瀧野神社跡
瀧野神社略記
1 鎮座地 飯高町大字作滝
2 祭神 天照大神 乙加豆知命
3 由緒 垂仁天皇二十二年(前八)の創立。御神体は八花形御鏡・御鈴
初め大神宮神明宮といっていたが、寛文六年(一六六六)内宮長官氏富の指図により瀧野神社と称し、また飯高宮ともいう。
倭姫命が大和より伊勢へ皇大神宮御遷幸の途中、ここに行宮を定められたと伝える。北畠親房より神明降臨の遺跡であるというので、神領一二町並びに栗山御籠藪の寄進があったといわれる。
享保(一七二五)乙巳十一月 神社の儀お尋ねに付書上帳
松坂領瀧野組瀧野神社一社 天照大神 乙加豆知命 飯高郡作滝村
右神社先年寺社御改之節は神明宮と書上申候へ共寛文六年内宮長官氏富の指図により滝野神社と称し申すべき旨享保十巳御改之節より滝野神社と書上申候。右社内に八花形の御神鏡並御鈴古来より有之候。
一 神領高 四石四斗七升六合
新高 一石八斗七升六合
一 右神社の森の内に井戸御座候て天照大神御僕料の栗柿並に滝野神社御借炊キ申 候井戸にて御座候古来より「立つの井」と称申候。尤御僕料の栗柿
右神社の森にて三日三夜清め申候て伊勢内宮宿館へ運送仕候。
一 右神社の森に拝所有レ之「高ノ宮」と古来より称来り申候。
一 右神社森ヨリニ町ほど東方川岸に池あり「鏡池」と申伝え今に足形顕水有之此所より 半町下の方に滝あり「佐久滝」と申伝え候。
一 神社より十町ばかり南の山に岩穴あり、古来「がちや」と伝え諸人参詣仕候。
神社の森より約五町北御売許の畑に石塚あり榊一本生立居り申候。此所「御休塚(お やすみつか)」と伝え候。
一 石塚より北の川「堺が瀬」と申川中に大石一つあり天照大神「礫石(つぶていし)」と諸人申伝之候。
かたわらに本居大平の弟子滝野知雄の礫石の碑がある。表に「倭姫の命 礫石(つぶていし)」、裏に「流れては 昔に帰る川俣川 礫石たつ 水のしら浪 弘化四年 (一八四七) 春滝野知雄」と刻む。
天照大神御鎮座の時倭姫命乙加豆知命御出合申神御田並神戸上げ奉り候。其子孫勝長(滝本家初代)御饌料栗・柿・御綿を太神宮え指上げ奉り候処喜び賜い汝永く奉備との御神託により調進仕候。往古は栗柿の御薗六町も御座候由応仁の乱に右由緒の旧.記等紛失仕候。其後信.長の代右御薗取上られ在家或は田地等に相成候由申伝候。然れ共皇太神宮の御饅料は解怠なく調進候に付秀吉代に右由緒申達只今之通神領御免許被成下候。当御代々(紀州)御検地の度に右之趣申達。只今之通神領御免許に成され候。並に私持来り候四ヶ所の山林竹木毎年御饌料調進之度二御神用につき古来より六木御改の度毎御断申御除き成る下され候。尤神領御免許先祖より代々支配仕御饌料毎年九月生栗柿十二月干柿両度内宮宿館之運送仕年中御饌之度毎に供進奉り候依之長官代々以庁宣皇太神宮之御改印奉行下知御座候。尤節目を以て長官より補任謂。皇大神宮瀧野神社神役相勤申候。
神役人作瀧村 滝本杢允富勝
作瀧村庄屋 善次郎
同 村肝煎 太兵衛
「飯高町郷土史」三重県飯南郡飯高町発行(編纂委員長 久保良任)より
瀧野神社略記
1 鎮座地 飯高町大字作滝
2 祭神 天照大神 乙加豆知命
3 由緒 垂仁天皇二十二年(前八)の創立。御神体は八花形御鏡・御鈴
初め大神宮神明宮といっていたが、寛文六年(一六六六)内宮長官氏富の指図により瀧野神社と称し、また飯高宮ともいう。
倭姫命が大和より伊勢へ皇大神宮御遷幸の途中、ここに行宮を定められたと伝える。北畠親房より神明降臨の遺跡であるというので、神領一二町並びに栗山御籠藪の寄進があったといわれる。
享保(一七二五)乙巳十一月 神社の儀お尋ねに付書上帳
松坂領瀧野組瀧野神社一社 天照大神 乙加豆知命 飯高郡作滝村
右神社先年寺社御改之節は神明宮と書上申候へ共寛文六年内宮長官氏富の指図により滝野神社と称し申すべき旨享保十巳御改之節より滝野神社と書上申候。右社内に八花形の御神鏡並御鈴古来より有之候。
一 神領高 四石四斗七升六合
新高 一石八斗七升六合
一 右神社の森の内に井戸御座候て天照大神御僕料の栗柿並に滝野神社御借炊キ申 候井戸にて御座候古来より「立つの井」と称申候。尤御僕料の栗柿
右神社の森にて三日三夜清め申候て伊勢内宮宿館へ運送仕候。
一 右神社の森に拝所有レ之「高ノ宮」と古来より称来り申候。
一 右神社森ヨリニ町ほど東方川岸に池あり「鏡池」と申伝え今に足形顕水有之此所より 半町下の方に滝あり「佐久滝」と申伝え候。
一 神社より十町ばかり南の山に岩穴あり、古来「がちや」と伝え諸人参詣仕候。
神社の森より約五町北御売許の畑に石塚あり榊一本生立居り申候。此所「御休塚(お やすみつか)」と伝え候。
一 石塚より北の川「堺が瀬」と申川中に大石一つあり天照大神「礫石(つぶていし)」と諸人申伝之候。
かたわらに本居大平の弟子滝野知雄の礫石の碑がある。表に「倭姫の命 礫石(つぶていし)」、裏に「流れては 昔に帰る川俣川 礫石たつ 水のしら浪 弘化四年 (一八四七) 春滝野知雄」と刻む。
天照大神御鎮座の時倭姫命乙加豆知命御出合申神御田並神戸上げ奉り候。其子孫勝長(滝本家初代)御饌料栗・柿・御綿を太神宮え指上げ奉り候処喜び賜い汝永く奉備との御神託により調進仕候。往古は栗柿の御薗六町も御座候由応仁の乱に右由緒の旧.記等紛失仕候。其後信.長の代右御薗取上られ在家或は田地等に相成候由申伝候。然れ共皇太神宮の御饅料は解怠なく調進候に付秀吉代に右由緒申達只今之通神領御免許被成下候。当御代々(紀州)御検地の度に右之趣申達。只今之通神領御免許に成され候。並に私持来り候四ヶ所の山林竹木毎年御饌料調進之度二御神用につき古来より六木御改の度毎御断申御除き成る下され候。尤神領御免許先祖より代々支配仕御饌料毎年九月生栗柿十二月干柿両度内宮宿館之運送仕年中御饌之度毎に供進奉り候依之長官代々以庁宣皇太神宮之御改印奉行下知御座候。尤節目を以て長官より補任謂。皇大神宮瀧野神社神役相勤申候。
神役人作瀧村 滝本杢允富勝
作瀧村庄屋 善次郎
同 村肝煎 太兵衛
「飯高町郷土史」三重県飯南郡飯高町発行(編纂委員長 久保良任)より
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