恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

改憲で「戦争する国」、教基法改定で「戦争する人」づくりが進められる今の政治が
将来「恥ずかしい歴史」にならぬように…

「議会開設記念日」に思う

2006年11月29日 | 国会・政党・選挙
~ 憲法を盾に 議会を砦に 言論の自由を武器に ~

■ 11月29日

 11月29日は日本で初めて議会が開かれた日です。
 今から116年前の1890年、名前はまだ帝国議会でした。
 帝国議会は「形式的なもの」というイメージを抱く方が多いかしれませんが、少なくとも当初は「形式的なもの」ではありませんでした。

■ 憲法を盾に 議会を砦に 言論の自由を武器に

 当時の衆議院では、野党(当時は「民党」と呼びました。一方、与党は「吏党」)が過半数を占めました。
 第一回帝国議会の中心議題は、次年度の予算編成でした。審議にあたって野党は「減税」や「軍事予算削減」を求め、政府・与党との「全面対決」を打ち出しました。
 当時の国会の会期は「三箇月」と定められていましたが、政府案の否決が相次ぐなど、いきなり「会期延長」に踏み切らねばならないほど、激しい攻防が繰り広げられました。

 当時の野党のスローガンは、「憲法を盾に 議会を砦に 言論の自由を武器に」というものでした。

 しかし多数を占めていたはずの野党議員は、政府の切り崩し工作にさらされていきます。
 野党議員の結束は乱れ、政府・与党に妥協する者が続出し、次第に議会は政府の言いなりになっていきました。
 
■ あの頃と今

 議会が開設された頃と比べて今は、「盾」にすべき「憲法」は国民主権に変わり、「砦」にすべき「議会」は国権の最高機関として位置づけられ、「武器」にすべき「言論の自由」は、以前の「法律ノ範囲内ニ於テ」という制限が撤廃されています。また、当時のような男子だけ・高額納税者だけの選挙で選ばれた国会議員でもありません。
 当時よりはるかに民主的で、賞賛に価する国会になっているのが当然です。
 しかし、現在の国会の状況はどうでしょうか。議会開設当時と今、何か進歩が感じられるでしょうか。

 自民党による国民新党議員の勧誘、民主党への僅かばかりの法案修正の打診、与党が採決を急ぐあまり審議を打ち切ったことを棚に上げての野党の審議拒否への非難など、正に政府・与党による切り崩し工作が続けられました。
 一方、野党も一時は結束して「対決路線」「徹底抗戦」を打ち出しながら、与党のペースに引き込まれ、粛々と審議・協議に応じ、民主党が妥協を行い、気がつけば多くの問題法案の成立の見通しが報じられているという有様です。
 この民主党の一部からは、審議拒否に入る前から、民主党と与党との間で「落としどころ」について話が着いていたという趣旨の発言まで報じられました。

■ 116回目の議会開設記念日にあたって

 多数野党であっても結束が乱れれば、政府・与党の思いのままになるということは、明治時代から分かりきっていることです。
 まして少数野党がバラバラでは、持てる力も発揮できませんし、あらかじめ「落としどころ」を与党と協議するような野党では、政府・与党へのチェック機能も果たせません。

 116回目の議会開設記念日にあたり、野党には安易な妥協に走らないしっかりした野党共闘の立て直しを求め、与党には少数意見をさらに切り崩し、取り込みを図るような姑息な国会運営を改めるよう求めたいと思います。
 そして何より、国民の負託に堪えうる国会であってほしいと、強く願います。

「生きた教育」の名に恥じない政治を

2006年11月29日 | 国会・政党・選挙
■ 与党が急いだ「復党」

 昨年の総選挙で、郵政民営化法案に反対して自民党を追われ、無所属となった議員が11月27日に復党願を出しました。一連の「造反」「刺客」騒動からわずか1年あまりで復党を誘導した自民党に対して、来年の参議院議員選挙をにらんでの「選挙目当て」だと非難の声が上がっています。
 もちろん「選挙目当て」に違いありませんが、今回、同じ郵政民営化に反対した議員でも、落選した議員には声もかかっていません。参議院議員選挙を考えるなら、落選議員も火種となりかねません。本当に万全を期すのであれば、こうした勢力も取り込んでおくのも一つの策です。
 しかも、今後また紛糾が予想される臨時国会の真最中に、これを行ったのには別の狙いがあります。それは、政党助成金です。

■ 「金目当て」の復党誘導

 政党助成金は、直近までの選挙における得票数で算出する「得票数割」のほか、所属議員数で算出する「議員数割」があります。
 多くの得票、多くの議員数を持つ政党ほど、多額の助成金を得ることが出来ることは言うまでもありません。
 政党助成金は月割ですが、毎月計算を行うのではなく、年に一度の「基準日」に一年分をまとめて算出します。その基準日は「1月1日」なのです。

 安倍首相は11名の議員について、復党手続きを進めるよう指示しましたが、「議員数割」はこの11名分だけでも年間約2億5千万円にのぼります。
 もちろん、これはあくまで「議員数割」ですから、自民党は「落選した者には用はない」というわけです。
 これから党内の手続きを経て復党ということになれば、この日に間に合います。そして自民党には来年、2億5千万円が入るという訳です。

■ 自民党の「億単位」の減収

 2億5千万円という金額は、自民党の収入全体では大した額ではありません。しかし決して馬鹿にならないのも実情です。
 05年の自民党の年間収入は、対前年比で約1億8540万円の減収でした。自民党の政治資金団体である国民政治協会の年間収入も、対前年比で約2億4231万円の減収となっています。

 今回の無所属議員だけでなく、国民新党や新党日本に行った議員は、ベテラン・中堅が多くいました。彼らは資金源を握っていましたので、その離党は、自民党の財政に億単位で影響を及ぼしていたのです。
 総選挙では大勝し、新人議員が大量に増えましたが、それくらいではこの欠損を補いきれなかったことがよく分かります。

■ 「八百長」だった総選挙

 昨年の総選挙で、自民党は「改革を止めるな」と唱え、当時の小泉首相は「郵政民営化、イエスかノーか!」と絶叫しました。そして「ノー」を唱えた候補者を排除して、多くの議席を得ました。一方「ノー」を唱えた候補者にも同情が集り、彼らも一定の議席を確保しました。

 その反対派も自民党に復党するというのですから、昨年の総選挙そのものが「八百長」だという批判も当然です。

 いったん追い出した議員を再び「選挙目当て」「金目当て」で呼び込む安倍自民党。また「身分保障」を求めて、高らかに掲げた「政治信念」をあっさりと覆し「復党願」を提出する国会議員。このような人々が国政に携わっているのですから、嘆かわしい限りです。
 
■ 「生きた教育」に恥じない政治こそ先決
 
 「政治は生きた教育」という言葉があります。
 1950年11月、当時の東京大学の南原繁学長は、衆議院文部委員会で学校教育について意見を求められ、次のように発言しています。

 「むしろ国会自身が一番『生きた教育』の模範となるべきものを示していただきたい。これはこの委員会を通じ、また本会議を通じ、また楽屋裏を通じて、すべてりつぱな政党政治をつくつて、われわれに『日本の模範』を示していただきたい。」

 いま日本の国会、そして政党政治は、「日本の模範」と呼べるほど、立派なものでしょうか。
 日本の政治は、私たちや子どもたちが、見習うべき「生きた教育」だと言えるでしょうか。

 安倍首相は「教育の再生」を掲げて教育基本法の改定を図り、「国家主義」教育への回帰を目指していますが、教育を語ろうというのであれば、まず国会、そして日本の政党政治が「力ずく」「金ずく」ではなく、真に「生きた教育」「日本の模範」の名に恥じないような態度を示すことが先決ではないでしょうか。

勇気

2006年11月19日 | 叫び
【 勇気 】

彼女はたたかった

地位を投げ出し
沖縄の平和への願いを胸に
人々の平和への祈りを背に
沖縄を自分たちの手に取り戻すため
必死に訴えた

彼女は見過ごせなかった
美しい島に爆音が轟き
輝く海が踏みにじられることを

そして何より
悲しい過去が再び甦ろうとしていることを

だが金は強かった
人々は
食べていくため
養っていくため
平和や静寂よりも
爆音や恐怖を選ばされた

つくられた喘ぎの中で
爆音に耐え
恐怖に脅かされながらも
彼らは生きていかねばならなかった
そして振興を選んだ

ほかでは無条件の振興が
ここだけは
爆音や恐怖という
苦悩と引き換えだ

しかし人々は
本心から受け入れはしまい

何かが起きれば
真っ先に狙われることを

その何かを起こそうとするのが
自国の首魁であることを

誰があきらめても
彼女と
31万の人々は
決してあきらめまい

倣わねばならない
彼女たちの思いを

変えねばならない
喘ぎをつくり出す国を

喘ぎも 恐怖も 爆音も
つくられたものだ

壊すことも
つくり替えることも
不可能ではない

私は知っている
彼女の心の美しさ
その願いの強さを

私は讃えよう
彼女の勇気を

私は恐れない
彼女に勇気をもらったのだから

ためらいはしない
その勇気を受け継ぐことを

中学生を脅す「愛国者」

2006年11月18日 | 憲法
■ 生徒たちからの「意見書」

 教育基本法(政府)案は衆議院での委員会採決、本会議採決を、与党が単独で強行し、17日にも与党単独で参議院に付託されました。
 このような慌ただしい動きのなか、札幌市の中学生たちが、自分たちで勉強して「国民に愛国心を強制するものだ」という結論に達し、安倍首相へ「意見書」を送りました。

 「安倍総理は本当に私たちの将来のことを考えてくれていますか?」
 「国を愛する心は人それぞれが自分から思うものであって、おしつけられるものではない」
 「返答をください」
 そこには、「おしつけられる」対象である生徒たちの、切実なメッセージが綴られていました。

■ 生徒や学校を、恐怖に陥れた「愛国」メール

 これが地元紙(北海道新聞)で報じられ、地元テレビ局(札幌テレビ放送)が生徒たちへの取材を申し入れ、学校も受け入れました。しかし取材の当日、学校側はテレビ局に「匿名」という条件を付けました。
 実はこの「意見書」に対して、強い口調で抗議するメールが送り付けられていたのです。

 「今回中学生が安倍総理に送った意見書は一体何だ。お前ら学校は一体どんな教育をしているのか?日本人が日本を愛する心を持つのは当然であり、その様な・・・」

 そのテレビ局のサイトの動画から読み取れるメールの内容はこの冒頭部分だけでしたが、このような「脅迫」めいた文書が送りつけられた以上、学校が「生徒たちの身に危険が及ぶのではないか」と配慮したのです。

 「愛国者」が教育現場、そして生徒たちを、恐怖に陥れたのです。

■ 「愛国心」とはこんな卑劣な「心」か

 ニュースキャスターは、ニュースの中でこう語りました。

 「愛国心とは、こんな卑劣な心なのでしょうか。」
 「愛国心の強制」どころか、「言論の自由」さえも封殺しようという大人の行為に、15歳の心は深く傷つきました。」
 「法案についての「賛成」「反対」があるのは当然だと思います。15歳の彼女たちは自分たちで考えて、著名もつけて安倍総理に反対の意思を表明しました。ところが、それを知った一部の大人は「匿名」で彼女たちを批判した。あまりにも卑劣ではないでしょうか。」

 卑劣な「愛国者」と、自ら名前を明らかにして思いを伝えようとした生徒たち。
 皆さんはどちらの側に付きますか。どちらを「尊重したい」と考えますか。

■ 「動かないとこのまま」

 インタビューの中で、一人の女子生徒が、こう語ってくれました。
 
 「反対の人は『もうしょうがないな』ってなってるから・・・。『動かないとこのまま』ですよね。」

 私たち大人が「もうしょうがないな」とあきらめている場合ではありません。
 正に「動かないとこのまま」です。

 「愛国心の強制」につながる教育基本法改定に、不安や恐怖感を抱く子どもたちは、この学校の生徒だけだと言い切れるでしょうか。

 また、子どもたちを、今回の「愛国者」のような行動を取る人間に育てたいと思われますか。

 私たち大人は、今回声を上げてくれたこの生徒たちの勇気を、絶対に「見殺し」にするわけにはいかないと思います。

私はあきらめません

2006年11月16日 | 教育基本法・教科書
教育基本法改正案、衆院で可決

15日の委員会採決、16日の本会議採決と、与党は単独でこれを行い、衆議院を通過させました。

 その与党が、野党の採決欠席や、審議拒否を批判していますが、極めて「的外れ」です。

 圧倒的多数の国民の声は「慎重に審議を」「時間をかけて議論を」というものでした。
 その国民の声に応えて、より徹底した審議を主張した野党に対して、その「徹底審議」を「拒否」して採決に持ち込んだのは与党のほうです。
 御用メディアや評論家の皆さんは、野党に「審議復帰」させようと野党側への攻撃を強めるでしょうが、私はだまされません。

 衆議院通過は大変残念ですが、落胆している暇はありませんし、まだ終わったわけでもありません。

 国会では、野党がしっかりと共闘を組み「徹底抗戦」の構えです。
 国民の声に応えた野党を、参議院でも激励し、法案や審議などの問題点を明らかにしていきながら、法案の廃案を目ざして、力を尽くしていきたいと思います。

 私は一人の父親です。子どもたちに対して責任があります。
 私は現在の国民です。将来の国民に対して責任があります。

 大切な子どもたちの「心」や「命」に関わる問題を、あきらめるわけにはいきません。

安倍総理大臣への手紙

2006年11月15日 | 教育基本法・教科書
内閣総理大臣 安倍晋三 様

 謹啓 初めてご挨拶申し上げます。goo-needsと申します。
 先の総理大臣ご就任を、あらためてお祝い申し上げます。

 さて、総理は就任3日後の9月29日、衆参両院で所信表明を行われました。この所信表明演説に対して「具体策が見えない」「抽象的すぎる」「骨太の方針の引用ばかりだ」といった酷評が多かったというのはご存じの通りです。

 しかし私は、この所信表明の中で、これは素直に評価したいという一節がありました。
 それは「私は、国民との対話を何よりも重視します。」という総理の決意でした。

 国民の負託を受けた政治家の皆さんにとって「国民との対話」を重視するというのは本来、極めて当然のことなのでしょうが、当選・就任した途端に態度を変え、「国民の声を無視して自分たちのやりたい放題」という人々が多いというのも、残念ながら事実だと思います。
 総理がその所信表明にあたって、あらためて「国民との対話」を重視する姿勢を打ち出されたのは、その現状を打開しようという決意ではないかと期待を寄せたものでした。

 「具体策が見えない」と言われた所信表明演説でも、「国民との対話」については、総理はしっかりと次の「具体策」を挙げておられました。

 「メールマガジンやタウンミーティングの充実に加え、国民に対する説明責任を十分に果たすため、新たに政府インターネットテレビを通じて自らの考えを直接語り掛けるライブトーク官邸を始めます。」

 しかし考えてみれば、この内「メールマガジン」「インターネットテレビ」は、政府から国民への「一方通行」の媒体であり、決して対話とは呼べるものではありません。こうしてみれば、総理が重視された「国民との対話」の手段として残るのは「タウンミーティング」だけです。

 その「タウンミーティング」すらも今、政府主導の「やらせ」が次々と発覚しています。
 総理が掲げられた中で、唯一の「国民との対話」の場までもが、政府からの「一方通行」だったということに、私は失望を隠せません。
 しかもこの「やらせ」が、総理が内閣官房長官時代に、その内閣府が関与した事例がいくつもあるというのですから尚更です。

 さらにこの件について内閣府は、「依頼者」や「サクラ」に「謝礼金」まで支払っていたという疑惑まで発覚しているのです。

 この発端となったテーマは「教育改革」です。これは言うまでもなく総理ご自身が「最重要課題」と位置づけられた政策課題です。

 総理が「何よりも重視します」と高らかに宣言された「国民との対話」が、「最重要課題」と位置づけられた教育の課題について、問題になっているのです。
 それにもかかわらず、政府・与党の皆さんから「国会の議決が全て」「強行採決も辞さない」という声が上がることを、安倍総理はどのようにお考えでしょうか。

 もしこれに何も異論を唱えず、強行採決を許すようであれば、それこそ総理の「私は、国民との対話を何よりも重視します。」との所信を、自ら踏みにじることになるのではないでしょうか。

 タウンミーティングでの発言は、「やらせ」を除けば教育基本法改定に反対の声が多かったという指摘もあります。
 実際、どの世論調査を見ても、総理ご自身や政府・与党が唱えるように「何としても今会期中の成立を」との声はごく僅かであり、国民の圧倒的多数は「慎重」を望んでいます。
 
 安倍総理におかれましては、こうした国民の声を真摯に受け止められ、まっとうな「国民との対話」を重視して頂きながら、「美しい平和憲法を持つ日本」の首相に恥じない政権運営を行って下さいますよう、国民の一人として切にお願い申し上げます。

謹白

「愛国」は伝統や文化ではない

2006年11月13日 | 教育基本法・教科書
 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する…」
 これが、問題点の多い教育基本法改定案の中でも、特に問題視される「愛国」の表記です。
 今回は、日本の公教育における伝統と文化、そして「愛国」について書いてみたいと思います。

■ 「学事奨励に関する被仰出書」

 日本では教育の場として藩校・寺子屋・塾などが開かれました。あるいはもっと前にさかのぼれば紫式部や清少納言のような家庭教師もありました。
 しかし、地域的・身分的・期間的・人的側面、そして性別の面でも極めて限定的なものに過ぎませんでした。
 本格的な公教育が始まったのは近代です。政府はいわゆる「被仰出書(おおせいだされしょ)」、正式には「学事奨励に関する被仰出書(太政官布告第214号)」を発して、初めて日本の公教育の理念が示されました。
 この「被仰出書」の冒頭は、教育の必要性についてこう説いています。

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 人々が自立して財産を管理し、その仕事を成功させ、その人生を全うさせるのは、他でもなく自分を律して知識を開き、才能を伸ばすことによるものである。そのためには、学ぶということがなくてはならない。それが学校を設置する理由であり…
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 日本は初めて全国に学校を作るにあたって、教えられる側の「人々」、すなわち子どもたちの将来のためを真っ先に考えました。
 「被仰出書」にはこのほか「華族・士族・兵卒・農民・工匠・商人および婦女子を問わず、村々に不学の家やの不学の人をなくすることを目ざす」として、身分・男女別を問わず誰でも学べるよう定められました。
 人々の「教育を受ける権利」を政府として保障するために、学校を設置して教育環境を整え、教育を受けさせるようにし、「不学」の人をなくすこと。これこそが日本の公教育の原点だったと言えるでしょう。

■ 軍人・山縣有朋による「教育勅語」

 しかし日本の公教育は、徐々に変わっていきました。
 翌1872年の「徴兵告諭」に始まり、73年の「徴兵令」、74年の「征台の役」、75年の「江華島事件」など軍事面での動きが急激に加速します。
 こうして、軍が強化・整備されていく中、82年「軍人勅諭」が作られました。この「勅諭」は、徴兵でかき集めた人々に対して「軍人としての心得」を説き、「天皇への絶対的な忠誠心」「天皇の統帥権(軍隊指揮権)の歴史的正当性」を叩き込むものでした。

 これを入隊させてからではなく、幼い頃から全ての国民にその基礎を叩き込んでおこうと、90年、山縣有朋内閣のときに教育勅語が作られました。そこには「何かあれば国に義勇をささげ、天皇陛下をお助けせよ」との教えが記されました。

 この教育勅語が教育の中心に置かれ、それまでの「子どもたち一人ひとりのための教育」ではなく、天皇・国家のために「自ら犠牲となれ」という「愛国心」「忠誠心」の徹底と、軍務の基礎を植えつけるという、極めて偏向した教育に転じていったのです。
 この山縣有朋はもともと軍人であり、首相になる以前に次のような意見書を政府に突きつけています。

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 日本の利益線は朝鮮だ。その利益線を守るのに大事なのは、まず兵備、次に教育だ。教育の力で国を愛する心を養成し、これを保ち続けよ
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 根っからの軍人である山縣有朋は、この後の朝鮮半島への侵略のために「兵備」という軍拡とともに「愛国」教育を主張し、自ら首相の座に着き、教育勅語を作らせたのです。 

■ 「愛国」は西洋の「借り物」

 こうして山縣有朋が教育に持ち込んだ「愛国」は、決して日本の「伝統や文化」と呼べるものではないという指摘は、実は当時からありました。
 教育勅語が定められた翌1891年、思想家・西村茂樹はその著書「尊皇愛国論」で次のように批判しています。彼は後に華族女学校の校長や宮中顧問官を務めるほどの「御用」「保守系」の思想家でしたが、そのような立場の人でさえ、この「愛国」には強い反発を示したのです。

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 わが国で使われる「愛国」というものは、…西洋諸国の「patriotism」を訳したものである。…わが国の古典を見渡す限り、西洋の人々が唱えるような「愛国」というものはなく、また「愛国」の態度を示した者もいない。
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 つまり朝鮮半島への侵略戦争に人々を駆り立てるために、山縣有朋が利用しようとした「愛国」は、同じく侵略戦争に明け暮れていた西洋からの「借り物」に過ぎないというのです。

 実際この教育勅語制定から敗戦までの約55年間、日本政府は軍国主義教育を強化しながら、日清戦争・日露戦争・第一次大戦・日中15年戦争・太平洋戦争へと突き進み、その期間の半分以上を戦争に費やしました。我が国の歴史上、これほどまでに対外戦争に明け暮れた時期はありません。
 このような教育によって自ら戦争に身を投じ、命を失っていった子どもたちは、それこそ数えきれません。それほどまでに、「借り物」の「愛国」教育はその威力を発揮し、多くの子どもたちの命を奪っていったのです。

■ 「子どもたちのため」を取り戻した「教育基本法」

 戦争が終わり、日本では「教育の民主化」が進められました。
 戦後の日本の国会において、多くの子どもたちの命を奪った教育勅語は廃止され、教育基本法が制定されたのです。
 この教育基本法が定める教育理念は、「人格の完成」「平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」というものでした。

 また、教育行政のあり方については「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」と定められました。これは敗戦まで続けられた、教育への国家の不当な支配を反省し、政府や権力者のためではなく、子も親も含めた国民全体のために教育があるのだという宣言に他なりません。

 子どもたちはおよそ56年ぶりに、教育の「権利主体」すなわち主役へと返り咲き、教育勅語の下で国家や権力者が続けてきた「不当な支配」から解放されたのです。
 
■ 「子どもたちのための教育」と「国家のための子どもたち」

 この教育基本法について「戦後の占領下で制定された」ということだけを批判材料として、これを変えようとする人々を多く見かけます。しかし、こうして見てみると日本の教育は「被仰出書」が描いた、子どもたち一人ひとりのための教育、「人々」のための教育という原点を取り戻しただけではなかったのではないでしょうか。

 この現行の教育基本法によって、本来の日本の公教育の原点を取り戻したというのに、また一部の権力者によってそれが奪われようとしています。子どもたちに「愛国」を叩き込むなど、日本の公教育の歴史に照らして言えば、伝統でも文化でもなく、子どもたちを将来、戦争に駆り立てようとする「洗脳」に過ぎません。それは我が国の公教育の歴史が強く物語っています。

 現行の教育基本法に貫かれている「子どもたちのために何ができるか」という姿勢と、教育勅語や改定案に流れる「国家や権力者のために、子どもたちに何をさせるか」という姿勢では、天と地以上の開きがあります。


■ 「子どもたちのための教育」を守ることこそ日本の伝統・文化

 「侵略」や「戦争」のための「愛国」、この教育勅語の制定に力を注いだ山縣有朋は長州藩に生まれ、高杉晋作や木戸孝允、伊藤博文らとともに松下村塾に学んだ一人です。
 今その松下村塾に心酔する安倍晋三氏が首相となり、その山縣有朋にならってか、日本の伝統・文化とは相容れない「愛国」教育を、再び強引に押し通そうとしています。
 
 彼らは教育勅語を絶賛しながら「愛国」を教育現場に持ち込み、憲法を変えて武力行使、すなわち「戦争への道」を開こうとしています。このような人々が「日本の伝統・文化」を語るのですから、これほど馬鹿げたことはありません。

 かつて戦争に突き進み、戦争に明け暮れた「異常な55年間」を築いた教育勅語への逆行を許さず、教育基本法が貫く「子どもたち一人ひとりのための教育」を、国家や権力者からの「不当な支配」から守りぬき、しっかりと実現していく。これこそが「被仰出書」という日本の公教育の原点であり、いまなお教育に求められる普遍的な理念です。
 このことが日本の教育の歴史、伝統・文化が示す確固たる結論であると思います。

※全歴史文献の口語訳・筆者

それが国家百年の教育のやり方か

2006年11月02日 | 教育基本法・教科書
■ 「やらせ」のタウンミーティング

 9月に青森県で行われた「教育改革タウンミーティング」において、政府は参加者に対し、教育基本法改定案に「賛成」の立場で質問するよう依頼する「やらせ」を仕組んでいたことが明らかになりました。
 内閣府、青森県教育庁などは、依頼した相手に文部科学省が作成した発言例を渡し、発言の仕方について「趣旨を踏まえて自分の言葉」で、「『お願いされて』とか『依頼されて』と言わないで下さい」など、事細かに指示を出していたことも報じられています。

 幅広い国民と直接、意見交換を行い、その声に耳を傾けるために設けられたのが、タウンミーティングだったはずです。
 それを政府が「やらせ」を仕組み、改定推進の雰囲気を演出するという姿勢は、本気で国民の声に耳を傾けようとしていないことの表れであり、厳しく非難されるべきだと思います。

■ 国民から逃げる政府

 しかし教育基本法に関して、政府が国民の声を聞こうとしないのは、これだけではありません。
 重要法案では必ず行われる「地方公聴会」についても同じです。
 前回の通常国会で教育基本法改定案の採決を急いだ政府・与党は、審議時間が予定の半分ほどしかなかった時点で、野党側に「地方公聴会」開催を持ちかけました。野党は、審議時間が不十分であることを理由にこれを受け入れませんでした。
 今国会で法案の審議が進む中、政府・与党は前回の野党側の拒否を理由に、地方公聴会の「省略」を主張しました。これに対し野党は、国民全体に関わる重要な問題であるとして、47都道府県で地方公聴会を開くよう主張しました。
 結局、11月8日にわずか4都市で開催されることが決まりました。たった4箇所での限られた時間の公聴会で、一体どれほどの声が聞けると言うのでしょうか。

 政府・与党は正に形ばかりで「アリバイづくり」のような地方公聴会を行い、その翌日・翌々日と、一気に総括質疑、委員会採決、本会議採決に持ち込もうという構えです。
 国民がその中身をよおく分からない内に、一気に逃げ切ってしまおうという意図が見え見えです。

■ 安倍首相の嘘

 そんな政府・与党ですが、言うことだけは立派です。
10月26日に送られた「安倍内閣メールマガジン」には、こう書かれています。

――――――――――――――――――――――――――――――
「教育再生会議」は、昨日(10月25日)、2回目の会議を開きました。17人のメンバーがそれぞれの教育改革を熱く語っておられ、議論が尽きません。皆さんが、現場に根ざした意見を述べられるので、どれも説得力があります。この議論の輪を大いに広げ、多くの意見に耳を傾けながら、国家百年をつくる教育の再生に全力を尽くしたいと思っています。
――――――――――――――――――――――――――――――

 この記事は実に示唆に富んでいます。
 教育の問題は、安倍首相やその側近が好き勝手に選んだ、わずか17人の間でさえ「議論が尽きない」ほどの問題です。
 その17人の顔ぶれを見るに、本当に「現場に根ざした意見」を述べることができる人物は一体何人いるでしょうか。
 逃げることばかりを考えている政府・与党が、よくこれだけ厚顔無恥な嘘が吐けるものだと驚きます。

■ 国家百年の「恥」

 現行の教育基本法の改定に対し、世論の大勢は「慎重に」「時間をかけて」という立場です。
 これを全く無視し、法案成立を急ぐあまりの政府ぐるみの「やらせ」、昨年の郵政民営化法案にも満たない審議時間、たった4箇所だけの地方公聴会など、どれを取っても極めて姑息かつ強引であり、明らかに拙速です。
 安倍首相の「この議論の輪を大いに広げ、多くの意見に耳を傾けながら」という言葉が大変しらじらしく思えてなりません。

 教育基本法は長きにわたり、教育の憲法として重んじられてきました。
 これを改め、「国家百年をつくる教育」を目ざすというのであれば、百年後に恥じない法案で、百年後に恥じない審議を尽くし、百年後に恥じない合意形成を図るべきです。
ところが、法案の中身は戦前回帰、審議は拙速、合意形成にあっては「やらせ」や「簡略化」、さらに首相はしらじらしい嘘ばかり、という有様を見過ごしたのでは、私たちはずっと子どもたちに恥じ続けなければならないように思います。