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「100歳に贈られる銀杯縮小、対象者は約2万人に」(3月4日、ロイター)
急速な高齢化が進む日本で、100歳を迎えた御年寄りに贈られる銀杯の大きさが縮小される。100歳を迎える人の数は、銀杯の贈呈が始まった1963年に153人だったが、昨年は約2万人に増加した。
厚生労働省の担当者は「銀杯の直径を10.5cmから9cmに変更しても、それ程見た目は変わらない。」とし、「対象者が増加する中、限られた予算内で贈呈を続ける為の方法を考えなければならなかった。」と述べた。
銀杯は、毎年9月15日の老人の日に贈られる物で、読売新聞によると、単価は銀の価格によって異なるが、桐箱等を含めて7,000~8,000円だと言う。
日本は世界一の長寿国で、専門家は食生活や医療の充実等その要因は多岐に亘るとしている。全人口約1億2,780万人の内、100歳以上の高齢者は3万6,436人。
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65歳以上の人を「高齢者」、そして総人口に占める高齢者の割合、即ち「高齢化率」が7%以上14%未満の社会を「高齢化社会」と呼ぶ。又、高齢化率が14%以上21%未満の社会を「高齢社会」と呼ぶが、我が国の場合は2007年に高齢化率が21%を超えた為、「超高齢社会」に突入した事になる。銀杯を贈呈された人数が45年間で約130.7倍になったというのも、この高齢化率の伸びを考えると当然と言えるだろう。
2007年時点の我が国の平均寿命は、「男性:79.19歳、女性:85.99歳」となっている。昭和30年時点では「男性:63.60歳、女性:67.75歳」となっているので、52年間で「男性:15.59歳、女性:18.24歳」も平均寿命はアップしている訳だ。その要因は様々在ろうが、医療の進歩が大きく影響しているのは間違い無いだろう。
では、「我が国の平均寿命が、今後もずっと上がり続けて行くだろうか?」と考えた時、自分は「或る時期から、徐々に下がり始めるのではないだろうか。」という気がしている。医学の事等とんと判らないど素人故、明確な根拠が在る訳では無いが・・・。
近年、自分の周りでは平均寿命に遠く及ばない年齢で亡くなる方がチラホラ出ている。新聞等の訃報欄を見ていると、「天寿を全うした。」と思える人が居る一方で、「こんな若くして亡くなったのか。」と思ってしまう人も目に付く様になった。戦時中、乃至は終戦直後に幼少期を過ごしていた人に夭逝者が少なくない感じが在り、「育ち盛りの頃に、充分な栄養を摂取出来なかった影響なのかなあ?」と思ったりもする。
高度経済成長期を経て、飽食の時代に在る日本。唯、「食バランス」や「食の安全」という点に於いて、一定年齢以下の人達は“概して”好ましい状態で育って来ている様に感じる。「彼等が中・高年の域に入った頃、その悪影響が出始めるのではないか?」という懸念。
又、上記した様に「医療の進歩が、平均寿命を押し上げて来た大きな要因。」と思っているのだが、医療の進歩に伴い医療費が増大している現実も在る。つまり「より長く生きる為の対価として、より多くの医療費を支払って来た。」という面は否定出来ないだろう。増え続ける医療費を、我々国民が何処迄負担し続けられるか?それを考えた時、或る程度の所で“妥協点”を見出さなければいけない様に思う。「より長く生きたい。でも、これ以上の医療費の負担は嫌。」という思考では、或る時点で破綻を生じると考えるからだ。
これ等の要素が合わさって、或る時点から徐々に平均寿命が下がり始める気がする。くどい様だが、明確な根拠が在る訳では無いけれど。
「100歳に贈られる銀杯縮小、対象者は約2万人に」(3月4日、ロイター)
急速な高齢化が進む日本で、100歳を迎えた御年寄りに贈られる銀杯の大きさが縮小される。100歳を迎える人の数は、銀杯の贈呈が始まった1963年に153人だったが、昨年は約2万人に増加した。
厚生労働省の担当者は「銀杯の直径を10.5cmから9cmに変更しても、それ程見た目は変わらない。」とし、「対象者が増加する中、限られた予算内で贈呈を続ける為の方法を考えなければならなかった。」と述べた。
銀杯は、毎年9月15日の老人の日に贈られる物で、読売新聞によると、単価は銀の価格によって異なるが、桐箱等を含めて7,000~8,000円だと言う。
日本は世界一の長寿国で、専門家は食生活や医療の充実等その要因は多岐に亘るとしている。全人口約1億2,780万人の内、100歳以上の高齢者は3万6,436人。
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65歳以上の人を「高齢者」、そして総人口に占める高齢者の割合、即ち「高齢化率」が7%以上14%未満の社会を「高齢化社会」と呼ぶ。又、高齢化率が14%以上21%未満の社会を「高齢社会」と呼ぶが、我が国の場合は2007年に高齢化率が21%を超えた為、「超高齢社会」に突入した事になる。銀杯を贈呈された人数が45年間で約130.7倍になったというのも、この高齢化率の伸びを考えると当然と言えるだろう。
2007年時点の我が国の平均寿命は、「男性:79.19歳、女性:85.99歳」となっている。昭和30年時点では「男性:63.60歳、女性:67.75歳」となっているので、52年間で「男性:15.59歳、女性:18.24歳」も平均寿命はアップしている訳だ。その要因は様々在ろうが、医療の進歩が大きく影響しているのは間違い無いだろう。
では、「我が国の平均寿命が、今後もずっと上がり続けて行くだろうか?」と考えた時、自分は「或る時期から、徐々に下がり始めるのではないだろうか。」という気がしている。医学の事等とんと判らないど素人故、明確な根拠が在る訳では無いが・・・。
近年、自分の周りでは平均寿命に遠く及ばない年齢で亡くなる方がチラホラ出ている。新聞等の訃報欄を見ていると、「天寿を全うした。」と思える人が居る一方で、「こんな若くして亡くなったのか。」と思ってしまう人も目に付く様になった。戦時中、乃至は終戦直後に幼少期を過ごしていた人に夭逝者が少なくない感じが在り、「育ち盛りの頃に、充分な栄養を摂取出来なかった影響なのかなあ?」と思ったりもする。
高度経済成長期を経て、飽食の時代に在る日本。唯、「食バランス」や「食の安全」という点に於いて、一定年齢以下の人達は“概して”好ましい状態で育って来ている様に感じる。「彼等が中・高年の域に入った頃、その悪影響が出始めるのではないか?」という懸念。
又、上記した様に「医療の進歩が、平均寿命を押し上げて来た大きな要因。」と思っているのだが、医療の進歩に伴い医療費が増大している現実も在る。つまり「より長く生きる為の対価として、より多くの医療費を支払って来た。」という面は否定出来ないだろう。増え続ける医療費を、我々国民が何処迄負担し続けられるか?それを考えた時、或る程度の所で“妥協点”を見出さなければいけない様に思う。「より長く生きたい。でも、これ以上の医療費の負担は嫌。」という思考では、或る時点で破綻を生じると考えるからだ。
これ等の要素が合わさって、或る時点から徐々に平均寿命が下がり始める気がする。くどい様だが、明確な根拠が在る訳では無いけれど。
現在100歳の方は明治42年生まれですのでこの長寿傾向はまだ暫く続きそうです。ですが我々の世代が同じような平均寿命にはならないでしょうね。食生活の欧米化による生活習慣病は寿命までも欧米化してしまいそうな感じです。
ご存知だとは思いますが、日本の医療費は対GDP比で先進国中では17位とかなり低い位置にあります。そしてWHOの健康達成度は世界一。つまりは安い医療費で世界一の健康を手に入れている国といえます。
http://plaza.rakuten.co.jp/skitchen/diary/200511120000/
http://plaza.rakuten.co.jp/skitchen/diary/200511130000/
日本の医療に対するコスト意識はかなり安く値踏みされている現実があるのです。全国の病院の70%は赤字経営。わが国の医療崩壊は目の前まで来ています。
おりがみも同様のことを感じています。
とくに食生活、電磁派、医療費の抑制は悪影響を及ぼしてると。
あとね、子どものころからの生活ですよ。
圧倒的に遊びと睡眠が足りてません。
「我ら世代、化学メーカーのモルモットだった!」と飲んでくだまく人が多いです。
ものすごい着色料、保存料、DDT、公害、
いやはやよくまだ元気でやっています。
でも前に友人と話していたのですが、私が子どもの頃の55歳ぐらいの人というのは今で言う70歳ぐらいの感覚でした。だいたい60前後で亡くなる人も多かったですヨ。昔はチャンとした医療の診断や検査を受けない人も多かったですから。
55で定年でしたが、もうその頃には身体も歯もボロボロのオジサン・オバサン一杯いました。
今の55歳は青年のような人が少なくありませんけれど。
昔は医療費の高さに不満を感じていましたが、世界各国の医療環境、特にアメリカの環境を知るにつれ、「平均寿命を此処迄押し上げた大きな要因の一つが医療環境の充実に在り、それを考えると医療費というのは一概に高いとは言えないなあ。」という思いが強くなりました。そして数年前、家人が入院&手術をした際に、一定額以上は行政が負担してくれる(最終的には、我々が税金として負担をする訳ですが。)事を知り、「これならば、医療費が高過ぎると必ずしも言えない。」と感じたもの。
御指摘の通り、赤字経営に悩む病院は多く、中には“倒産”する所も出て来ているとか。どんな仕事にも言える事ですが、内容に見合った対価がきちんと支払われる環境でなければいけないと思います。好い加減な連中は別にして(これも、どんな仕事にも言える事です。)、真摯に医療に従事している人達には正当な対価が支払われるべきだし、その為の負担を我々国民は負わなければならない。負担し切れないので在れば、それ以上の長寿は望まない。「医療費を安くし、尚且つ長生きしたい。」というのは両立出来ないのではないかと。
昔は60代っていうと思いっきり御爺さんor御婆さんというイメージが在ったのですが、今の60代は本当に若いですよね。医療環境や食生活の変化も在りましょうが、「人生はこれから。如何に充実した日々を送るか。」という前向きさを持った人が増えた、つまり“心の変化”というのも大きいのかもしれません。
自分が子供だった時分、結構怪しげな食材が普通に売られていました。どぎつい着色がされた御菓子とか、添加剤がどっさり入ったインスタント食品とか。それ以前よりは改善されたとはいえ、公害の問題も新聞で未だ報じられていた時代でしたし。そんな環境下で育ったけれど、今の若い子達を見ていると、「同じ頃の自分達に比べると、概して身体が弱いなあ。」と感じる事が。
前に書いた事ですが、「『花粉症の患者の増加率』と『体内に寄生虫が居る人間の減少率』は反比例しており、清潔になり過ぎた事が現代人を弱くさせてしまったのではないか。」という説が在りますよね。身体に良くない食材を摂っていても、その事で“免疫”が出来て、多少の事では応えない肉体になるという妙な結び付きが在るのかもしれない。余りにも清潔になった現代では、その事が結果的には肉体を弱くしているとしたら、これも皮肉と言えますね。
「どんな状態で在れ、長く生き続けたい。」と思う方も居られましょうが、自分の場合は「生きているのでは無く、生かされているだけという状態は嫌。」と考えております。癌によって苦しみ乍ら亡くなった身内が、残りの数ヶ月をベッドの上だけで、それも各種のチューブを身体に付けられて“生かされていた”姿を見続けた事が、その思いを強くさせました。自分にとって「クオリティ・オブ・ライフ」の概念は、非常に重要な物となっております。
自分の父親が亡くなった年に近付くにつれ、「死」という存在が徐々に身近な物として感じられる様になりました。「何時死んでも心残りが無い様に、その日その日を精一杯生きよう。」という前向きな思いと共に、マヌケ様と同じく「ヤバい物は残せない。」という思いから、ごっそりとAV等も捨てましたね。
上で赤い三角定規様宛てに書かせて貰ったのですが、身体に良く無い食材を摂取していた事で、逆に或る程度の免疫が出来上がるという可能性も在るかなあと。