奨学金

奨学金事業を行うにあたり日々感じたことを綴ります。

入試

2006年12月10日 | 奨学金
近年の大学入試の傾向として、特別選抜と呼ばれる「指定校推薦、公募推薦、自己推薦、AO入試、AC入試」などという入試制度で進学を決める高校生が急増している。人物や目標そしてやる気を見る試験ということで、素晴らしい制度だと感じる反面、大学側の裏の事情も垣間見られ、どうもすんなりと納得できない面もある。
近年の少子化に伴って、学校経営がとても苦しくなり、何とか生徒を集めなければならない大学側は、数値化されて難易度が発表されてしまう一般受験においては、大学の難易度が下がらないように、そこそこの競争率を保とうとする。
これに対し、特別選抜と呼ばれる試験は、学生を確保するために多用するケースが多い。青田刈りの側面もあり、一般試験よりも優秀な人材も確かにいるが、中には一般試験では到底入学できないような学生も入学することができる。
そして、これらの試験が、今一つ信用できないのは、高等学校が出す調査書があまりにいい加減であることだ。
現在、高等学校の成績は、絶対評価と呼ばれる形式になり、極端な例では「先生が気に入った子は「5」、高等学校によっては「3」以下はつけない」という。
そうかと思えば、今まで通り相対評価で通知表をつける学校もあり、高等学校が出す調査書ほどいい加減で当てにならないものはない。ところが、多くの特別選抜試験でもっとも重要視されるのが、この調査書である。
せっかく、多様な人材を選抜できる制度を導入しながら、全く機能不全に陥っているこの制度を何とかしてほしいものであるが、特に首都圏4県の公立高等学校教員の態度を見ていると、多くの教員が既にやる気を無くしていて、入試の改善どころではないような気がする。(東北や北海道の公立高校の先生は、家庭環境も把握していて、とても素晴らしい方が多いと思う。)
首都圏4県の学生が、大学受験をするためには、まず、塾に通わなければ受験することすら厳しいが、地方の学生は、塾に行かなくても、受験できるサービスが受けられている場合が多い。どれだけ、首都圏4県の教員が堕落していることか、あまりの落差に愕然とする今日この頃である。

大学改革(その3)

2006年12月07日 | 奨学金
日本にある大学の中で、きちんとしたビジョンを持ち、小さいながらも素晴らしい実績を上げている大学がある。近年、特に評価が高く、ある意味東大や早慶よりも人気が高い。
それは、国際基督教大学(ICU)という大学だが、総合大学と呼べる規模ではないにも関わらず、OBの進学先、就職先はぴか一で、国際機関などにも強い。世の中の大学が、全て総合大学で、全てが研究機関を持たなければならないわけではない。規模に応じて、特色を持ったからこそ世の中から一目置かれている。
もう一つ、新設されたばかりの大学だが、ビジョンが一貫していてわかりやすく、受験生から人気が出つつある大学が、なんと秋田県にある。国際教養大学という大学だが、初代学長が描く構想を、一歩一歩実践していて、実績も上がってきている。中には、一橋大学や北大から志望を変更して秋田に行く者も出てきているようである。
規模的にも、場所的にも恵まれているとはいえないが、1年生の間は全寮制で、人間関係を身につけ、2年生で必ず海外留学し、学ぶべき場(コミュニティー)に飛び込む。そして、卒業するためには、アメリカの大学院に無条件で入れるレベルの英語力が無いと卒業させない。
他の大学とは一線を画し、総合大学と同じ土俵で戦わない。実に素晴らしい取り組みだと思う。研究機関がある総合大学で学びたい学生は総合大学へ行けばよい。卒業後に、世界に羽ばたけることが出来る大学もまた、一つの考え方だ。
細分化された、専門分野は世界の最先端の大学院で学べばよい。
その意味においては、先のブログで述べた、横浜にある公立大学も、小さな規模で総合大学に対抗するのでは無く、規模に応じ、考え方を変えるのも一つの選択である。
研究機関をしっかりと持ち、総合大学として生き延びたいのであれば、横浜国立大学と合併し、横浜駅前のみなとみらい地区にでもキャンパスを移せば、京都大学や大阪大学に匹敵する大学になることは可能だろうが、そうでなければ、思い切ってICUや国際教養大学のような選択をするのも必要なことだと思う。今のままの中途半端な状態では、どんどん世間から見放されるだけだと私は思う。

大学改革(その2)

2006年12月06日 | 奨学金
大学改革は待った無しの状況だが、改革したい人間と、改革したくない人間との間で多くの確執を生む。一概にどちらの言い分が正しいという事は無いが、どちらかというと、改革を拒む側に問題が多いと思われる。
確かに改革が成功するかどうかはわからないのが、今までの体質のままでいるよりは明らかにプラスである。
良く「大学の自治」を盾にいろいろ言う向きがある。確かに「大学の自治」は憲法で保障され、人類が歴史から学び勝ち取った大切なものであるが、近年の教員(公務員)は「大学の自治」を取り違え、研究成果が出なくても、授業を休講にしても、学校に週1日しか出勤しなくてもetc、許される体質をつくってしまい、あまりに負の部分が大きくなりすぎた結果、外部からの圧力で、大学改革を余儀なくされているのだと思う。
反論も多いと思うが、大学は何も研究だけしていればいい機関ではない。学生に対するサービスを忘れてしまい、働く側の理論だけを振りかざすようでは、お先真っ暗である。
改革には大きな犠牲が伴うが、公務員は一度きちんと襟を正した方がいいと思う。
ここで、私の文章の中に「公務員」という言葉が良く出てきて、「公務員」に対し批判をしているように思えるかもしれないが、基本的には、私は公務員は素晴らしい能力を持ち、公僕の気持ちを持っている人が多いと思っている。しかし、公務員として年を重ねるほど、おかしな考え方や価値観を持ち、市民のそれと大きく乖離していることを理解してほしいのである。
また、別の機会に述べるが、特に価値観がずれてしまっている世代というものがある。現在、贈収賄で世間を騒がしている世代を考えればすぐにわかる。道徳も能力も他の世代よりかなり劣り、自分達が偉いと勘違いし、多くの事件を起こす世代、それは、団塊の世代より2~6年くらい前の世代である。今の、おかしな制度を基本的に作り上げた世代、戦争の後遺症はこんなところにも影響を及ぼしているのかと思う。今の若者の方がよっぽど世の中のことを考え、技術や能力を持ち素晴らしいと思うのは、きっと私だけではないと思う。

大学改革(その1)

2006年12月05日 | 奨学金
大学が独立行政法人化されてから、「大学改革」という言葉を良く耳にする。奨学金事業を行っていると、大学側と接することも多く、大学側の意気込みが伝わってくる大学と、そうでない大学に真っ二つに分かれる。
大学職員が一生懸命になり、多くのサービスを提供しようとして、企業や私どものような団体に頻繁に足を運ぶ大学もあれば、言葉だけが先行し、全く職員に覇気が感じられない大学がある。
はっきり言って、国公立大学の事務職員は一体何を考えているのか、単に自分の職場であり、学生のことなどきっと二の次なのだろう。今、本当に学生のことを考え、生き残りをかけて頑張っているのは、私立の大学である。
昔と違い、学費も文系であれば、年間で20~30万程度の違いである。大学が提供する環境やサービスを考えると、国公立に入学するメリットはほとんど無い。
国公立大学の職員が公務員意識を無くさない限り、堕落するだけで、今のままでは再生はあり得ない。いくつかの国公立大学が潰れてからでしか、理解できないような大学職員は、極端な言い方をあえてするが、一度全員解雇したほうがいいと感じる。
横浜のとある公立大学は、行政側からの「大学改革」に戸惑い、何度も学部の名前を変えたり再編したりして、混乱しているようだが、学生抜きの改革では、単に混乱を招くだけで、何も解決しない。
大学を運営する職員が、企業や奨学金財団に足を運べば、多くの魅力ある提案が得られるはずである。例えば、寄附講座にしても、単に講座枠を企業に与えるだけではなく、企業が求める人材を育成するため、企業側の人事と一緒になり、企画を立てることもできるはずだ。行政でもトヨタでもJRでもANA等どこの世界でも、求める人材は、「自ら考え行動できる人材」「どこの世界に行ってもコミュニケーションが取れる人材」を求めている。行政や企業とタッグを組み、企画を考え、行政や企業も一緒になり育成状況をチェックするような、新しい発想を持つべきである。
また、昨今、貧富の差が確実に広がっている。政府自民党の政策だから、自民党を国民が選ぶ限り、この路線が変わることはないだろう。大学全入時代といえども、一定レベルをクリアーする人材を育てている大学に入学するためには、お金持ちの師弟であることが条件になってしまう。
教育にはお金が掛かる。しかし、学びたい学生が学べない状況もまた社会の損失である。ぜひ、国公立は、国公立大学としての特色を生かすとともに、私立大学の取り組みを見習ってほしいものである。

公益法人改革

2006年12月04日 | 奨学金
公益法人改革をするという法律が通ったことにより、新制度に移行する必要がある。
では、何故今改革なのか?本来ならば「公益」と名前がつけば、本来ならば安心できるはずなのだが、官庁の外郭団体である各種公益法人が官庁からの天下りを受け入れ、莫大な給料と退職金を払っていることが判明し、幾つかの不祥事が明るみに出たことで、「公益」とは何か怪しいものという感覚を国民に植え付けてしまった結果、改革をせざる得なくなったのだと、個人的には感じている。
しかし、民間の「公益団体」はとても真面目に運営しており、上記のような問題とは無縁である。民間団体からすれば、同じように見られることは、いい迷惑である。
最近の報道を見ていると、静岡でのタウンミーティングにタクシーで600円もかからない距離を移動するのに、東京からハイヤーを手配し、40万円も50万円もの費用を使うなど、「公」のやることは、桁外れに無茶苦茶で、税金を一体なんだと思っているのか?
腹が立つが、公務員という職種は、入省するときの「心意気」とは裏腹に、ぬるま湯に浸り、やる気をなくし、自分達の処遇だけを良くしようとしているように感じるのは、私だけであろうか?
ホームページに掲載されている東京都のモデル給与や退職金の算定式を見ると、中小企業で頑張っている人たちの苦労など、公務員には理解できないと感じた。少なくとも、最終給与を退職金の基礎とする制度は、公務員の悪知恵で納得がいかない。

ご縁

2006年11月28日 | 奨学金
奨学金をもらう方は、奨学金さえ手に入ればいい(嬉しい)が、出す方は何が目的だろうか?
確かに、「社会貢献」で片付けることも出来るが、内部の者からするとやはり存在意義を考える。
例えば奨学金を出すにも、この財団には「法律」に強い人材(奨学生および奨学生OB)が揃っている。「流通」のことなら~財団に聞けば人材も資料も揃っている。といった具合だ。しかし、そのような特徴を持とうと考えたら、奨学金に色々な条件を付ける必要が生じる。例えば、「法学部に入学する者」とか「商学部に入学し公認会計士や中小企業診断士を目指している者」といった具合だ。しかし、私が携わる財団は、学ぶ学部も、将来の進路も、何も制約が無い。
では「存在意義は?」。私たちは「ご縁」という言葉で「存在意義」をあらわしている。
奨学生になれたのも、大学に入学できたのも、何かの縁である。採用されたり、合格したりした者よりも、もっともっと大変な経済環境で、もっと努力をし、もっと素晴らしい考えを持っているかもしれない。ただ、試験当日の体調が悪かったり、人見知りをしたりして、うまくハードルを越えられなかった者もたくさんいる。やはり、奨学生になれ、本財団と関わったのは「ご縁」なのである。
せっかく得た「ご縁」を大切にして、いつまでも繋がっていることで、人と人の気持ちが伝わり、将来大きな力になるのだと考えている。

希望の光

2006年11月24日 | 奨学金
私どもの奨学生の中には、両親がいない者がいる。親戚に頼るわけでもなく、自分達の力で生きている。資産があるわけでもなく、どのような暮らしぶりなのか、心配しながらも、明るい笑顔で接してくれる彼らを見ていると、「人間ってすごいな」と感じる。
そして彼らは、自分の境遇を恨むのではなく、「明日の日本に活力を与えたい」「教育現場に明るさや活気を取り戻したい」という気持ちで生きている。常に人のことに気を配り、社会を良くしようと考えている若者が現代にいることに感謝するとともに、明日の日本に希望を見出している今日この頃だ。

お国柄

2006年11月23日 | 奨学金
本財団における奨学生の国籍は二十数カ国に及ぶ。人数が多いのは、日本、中国、韓国である。この中で勉学に励むのは中国人と韓国人である。彼らの特徴は死ぬ気で勉強している。とても日本人ではかなわない。ただし、何事にも一生懸命というよりは勉強にのみ一生懸命であるように感じる。そして、中でも中国人はほとんどの方が日本は単なる踏み台であり、目的はアメリカで学ぶことである。もっと端的にいうと、中国人の方は自分が成功することが目的であり、将来国に帰って恩返ししようという気持ちはあまり無いようである。
その考え方なのか性質なのか、OBとなったとたんに連絡先がわからなくなるのは圧倒的に中国人である。非常に腹に据えかねて中国人OBに、このことを話したことがある。「OBになったとたんに、はい、さようならでは、今後中国人は採用してもらえないよ!」返ってきた答えは、「中国人は恩は一生忘れないが、大陸気質で、表現するのが下手です。また、自分が生きていくために一生懸命で、そのことが生活の中心になっているのです。」というものでした。
要は、悪気は無いので許してね。というのですが、日本人には今ひとつ良くわからない気質です。
各国別、生まれ育ったコミュニティーごとに、個人差では説明できない集団としての差、「お国柄」ってどのようにして形成されるのでしょうね。また一つ面白い研究課題を見つけてしまいました。

制度

2006年11月22日 | 奨学金
奨学金の制度は大きく分けて2種類がある。一つは学生支援機構に代表される貸与(返す必要あり)の奨学金、もう一つは、民間財団等でよく見られる給与(返す必要がない)である。
私が携さわっている奨学金は後者で、返済の必要がない。しかも、全く条件がない。通常、給与型の奨学金は「将来~になりなさい」とか「へき地医療に~年従事しなさい」とか条件がついているケースが多い。
また、大学4年間で300万円を超える額の奨学金制度は全国を見てもあまりない。
このような制度は、財団を設立した方の考えによるところが大きいが、全く条件を付けないで一人につき300万円以上差し上げる制度を作ったのには頭が下がる。
世の中にお金持ちは五萬といるが、お金に固執するのではなく、「縁」や「気持ち」を大切にする人はそうそういるものではない。
戦時中を生き抜いてきた体験が、きっとそうさせていると察するが、人徳の持ち主である。
理事長が存命中に、しかも自主的に、奨学生OBからの「今」が報告されることを望みたい。

能力

2006年11月21日 | 奨学金
本財団の奨学生は、学力で選んでいる訳ではないが、一般的に頭が良いと言われる子たちであることは間違いない。
東京大学や一橋大学に現役で塾にも行かず入学するのであるから、頭のできがどこか違うのかと日頃から観察してみたが、ごくごく普通の若者である。
特に「考えが鋭い」「頭の回転が良い」「記憶力がいい」という訳でもないように感じる。ただ、ほとんどの学生が、一般的に恵まれない経済状況の中で育ってきた若者である。
では、どこが違うのか?ほぼ全員に共通していることが一つある。
それは、「集中力」である。一般人と比べて桁外れであることは間違いない。
例えばPM10時に勉強を始めたとする。ふと気がつくと朝の4:00である。と、こんな具合だ。どうも本人は6時間という時間もあっという間らしい。それだけ集中している。別に勉強に限ったことではなく、遊びでも読書でも調べごとでも、一瞬にして時間が過ぎるらしい。
誰でも、好きなことをしていると一瞬にして時間が過ぎる状態を経験したことがあると思うが、彼ら彼女らは、何をするにしてもその状態のようである。
だから、傍から見ると彼らは何をするにもあまり苦痛を感じていないように見える。事実あまり苦痛には感じていないようだ。また、遊びやサークル活動にも積極的で3つのサークルを掛け持ちしている遊び人もいたりする。多くの奨学生は夜更かしすることも日常で、基本的にあまり寝なくてよい人種らしい。私にはまねができないが、どうしてそのように集中できるのかを探ってみたいと思う今日この頃である。