N さんのこと
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うるさい人でした。罵声は上げるし、
両手を始終力を入れてパチパチ叩いているし、
歌もよく歌っているけど、歌ってる途中に金切り声が入ったりしました。
大きなガラスドアを割れんばかりに叩き続けて、
スタッフを心配させることは始終でした。
トイレは自分で行くけれども、基本的にはスタッフがトイレ誘導をしていました。
適当な時間を見計らってトイレ誘導をするのですが、拒否することも多くて
思うようには行きませんでした。
やっとトイレ誘導が出来たと思ったら、
トイレの中で、時たま大声を上げたり、拒否の姿勢を露骨に見せたりしてました。
Nさんは65歳を超えている、女性でした。
ホームの他の利用者の方とも馬が合わない人で、いつも一人でいました。
自室横のソファに座って、窓の外を見たり
(ぽんぽんポンポン両手で窓を叩いてです。)
歌を大声で歌ったり、汚い言葉を吐いたり、罵声を誰とも無く浴びせたり、
そんな日常でした。
食事時間が来ても、誘いに行っても中々食堂には来ませんでした。
食べてもらうのに一苦労でした。
やっと食卓に就いて貰ったら、今度は食べ終わらないうちに席を立ったりするので、
なだめて席に又就いて貰って、又食べ始めて貰ってました。
その間も,近くに座っている他のホームの利用者さまに罵声を浴びせたり
独り言みたいに、辛辣な言葉を吐き出したりしていました。
とても食事をしている光景ではありませんでした。
歌は好きなようでした。部屋からは、いつも美空ひばりの歌謡曲が流れていましたし
本人も時々歌に合わせて歌っていました。
でも完璧に最後まで歌うということは無かったみたいです。
Nさんに近づくためには工夫が必要でした。
歌が好きで、本人も口ずさんでいるので、
こちらの方も歌を口ずさんでNさんに近づいて行けば、
(彼女の意に沿えば)一緒に歌ってくれるーそう思ってNさんに近づきました。
私は最初から童謡を持って行きました。、まさか井上陽水の心もようを歌いながら
近寄っていく訳にもいかず、四季の歌を口ずさんで、Nさんに近寄って行きました。
「春~を愛するひとは~」というフレーズを口ずさみながら-------。
昔NHKのみんなの歌で流されていて、スタンダードの童謡になった曲でした。
(私に誤りがなければ)
Nさんもこの歌を知っていました。だから私の声に合わせてこれを口ずさんでくれました。
この時ばかりはNさんも静かになりました。私も内心ほっとしました。
一緒に口ずさんでくれたからです。
私は完璧にこの歌を知りませんでしたが、
この歌自体が好きだったので、抵抗なく歌えました。
他に「ふるさと」とか「茶摘み」とか日頃余り歌わない童謡を
歌いました。その時は大概Nさんは口ずさんでくれました。
歌を歌いながらNさんに近づいて行く形でNさんとのコミュニケーションの糸口を付け
途中から「食事にしましょう!」とか
「お風呂に入りましょう!」とか声かけをするのですが、
その時は度々拒否されました。お風呂に入ってくれないということは
スタッフにとっては痛手でした。
Nさんは不潔なままでその日を終わってしまうのですから。
これは誘いかけて、入らせることの出来なかったスタッフの責任
であるような気がしたからです。
でも散歩はよく行ってくれました。
こちらも少し強引に「Nさん、散歩に行こう!」と手を取って
ホームの外に連れ出していましたから。
Nさんも内心諦めていたのかも知れません。
お風呂誘導も辛うじて、何とか入って貰えました、内心焦ってはいましたが。
もうそろそろトイレだなと思い、
内心トイレ誘導という気持ちを抑えてNさんに近づいて行って、
「トイレに行きましょう!」とストレートに言った時はよく拒否されました。
「さっき、行った」とか言われて----。
実際は行ってはいないのですが。
Nさんの娘さんはよくホームに面会に来ていました。
娘さんと一緒にいる時は若干静かかなと思ってはいましたが、
それは余り関係ありませんでした。
娘さんと一緒にいても「馬鹿やろう!」とかそのほかキツイ罵声の
言葉は言っていましたから、
そんな光景を見たときには認知症の大変さが
わかったような気になりました。
Nさんの状態は日ごとに悪くなって行っていました。
罵声もエスカレートし、食事も自分では食べることが出来なくなるし、
私も含め、スタッフは食事介助もし始めました。
本当に四苦八苦でした。思うように少しも行かないのですから。
来るところまで来たような気はしました---。
ある日、Nさんは束の間、精神科の病院に移されることになりました。
そこでしばらく療養して、またホームに帰って来る予定でした。
Nさんが別の病院に移された日以来私も含めスタッフは、こんなことは考えたり
言ったりしてもいけませんが、内心少しほっとしていました。
自分たちでもうケアできないレベルにNさんがいたからだと思います。
しかしまだ問題はありました。
今度はNさんの家族がNさんを精神科の病院に入れることを
拒んだのでした。ほんの数日間だけ精神科の病院に居ただけで
Nさんは家族に引き取られて自分の家に帰ってしまいました。
何週間か過ぎてホームにNさんが帰ってくるという青写真はこれで終わりました。
Nさんは我々のホームも退去するということになったのです。
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二週間くらいNさんはホームを離れていたでしょうか。
ホームの荷物を引き揚げるために娘さんと一緒に来たNさんはとても静かでした。
薬のせいなのかどうかは分かりませんが、
どちらにしても精神科の病院には行かないし、
ホームにもいないし、最後の選択はNさんの家族がしたのです。
家に連れて帰ると。
娘さんとホームのスタッフは忙しくNさんの荷物を車に積み込んでいました。
私は食事当番でキッチンで入居者の方の食事を作っていましたので、
忙しく動き回る娘さんとスタッフをキッチン越しに見るだけでした。
その間Nさんはリビングの椅子に座り静かにしていました。
このホームに居たNさんとは人が違ったような感じがしました。
一言も喋らず、勿論罵声もなく、本当に静かなものでした。
Nさんの下着類や手で運べる荷物だけ車に運んで、
午後からは運送業者のトラックが来て部屋の箪笥などを運ぶ段取りでした。
1時間くらいで車には荷物を運び終えました。
私はその間一度だけ手を止めて、Nさんのトイレ誘導をしたくらいでした。
いよいよNさんが退去する時がきました。
Nさんは娘さんに手を取られリビングの椅子を立ちました。
娘さんは今までお世話になったことを私達スタッフに言い、
私達スタッフはある意味型どおりではありますが、娘さんにお礼を言いました。
そして私は娘さんの横に立っているNさんにもお礼を言いました。
そして思い出も語りました。
一緒に散歩したことや、
一緒に「四季の歌」などを歌ったことを。
「Nさんと散歩できたこと嬉しかったですよ、どうもありがとうございました。」
ある意味、型どおりの挨拶であったかも知れませんが
私の出来る限りの、精一杯の本音でした。
「おっちゃんのことも憶えておいてくださいね、Nさん。」
そう言ってNさんの顔を見ると
Nさんの頬に涙が伝わっていたのです。
これには参りました。
私も言葉が詰まりました---。
ホームの玄関口でNさんと娘さんに今一度の挨拶をして、
私は又キッチンに戻って、中断していた料理を再開しました。
料理をしながら、私は涙がぼろぼろ頬を落ちました。
一生懸命私に連れられて散歩をしていたNさんの横顔を思い出すと、
一生懸命歩いていた、
まるで気を使って歩いていたようなNさんを思い出すと。
それにNさんの頬に流れていた涙を思い出すと。
周りにスタッフはいましたが、私にはそんなことはどうでもよかったです。
料理をしながら涙が止まりませんでした。