バイブル探検隊

徒然なるままに、日々の出来事の中と、聖書の御言葉とを照らし合わせる中で、見い出したことなどを書いていこうと思います。

「人は、ひ弱いからこそ、寄り添って生きることができます。」

2012-03-28 01:06:37 | Weblog
「人は、ひ弱いからこそ、寄り添って生きることができます。」

 この言葉は、今日の家庭集会の時に読んだ日野原重明先生(聖路加国際病院理事長・名誉院長)の著書「生きかた上手」の中に出てくる言葉です。

 今の日本社会の世相というのは、弱さや足りないことを、隠そうとするところがあるように思われます。というのも、この20年近くテレビ番組で見られるお笑いというものが、人をけなしたり、からかったり、いじめて笑いを取ろうとするものが殆どと思います。そういうテレビに毒された子どもたち社会では、それをまねしてみんなでよってたかって、誰かをからかったりいじめたり、そんな風潮があります。だからこそ、人に弱点をさらせない、そんなストレスを抱えながら過ごしているように思えます。また、自分が攻撃をされないために、攻撃的になっていたりもします。

 このような社会の中で生きているので、自分の弱さ、欠けたるところを受け入れるというのは、なかなか難しいものです。しかし、それを受けとめることで、他者の有り様も受けとめることができるのでしょう。そして、欠けたる者同士だけども、お互い様という思いをもって共に生きていけるのではないだろうか、と考えさせられます。
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贈り物

2012-03-21 01:10:40 | Weblog
結婚指輪は いらないといった
朝 顔を洗うとき
私の顔をきずつけないように
体を持ち上げるとき
わたしが痛くないように
結婚指輪は いらないといった

今 レースのカーテンをつきぬけてくる
朝陽の中で
わたしの許に来たあなたが
洗面器から冷たい水をすくっている
その十本の指先から
金よりも 銀よりも
美しい雫が落ちている

 これは、念願叶って教師となって2ヶ月足らずで、クラブ活動の指導中に頸髄損傷の重傷をおい、首から下の運動機能を失った星野富弘さんの詩です。筆を加えて、詩を書き、絵を描かれているのですが、その星野さんを支えておられる奥様の思いやりを詩にされています。

 そして、この詩を読んで、贈り物について考えさせられました。神様からの贈り物を、神様からの恵みを見い出すものでありたいと思いました。
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ありがとう

2012-03-14 01:11:49 | Weblog
物が言えない私は
有難うのかわりに ほほえむ
朝から何回もほほえむ
苦しいときも 悲しいときも
心からほほえむ

 この詩は、瞬きの詩人と言われた水野源三の詩です。水野さんは、9歳の時に赤痢のための高熱が原因で脳性小児麻痺になられ、手足を自由に動かすことも話すこともできなくなられました。見ることと聞くことは出来ましたが、意思表示の手段は瞬きをすることだけでした。その瞬きを通して、多くの詩や短歌を生み出し、4冊の詩集に収められています。

 自分は、何に「ありがとう」と言っているのだろうかと、考えさせられてしまいました。
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『神の国を生きる』第7回

2012-03-11 23:04:37 | Weblog
『神の国を生きる』第7回

ヨハネの黙示録 21章1~8節

 東日本大震災から1年が経ちます。まだまだ、復興が進まない、ただ瓦礫が取り除かれただけの荒れ地が広がっている様子が被災地にあります。家族を失い、家を失い、仕事を失い、仮設住宅で生活されている被災者の方々があります。そのような中で、私たちは、聖書の言葉から何を聞いていけば良いのでしょう。

 黙示録21章3節を見ますと、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり」とありますが、これは旧約聖書の26章12節に出てくる言葉であります。神が共にいて下さることを言い表しているのですが、黙示録21章では、神が共におられるということは、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示録21章4節)ということであると教えているのです。

 今度の大震災による被害を見て、神はどこにおられるのか、と問いたくなります。しかし、詩編145編8節以下において、神は慈しみ深い方、憐れみ深い方であるというのです。マタイ福音書27章51節以下で、イエス・キリストが十字架上で息を引き取られた時に、地震が起こり、不思議な出来事が起きたと書かれてあります。イエス・キリストの死というものを、このような大いなる出来事が起こるほどのものであったと、マタイは表現したかったと思われます。私たちは、この出来事を通して、人間の傲慢さを悔い改めことを、そして、人間の力を超えた大いなる力というものを、考えさせられます。

 今、被災者の方々は、1年が経つ中で、私たちのことを忘れ去られていくのではないか、という危機感を持っておられます。そうじゃない、私たちは、まだあなたがたと繋がり続けたい、そのような思いをもってこれからの1年を過ごしていきたいと思います。皆さんも、自分にできるところで、考えて頂きたいと思います。

(以上、2012年3月11日の礼拝説教の要旨です)
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見えないところにも

2012-03-07 01:15:42 | Weblog
美しく咲く
花の根元にも
みみずがいる
泥を喰って
泥を吐き出し
一生土を耕している
みみずがいる
きっといる

 これは、星野富弘さんの詩なのですが、見えない所にも目を向ける​
ことができる心を持っていたいと思わされました。
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『神の国を生きる』第6回

2012-03-04 23:10:25 | Weblog
『神の国を生きる』第6回

使徒言行録3章1~10節

 この聖書の箇所で、ある足の不自由な男性が、神殿の入口にある美しい門という場所に連れてこられて、人々からの施しを得て生活していました。彼は、生まれながらにして足が不自由だったために、自分で歩くことができず、また働くこともできなかったのでしょう。彼は、自分の人生にある意味で絶望をしていたことでしょう。そんな彼のところに、イエス様の弟子のペトロとヨハネがやってきて、彼を見つめたのです。彼は、何か貰えると期待をしたのですが、ペトロは「わたしには金や銀はない」と答えます。これを聞いて彼はがっかりしたことでしょう。しかし、「持っているものをあげよう」と言う言葉に再び期待を抱いたのですが、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言われたのです。

 この足の不自由な男性が求めていたものは、お金であり食べ物などでした。それらの施しを受けて、日々の生活を命を繋いでいたのです。ある意味で一時的なものを得て、過ごしていたのです。そんな彼に向って、「イエスの名によって立ちなさい」、「イエスの名によって歩きなさい」と言われたのです。彼が求めたものは与えられませんでした。しかし、イエス・キリストの名に信仰をおく、希望をおくということが、彼に希望を与えたのです。それがイエスの名により立ち、イエスの名により歩くということです。

 聖書においてよく出てくるのは、イエス様の言葉に従って歩み出す人たちの姿であります。神様を信じるというのは、実にシンプルなことであります。逆に聖書のことを良く知っていた人達(律法学者やファリサイ派)は、イエスの言葉に反発していきます。私たちの基本は、イエスの言葉に従うことです(ヨハネ福音書10章14~16節)。そして、ペトロは、右手をとって立ちあがらせたのです。そこには、祝福された者という意味を込めて右手を差し伸べたと思われます。

(以上、2012年3月4日の礼拝説教の要旨です)
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