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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その8 「登城遺跡です!!」

2014年12月22日 | 大洗巡礼記

 堀切跡の底の農道は、現在はあまり使われていないため、下草も増えて山道のような状態になっていました。直線路にみえましたが、僅かに右へ寄っていく感じだったので、堀切跡そのものが僅かにカーブを描いているようでした。城郭の塁線は、上写真のように左側に高い切岸となって明瞭に認められました。高さは三メートルぐらいはあったでしょうか。


 この城郭遺跡は、大洗町域においては最大規模であるので、城郭ファンや研究者の間ではけっこう知られていて、ネットなどでも「登城館」等の呼称にてレポートされているのを見かけます。
 大洗町教育委員会の報告書では「登城遺跡」としており、公式にはこれが正式な遺跡名となっています。今回の探査見学と、発掘調査報告書や先行研究などの資料をふまえて私なりに遺跡の全体像を描いてみたのが、上掲の図です。

 地形は、国土地理院の地形図と航空写真をベースにして大体の姿を描写し、発掘調査報告書「登城遺跡」の235ページに掲載される縄張図を参考にして遺跡の概念図を立体で描き起こしました。そのなかに、平成10年および11年に発掘調査された範囲の遺構図をはめこむような感じで描き込みました。堀切跡を通る農道やその両側の地形などは、実際に見学した状態をなるべく再現してみました。詳しい説明は、また後で図面を挙げて述べます。


 堀底道がクランクする場所に着きました。地形的には舌状尾根の付け根にあたる地点で、堀切によって尾根を独立させて城域とした様子がうかがえます。堀切の両端は谷間に落ち込む形で開放されますが、西側では帯郭状のスペースに繋がって城郭の西辺に回り込みますので、現在の農道も同じように西へと回り込みます。
 このクランク地点のすぐ西側に、西の谷間へ降りるスロープ状の細い平坦面がみられますが、先行見解では竪堀とみているようです。ですが、掘り込みではなくて平坦に造られているようなので、竪堀とは思えませんでした。その細い平坦面へ草をかきわけて進んでみたところ、緩やかに降りていく感じでした。


 農道に戻って、帯郭状のスペースに進んで城郭の西辺に回り込みました。左側にそそり立つ切岸は依然として三メートル前後の高さで続き、城郭の地表面が一定の高さで造成されていることをうかがわせました。


 クランク地点から約70メートルほど進むと、左側の切岸が凹んで坂道状に上にあがれるような状態になっていました。先行研究では堀切または虎口と見なされていますが、登っていった感じでは窪地ではないので、堀切とは思えませんでした。では虎口かというと、その雰囲気も希薄でした。後世の農地への出入り道といった雰囲気がありました。
 しかし、塁線の切岸は確かにこの位置で内側に屈折しており、道の反対側には土塁が築かれているので、何らかの機能をもった空間であったことは間違いないようです。上に登ると草薮の広がる平坦地に出ますが、右にそれると幅広の堀跡にぶつかるので、この幅広の堀と繋がっていた可能性も否定出来ません。


 上にあがるとこんな感じです。昭和50年代まで農地として利用されていたそうですが、その後に植林がなされ、そのまま整備もされずに今では下草が藪化しつつありました。30メートルほど進んでみましたが、草薮にぶちあたって前に進めなくなり、引き返しました。


 再び農道に戻りました。上写真の右側が城郭の塁線の切岸、左側が土塁の高まりです。塁線の外側に明確な土塁が認められるのはこの地点だけなので、土塁が必要とされるような、何らかの重点防御エリアであったのかもしれませんが、それにしては土塁のほぼ中央が切れているという、よく分からない状態でした。
 土塁の切れ目は、一見すると虎口のように見えました。それで切れ目から外をのぞくと、下にかなりの急斜面が見え、崖の上にいるような感じがしたので、切れ目から出入りしたというのでもなさそうに思われました。


 城郭の西辺をさらに南へと進みましたが、左側の切岸は少し低くなってきて、二メートル前後の高さになりました。というより、道のほうが高くなってきたのですが、そこで右に続く支尾根上の農地跡へと続く分岐路があり、その先は凄まじい草薮でした。


 分岐からさらにまっすぐ進むと、そちらも次第に草薮に包まれてきて、道そのものが藪に覆われてしまってゆくのでした。こうなると進めませんから、左側の切岸に登って迂回することにしました。上に登ってみると、土塁状の高まりがずっと続いていました。城郭の周縁はだいたい土塁が巡られされていることが多いのですが、発掘調査報告書掲載の縄張図ではあまりそうした土塁を描写していません。


 土塁の上から、下の堀底跡の農道を見下ろしました。上写真では分かりにくいかもしれませんが、約三メートルの高低差がありました。


 上の城郭内部の現状です。発掘調査報告書掲載の縄張図では第Ⅳ郭とされている範囲の西側にあたります。第Ⅳ郭は、発掘調査区域においても堀切以外の遺構が検出されておらず、建物の痕跡も見られなかったそうなので、城内の郭というよりは城域周辺のスペース程度のものだったのではないかと思われます。


 郭内を移動して南の塁線に到達しましたが、その外側にも土塁をともなう横堀状の形が見られました。上写真のように、木が倒れて土塁に乗っかっていて、ちょうど木橋のような姿に見えました。これによって横堀の形が分かりやすくなっていましたが、この状況すらも、発掘調査報告書掲載の縄張図には描写がありません。
 ですが、私が大洗町内外の城郭遺跡を知るためによく参考にさせていただいているP氏のサイトの「登城館」の記事の図面には、この横堀状の形も僅かながら描かれています。上写真の場所は、P氏の図面の③の位置から東へ20メートルほどの地点です。


 その先は倒木の連続と草薮に阻まれたうえ、時間も正午に近づいて水戸のU氏との合流時刻も迫ってきたので、探査はここまでと決めて引き返しました。もと来た農道に戻り、外周に明確に残る土塁のところまで進みました。
 上写真のように、土塁は高さも幅もあり、地山を削り残して作ったのではないかと思えるほどの規模でしたが、その外側は崖になっているので、地山ではなくて人工的に土を盛って造成したものと考えた方が良いようです。


 北側の堀切跡との接点となる、クランク地点まで戻りました。この辺りは塁線の切岸が綺麗に形をとどめているので、見応えもあります。試しに上まで登ってみると、そこが少し出っ張った感じになっていることが分かりました。
 そこは、北と西の両側に睨みがきく場所ですので、その二方向から敵が攻めてきたならば、いずれにも迎撃をしかけることが出来ます。しかも堀底はクランクしていますので、堀底を進んできた敵は真っ直ぐに進めず、方向転換を余儀なくされます。そこへ上から弓矢または鉄砲で横撃をしかけるという、効果的な防御戦が期待出来ます。
 その意味で、この地点の遺構は、登城遺跡における必見のポイントと言えましょう。


 とりあえず、大体の遺構は見ることが出来ました。予想以上に立派な城郭遺跡です。発掘調査範囲は東側だけにとどまりましたが、西側にも土塁や切岸が良く残っていますから、全面的に発掘してほしかったなと思いました。ただ、道路工事が進んでも西側の範囲はそのまま残りますから、今後も見学することは可能でしょう。


 北の堀切跡に戻りました。この堀切が、城郭の北側の防御線の一つですが、その外側にも二つの堀が発掘調査で確認されていますので、城域はさらに北へ広がるとみて良いでしょう。その辺りは常福寺遺跡と呼ばれて現在は「千代田テクノス」の敷地になっていますが、その常福寺遺跡と登城遺跡の双方の遺構は、同一の城郭のそれであることが判明しています。
 なので、この堀切跡は、城郭中心部の北側を護る施設にあたるのかもしれません。


 先に掲げた図面に、遺跡範囲、発掘調査範囲、遺構名や城域、郭番号などを記入してみました。今回の私の見学は、A地点からスタートして堀底の農道をたどり、B地点のクランクを経てC地点の土塁やD地点の塁線屈折部を見て、G地点の横堀状部分まで行って引き返すという形でした。
 最初に見学したトレンチはa地点にあり、その上のb地点は土居状に盛り上がっていたので、土塁があったものと推定されます。

 登城遺跡の発掘調査範囲においては、南から一号、二号、三号、四号の四つの堀切遺構が見つかっており、それぞれの堀切に仕切られた区画を一つの郭と見なしたのが、大洗町教育委員会の基本解釈であるようです。
 すなわち、四号堀に囲まれた区域をⅠ郭とし、その北をⅡ郭、農道が通る堀切跡から北をⅢ郭としています。Ⅲ郭の範囲は、常福寺遺跡の発掘調査範囲において検出された1号堀および2号堀との関係によって推定されているようです。Ⅰ郭の南には、四号堀の延長とみられる堀跡と土塁を隔ててⅣ郭があり、これと二号堀および三号堀によって隔てられる南側をⅤ郭としています。

 これらを見る限り、大洗町教育委員会の見解は、城の位置する舌状尾根全体を城郭の範囲とする基本認識にたっているようですが、私は尾根全体に及んでいたとするより、尾根の三分の二ほどを城域として堀や堀切で囲んでいたのではないかと推測しました。G地点の横堀状の痕跡は、そのまま二号堀および三号堀に繋がるようですので、その場合は、第Ⅳ郭までが城域と推定されます。
 つまり、第Ⅴ郭は城外となって厳密には郭ではない、と考えるわけですが、では一号堀は何かというと、これは尾根先端を遮断して城の外側を護る施設として捉えることが可能です。

 また、登城遺跡の発掘調査範囲においては、各所に溝の遺構が検出されています。一部は四号堀と同時期の遺構と判断されており、ほとんどが堀と繋がっています。四号堀には水戸違いの遺構があって調査時に水も湧き出したといい、水堀であった可能性が高いです。したがって四号堀に繋がる溝は、排水溝であったのかもしれません。
 なお、上図の四号堀の東のE地点が城への出入り口であったようで、そこから四号堀へ向かうとⅡ郭へは土橋、Ⅰ郭へは木橋で連絡したことが遺構より確認されています。また上図のF地点では、四号堀の南側部分の東端がやや南に屈折していることが、12月の再訪時に重機による破壊断面の観察で分かりましたが、発掘調査報告書掲載の縄張図では東へストレートに竪堀として落としています。

 全体として、平たい尾根上に位置することもあってか、平地の城館と似た様相を示していますが、城域を囲む堀の各所に屈折がみられ、また堀が二重になっているところもあり、なかなかに技巧的かつ複雑な構造であったことが分かります。
 それらの遺構が、調査区域外に残存する土塁や堀切などの遺構のラインと大体繋がることから、その全体像もおおよそ推測出来ますが、前述のように、Ⅳ郭までを城域と見なしてⅤ郭は城外と推定した場合においても、大洗町における最大規模の城郭であるという点は不変です。
 その意味でも、大変に貴重な歴史的遺産であるわけですが、大洗町の文化財行政は、これを開発から守って保存するという最良の選択肢を捨ててしまっているわけです。実に残念なことです。 (続く)

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