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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く15 その7 「徳宿城跡です!!」

2015年03月10日 | 大洗巡礼記

 徳宿城跡の西側の県道114号線にてタクシーを降り、城跡の丘へ向かいました。地図を見ながら運転手さんは南東方向を指し、「あの辺の山じゃないですかね」と言っておられましたが、その先には長さ100メートルにも満たない低い丘があり、私はすぐに「あれは違うな」と判断しました。
 中世戦国期の城は、それなりの高さと規模を持つ山にしか築かれない傾向があり、徳宿城は約150メートルの規模を持ちます。しかも城郭は東西南北への向きも重視し、四方位への軸線を特に重んじますので、南北または東西に細長い山が立地として好まれます。そのような条件に合う山が、私たちの居る場所からはすぐ東に横たわって見えました。

 たぶんあれでしょう、と言いつつ、県道の下の農道に降り、まっすぐに行って次の角を左に行くと、上図の城址碑がある登城口に着きました。(写真撮影地点1)


 その山が徳宿城跡であることは、登城口に行く直前に、車道から切岸の姿を捉えた時点で分かりました。上図のように高い切岸が回されており、その上端が平坦に均されているのが分かります。自然の地山ではこういう状態になりませんから、明らかに人の手が加えられたことが看取出来ます。(写真撮影地点2)


 切岸の状況と造成の仕方をナガシマさんに解説するホシノでした。(写真撮影地点2)
(写真撮影 オカアキさん)


 城址碑がある登城口にて、横の遺跡解説板を読むナガシマさん。(写真撮影地点1)


 登城口付近の現状は、こんな感じです。城の廃絶後に、稲荷神社が城跡に勧請され鎮座して現在に至っていますが、その稲荷神社への参道として造られたのが現在の登城道です。切岸を断ち割って破壊して造られており、城の本来の登城コースとは無関係です。(写真撮影地点1)
(写真撮影 オカアキさん)


 稲荷神社の社殿が建つあたりは、城跡の1郭の南端にあたります。上図の社殿の左手の地面が少し盛り上がって見えるのが、土塁の残存部です。(写真撮影地点3)


 1郭の南側土塁の上には、徳宿氏の事績を顕彰する大きな石碑と、徳宿氏一門の供養塔とが並び立っています。(写真撮影地点4)


 徳宿氏一門の供養塔は、宝篋印塔の形式をとります。現状では相輪部が失われ、笠部分が落ちていて、後の追加とみられる宝珠が塔身に直接載せられています。塔身や基礎部の石組みに僅かなズレや歪みが見えますが、古いものではないので、あの震災の影響かもしれません。(写真撮影地点5)


 石碑と供養塔の見学撮影を終えて、社殿前から参道に移動するホシノ。(写真撮影地点6) 
(写真撮影 オカアキさん)


 城跡は大部分が草薮や倒木などに覆われて土塁の大部分へは近づくこともままならず、1郭を巡る堀aも下草に埋もれて形状がいまひとつ視認出来ませんでした。ですが、2郭の北側を遮断して城の第一防御線となっていた堀bは、西側にてよく姿をとどめていました。尾根を大きくV字形に断ち切って、尾根裾へ谷間のように広がっています。(写真撮影地点7)


 堀bは、東側でも一部が旧状をとどめています。樹木や竹が林立していますが、堀底面に幅を持たせた箱彫堀状の堀切であったようです、右手が2郭、左手が3郭にあたります。(写真撮影地点8)


 上図は、本文中に併記した写真撮影地点の見取り図です。現状で見学出来る範囲であるので、レポート初回の城跡解説記事と併せて参照いただければ、城跡探訪の目安になるでしょう。 (続く)

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