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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く6 その2 「老木と古門です!!」

2014年06月07日 | 大洗巡礼記

 裏参道から六地蔵寺の境内地に足を踏み入れた途端、空をも覆う若葉のあおあおとした拡がりに包まれました。横枝も長い古い木が多く残されていることが感じられ、常陸国屈指の古刹ならばでの歴史的空間とはかくの如きであるか、と襟を正しました。


 林を抜けると、左手に堂塔伽藍の構えが本堂と玄関を大きく前に出して迫ってきました。甍の要所の瓦に水戸葵が打たれてあり、水戸藩の保護を手厚く受けてきた歴史が察せられました。


 玄関も、御殿建築のそれに劣らない格式と風格を見せています。水戸藩の菩提寺として歴代の位牌を護持するため、藩主の墓参および法要参席も度々であったといいます。それで本堂以下の建物が立派に造られているのでしょう。
 玄関の脇には大木の一部が保存されていました。幹回りの太さから数百年は経過しているものと思われます。


 地蔵堂の脇から本堂を見ました。その位置は伽藍域の中軸線より外れていますので、本来の本堂ではなく、室町時代の永享年間に寺が中興されてからの中心堂宇として創設された流れを汲むものと思われます。創建以来、真言宗に属しますが、真言密教の伽藍構成は基本的に中軸上への配置と左右対称性を重んじますので、古代にはいまの地蔵堂の位置に本堂があったようです。そして、その背後の僧坊または庫裏の区域にあたる場所に、現在の本堂が建っています。


 境内地の東側には墓地が広がりますが、その北側つまり境内地の北東にあたる位置には小高い盛り上がりがみられ、いまは鎮守社の小さな祠がまつられています。この盛り上がりは径約30メートルの古墳で、現地に所在する六反田古墳群の盟主的な存在と評価され、六地蔵寺古墳の名で知られます。「水戸市埋蔵文化財分布調査報告書」を見ると、弥生式土器が出土した旨が簡潔に述べられるだけなので、発掘調査はまだなされていないようです。つまり、この古墳の正確な規模や内部構造や築造年代は分かっていない、ということです。

 ですが、古墳のある場所に伽藍を敷くという、古代仏教寺院の典型的な初期形態を伝えているあたり、もとは在地支配層の墓所と氏寺の括りでスタートした寺であったことが推察されます。寺伝にいう大同二年(807)の創建は、ある程度の史実を反映しているのかもしれません。なお、六地蔵寺という寺号は中興以降のもので、元来は六蔵寺と称しました。現地の地名が六反田であることから、もとは律令期における口分田や荘園の管理を任されて成長した在地支配層の経営上の拠点として蔵などの施設があり、その地を後に寺に改めた、という流れではなかったかと思われます。


 地蔵堂です。重層建築の体裁をとるあたり、ただのお堂ではないと見るべきです。境内地の中央、南向の正門たる四脚門からまっすぐに進んで礼拝出来、伽藍中軸線の中央という要の場所に位置しますので、このお堂こそが古代の六蔵寺以来の本堂の構えを踏襲していると考えられます。いまの本尊は地蔵菩薩ですが、それはおそらく室町期に中興されてからのもので、寺宝に真言密教関連の絵画や什宝が多いことを考えれば、密教尊像のいずれかが本来の本尊であった可能性が考えられます。


 境内には多くの古木や老木が林立しますが、四脚門の西側にそびえる大イチョウは樹齢800年余りと推定され、水戸市の文化財に指定されています。今から800年前といえば、1200年代つまりは十三世紀、鎌倉時代の前半にあたります。当時の在地支配層として常陸大掾氏の分流が在ったといいますので、当時の六蔵寺はそれに関わりをもっていたのかもしれません。


 太い幹回りがそのまま上に聳えて枝にも多数の節が重なり、盛衰を重ねた老樹の風格を漂わせています。長年の風雪に耐えぬいた生命の力強さが発散されており、近寄るだけで何か元気をもらえるような気がしてまいります。


 四脚門です。室町期の中興以来の遺構とされますが、構えも中世期の特色をよく残しています。この種の門の現存建築は全国的にも稀なので、大変に貴重な文化財です。これも水戸市の文化財に指定され、現在は柵で囲まれて保護されています。
 私が今回のコースに六地蔵寺を含めたのも、実はこの四脚門を見ておきたかったからです。京都や奈良や鎌倉にも見られない、中世寺院の質素な正門としての遺構は、他に類例がなかなか見当たらないからです。


 この門は、藁葺きという、中近世以来の姿を保っている点も珍しいですが、屋根の支持材を除く主要部材が、古いものをほぼ残しているとされる点が最も重要だと思います。京都や奈良や鎌倉であれば、江戸期までに何度かの修理を受けて部材も取り変えられてしまうケースが普通なので、古い構造材をそのまま使用し続けているという状況自体が珍しいです。


 例えば柱は、三本とも古く見えます。貫は傷み易いので頭貫や腰貫なども新しく取り変えられていますが、柱は古いものを大切に使い続けてきているようです。特に、屋根の妻木を支えている、中央の柱が最も古いようです。


 中央の柱に近寄って観察しますと、頭貫や腰貫とは無関係のホゾ穴が外側に残っているのが分かります。上図のように縦に二つ並んでいて、その右側に細い溝が柱に沿って長くつけられています。これらは、かつて門の左右に伸びていた板塀の取り付け跡とみられます。


 また、門の中央の柱の上下を見ると、横木に軸穴の部材が張られ、下の礎石には軸摺穴と方形の刳り込みが残っているので、かつては門扉がつけられていたことが分かります。しかも扉が外側へ開く形式なので、中世期の建物でありながら形式は古代以来のものを受け継いでいたように感じられます。中世以降、近世に至るまでの時期の門は、内側に開く例が多いです。


 四脚門に次いで古い建物は、地蔵堂に向かって右側に並ぶ建物のうちの手前の一棟、法宝蔵と呼ばれる土蔵造りの建物です。水戸中納言こと徳川光圀が寄進して建てさせた遺構です。文字通りの宝蔵として経典や什宝などの収蔵に使用されましたが、現在は境内地の西側に新宝蔵が出来ましたので、そちらに役目を譲っています。


 思った以上に、色々と見応えのある古寺でした。大洗も歴史が古いのですが、江戸期以前の建築遺構となると皆無なので、常澄をはじめとする周辺エリアにも目を向ける事で地域全体の歴史の古さと広がりがようやく見えてくる、という気がしました。
 社寺という文化遺産に着目した場合、大洗には大洗磯前神社が現存していますが、寺院の方は水戸藩の独自の宗教政策によって変転を余儀なくされて失われたケースが殆どなので、常澄の六地蔵寺のような古寺を一つのモデルケースとして理解するという試みも有意義ではないかと思います。 (続く)

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