1月28日(金)、小中一貫校・村山学園で研究発表会があった。村山学園も一年目の研究成果を発表できる段階を迎えた。タイトルは「人間力の育成と小中一貫教育」で、研究授業に始まって、体育館で教育委員会の講評があり、最後に目白大学と千葉大学の先生による講演があった。
雑事に紛れてこの研究発表会のことは忘れていて、終わり近くなって慌てて講演会場の体育館に駆けつけたが、資料とも併せて研究と講演の内容の濃さはよくわかった。教育委員会が長い時間をかけて取り組んだこの事業の成果は、主に教員の意識向上というかたちで市内の各学校に浸透しつつある。会場には、かなりの数の参加者があり、都内はもちろん、北は岩手県から南は九州から来ていて、施設一体型の小中一貫教育に対する関心の高さがうかがわれた。
本市では、小中一貫校を始めるにあたって熱心に反対する人たちがいて(共産党系+善家議員系)、それに加わらなかった私や新政会の議員は攻撃の対象にされ、組織的に大量のハガキが送られてきた。ハガキに署名した善良な?市民は、一方的な偏った情報を素朴に信じたに違いない。しかし、議員というものは、そんなに馬鹿ではない。その人なりに調べた上で議案には賛否を表明するのだから、偏った内容のハガキが送り付けられたくらいで、考えが変わるものではない。
ハガキ作戦は共産党系市民団体が使うテで、やられた方にしてみると、内容によっては個人攻撃に近いいやな気分になる。どのハガキも、レクチャー通りの浅薄な意見しか書いてないから、全然参考にならない。むしろ、市民の後ろで糸を引いている、プロのアジテーターのグロテスクな意図を強く感じた。ハガキ作戦のじっさいの効果としては、送りつけられた方の反感を呼ぶだけで逆効果なのだが、まじめな有権者を取り込んで賛成派議員から遮断するという意味では、政治的には実に見事だ。さすが、反対運動の事務局長さんは、他市で長く共産党の市議を勤めた方だけのことはある。委員長・副委員長さんも、共産党のシンパで名の知られている方だった。
議員の考えを本当に変えたかったら、大量のハガキで「圧力」をかけるのでなく、公平でリベラルな対話集会を企画するべきだ。最初に一度だけ集会に出てみて、とうていリベラルな意見が通用する雰囲気ではないことがわかった。要するに、反対運動を起こすのが目的なんがミエミエで、2度と出る気にならなかった。私は十分な調査に基づく信念があったので、ハガキ攻撃にひるむことはなかったし、逆に闘志が湧いた。
なぜスパコンは世界一でないといけないのか、という某議員の質問が物議をかもしたが、小中一貫校への無理解はこれに通じる貧困な発想だ。全市の学校への波及効果を狙っていることが、まるでわかっていない。遠くの子どもは通えないから不公平だという批判も大いなる的外れで、小中一貫校での研究・実践の実りを全市のすべての学校に波及させるのが、このプロジェクトの真のねらいなのだ。さらに言うと、教員の意識改革を全市に波及させることが、一番大事なのだが、だからこそ、意識改革を嫌う組織が必死で潰しにかかったという背景も見えてくる。
善家先輩が言われるように、お金をかけずに単純に小中連携教育を進めるのが理想ではあるが、それで効果を上げるには、かえって時間と人材が必要になる。私には、武蔵村山市の現状では、それで教育現場がうまく回ると思えなかった。教員の意識とスキルの問題に加えて、大がかりな反対運動が起きるような土地柄なのだから・・。シンボルタワーと作業部隊を作って、上からグイグイ進める方が、本市のような教育後進国では良い結果が出るだろう。
教育委員会は、長い時間をかけて本市の現状を分析し、一種の「上からの改革」が必要と判断して踏み切ったのが、一体型一貫校という手法だったと、勝手に理解している。先々まで見通した経営的な考え方を理解できずに、一つの学校にだけ費用をかけるのはケシカランという、きわめて「出る杭を打つ」式の近視眼的な発想しかできない議員や市民が少なくないのには、心底がっかりした。出る杭は打つのでなく伸ばした方が社会は発展するのだ。
第一、公立学校がどこも同じでなければならない、という考え方そのものが時代遅れで認識不足だ。全体を底上げするには、まず一部を上げるほうが効率が良いのは経営の常識で、実験校的な試みは、文科省はとうの昔から実施している。それに、じっさいの学校運営は「どこも平等」に行われている訳ではなく、良く見ると、けっこうばらつきがあるのが普通だ。一律平等は、イデオロギーがもたらした幻想に過ぎない。
総予算15億円のうちの、約3分の2は国や都から補助金が下りる事実を、長いこと反対派の議員さんたちは知らなかった。本市の持ち出しは5~6億円の支出で済むことを、私は市の幹部への聞き取り調査で早くから察知していた。反対の議員サンたちは良く確かめもせず、やっと分かってからも無視して、ひたすら「15億円」を力説して市民を脅していた。
あげくの果てに、国や都まで出向いて「補助金を出すな」と申し入れたというが、そんなことをされたら国や都の役人が萎縮して、武蔵村山市への補助金が、今後出にくくなる恐れがあるわけで、近視眼的な狂気の行動には本当にびっくりした。そこまでやっては、市の財政に甚大な被害を与える可能性があることまで、なぜ思いが及ばないのだろう。自分の家に火をつけるような恐ろしい行動だ。本当に無意味な事業なら、国の予算を引っ張るのに反対しても良いかもしれないが、小中一貫校は、先進地では効果が証明されていて文科省も応援している夢のある事業である。
体育館も、まだ使えるものをなぜ壊すのか、と非難されたが、すでに40年以上も経っている建物だ。国から予算が引き出せるのなら、その機会を捉えて建て替えておくのは、利口なやり方だ。一つでも建て替えておかないと、この先に一斉に耐用年数が来た時に大変なことになる。現在の文科省の基準では、体育館の建て替えに国の補助金は出ないのだから、防衛予算が付くという、このような千歳一隅のチャンスを活かさないというテはない。
補助金を最大限に活用したのは、どうやら荒井市長が陣頭指揮した仕事らしいが、(善家議員の好きな)元の志々田市長だったらどう動いただろうか。私は、彼なら合理的な思考力に長けた方だから、きっと同様の手法で教育委員会を応援したに違いないと思っている。
共産党に洗脳されて(失礼な言い方でスミマセン!)、必死に反対運動を繰り広げた善家議員は徒労に終わって残念だろうし、考えの違いから手伝えなくて申し訳なかった。しかし、ハガキ作戦は須藤にも行われるということは、反対運動の会場で善家先輩にもわかったはずなのに、それを放置したとすれば、ずいぶんと冷たい仕打ちである。自分の反対運動しか眼中になく、何の説得も聞き取りもなしに仲間?を切るというやり方をされた事は、気遣いの人だと思っていただけに、浪花節の私には残念だった。
武蔵村山の風土は、やっぱり前近代的なのだろうか。せっかく市(教育委員会)が革新的な事業をやろうとしても、革新陣営から反対運動が起きるのは、情けないの一語に尽きる。共産党の反対ならわかるが、民主党に近い市民や議員の一部が、事業の意義を理解できずに同調したとすれば悲しい。文科省は、意外に?革新的な組織で、新しい教育改革への取り組みを応援する風土があるが、肝心の地方自治体の市民や議員サンが無理解ではどうにもならない。
雑事に紛れてこの研究発表会のことは忘れていて、終わり近くなって慌てて講演会場の体育館に駆けつけたが、資料とも併せて研究と講演の内容の濃さはよくわかった。教育委員会が長い時間をかけて取り組んだこの事業の成果は、主に教員の意識向上というかたちで市内の各学校に浸透しつつある。会場には、かなりの数の参加者があり、都内はもちろん、北は岩手県から南は九州から来ていて、施設一体型の小中一貫教育に対する関心の高さがうかがわれた。
本市では、小中一貫校を始めるにあたって熱心に反対する人たちがいて(共産党系+善家議員系)、それに加わらなかった私や新政会の議員は攻撃の対象にされ、組織的に大量のハガキが送られてきた。ハガキに署名した善良な?市民は、一方的な偏った情報を素朴に信じたに違いない。しかし、議員というものは、そんなに馬鹿ではない。その人なりに調べた上で議案には賛否を表明するのだから、偏った内容のハガキが送り付けられたくらいで、考えが変わるものではない。
ハガキ作戦は共産党系市民団体が使うテで、やられた方にしてみると、内容によっては個人攻撃に近いいやな気分になる。どのハガキも、レクチャー通りの浅薄な意見しか書いてないから、全然参考にならない。むしろ、市民の後ろで糸を引いている、プロのアジテーターのグロテスクな意図を強く感じた。ハガキ作戦のじっさいの効果としては、送りつけられた方の反感を呼ぶだけで逆効果なのだが、まじめな有権者を取り込んで賛成派議員から遮断するという意味では、政治的には実に見事だ。さすが、反対運動の事務局長さんは、他市で長く共産党の市議を勤めた方だけのことはある。委員長・副委員長さんも、共産党のシンパで名の知られている方だった。
議員の考えを本当に変えたかったら、大量のハガキで「圧力」をかけるのでなく、公平でリベラルな対話集会を企画するべきだ。最初に一度だけ集会に出てみて、とうていリベラルな意見が通用する雰囲気ではないことがわかった。要するに、反対運動を起こすのが目的なんがミエミエで、2度と出る気にならなかった。私は十分な調査に基づく信念があったので、ハガキ攻撃にひるむことはなかったし、逆に闘志が湧いた。
なぜスパコンは世界一でないといけないのか、という某議員の質問が物議をかもしたが、小中一貫校への無理解はこれに通じる貧困な発想だ。全市の学校への波及効果を狙っていることが、まるでわかっていない。遠くの子どもは通えないから不公平だという批判も大いなる的外れで、小中一貫校での研究・実践の実りを全市のすべての学校に波及させるのが、このプロジェクトの真のねらいなのだ。さらに言うと、教員の意識改革を全市に波及させることが、一番大事なのだが、だからこそ、意識改革を嫌う組織が必死で潰しにかかったという背景も見えてくる。
善家先輩が言われるように、お金をかけずに単純に小中連携教育を進めるのが理想ではあるが、それで効果を上げるには、かえって時間と人材が必要になる。私には、武蔵村山市の現状では、それで教育現場がうまく回ると思えなかった。教員の意識とスキルの問題に加えて、大がかりな反対運動が起きるような土地柄なのだから・・。シンボルタワーと作業部隊を作って、上からグイグイ進める方が、本市のような教育後進国では良い結果が出るだろう。
教育委員会は、長い時間をかけて本市の現状を分析し、一種の「上からの改革」が必要と判断して踏み切ったのが、一体型一貫校という手法だったと、勝手に理解している。先々まで見通した経営的な考え方を理解できずに、一つの学校にだけ費用をかけるのはケシカランという、きわめて「出る杭を打つ」式の近視眼的な発想しかできない議員や市民が少なくないのには、心底がっかりした。出る杭は打つのでなく伸ばした方が社会は発展するのだ。
第一、公立学校がどこも同じでなければならない、という考え方そのものが時代遅れで認識不足だ。全体を底上げするには、まず一部を上げるほうが効率が良いのは経営の常識で、実験校的な試みは、文科省はとうの昔から実施している。それに、じっさいの学校運営は「どこも平等」に行われている訳ではなく、良く見ると、けっこうばらつきがあるのが普通だ。一律平等は、イデオロギーがもたらした幻想に過ぎない。
総予算15億円のうちの、約3分の2は国や都から補助金が下りる事実を、長いこと反対派の議員さんたちは知らなかった。本市の持ち出しは5~6億円の支出で済むことを、私は市の幹部への聞き取り調査で早くから察知していた。反対の議員サンたちは良く確かめもせず、やっと分かってからも無視して、ひたすら「15億円」を力説して市民を脅していた。
あげくの果てに、国や都まで出向いて「補助金を出すな」と申し入れたというが、そんなことをされたら国や都の役人が萎縮して、武蔵村山市への補助金が、今後出にくくなる恐れがあるわけで、近視眼的な狂気の行動には本当にびっくりした。そこまでやっては、市の財政に甚大な被害を与える可能性があることまで、なぜ思いが及ばないのだろう。自分の家に火をつけるような恐ろしい行動だ。本当に無意味な事業なら、国の予算を引っ張るのに反対しても良いかもしれないが、小中一貫校は、先進地では効果が証明されていて文科省も応援している夢のある事業である。
体育館も、まだ使えるものをなぜ壊すのか、と非難されたが、すでに40年以上も経っている建物だ。国から予算が引き出せるのなら、その機会を捉えて建て替えておくのは、利口なやり方だ。一つでも建て替えておかないと、この先に一斉に耐用年数が来た時に大変なことになる。現在の文科省の基準では、体育館の建て替えに国の補助金は出ないのだから、防衛予算が付くという、このような千歳一隅のチャンスを活かさないというテはない。
補助金を最大限に活用したのは、どうやら荒井市長が陣頭指揮した仕事らしいが、(善家議員の好きな)元の志々田市長だったらどう動いただろうか。私は、彼なら合理的な思考力に長けた方だから、きっと同様の手法で教育委員会を応援したに違いないと思っている。
共産党に洗脳されて(失礼な言い方でスミマセン!)、必死に反対運動を繰り広げた善家議員は徒労に終わって残念だろうし、考えの違いから手伝えなくて申し訳なかった。しかし、ハガキ作戦は須藤にも行われるということは、反対運動の会場で善家先輩にもわかったはずなのに、それを放置したとすれば、ずいぶんと冷たい仕打ちである。自分の反対運動しか眼中になく、何の説得も聞き取りもなしに仲間?を切るというやり方をされた事は、気遣いの人だと思っていただけに、浪花節の私には残念だった。
武蔵村山の風土は、やっぱり前近代的なのだろうか。せっかく市(教育委員会)が革新的な事業をやろうとしても、革新陣営から反対運動が起きるのは、情けないの一語に尽きる。共産党の反対ならわかるが、民主党に近い市民や議員の一部が、事業の意義を理解できずに同調したとすれば悲しい。文科省は、意外に?革新的な組織で、新しい教育改革への取り組みを応援する風土があるが、肝心の地方自治体の市民や議員サンが無理解ではどうにもならない。