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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く19 その2 「武田氏のルーツです!!」

2015年10月12日 | 大洗巡礼記

 主屋前面庇の内部です。天井が無く屋根裏の部材がそのまま見えます。空間も高いので、実際の規模よりも広がりが感じられます。庇部分は主人に仕える人々の空間とされ、護衛の郎党が控える場でもありました。平安時代から鎌倉時代前半にかけての武家社会は、貴族社会並みに身分差が徹底しており、侍分(さむらいぶん)であっても、中間(ちゅうげん)や小者(こもの)や荒子(あらしこ)は建物に入れませんでしたから、上図の庇空間に入れるのは、主人の他は侍(さむらい)だけでした。

 年に数度の祝い事や宴の時は、蔀戸の下半分を取り外して縁側まで広く場をとり、杯や料理を広げて楽しんだといいます。その日だけは、中間でも功績のあった者は特別に縁側に上がることを許されたといいます。


 主屋の側面の戸口です。蔀戸を閉じるとこのような状態になります。格子の内側に裏板と呼ばれる板を張りますが、縦に何枚か並べたうちの一枚か二枚は、当時の武家居館においては簡単に取り外せるようになっていました。有事の際に外して、格子を狭間がわりにして弓矢を放てるように、との工夫からです。戦国時代になると鉄砲が普及しますので、こういった戸口の格子越しに狙撃するという場面も多くなったとされています。


 前面庇から式台および厩を見ました。一般的に厩は式台に近い位置に設置されることが多いです。主人がすぐに馬に乗れるからです。
 平安時代末期頃から鎌倉時代初期の武士は、とくに所作の迅速さを重んじましたから、たとえば主人が式台に向かいつつ「馬を引け」と命じたら、小者が直ちに厩から馬を引き出して式台につけることになります。数秒の動作が必須で、もたつけば、最悪の場合には「懈怠なり、武辺不覚悟」と切り捨てられるケースもあったそうです。


 主屋から門を見ました。前庭の広さは、これでも広い方に属します。室町戦国期の居館の方が平均的に広いのですが、それは土地利用の制度の差ではないか、という説があります。平安時代から鎌倉時代にかけての時期は、まだ政治支配システムが律令制のそれなので、支配単位となる土地の地割も律令期の条里制にのっとっていた所が多かったとしても不思議はありません。したがって敷地は宅地であっても正方形となり、田畑との使い分けによって居館範囲はさらに縮まります。

 条里制の基本単位である坪は、109メートル四方の規模です。これを南北に六つ並べて一条、東西に六つ並べて一里と数えました。一坪は古代には十分割され、その一つを段と呼び、地割の基本単位となりましたが、平安時代には段を半分にして一世帯の単位にしているケースが多かったといいます。
 その場合の規模は約21メートル四方になりますが、これが初期の武家居館の規模とほぼ同じになるそうです。その区画内に、主屋と厩と納屋、そして郎党や奉公人の住む長屋などを配置しますから、空きスペースがそんなに確保出来る筈がないのです。現にここ武田氏館もそれに近い規模で再現されています。


 厩の内部です。前面には板間が設けられてあります。この段差があると、馬は普通は登れませんから、前に進めません。この板間で小者や荒子が馬の世話をしたり、馬具や武器などの手入れをしたり、夜には宿居(とのい)の役目についたりしました。戦時に使用する楯や矢来(やらい)等はたいていは馬の保護も兼ねて厩の周囲に立てかけてあったりするケースが多かったそうです。なので、厩はだいたい武器庫も兼ねていたことが多かったようです。


 厩の背面は全て扉口となり、ここが馬の出入り口になります。前に板間の段差があることで馬がいきなり前庭に飛び出すのを防ぎ、暴れ出しても扉を閉めておけば大事に至りません。
 ですが、主人が馬に乗る時にはここから迅速に引き出して式台へ寄せないといけないので、通常は扉の一枚は開け放しにしてあった可能性が指摘されています。


 門は、二本の柱で構成される二脚門です。柱の上部で屋根の棟材を支える蟇股が、大き目のサイズで造られています。両端の波形も無いので、平安時代後半頃の様式で再現されているようです。この系統の蟇股は、現存する平安後期から鎌倉初期の社寺建築の棟門などに多く見られます。


 門から右側に位置する納屋です。諸道具や武器の倉庫であるほか、奉公人や使用人の住まいであることも多かったようです。ここでは武田氏館の管理事務所およびお手洗いの施設になっています。


 納屋の裏手から主屋の側面部を見ました。母屋と庇の構成がよく分かります。中央の入母屋の屋根部分の範囲が母屋にあたり、その周囲に庇が回っています。


 厩の横から主屋を見ますと、突き出た式台部分が印象的です。前面に設けられた破風は、身分の高い武士の出入り口をあらわす装飾です。この館の主人とその家族だけが使用出来る空間であることを示しています。


 母屋の内部は天井が無く、屋根の支持材がむき出しになっています。これに天井を張ったりするのは、室町時代になってからのことでした。


 武田氏館のある地域は、古代より武田郷と呼ばれた地で、考古学的にも中世期の遺跡や遺物が幾つか確認されています。それらの出土品の一部が、主屋内の展示ケース内に並べられています。平安時代の土師皿や杯などがあります。


 母屋内部には、館の主であった武田義清、清光父子の武者人形が展示されています。武田義清像の脇には、家紋の武田菱が楯に描かれています。


 左が父の武田義清、右が子の武田清光です。武田義清は、八幡太郎源義家の弟の義光の三男にあたります。常陸国那珂郡武田郷に配されて土着し、武田を苗字としたのが、武田源氏の始まりでした。なお義光の長男の義業は久慈郡佐竹郷に入って佐竹氏の祖となっています。


 後に武田家家宝となった「楯無鎧」をイメージした大鎧のレプリカです。平安時代後半期の典型的な形式を示しています。子孫の甲斐武田氏が神格化するほどに崇めていた「楯無鎧」の実物は、山梨県甲州市の菅田天神社に所蔵されて国宝に指定されています。
 近年の調査で、平安時代後半の鎧の部品を再利用して仕立てた鎌倉時代中期の遺品であることが判明していますが、再利用された平安時代後半の鎧の部品は、おそらく始祖武田義清の鎧のそれではないかと思われます。


 武田父子の展示の全景です。甲斐武田氏は始祖を新羅三郎源義光としていますが、武田の苗字を名乗ったのは三男の義清からであるので、武田家の家祖は義清になります。有名な武田信玄は、義清から数えると18代後になります。
 義清は、文献上では「武田冠者」と称して久安五年(1149)七月に七十五歳で没したことが記されますので、生年は承保二年(1075)であると分かります。子の清光は、天永元年(1110)の生まれで仁安三年(1168)が没年ですので、親子ともに藤原時代の人です。暦の上では鎌倉時代になっていません。

 これにしたがえば、武田氏館の建物も、厳密には藤原時代の武家居館の姿を再現すべきであったのでしょうが、当該時期の武家建築の様相はまだ不明な部分が少なくありません。それで割合に推定材料が得られる鎌倉時代初期までの期間も加味して復元案がまとめられたものと思われます。


 展示パネルには、武田氏館の実際の位置も示されています。タクシーの運転手さんに教えられて、神社から南へ下って常磐線の踏切まで行きましたが、当時の丘陵の地形は完全に失われています。丘の東に横たわって天然の濠ともなっていた「稲荷谷津」および「武田溜」がほぼ姿をとどめているだけです。西は崖となり、北にも谷津から延ばした堀があったようですが、現在は宅地開発ですっかり地形も変わっています。

 武田氏がここに館を構えたのはいつからかは分かっていませんが、その最終段階は、清光が一族の佐竹氏と争って訴えられ、朝廷より父とともに甲斐国へ配流となった大治五年(1130)です。父義清の活躍期間と合わせれば、この地に武田氏が活動した時期は、長くても40年ぐらいであっただろうと推定されます。

 なお、武田氏館は、現時点で推定復元された平安時代後期以降の武家居館の事例としては、日本では唯一の施設です。各地で見られる武家建築の推定復元例は、戦国期のそれが大部分であり、鎌倉時代の事例もまだありません。その意味で、歴史散策スポットとしても貴重で有意義な場所ですが、甲斐武田氏のルーツであるという点も見逃せません。
 なので、私自身としては虎塚古墳と並ぶ必見の場所である、と思っています。 (続く)

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