バイブル探検隊

徒然なるままに、日々の出来事の中と、聖書の御言葉とを照らし合わせる中で、見い出したことなどを書いていこうと思います。

『主の生きておられる』第10回

2011-03-27 23:28:23 | Weblog
『主の生きておられる』第10回

列王記下23章21~30節

 今度の東日本大震災の被災者が県外へ避難される場合に、新潟県に行かれる方が多いとのことです。それは、新潟県が、近年大水害や新潟中越地震などで被災したことで、日頃から避難所の開設などの訓練をされていたことがあります。また、受け入れ態勢も整えられていたことがあります。過去の経験が、今回の活動に生かされているのです。

 この聖書の箇所は、ある意味で温故知新を想起させ、またあわせて過去のトラウマということが影響したとも思える話です。まず温故知新として、ヨシヤ王の宗教改革は、曽祖父のヒゼキヤ王が行った「主のみを礼拝する」という宗教改革を受け継いだものであり、律法の書の発見を通して、聖書が証しする神理解に立ち返ることができたと言えます。そして、律法の書を通して、過越し祭りの復活へと繋がって行きます。先祖のユダヤ人たちは、エジプトにおいて苦難を味わい、神から遣わされた指導者モーセを通して、エジプトから脱出します。その象徴的な出来事が主の過越しであり、その救いの出来事を感謝して過越しの祭りが祝われたのです。律法の書の発見を通して、自分たちの原点を再確認したのです。そして、神の恵みによって今日あることを再認識したのです。

 ヨシヤ王は、宗教改革に成功して、自分の力を過信してしまったようです。ユダの国の再建も実現したのですが、エジプト王がアッシリアへと遠征するために、途中にあるユダ王国にやってきたので、ヨシヤ王はそれを迎え撃とうとしたのですが、戦争に敗れて戦死してしまいます。私達もまた、調子良くいっている時はいいのですが、一つ歯車が狂うとどうしようもなくなることがあります。わたしたちは、神によって生かされ、神の支えのもとにあることを心に留めたいと思います。主に依り頼む者であることが大切です。

(以上、3月27日の礼拝説教の要旨です)
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『善き隣人』

2011-03-20 20:55:50 | Weblog
『善き隣人』

ルカによる福音書10章25~37節

 今回の東日本大震災では、甚大な被害が出ています。また、福島第1原子力発電所での、放射能漏れ事故が起こり、関東地区では電力不足による計画停電が行われ、物資も不足する事態となっています。この危機的な状況の中で、勇気付けられるのは、人々の助け合いです。危機というものは、いつやってくるのか分かりませんが、私達がその中でどのように行動するのかを、今回の一連の報道を通して考えさせられます。

 この聖書の箇所は、善きサマリア人のたとえ、という話です。ある律法の専門家が、イエス・キリストに質問した場面です。その中で、「私の隣人とは誰ですか?」と質問します。これに対してイエス様は、エルサレムからエリコへと向かう道の途中で強盗に襲われて半殺しの目にあったある旅人のことに起きた出来事を話されます。その傷付き倒れた旅人を、祭司は遠巻きにして通り過ぎて行きます。彼は、神殿で神様に仕える仕事をしていましたが、この場面で考えたことは、自分に何が起きるか、ということでした。次は自分がやられるかもしれない。また、怪我人に触れることで仕事に支障ができることを心配したのでしょう。次にレビ人もやってきますが、同じように通り過ぎて行きます。

 三番目に、サマリア人がその傷付き倒れた人のところに通りかかったところ、彼はその人に歩み寄り、ケガの手当てをして宿へと連れて行き、宿屋の主人にお金を払って面倒を見てくれるように頼みます。このサマリア人は、敵対関係にあったユダヤ人を見た時に、自分に何が起きるかを考えたのではなく、その傷付き倒れている人に何が起きるかを考えたのです。そして、様々な犠牲を払うことを厭いませんでした。イエス様は、あなたがたもいま助けを求めている人の隣人となりなさい、と語りかけておられます。
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