埋蔵文化財センターの入口には、虎塚古墳および十五郎穴への経路が示されていました。山道ですが、自転車でも通れると係員の方に教えていただきました。
林の中を進んで一分もしないうちに虎塚古墳の横に出ました。とうとうやって来た、やっとここに来ることが出来た、という感慨がわきあがってきました。受付で見学料金を支払い、見学方法を案内されました。
虎塚古墳は、全長56.5メートルの前方後円墳です。昭和48年に発掘調査と石室発見があり、築造時期は七世紀前半頃とされています。東日本では珍しい壁画古墳で、保存も良好なため、翌年に国史跡に指定されて壁画保存への施策が手厚く施されました。埋蔵文化財センターを近くに設置したのも、その一環でしょう。
石室は、後円部にあります。墳丘は大部分が草刈りされて綺麗に整備されていますが、石室のある範囲は草が残されて地中の温度が一定になるように配慮されています。石室の上にあたる範囲の樹木は既に取り除かれており、木の根が伸びて石室を傷めるというような危険性は回避されています。
後円部の脇に立てられる案内板には、石室内壁画の写真、石室への見学路の現状が図示されています。
御覧のように、石室への本来の羨道部分を破壊しないように、見学路は横から屈折してつけられ、石室の前に見学室を設けてガラス越しに内部の壁画を見る、という方式です。
奈良の高松塚古墳の壁画においても、同様な保存公開処置案が一度は検討されたのですが、公開にともなう壁画の損傷リスクを避ける方針が優先され、半永久的保存への対策を第一として公開見学はレプリカで代用するという方式に落ち着いた経緯があります。
公開期間中は、石室見学に入れる人数が限られるので、受付で整理券を貰い、係員の案内にしたがって上図のテント席にて待機し、順番が来たら5人ずつ入る、という方式でした。
私が到着したとき、すでに10人ほどの先客が居ました。春休み期間中でしたから、子供連れも2組いました。あとは地元の歴史好きな中学生や高校生らしいのが並んでいました。見学時間が一組で約5分ということなので、10分ぐらいは待機しました。
私を含む5人の組の番になったので、石室見学路に入り、中に居る解説員の説明を聞きながら、ガラス越しに朱彩なお鮮やかな壁画を見ました。一、二の質問をしましたが、快く答えていただき、知識をさらに深めることが出来ました。すばらしい壁画古墳でした。本当に、来て良かったです。
お土産として、壁画石室のペーパークラフトをいただきました。どういうわけか二枚下さったので、一枚は大洗へ戻ってから「江口又進堂」の江口さんに御礼としてあげました。
立ち止まり、振り返って、墳丘の姿をしばらく眺めました。これまでに幾つか見てきた東日本の古墳のなかで、最も印象に残ることでしょう。
公式見解においては、築造時期は七世紀前半頃とされていますが、同時期での畿内では仏教文化が次第に広がり、すでに大和では最初の古代寺院飛鳥寺が建立されています。古墳も縮小簡易化の流れをたどって墳丘の規模を減らす代わりに、埋葬施設や埋葬品にウェイトを置く方式へと移行しています。新技術を導入した石敷き、石組みの古墳も出現していたようなので、古墳の様相において常陸地域の古墳とは大きな開きがあります。
というよりも、虎塚古墳の築造時期を、もう少し遡らせた方が良いように思います。六世紀後半、とみてもそんなに矛盾しないのではないでしょうか。
続いて、虎塚古墳のある丘陵の東端にある十五郎穴へ向かいました。幅の広い山道で繋がっているので、自転車でも楽に通れました。
遺跡の前にたつ説明板です。十五郎穴は、古代の横穴群の一種で、崖面に穴を掘って古墳の石室と同じような構造の埋葬施設を造っています。こうした横穴墓が複数あり、ここでは総数300基が三群のまとまりに分かれて分布しています。
現状はこんな感じです。東日本にはこうした横穴群が幾つかあり、かなりの数が埼玉県に集中しています。また島根県や熊本県などにもみられ、古代ヤマト王権との関連でいえば被征服地とされる地域に多いのは興味深い点です。現に近畿地方では数が少なく、私が実際に見学した例は大阪府の高井田横穴群や安福寺横穴群、奈良県の歌姫横穴群の三ヵ所ぐらいです。
この横穴群の築造時期は奈良時代、つまり八世紀を中心に考えられているようです。数の上では多い小型の横穴を、火葬骨の埋葬施設と捉えての考察であろうと思います。日本で火葬が始まったのは、仏教文化の導入にともなっての事とされ、それが全国的に広まり始めたのが八世紀の後半ぐらいだろうと考えられています。
火葬は遺体を焼いて主な骨のみに分解縮小するので、埋葬施設の小型化、省略化につながり、葬式コストを大きく下げられます。これが当時の日本の重要政策である「薄葬令(はくそうれい)」にかなった方法であるために一気に広まったようですが、ここでは時期に多少のズレがあるかもしれません。地域によっては平安時代になっても土葬のまま、といった所が多かったからです。
十五郎穴の横穴群は崖面を利用して埋葬施設を造っています。利用出来る崖面は全て使われており、残された隙間に小型の横穴を造っています。
大きな横穴の中にも小さな横穴が幾つか掘られています。同時期に造ったのか、後から追加したのかは判りません。中世期までには大多数が盗掘などを受けてしまいますので、その後に人々の生活空間に利用されたり、中世期に神仏を祀るお堂の代わりとして使用されたりするケースがあります。
なので、横穴の奥壁などに見られる線刻画も、当時のものなのか、後から追加されたのかは判っていません。説明版や文化財資料にも、これらの線刻のことには触れていませんので、公式見解としては、よく分からない、ということなのでしょう。
横穴群の脇には、「八重崎秋月」と書かれた標石があります。地元の良い景色を選定した「中根八景」の一つで、秋にこの場所から見る月が素晴らしいそうです。水戸藩の領内ではどこでも「八景」がありますね・・・。 (続く)