身内以外の人間と食事をする時、恥ずかしい思いをする事が少なく無い。「正しい箸の持ち方が出来ていない。」、「焼き魚を綺麗に解せない。」といった食事のマナーに、幾つか問題を抱えているからだ。箸をフォークの様に食べ物に突き刺すという事はしないけれど、「2本の箸を中指に乗せる持ち方」から離れられない。焼き魚の骨と身を綺麗に解すのが下手で、骨を残しただけの感じで完食している人を見ると、「凄いなあ。」と感心してしまう。
唯一誇れるのは、出された食事は残さず食べる事。幼少期、戦争で食べる物が殆ど無く、虫や蛙、草等を食して飢えを凌いだ経験の在る父親から、「食べ物は残しちゃ駄目。」と、子供の頃から厳しく言われ続けて来た事が大きく影響している。茶碗に少しでも御飯粒が残っていると、「御百姓さんが汗水垂らして作ってくれた米を、残すなんて罰当たりだ。」としばしば言われたので、今でも茶碗に御飯粒を残さずに食べる癖が。
昨年だったか、TV番組を見ていた所、美川憲一氏とあき竹城さんが鰻屋で鰻重を食しているシーンが在った。「美味しい!」と言い乍ら、鰻重を完食した2人だったが、彼等の御重を見て驚いてしまったのは、御重に御飯粒が付き捲っていたから。「彼等の年代では、御飯粒を残さずに食べる事が当然のマナー。」というイメージが在ったので、「彼じゃあ、御店の人に失礼だなあ。」という思いがした訳だが、こういう考え方は時代遅れなのかもしれない。
お百姓さんに失礼、ではなく、
勿体ないからだけですが。(私の母の実家は代々農業なので)
1円を嗤うものは1円に泣く、といいます。
残ったご飯粒をおろそかにするようではしっぺ返しを食らう気がしてしまいます。
「御飯を茶碗に装う量を、指示出来ない場合。」とかならば、「健康を考えて残す。」というのも判らなくは無いのですが、「食べ物を残すのは、本当に勿体無いなあ。」と思ってしまいます。良く言われる事では在りますけれど、世界には食べる物が無くて飢え死にしている人が数多居る訳で、そういう事を考えると罰当たりでも在りますし。
バブル期、世の中は「如何に浪費するかを競っていた。」様な面が在りましたよね。「こういう事をしていると、絶対に罰が当たる。」と思っていましたが、バブル崩壊以降の“余りに長い氷河期”は正にそうだったのではないかと。
ご飯粒がお茶碗にくっ付いて取りにくいときは、お茶を少し入れて浮かして、残らず頂く。
これも美しい日本の心だと思うんですが、安倍さんはやってるのかな。
「御米は、八十八の手間を掛けて作られている。」、此れは初めて知りましたが、良い譬えですね。漢字って其の成り立ちに深い意味が在ったりする訳ですが、「米」という字を分解すると「八十八」になり、其処に深い意味合いが在る・・・漢字ならではの表現に感動しました。
「内実を伴わず、表面的な形式に異常に拘る。」という“癖”を安倍首相には感じているのですが、悠々遊様が指摘されている様な「美しい日本の心」を彼が有しているかは、甚だ疑問。