「悪霊の誘惑」
マタイによる福音書4章1~11節
2月18日から受難節に入りました。イースター礼拝の前の日まで、日曜日を除く40日間を、教会の暦では受難節といいます。40という数字は、聖書において、受難、試練を表す数字です。
荒れ野に連れて来られたイエス様に、悪魔がこう切り出します。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。悪魔が誘惑してくるのは、私たちが「できる」と思っている事柄に限られます。想像してみてください。もしもイエス様が石をパンに変えて食べ始めたとしたら。世を救う神の小羊として、この世に遣わされたはずのイエス様が、ご自分の必要を満たすために奇跡を起こしたことになってしまいます。
また悪魔は、詩篇91篇の言葉を用いながら、イエス様を誘惑します。たとえ孤立無援に思われる荒れ野にあったとしても、神様は必要な助けを備えていてくださいます。もしもイエス様が神殿の屋根の端から身を投げたとしたら。神様が用意してくださる助けを待つことなく、自分で天使を呼び寄せて助かったことになってしまいます。
誘惑とは、自分の力で解決したくなるような場面において、神様に聴くことができるかどうか。「神様助けてください」と祈って、待つことができるかどうか。信仰のありようそのものが問われるのです。
もしも悪魔を礼拝するならば、万物を統べ治めておられる神様のような力を与えよう。これがイエス様が荒れ野で受けた三つ目の誘惑です。神様のようになりたいという誘惑。それはイスラエルの民が旧約聖書の歴史において、最後まで克服することができなかった罪の一つです。
主なる神を礼拝すること。それは律法であり、私たちの行動を制限するところの命令です。けれども、主なる神を礼拝することは、救われた日のことを思い起こさせ、豊かな恵みをもたらすものでもあります。律法に従うことで、大きな祝福を受けます。
私たちもまた様々な誘惑に遭うことがあります。主が共にいてくださるならば、少しも恐れることはありません。主の祈り「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。この世には試みがある。それをよくご存じの上で、イエス様は私たちに主の祈りを与えてくださったのです。
(以上、齋藤弘司先生の説教の要旨です)
マタイによる福音書4章1~11節
2月18日から受難節に入りました。イースター礼拝の前の日まで、日曜日を除く40日間を、教会の暦では受難節といいます。40という数字は、聖書において、受難、試練を表す数字です。
荒れ野に連れて来られたイエス様に、悪魔がこう切り出します。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。悪魔が誘惑してくるのは、私たちが「できる」と思っている事柄に限られます。想像してみてください。もしもイエス様が石をパンに変えて食べ始めたとしたら。世を救う神の小羊として、この世に遣わされたはずのイエス様が、ご自分の必要を満たすために奇跡を起こしたことになってしまいます。
また悪魔は、詩篇91篇の言葉を用いながら、イエス様を誘惑します。たとえ孤立無援に思われる荒れ野にあったとしても、神様は必要な助けを備えていてくださいます。もしもイエス様が神殿の屋根の端から身を投げたとしたら。神様が用意してくださる助けを待つことなく、自分で天使を呼び寄せて助かったことになってしまいます。
誘惑とは、自分の力で解決したくなるような場面において、神様に聴くことができるかどうか。「神様助けてください」と祈って、待つことができるかどうか。信仰のありようそのものが問われるのです。
もしも悪魔を礼拝するならば、万物を統べ治めておられる神様のような力を与えよう。これがイエス様が荒れ野で受けた三つ目の誘惑です。神様のようになりたいという誘惑。それはイスラエルの民が旧約聖書の歴史において、最後まで克服することができなかった罪の一つです。
主なる神を礼拝すること。それは律法であり、私たちの行動を制限するところの命令です。けれども、主なる神を礼拝することは、救われた日のことを思い起こさせ、豊かな恵みをもたらすものでもあります。律法に従うことで、大きな祝福を受けます。
私たちもまた様々な誘惑に遭うことがあります。主が共にいてくださるならば、少しも恐れることはありません。主の祈り「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。この世には試みがある。それをよくご存じの上で、イエス様は私たちに主の祈りを与えてくださったのです。
(以上、齋藤弘司先生の説教の要旨です)