バイブル探検隊

徒然なるままに、日々の出来事の中と、聖書の御言葉とを照らし合わせる中で、見い出したことなどを書いていこうと思います。

「悪霊の誘惑」

2015-02-22 22:35:25 | Weblog
「悪霊の誘惑」

マタイによる福音書4章1~11節

 2月18日から受難節に入りました。イースター礼拝の前の日まで、日曜日を除く40日間を、教会の暦では受難節といいます。40という数字は、聖書において、受難、試練を表す数字です。

 荒れ野に連れて来られたイエス様に、悪魔がこう切り出します。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。悪魔が誘惑してくるのは、私たちが「できる」と思っている事柄に限られます。想像してみてください。もしもイエス様が石をパンに変えて食べ始めたとしたら。世を救う神の小羊として、この世に遣わされたはずのイエス様が、ご自分の必要を満たすために奇跡を起こしたことになってしまいます。

 また悪魔は、詩篇91篇の言葉を用いながら、イエス様を誘惑します。たとえ孤立無援に思われる荒れ野にあったとしても、神様は必要な助けを備えていてくださいます。もしもイエス様が神殿の屋根の端から身を投げたとしたら。神様が用意してくださる助けを待つことなく、自分で天使を呼び寄せて助かったことになってしまいます。

 誘惑とは、自分の力で解決したくなるような場面において、神様に聴くことができるかどうか。「神様助けてください」と祈って、待つことができるかどうか。信仰のありようそのものが問われるのです。

 もしも悪魔を礼拝するならば、万物を統べ治めておられる神様のような力を与えよう。これがイエス様が荒れ野で受けた三つ目の誘惑です。神様のようになりたいという誘惑。それはイスラエルの民が旧約聖書の歴史において、最後まで克服することができなかった罪の一つです。

 主なる神を礼拝すること。それは律法であり、私たちの行動を制限するところの命令です。けれども、主なる神を礼拝することは、救われた日のことを思い起こさせ、豊かな恵みをもたらすものでもあります。律法に従うことで、大きな祝福を受けます。

 私たちもまた様々な誘惑に遭うことがあります。主が共にいてくださるならば、少しも恐れることはありません。主の祈り「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。この世には試みがある。それをよくご存じの上で、イエス様は私たちに主の祈りを与えてくださったのです。

(以上、齋藤弘司先生の説教の要旨です)
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「あなたの富のあるところ」

2015-02-15 22:37:24 | Weblog
「あなたの富のあるところ」

ルカによる福音書12章13~21節

 フランスの経済学者のトマ・ピケティさんが書いた「21世紀の資本」という本が注目されています。資本主義経済では、株や不動産投資をした時の儲けの率が、労働によって得た賃金が増加する率よりも上回るので、資産家と労働者の格差は拡大するばかりである、というのです。

 この聖書の箇所で、ある人がイエス様に遺産相続のことで訴えています。これに対してイエス様は、「誰が、わたしをあなたがたの裁判官や調停人にしたのか」と言われます。私たちは、ついついイエス様に色々なことを要求するところがあります。そして、続けてイエス様は言われます。「どんな貪欲にも注意を払いなさい」。南米ウルグアイのムヒカ大統領は、「貧乏な人とは、少しのものしか持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことである」と言って、環境サミットで先進国を批判しています。私たちが、満足することがなければ、もっともっとと貪欲となり、人と争いや、妬みを起こして、振り回されてしまいます。

 イエス様は、私たちの持つ貪欲さを戒めるために、一つのたとえ話をされたのです。人生というのは、ある意味でこのたとえ話にあるように、思いもかけない展開というものがあります。イエス様はここで、どんなに多くの物を手に入れても、それによって自分の命を増やせるわけではないと言います。また、欲が膨らんで倉庫を壊してしまおうと考えるように、大事なものを壊してしまうことさえ起こるというのです。

 マタイ福音書6章21節で「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と言われます。私たちの心の中に、何を宝としているのか。私たちは、心の中に神様を迎え入れることが大切です。その一つの表れとして、私に与えられるものを受け止める心が与えられます。また、聖霊なる神殿であると言われます。私たちの心の中には、感情や考えや思いがありますが、それ以上に神の思いが上に立つことが大切なのです。

(以上、2015年2月15日の礼拝説教の要旨です)
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「あなたの罪は赦された」

2015-02-01 22:39:52 | Weblog
「あなたの罪は赦された」

ルカによる福音書7章36~50節

 他の3つの福音書では場所がベタニヤ村なのですが、このルカ福音所では、イエス様がガリラヤ地方で伝道をされていた時の話です。また、この女性の名前は不明です、ただ罪深い女として書かれてあります。そしてこの女性は、ファリサイ派のシモンの家でイエス様が食事をしていると聞いて、その家に入り込んで来たのです。ファリサイ派は、聖書の教えを厳格に守ることを重要視しており、それを守れない人を罪人として見下し、疎外していました。この罪深い女性が、そのシモンの家に入るには、大きな勇気と覚悟とを持って入っていったことでしょう。ファリサイ派のシモンから、その罪をあげつらわれて、どんな仕打ちを受けるのか非常に恐れを抱きながらも入ったのです。

 そのような状況の中で、イエス様のもとへとその女性は行ったのです。この女性とイエス様との出会いが、これ以前にどういう形で持たれたのかは、書かれていないので全くわかりません。しかし、何らかの形で罪を犯し、罪深い存在として孤独と疎外と自責の念に苦しんでいたこの女性は、何らかの形でイエス様の言葉を聞いて、救われたのでしょう。罪の赦しというものを感じたのでしょう。その感謝の思いに突き動かされて、イエス様の元にやってきたのです。そして、溢れるばかりの感謝が涙となって、溢れ落ちて、イエス様の足を濡らしたのです。この時代、サンダル履きであったので、足はとても汚れていました。しかし、その汚れたイエス様の足にその女性は口づけをしたのです。罪に汚れた私をも、イエス様が受け止めて下さり、赦して下さったことに感謝したのです。

 イエス様は、何故私たちのもとに来られたのでしょうか。それは、私たちの救いのためでした。私たちが罪から救われるために来られたのです。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ福音書2章17節)。私たちの罪を償ういけにえとして来られたのです。(1ヨハネ4章10節)

(以上、2015年2月1日の礼拝説教の要旨です)
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