「イブの時代っ!」(日向美ビタースイーツ)
ボーカル 和泉一舞(CV:津田美波)
収録作品 音楽ゲーム「REFLEC BEAT」「pop'n music」「jubeat」
サウンドトラック「ひなビタ♪ ORIGINAL SOUNDTRACK」「Bitter Sweet Girls!」
ソロシングル「Five Drops 02 -honey lemon- 和泉一舞」 曲はこちら。
打吹地区を流れる掘割は、玉川と呼ばれます。町並みの西から北へと流れる小鴨川から取水し、町の中を流れて最後には再び小鴨川に合流します。
この玉川は、中世戦国期に山名氏が伯耆国守護職を担って打吹山に城を築いて後、北麓に形成された城下集落を囲む総構(そうがまえ)の防御線として人工的に掘削された堀を原形としています。流路の一部は江戸期に改変されたようですが、大部分はそのまま保たれて、いまも水を流しています。
辻を北へ進み、黄色っぽく塗られている道路に沿って、次の辻を左折しました。
まもなく右手に、倉吉に現存する最古の町屋建築である「倉吉淀屋」があります。正式名称は「旧牧田家住宅」といい、倉吉市の指定文化財に登録されています。
屋内は平成20年に復原修理を完了し、一般公開されています。宝暦十年(1760)に建てられた二階建の主屋、天保九年(1838)に追加された平屋の付属屋から成ります。
主屋の一階の「ミセ」の間です。店舗部分の窓口部分に当たります。今でいう受付カウンターにあたる「結界(けっかい)」が置かれています。昔の言葉では「帳場(ちょうば)」等と呼ばれた部屋で、番頭さんが「結界」に座して店番をしていました。その奥には、店主の事務室にあたる「ミセオク」の間があり、囲炉裏机が置かれています。
「ミセ」の隣の「ナカミセ」の間です。商品の陳列場にあたります。牧田家は米や地元の産物を扱う総合問屋として広く商業活動を展開、大坂の豪商「淀屋」の分流として安政六年(1859)まで営業していました。
店舗部分の土間は通りに面した「ミセニワ」と奥の「ウチニワ」の二つの間に区画され、現在は案内板や復原修理事業の紹介などがパネルにて並んでいます。
そして、この日見つけた10枚目のパネルである、和泉一舞(いずみいぶき)が居ました。
山形まり花、春日咲子と同級生で、「日向美ビタースイーツ」ではボーカルとベースを担当し作詞もこなします。日向美商店街の服飾店「いずみ洋裁店」の娘で、一人称および愛称は「イブ」、他人にもこの名で呼ばせています。都会に憧れて流行の最先端を追いかける、自信過剰かつ目立ちたがり屋ですが、根は真面目で優しく面倒見が良く、家庭的なイマドキの女子高生です。
この建物の特徴は、復原修理事業にて取り換えたり追加したりした部分を新しい木のままにして、復原箇所を分かりやすく表示していることです。元のままの古い部分がどこからどこまでか、という点もよく分かります。
こうした文化財指定建造物の場合、新材にも古色を施して修理部分を目立たなくする手法が一般的ですので、この「旧牧田家住宅」のケースは珍しく、かつ斬新でもあります。後世の改変が多かったのが主屋部分なので、その実態を示すには適した方法と言えます。
裏庭から見た主屋部分です。右側で屋根の棟がずれている部分が付属屋です。屋根の高さがあまり変わらないので、付属屋も二階建のように見えますが、そちらは一階のみの平屋で、屋根の小屋組を大きくとっています。これに対して主屋の屋根は一種の垂木構造をとるので、屋根が低くても空間を広く取ることが出来ます。中世戦国期の民家建築の要素を継承しているとする見解もあるようです。
通りに面した正面の一階の軒桁を支える部材は「腕木」といい、倉吉の伝統的建造物を特徴づける細部意匠の一つです。倉吉の街並みを形成する古建築の大半に見られますが、形や意匠によってだいたいの建築年代がおさえられるため、街並み歩きのファンや愛好家の間では基本的な識別ポイントとして知られています。
私自身も、かつての倉吉の街並み散策において「腕木」を注目して回った思い出があり、おかげで倉吉の各時期の「腕木」の特徴、意匠ごとの変遷はほぼ理解出来るまでになっています。
道を引き返して辻を左に曲がると、出雲大社倉吉分院があります。全国各地にある出雲大社の分社の一つです。
出雲大社倉吉分院の横に、昔ながらの銭湯があり、「大社湯」の名前でいまも営業しています。ひなビタのワンシーンにも登場しているため、聖地巡礼スポットの一つとして知られます。
明治40年の建築で、当時の造りをそのまま伝える銭湯施設としても価値が高く、現役の施設でありながら国の登録有形文化財に指定されています。
「大社湯」の紹介記事はこちら。
「大社湯」の北から新町筋を通って打吹公園通りに出ました。上図右に「三日月」とある看板は、20年前にここへ通っていた頃によく昼食を食べた「三日月レストラン」のそれです。懐かしいお店の一つですが、いまだに入る機会を得ていません。洋食メニューがメインですが、牛骨ラーメンも味わえます。近いうちに立ち寄ってみたいと考えています。
再び新町筋を東へ進みました。道路以外は、私が初めて訪れた昭和61年の頃と全く変わらない景観なので、懐かしい気分になりました。もう一度、あの頃に戻りたいなあ、と思ってしまいます。
道路だけが、タイル舗装に替わっているのですが、あちこちに音符などの意匠が散りばめてあります。離れて見ないと分かりにくい「隠し絵」の一つですが、この音符などはひなビタの音符マークと関連づけられて人気スポットの一つになっているそうです。 (続く)
ボーカル 和泉一舞(CV:津田美波)
収録作品 音楽ゲーム「REFLEC BEAT」「pop'n music」「jubeat」
サウンドトラック「ひなビタ♪ ORIGINAL SOUNDTRACK」「Bitter Sweet Girls!」
ソロシングル「Five Drops 02 -honey lemon- 和泉一舞」 曲はこちら。
打吹地区を流れる掘割は、玉川と呼ばれます。町並みの西から北へと流れる小鴨川から取水し、町の中を流れて最後には再び小鴨川に合流します。
この玉川は、中世戦国期に山名氏が伯耆国守護職を担って打吹山に城を築いて後、北麓に形成された城下集落を囲む総構(そうがまえ)の防御線として人工的に掘削された堀を原形としています。流路の一部は江戸期に改変されたようですが、大部分はそのまま保たれて、いまも水を流しています。
辻を北へ進み、黄色っぽく塗られている道路に沿って、次の辻を左折しました。
まもなく右手に、倉吉に現存する最古の町屋建築である「倉吉淀屋」があります。正式名称は「旧牧田家住宅」といい、倉吉市の指定文化財に登録されています。
屋内は平成20年に復原修理を完了し、一般公開されています。宝暦十年(1760)に建てられた二階建の主屋、天保九年(1838)に追加された平屋の付属屋から成ります。
主屋の一階の「ミセ」の間です。店舗部分の窓口部分に当たります。今でいう受付カウンターにあたる「結界(けっかい)」が置かれています。昔の言葉では「帳場(ちょうば)」等と呼ばれた部屋で、番頭さんが「結界」に座して店番をしていました。その奥には、店主の事務室にあたる「ミセオク」の間があり、囲炉裏机が置かれています。
「ミセ」の隣の「ナカミセ」の間です。商品の陳列場にあたります。牧田家は米や地元の産物を扱う総合問屋として広く商業活動を展開、大坂の豪商「淀屋」の分流として安政六年(1859)まで営業していました。
店舗部分の土間は通りに面した「ミセニワ」と奥の「ウチニワ」の二つの間に区画され、現在は案内板や復原修理事業の紹介などがパネルにて並んでいます。
そして、この日見つけた10枚目のパネルである、和泉一舞(いずみいぶき)が居ました。
山形まり花、春日咲子と同級生で、「日向美ビタースイーツ」ではボーカルとベースを担当し作詞もこなします。日向美商店街の服飾店「いずみ洋裁店」の娘で、一人称および愛称は「イブ」、他人にもこの名で呼ばせています。都会に憧れて流行の最先端を追いかける、自信過剰かつ目立ちたがり屋ですが、根は真面目で優しく面倒見が良く、家庭的なイマドキの女子高生です。
この建物の特徴は、復原修理事業にて取り換えたり追加したりした部分を新しい木のままにして、復原箇所を分かりやすく表示していることです。元のままの古い部分がどこからどこまでか、という点もよく分かります。
こうした文化財指定建造物の場合、新材にも古色を施して修理部分を目立たなくする手法が一般的ですので、この「旧牧田家住宅」のケースは珍しく、かつ斬新でもあります。後世の改変が多かったのが主屋部分なので、その実態を示すには適した方法と言えます。
裏庭から見た主屋部分です。右側で屋根の棟がずれている部分が付属屋です。屋根の高さがあまり変わらないので、付属屋も二階建のように見えますが、そちらは一階のみの平屋で、屋根の小屋組を大きくとっています。これに対して主屋の屋根は一種の垂木構造をとるので、屋根が低くても空間を広く取ることが出来ます。中世戦国期の民家建築の要素を継承しているとする見解もあるようです。
通りに面した正面の一階の軒桁を支える部材は「腕木」といい、倉吉の伝統的建造物を特徴づける細部意匠の一つです。倉吉の街並みを形成する古建築の大半に見られますが、形や意匠によってだいたいの建築年代がおさえられるため、街並み歩きのファンや愛好家の間では基本的な識別ポイントとして知られています。
私自身も、かつての倉吉の街並み散策において「腕木」を注目して回った思い出があり、おかげで倉吉の各時期の「腕木」の特徴、意匠ごとの変遷はほぼ理解出来るまでになっています。
道を引き返して辻を左に曲がると、出雲大社倉吉分院があります。全国各地にある出雲大社の分社の一つです。
出雲大社倉吉分院の横に、昔ながらの銭湯があり、「大社湯」の名前でいまも営業しています。ひなビタのワンシーンにも登場しているため、聖地巡礼スポットの一つとして知られます。
明治40年の建築で、当時の造りをそのまま伝える銭湯施設としても価値が高く、現役の施設でありながら国の登録有形文化財に指定されています。
「大社湯」の紹介記事はこちら。
「大社湯」の北から新町筋を通って打吹公園通りに出ました。上図右に「三日月」とある看板は、20年前にここへ通っていた頃によく昼食を食べた「三日月レストラン」のそれです。懐かしいお店の一つですが、いまだに入る機会を得ていません。洋食メニューがメインですが、牛骨ラーメンも味わえます。近いうちに立ち寄ってみたいと考えています。
再び新町筋を東へ進みました。道路以外は、私が初めて訪れた昭和61年の頃と全く変わらない景観なので、懐かしい気分になりました。もう一度、あの頃に戻りたいなあ、と思ってしまいます。
道路だけが、タイル舗装に替わっているのですが、あちこちに音符などの意匠が散りばめてあります。離れて見ないと分かりにくい「隠し絵」の一つですが、この音符などはひなビタの音符マークと関連づけられて人気スポットの一つになっているそうです。 (続く)