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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く22 その10 「古城と古堂です!!」

2016年03月10日 | 大洗巡礼記

 林を抜けると、烟田地区の広々とした田園風景が広がりました。道なりに右へ曲がって公民館の前を過ぎると、上図の三叉路に着きました。電柱の脇に西光院への案内表示板があり、奥には西光院を含めた烟田城跡の杜が横たわって見えました。
「あれが城跡ですな」
「ええ、お分かりですか」
「細長く伸びてる形の杜というのは、大抵の場合は人の手が入ってるか、何らかの遺跡である場合が殆どですからね」
 烟田城跡は、現在は中心部が新宮小学校、東側が西光院境内地となり、北側が少し宅地化しているほかは、外構えの範囲に至るまで雑木林に覆われています。


 道は、城跡の大手口と推定される場所に続きます。現在は西光院の裏口に当たりますが、中世戦国期においてはこちらが正面入り口にあたっていた可能性があります。


 農地の向こうに見える林の下には、城跡の北側を護る二重土塁と横堀が残っていますが、草木が繁って入れる状態で無いことがU氏の下見によって判明していますので、そこまで分け入いることはしませんでした。
 地形的にみて、北側は僅かな段差しかありません。人為的に防御線を構築することで護りを固めた様子が、遠くから見ただけでも充分にうかがえます。

「下見の時に思ったんだけどさ、城から北側は、烟田氏の本拠地だし、一族家臣たちの館も岡道沿いに配置されてるから安全だったはずなんだが、それでも土塁を持って堀を構えて備えていたんだなあ」
「それが戦国の世の習いや」
「そうだなあ」
「佐竹氏の軍勢は涸沼沿いに三方から南下して烟田氏の八館を悉く撃破したから、この烟田城にも北から攻め寄せたものと思う。地形を頼んで要害としたのは南側なんで、城の弱い所を集中的に突かれた形だったと思う。しかも城主兄弟は謀殺されてしまってるから大将が居ない。士気は落ちるし、投降しても脱出しても佐竹氏の兵に捕まって殺された。徹底抗戦しか選択肢が残らなかったが、数百の鉄砲のつるべ射ちを数刻も受けては城ももたない。落城は時間の問題でしかなかったと思う」
「そうだなあ。もともと堅固な城じゃないからな。石垣も無いし」

 すると奥さんが、いつものように不満げに言うのでした。
「ひどい話です。ほんとに、佐竹は残酷なんです」
「美和さん、佐竹氏が残酷なんじゃなくて、みんなが殺し合いやってた時代の話なんです。鹿島大掾氏勢力の一掃は太閤秀吉の認可による地域支配改変の一環だったし、佐竹氏はそれに乗って自らの領地拡大をも狙ったわけです」
「それは、そうなんですけど、でも何も皆殺しにしなくたっていいじゃないですか。降伏を認めて従えれば良かったんじゃないか、って思うんですよ」
「降伏しても撫で切りに合う可能性が高かったと思いますよ」
「撫で切り・・・」


 城跡の大手口と推定される場所です。城の東側にあたり、西光院において最も古い由緒を帯びる観音堂の正面に対しています。観音堂の本尊は藤原時代末期または鎌倉時代の遺品なので、堂宇が原位置を保っているのであれば、烟田城が築かれる以前からこの地に祀られていたことになります。この本尊千手観音の霊験をたのんで鎮護の呪力を期待し、城郭の一角に取り込んで精神的な支えにもしたのでしょう。

 中世戦国期においては、寺社が城館の一角を占めるケースは数多いです。寺社は公的な性格を帯びて儀礼や会見の場にも使用されましたから、城の大手口または主要施設に隣接させて、平時の活動の場にあてることも珍しくありませんでした。
 城郭に居住空間としての御殿が整備されるのは織豊期ぐらいからなので、それまでの居住空間は城外の館に置かれるのが一般的でした。それで、城主が城に出向いて一時的に滞在または公的活動を行う施設を城内におくとなれば、寺院で代用するという形が多かったようです。建築の面でも寺院の方が大きくて堅牢であるため、有事の際には寺堂が防御拠点に早変わりすることも珍しくありませんでした。


 大手口推定地の南には、土塁と空堀が藪の中にいまも形をとどめています。道路から藪の中を覗き見るだけで、深い空堀の形を視認出来ましたので、無理して分け入る必要はありませんでした。


 南へ回って、西光院の南口に着きました。寺の正式な入口はこちらで、立派な標柱も建てられています。U氏が参道の両側の細長い高まりを指して、これは土塁と見ていいのか、と尋ねてきました。

「土塁のように見えるけど、観音堂の横では幅が広がってるから土壇というか、櫓台のような場所にも見える。大手が東にあったと仮定して、観音堂までを城の公的空間と解釈すれば、それから西側は城の軍事的空間で防御性も高くなるから、ここらあたりに第二の通用口があって護りを固めていた可能性は高い」
「なるほど」
「その場合は、この参道の両側の土塁は、これもおそらくは二重土塁かもしれんな。間は参道になってるが、元は横堀だったかもしれん」
「そうか、なるほど、これが横堀だとすると、北側からくる土塁と繋がるわけか」
「多分ね」
「東側も段差が無くて外と地続きになってるから、土塁も二重にしないと防御効果が上げられないわけだ」」


 参道の左側の土塁の上には、大きな切株が並んでいますので、寿徳寺と同じように並木があったことが知られます。切株の間には墓碑も点在して墓地のような感じになっていますが、墓碑は全て江戸期以降のものばかりでした。


 西光院の本堂です。寺そのものは烟田城が廃されて後に創建され、寺域は城跡の大手エリアを占める形で境内地を定めています。近年に改修整備されたようで、本堂も庫裏も真新しい建物でした。


 西側に建って東面する観音堂です。西光院が現地に創建される以前からあったといい、お堂は江戸期の元禄年間の修築ですが、同時期の堂宇としては背高で古式に則っていることが分かります。本尊が中世期を通じて信仰を集めたことが、城の一画に取り入れられた一番の理由であったのでしょうか。
 私が以前に研究していた奈良県の中世武士の城館に隣接または関連する寺院の本尊は、藤原期の古遺品であることが殆どでした。同時に在地武士の多くが荘園領主の武装化といったプロセスを経ていましたから、荘園の宗教的拠点である荘園堂の由緒を兼ねる寺院も少なくなく、城館とも密接に関連して一定の宗教的結界を軍事的空間にも重ねていた歴史が垣間見られます。
 そうしたケースに似た歴史が、この観音堂と烟田氏および烟田城の関係のうえにも存在していたのでしょうか。


 観音堂が、古い歴史を持つことは、堂内前陣左右に仁王像が配置されていることからも伺えます。仁王像は本来は山門に安置される尊像ですが、寺の本尊像の守護として本堂に置く場合も少なくありません。西光院には本堂がありますが、仁王像がこちらの観音堂に置かれているので、観音堂が寺で最も古く、最も重要な位置と歴史を背負っていることが明白です。

 この古堂が東に面して天台宗の法灯を伝えているのであれば、この古堂の境内地をそのまま烟田城の大手に取り込んで守護仏として祀る流れも有り得たでしょう。中世戦国期を通じて僧兵という強大な軍事力を誇ったのは、比叡山延暦寺を頂点とする天台宗であったからです。
 烟田城の築城にともなって移転した寿徳寺も天台宗ですから、それを烟田氏が菩提寺にしたことと、烟田城跡の一画に後から成立した西光院が境内地をかまえる点とは、何らかの歴史的関連があったはずです。単純に考えれば、寿徳寺はこの場所にもともと在って、移転の際に観音堂だけが残されて城郭の守護堂宇となった、という成り行きがイメージされてまいります。

 上図は吽形像です。堂が修築された江戸期の作とみられます。


 反対側には阿形像が立ちます。憤怒の表情の筈なのですが、江戸期の人情味豊かな多彩な表現は、憤怒に滑稽感をまじえて親しみある顔立ちに仕上げています。庶民に親しまれ信仰される尊像としては、こういったユーモラスな顔立ちも必要だ、と考えられたのが江戸期という時代です。 (続く)

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