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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く5 その26 「彰考館跡です!!」

2014年05月28日 | 大洗巡礼記

 翌朝も快晴でした。ホテルを8時に出て、水戸市の中心部を通る銀杏坂を歩道橋から見ながら、U氏との待ち合わせ場所に向かいました。


 待ち合わせ場所はJR水戸駅北口のペデストリアンデッキ上でした。お互いに時間をキッチリ守る性格なので、着いた途端に挨拶して行動開始となりました。大洗へ何度も行っておきながら、水戸市観光は全くの初めてであったので、U氏も「やっとこちら(水戸)に興味が向いてきたかね」と笑っていました。


 まずは水戸城の主要部を案内しよう、と言ってきたので、得意げに説明しつつ導いてくれるままについて行き、三の丸小学校の敷地の外側を回りました。学校の塀は江戸期の姿に復元され、通用門も冠木門の形に復元されていて、景観的には城内らしい雰囲気にまとまっていました。


 今回の見学地のメインとなる弘道館は、9時からの開館であるので、先に城郭の方を見て行く、とU氏が東の大手橋を指さしました。


 弘道館の正門の横に通用門と番所があり、番所の建物も江戸期以来の遺構だということです。


 大手橋からは、三の丸と二の丸とを分ける深い堀切と高い切岸、堀底を通る車道が見えました。県道232号線だ、と教えられました。


 大手門跡は土塁が鉤型に配置されて桝形虎口の一種を形成し、北側土塁の裾には徳川頼房の銅像が立っていました。徳川家康の11男で水戸徳川氏の祖となった人物です。つまり、水戸藩の初代藩主でもありました。その時点では25万石であったそうで、U氏の言う「28万4千石」は後に加増されての石高です。


 土塁で固めた大手虎口には、戦国期城郭らしい風情も漂いますが、U氏によれば、佐竹氏時代の城郭をそのまま踏襲した部分と徳川氏による改造部分とが混ざっているそうで、大手虎口は江戸期に改修整備されているとのことでした。でも土造りのままというのは、御三家の城としては簡易質素の感をぬぐえません。
 将軍家から数度にわたって石垣普請の勧めがなされたにもかかわらず、水戸藩として遠慮したのか、または経済的な理由によるのか、最後まで石垣を築くことがなかったそうです。


 大手虎口の桝形空間より、大手橋越しに弘道館の方角を見ました。かつては大手門が建っていたのですが、今は失われています。


 大手虎口を通ってまもなく左手に立派な門と塀が見えました。U氏が「今は水戸市立第二中学校の敷地になってるが、徳川光圀時代の彰考館がここにあったんで、その外構えを最近に復元してるわけ」と誇らしげに言いました。
 ここに彰考館があったのか、と感動しました。水戸藩の修史局として設置され、「大日本史」の編纂事業がなされた場所です。TVドラマ「水戸黄門」でも時々舞台に登場していて、格さんの名で知られる渥美格之進のモデルであった安積格兵衛が後に「澹泊斎」と号して彰考館の六代総裁になっています。


 U氏が「ここには発掘調査成果などのガイダンス施設もあるぞ」と教えてくれたので、さっそくその「二の丸展示館」を見学しました。歴史や文化財を専攻した私にとって、こうした施設の見学は必須とも言えました。


 お約束とも言える、「大日本史」の版本が展示されていました。正徳五年(1715)の年紀と、権中納言従三位源綱條の名が付されていますので、これが「大日本史」の正徳本であると分かります。
 源綱條とは、水戸藩三代藩主徳川綱條(つなえだ)のことで、TVドラマ「水戸黄門」でも光圀の後継者として度々登場しています。光圀の兄で讃岐高松藩を創設した松平頼重の次男で、後に叔父光圀によって水戸藩に迎えられて養子となり、水戸家を継いでいます。


 水戸城の実測図と航空写真です。水戸市街のほぼ中央に位置する細長い丘陵に築城されており、北を流れる那珂川と南に広がる千波湖を天然の堀として要害性も高かったようです。本丸の西に二の丸、その西に三の丸が配され、それぞれが深い堀切で仕切られていました。
 城郭そのものは、戦国期に常陸大掾氏の分流馬場氏が築き、次いで佐竹氏が居城としていて、その時点までは現在の本丸部分のみが城郭であったとされています。佐竹氏の後に水戸徳川氏が入城して以降、現在のような縄張りに整備されています。


 水戸城の実測図を、水戸市の市街地図に重ねた図面です。城の範囲がいまどうなっているかが一目で分かるので、この種の地図の方が城跡散策に役立つ場合が多いです。二の丸と本丸を分ける堀切の底に、いまはJR水郡線が走っているのが分かります。


 二の丸地区の発掘調査で出土した瓦などの遺品も展示されていました。


 瓦の出土はとても多かったらしいのですが、水戸家の家紋である三つ葉葵紋をあらわした瓦はたったの二点しか検出されなかったそうです。調査範囲にあたっていた建築遺構が、彰考館など、城内の重要施設でなく付属施設であったことを示しているのかもしれませんが、水戸藩そのものが質素を旨として幕閣に遠慮し続けた姿勢を保っていたことも影響しているかもしれません。
 尾張藩の名古屋城ではどこを掘っても三つ葉葵紋が出てくる、というのと対照的ですね。 (続く)

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