブルーに変わった、洞海湾のくすんだ海の色しか知らない僕達は陸地の向こうの水はこんなにきれいだったのかと感嘆の声を上げながら船の手すりに持たれて飽きることなく海を見ていた。その時、僕達の船は先ほどの糞尿船に追いつこうとしていた。その糞尿船の船底から土砂のようなものが沸いていた。あの糞尿をここで流していたのだ。糞尿を海上投棄するための船だとはみんな知っていた。しかしである、こんな近いところで、しかも、海水浴場の近くじゃないか、僕はがっかりしていた。もっと遠くの海に行って流すものと思っていた。その糞尿はコバルトブルーの潮の流れに乗ってさらに沖合いに広がって行った。この船が藍の島についた頃にはその糞尿も島に流れ着くにちがいない。そして、引率のおじさんの言葉に僕は凍り付いた、「お前たち見たか?みんなのしたウンコやしっこが海に流されて、それが魚のえさになって魚は大きく、おいしくなってみんなの口にはいるんだぞ」おじさんは知識のある先生みたいに胸をはって説明をした。一方の子供達はみんなその話を聞いて下を向いたままだ。僕達は戦意を削がれた兵隊さんの気分だった。その時、一番後ろにいた女の子が大きな声でおじさんに言った「おじさん、お魚さんはウンコとしっこのどっちが好いとうとやろか?」その声の主はT美だった、僕はすぐT美のところへ行き「バカタレ!変な事聞くな」と僕はT美をこずいた。それまで無類の魚好きの僕が魚嫌いになったのはあの日の出来事からだったと僕は思っている。

昭和30年代・夏休み1

2005-04-16 21:47:10 | 昭和
灼熱の太陽が少し傾いたある夏休みの午後、僕達は家の前の空き地に水撒きをしていた、真夏の午後の水撒きは家の中へのホコリ進入防止と外気を下げるための生活の知恵だった。水撒きが終わった僕達を待っているのはスイカだった。大きなお盆に食べやすく切られたスイカを塩を付けて食べるのだ。真夏のスイカは塩がないと食べれない、汗をかいた身体が塩分を欲しているのだ。スイカのにおいを嗅ぎ付けて洋館長屋の○○じいちゃんが現れ当然のように長椅子に座る。じいちゃんには歯がない、歯茎で食べ物を食べるのだ、歯がないためかなり老けて見える、スイカの固さと歯茎の相性がいいのかスイカを食べるスピードは僕達の倍の速さだった。スイカを食べながらじいちゃんがしゃべりだした。「ワシ達が子供の頃はよー中原海水浴場に毎日のように行ったもんだ、白い砂と後ろには松林があってのう、海はきれいで、門司のほうまで眺められたもんだよ」。僕はじいちゃんの言う事が信じられなかった。中原には海はない、あるのはもくもくと煙を上げる大きな工場だけだ、そこに昔海水浴場があった事は子供の想像の領域を超えていた。僕は隣のT美に言った「おい、T美 このじいちゃんウソついとうぞ、中原に海水浴場があったわけなかろうもん、他の海水浴場と勘違いしとらすとよ、のうT美」。T美も相づちを打ち「そうバイ、うちの母ちゃんも言いよったよ、「最近○○じいちゃんはボケてきようばい」、やっぱり他の海水浴場と勘違いしとうとよ、見てん、じいちゃんはスイカのタネ出さんと、全部食べよるバイ、やっぱーボケちょんやね」。僕とT美は顔を見合わせ大笑いした。それから月日は流れ、僕は「幻の中原海水浴場」の事は忘れていた。じつは、僕は3年前位から、地元の郷土史に興味をもち、情報の無料資料室であるインターネットから北九州や筑豊地区の近代の歴史を調べていた。その時ヒットしたのが「中原海水浴場」だったのだ。宣伝パンフレットと海水浴場で遊ぶ児童の写真もある、さらに詳しく調べると、「交通の便のいい中原海水浴場は当時西日本で一番人気のある海水浴場だったこと、昭和の初めから埋め立てが始まりついに中原海水浴場は消滅したと」記されていた。僕の記憶は45年前の昭和31・2年のあの日に飛んでいた。やはり、あのじいちゃんの言っていた事は本当だったんだ。もう、あのじいちゃんは今確実に故人となっているはずだ、僕はじいちゃんの冥福を祈りながら「じいちゃん、あの時ボケたとか勘違いとか言った事謝ります、すいませんでした、T美の分まで謝ります、すいませんでした」。夏が来てスイカが店頭に並ぶ頃、僕はいつも「幻の中原海水浴場」を思い出す、スイカと中原海水浴場、僕にとって忘れる事の出来ない、昭和30年代の原風景である。そして、あの日食べたおいしいスイカにその後僕はめぐり合っていない。

想い出の隣人たち

2005-04-15 21:15:44 | 昭和
上の写真は向かって右端が僕の母その隣が僕そして僕の隣にいる女の子がT美ちゃん、その上がT美ちゃんのお母さん。T美ちゃんは僕の隣の家に住んでいた、T美ちゃんは母親と二人暮らしで兄弟はいない。彼女のお母さんは家の土間を改造して簡易食堂を一人で切り盛りしていた。僕たち家族はT美ちゃん一家と家族のように付き合っていた。T美ちゃんも僕も一人っ子同士、T美ちゃんは僕を兄のように慕い遊びに行くときは必ず跡をついてきた。僕も彼女を妹のようにかわいがった。そんな仲のいい二人を見てT美ちゃんのお母さんは「T美 お前はTちゃん(僕)の嫁さんにもろてもらえ」などとよく言われたものだ。T美ちゃんの家は食堂だったので、僕はいつも夕食をご馳走になっていた、何を食べたのか記憶はない、満腹になった僕はその場で眠ってしまい、翌朝目覚めたら隣にT美ちゃんが寝ていた事も何度もあった。僕の住んでいた「洋館長屋」には7世帯の家族が暮らしていた。その当時一人っ子の家庭は珍しく多くの家庭は4人位の兄弟がいるのは当たり前だった。僕にとってT美ちゃんは「代理妹」だったのかもしれない。その洋館長屋の一番北側の部屋にはSさん一家が住んでいた、鹿児島出身のSさんと僕の母親は忽ち友達となり、僕の母はお互いの部屋を訪ねて鹿児島弁丸出しで話すものだから、周りの住人達は意味不明の方言を話す母とSさんをケゲンな目で見ていた。僕の両親は鹿児島出身だ、僕が生まれたのも串木野市である。両親との日常会話は当然鹿児島弁である、独特のイントネーションは鹿児島人しか理解できない方言である。「T雄 はよ飯をたもらんか!」(同時通訳:T雄 早くご飯をたべなさい)。鹿児島を出て4年目、やっと鹿児島弁で話が出来たSさん家族との出会いは僕の母にとってオアシスだったにちがいない。50年近くの歳月を経た今でも現在鹿児島在住のSさん家族と母(現在84歳)の親交はつづいている。その当時の隣近所の付き合いはまさに「隣組」なのだ、遠くの親戚より隣の人である。現在の僕達の住んでいる町にも自治会はある、しかし、実態は昭和30年代の隣組とは全く違ったものになっている。

小学校入学・昭和30年

2005-04-14 20:55:04 | 昭和
僕が小学校に入学したのは昭和30年である。戸畑小学校が我が人生最初の母校となる。戸畑小学校は明治7年(1874年)開校だから僕が入学した頃はすでに開校80年を過ぎていたことになる。戸畑で初めての小学校だったのだ。学校は木造二階建てで休み時間には友達と木の階段をのぼったり階段の手すりを使って滑り台にして遊んだ記憶がある。僕のクラスは一年八組だった、担任は女性教師のE先生だ。当時としては珍しくやや肥満体の先生だった。E先生の事は後日記述する予定なので今日は書かない、僕たちのクラスは男女合わせて約50名だった、学校を建設した時、多分大正時代だろう、一クラスに50名もの児童を収容する事など予定にない事だったのだろう、50名分の机が教室にならぶと一番後の列は壁際ぎりぎりまで椅子が来た。戦争が生んだ団塊の僕たちは小学校入学直後から知らないうちに競争のスタートラインに並ばされていたのだ。ここに、昭和33年の戸畑地区の小学校の児童数などを記録した資料がある。それによると、戸畑小学校のクラス数・49クラス・(平成12年・14クラス)児童数2641名(平成12年388名)。この数字は戸畑に9校あった小学校でも異常に多い児童数だったのである。つまり戸畑小学校の校区は工場や商店や住宅などが密集する人口過密地区だった事を意味する。戸畑の町は国鉄戸畑駅の北口が駅の玄関だった。戸畑駅の北口から渡し場にかけての大通りには今でも当時を彷彿とさせる建物が数多く残っている。若松から渡船が着くと大勢の人達が黒い塊となって一方は西鉄の電車乗り場へ残りは戸畑駅の北口に向かって黙々と歩きだすその光景が今では僕の脳裏で活動写真のように再現される。若戸渡船は日本初のカーフェリーとして若戸間の物資の輸送も引き受けていた、僕は父の仕事の関係で車に興味があったのでフェリーに乗り降りするトラックや乗用車などを飽きることなく眺めていた。僕の住んでいた洞海湾に面した渡し場地区は北九州工業地帯の重要地点だったのだ、筑豊で採炭された石炭が若戸地区に集まり、そのエネルギーは鉄を作り、全国の工業地帯に運ばれ日本の近代化に貢献していたのだ。僕は日本がまさに高度経済成長期に向かって大きな飛躍の前触を思わせるような街で小学生になった。今から49年前のことである。

思い出の地は今

2005-04-13 19:48:22 | 昭和
僕は6歳から11歳までを北九州市戸畑区(当時は戸畑市)ですごした。場所は現在若戸大橋の第2橋脚辺りにあった洋館風の大きな家だった。レンガ塀で囲まれたかなり大きな家は大正時代に石炭景気で一儲けした成金の邸宅だと聞いた。その邸宅の広い各部屋を壁で仕切り、7所帯がすんでいた。僕の家族は一番南に面した日当たりのいい部屋だった。レンガ塀の外は西鉄の路面電車が終日行き交っていた。僕の家からは電車の終点、戸畑渡場が見えていた。電車を降りた人達は向かいにある若戸渡船で次の船に乗るため長い行列を作るのである。当時の若松は石炭景気が翳りを見せ始めたとは言っても北九州では小倉につぐ繁華街だったのだ、戸畑も渡し場やJR戸畑(当時は国鉄)北口は現在の南口よりもはるかに賑わっていた。僕にとってその当時の戸畑の夜は赤い灯やネオンがまぶしい賑やかな街だった事を憶えている。僕の家から歩いて10分程の明治町には映画館も2軒ほどありその道路沿いには銀行や飲食店がひしめいていた。実は、この「昭和思い出エッセイ」を書くに当って戸畑をこの目で確かめたくて。本日戸畑行きを決行した。車で直接行っても面白くないので車をJR若松駅裏の有料駐車場にとめて、車に積んである我が第2の愛車を降ろして、若松渡し場から渡船に乗った、自転車と人の運賃は100円である。3分後に船は戸畑に着く。それから、自転車のペダルをゆっくり踏みながら、50年前の昭和の匂いを求めて隅から隅まで走った。戸畑の南口はここ数年で大きな商業施設が出来て風景が様かわりしている、しかし、戸畑駅北口は当時と変わらない建物や人家が沢山残っている、まさに、そこだけ時間がストップしているような感じだ。自転車でゆっくり子ども時代を過ごした建物の前を通る時50年前の自分がそこにいるような錯覚におちた。もう、戸畑渡し場には電車はない、そして、子どもの頃の遊び場だった明治製菓の工場もなくなり、広い空地に変わっていた、しかし、その跡地に立ったときキャラメルの甘い香りがしたのは気のせいだったのか。昼ご飯は駅北口の細めん戸畑チャンポンを食べて心も胃袋も満足して帰りの船に乗った。若戸大橋を下から眺めながら、橋の色が今日はことさら鮮やかな朱色に見えた。思い出の地を巡る時は自転車かウオーキングが一番です。

昭和想い出エッセイ・はじめに

2005-04-12 13:56:42 | 昭和
僕は1948年、すなわち昭和23年8月に生を受けた。僕の幼少の頃の記憶はあまりない。しかし、小学校に入ってからの記憶はかなり僕の記憶の引き出しに残っている。家庭の事、学校の事、友達の事いろんな思い出が記憶のファイルに残っている。そのファイルを開いて、今から50年前の僕の小学校時代の想い出を辿りたいと思う。すなわち、昭和30代の僕の思い出ファイルをシリーズで書いて見たいと思う。このエッセイに登場する人物名は全て仮名ですが、場所および地名は実名で記述します。50年前の記憶が保存されている前頭葉の引き出しを一つ々開けてエッセイにします、いわば、僕自身の昭和30年代へのタイムスリップです。よかったらお供しませんか。旅費は無料です。次回を乞うご期待!

初デビューです。

2005-04-10 17:39:09 | 昭和
プログ初デビューです。団塊の世代に生まれ幼少時から激烈な競争の世界に生きてきました、仕事に家庭に追われるように生きてきたこの50数年の人生を振り返り、もう少しゆとりのある人生を過ごしたいと思うこのごろです。趣味や運動にもっと時間を費やして行こうと思います。子供の頃力いっぱい外で遊んで夜は倒れるように寝て翌朝気持ちよく目覚めて学校に行ったそんな幼少の頃を思い出します。とにかく、仕事3割、趣味と運動7割、これからは「人生3対7」で生きていきます。初デビューなので何を書いたらいいのかよくわかりません。もし、お目に留まったならば、書き込みやアドバイスお願いします。