学校に言論の自由を求めて!

東京都教育委員会の「職員会議で挙手・採決禁止」通知に、たった一人異議申し立てした元三鷹高校校長の土肥信雄先生を支援します

西原博史教授「鑑定意見書」(後半)

2010-03-15 23:34:48 | 裁判資料
 旭川学テ判決の前提となったのは、1947年教育基本法(旧法)10条1項であった。そこでは、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」と定められていた。現在はこの規定は、2006年法(現行法)16条1項の「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」とする規定に引き継がれている。
 学テ判決が1947年教育基本法10条を解釈するにあたっては、「教育」と「教育行政」を区別し、教育行政の活動には一定の限界があることを確認していった。
「国の教育統制権能を前提としつつ、教育行政の目標を教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確立に置き、その整備確立のための措置を講ずるにあたっては、教育の自主性尊重の見地から、これに対する『不当な支配』となることのないようにすべき旨の限定を付したところにその意味があり、したがって、教育に対する行政権力の不当、不要の介入は排除されるべきであるとしても、許容される目的のために心要かつ合理的と認められるそれは、たとえ教育の内容及び方法に関するものであっても、必ずしも同条の禁止するところではないと解するのが、相当である。」(前掲最高裁旭川学テ判決)
「教育に対する行政権力の不当、不要な介入」の排除が問題とされる際、教育を行うのは誰なのかが問題になる。現在の理論水準においては、この教育を行うのは「学校」であり、その学校の管理運営に関する権限を集約的に体現する「校長」という機関である。
 古典的な議論として、「国民の教育権」論は、親からの信託を受ける「学校単位の教師集団」という主体を想定し、その教師集団が「教育内容決定権」としての教育権を行使すると理解していた(兼子仁「教師の『教育権の独立』と教育行政権」有倉遼吉編『教育と法律』〔新評論、1961年〕51頁、兼子仁『教育法』〔新版、有斐閣、1978年〕350頁以下、堀尾輝久『現代教育の思想と構造』〔岩波書店、1971年〕326頁)。職員会議が学校における意思決定機関の役割を果たすという立論が過去において行われていた際には、その理論的基盤は、この「国民の教育権」論の中で認められた「教師集団」の教育権であった。ただ、この「国民の教育権」の理論は、教師の「権利」なるものを主張するに急で、教師の権限濫用によって子どもの権利侵害が生じる場面への対応において著しい不備を示すものであった。これは、前記の最高裁旭川学テ判決において同理論が「極端かつ一方的」と断ぜられたことにも現れる。
 そのため、遅くとも1980年代における理論的発展において、職員会議という形で表明される教師集団の意思が「教育」の最終的な担い手であるという見解は克服され、学校における教育的決定を集約し、最終的に引き受ける校長の独立の権限が意識されていくようになる。たとえば――最も典型的な事例だけを挙げると――信仰上の理由から剣道実技を拒否した生徒に体育の単位を認定せず、最終的に退学処分とした学校の措置を問題とし、それを取消した1996年3月8日の神戸高専事件最高裁判決(民集50巻3号469頁)は、「高等専門学校の校長が学生に対し原級留置処分又は退学処分を行うかどうかの判断は、校長の合理的な教育的裁量にゆだねられる」ことから出発し、当該事例にあって校長の裁量権逸脱があったことを確認した。
 同じ時期、卒業式・入学式にあたって「日の丸」掲揚を行うか否かの決定権限の所在を問題にする事例が裁判上争われた。職員会議による掲揚しない旨の決議と、掲揚する旨の校長の決定が対立する状況下において、「日の丸」の引き降ろし等を行った教職員に対する懲戒処分が適法か否かが争われた事例において、当該事項の決定権限が校長にあることが確認されている。
「学校運営に当たっても、校長は自分の考えを他の教師に押し付けるのではなく、教師全体の意見を聴き、討議を尽くした上で、これを決するのが望ましいことというべきであり、このために、法規上の根拠はないにもかかわらず、各学校において職員会議が制度として設けられ、ここにおいて、校長の意思や教育委員会からの通知等を伝達し、教職員の意見の聴取、教職員相互の連絡調整等を行うことにより、校務の運営にかかわってきているのである。/ このように、職員会議は校務の運営を円滑かつ効果的に行うために極めて必要かつ有用なものではあるが、これは法令上の根拠があるものではなく、また、校務の運営について最終決定する権限も有してはいないのであって、校長はその職務を行うに当たって職員会議の意見を尊重すべきではあるが、これに拘束されるべきものとまではいうことはできない。」(大阪地裁1996年8月22日判決判例タイムズ904号110頁=東淀川高校事件。同旨、鯰江中学校に関する1998年1月20日の大阪高裁判決判例地方自治182号55頁 )
 職員会議の位置づけについて、これらの判決の時点で法令上の根拠がなかったものが、2000年1月の学校教育法施行規則の改正によって、職員会議が任意設置の校長の補助機関であることが明示された。それに先立ち東京都では、1998年に教育委員会が各学校における「管理運営規定」の策定を促し、その中において職員会議の補助機関性を明示するよう促していたことは、被告も強調するとおりである(被告側準備書面(1)8頁以下)。ただこれも、同時期の下級審判例において認められていた職員会議の位置づけを根本的に改めるものではなく、むしろその法的状態を具体的な法令の中に明示するものであるに過ぎなかった。上記大阪地裁判決の「校長は自分の考えを他の教師に押し付けるのではなく、教師全体の意見を聴き、討議を尽くした上で、これを決するのが望ましい」という命題は、校長が補助機関としての職員会議をどのように運用するのかに関わる問題を含む本件においても、重要である。
 2000年以降に各地で義務制学校における学校選択制が導入されるようになるが、この制度も校長の教育上の権限の位置を明確化する上で重要な契機となった。学校選択制は、各学校の教育方針において多様性があることを前提とするが、この基本方針を定め、教職員に周知・徹底することが校長の権限であることが意識されている。ここにおいても、学校における教育のあり方を最終的に決定する校長の権限が措定されている。
 これを表すのが、「校長は、校務をつかさどり、所属職員を監督する」と定める学校教育法37条4項(同法62条で高等学校に準用)である。ここでの「校務」は、「学校の運営に必要な校舎等の物的施設、教員等の人的要素及び教育の実施の各事項につき、その任務を完遂するために要求される諸般の事務を指す」(前掲鯰江中学校事件大阪高裁判決)ものと解され、そこには様々な学校運営上の権限が含まれる。
 この校長の権限は、末端の教育行政機関として学校運営にあたるとともに、「教育の実施」に関わるものでもあり、教育と教育行政の二重性を体現している。従って、単に教育行政に従事するに過ぎない教育委員会の権限とは性格および射程を異にするものであって、単に教育委員会の権限の延長線上に考えられ得るものではない。教育基本法16条1項が「教育は不当な支配に服することなく」行われると定める際、教育に関わる校長の権限が一定の独立性を有しており、教育行政を行う教育委員会が恣意的に介入できるものではないことが意識されている。これは、1947年教育基本法(旧法)に関して前記の最高裁旭川学テ判決が「教基法10条1項は、いわゆる法令に基づく教育行政機関の行為にも適用がある」と認めるとおりであり、この点において教育基本法の改正は実質的な変化をもたらすものではない。

3.2 被告東京都教育委員会の介入による原告校長の独立の職務権限の侵害

 上記のような校長の職務権限の独立性を考えた場合、本件において問題とされている被告東京都教育委員会の様々な介入行為は、教育基本法16条1項、学校教育法37条4項(同法62条で高等学校に準用)に反し、間接的には生徒の憲法26条に保障された教育を受ける権利を侵害した。

3.2.1 職員会議における挙手・採決を禁止する旨の通知(訴状「第3」第2項目)

 適正かつ効果的な教育を学校全体として進めるために、職員会議のあり方およびそれに関わる教職員との信頼関係を構築するための方法については、「校務をつかさどる」校長の職務権限に属するもので、校長に広範な裁量権が帰属する。この点は、校長と教職員の相互理解・意思疎通が円滑に進んでいることが学校として効果的な教育活動の遂行に不可欠であることとの関係でも、校長の極めて重要な権限部分である。この点については、判例上も繰り返し確認されている(下記の東京地裁判決のほか、前掲の東淀川高校事件大阪高裁判決、鯰江中学校事件大阪地裁判決)。
「学校教育は、一人校長がなし得るものではなく、校務をつかさどる立場にある校長は、児童、生徒の教育をつかさどる立場にある教諭をはじめとする教職員の相互理解・意思疎通を図りつつ、適正、円滑な校務の運営に当たるべきものである。」(東京地裁2001年12月20日判決Lex/DG文献番号28070687=田無市立柳沢小学校事件)
 それに対して被告東京都教育委員会は、平成18年4月13日付けで「学校経営の適正化について」とする通知を行い、職員会議における挙手・採決を禁止する形で、議事運営の方法に対するルール化を行った。しかし、いかに教職員との信頼関係を構築し、校長としての方針が実現されるための関係を築いていくのかは、学校において適正かつ効果的な教育活動が実践されるよう措置を講ずる校長の裁量権の核心にある。にもかかわらず本件通知は、校長と教職員の信頼関係構築を妨害するものであり、教育に関する「不当な支配」に該当し、教育基本法16条1項に反するとともに、校長の「校務をつかさどる」権限をも侵害する。

3.2.2 教職員の業績評価に対する違法・不当な干渉(訴状「第3」第4項目)

 教職員の業績評価のあり方も、学校において教職員を監督し、もって適正かつ効果的な教育が行われるよう措置を講ずる裁量に属する。それに対して原告は、平成17年度の校長会や業績評価の評価者訓練において、C、D評価を最低20パーセントは出すべき旨の指導を受けたと主張している。本鑑定意見書は事実認定に踏み込むものではないが、そのような指導が明示的にであっても、あるいは構造的に校長としてその指導を受け容れざるを得ない事実上の圧力をかける形の黙示的なものであっても、存在したとするならば、それは法令上の根拠を欠いたまま恣意的な評価方法を強要するものであって、教育委員会の権限濫用に当たり、教育基本法16条1項、学校教育法37条4項(同法62条で高等学校に準用)に違反する。

3.2.3 職務命令の強要(訴状「第3」第6項目)

 高等学校における生徒の教育は、ひとり校長のなし得るものではなく、教職員全員の協力と連携が必要である。だからこそ、学校教育法37条4項(同法62条で高等学校に準用)は明示的に「所属職員を監督する」校長の権限を独立に取り出し、「校務をつかさど」る権限と並べる規定の仕方を選んだ。ここにも、学校に所属する教職員とどのような関係を作り、どのようにして校長が持つ教育上の構想が実現される態勢を作り上げていくのかに関して校長自身に認められた広範な裁量権が表現されている。
 にもかかわらず被告東京都教育委員会は平成20年度の校長会において、卒業式・入学式における国歌斉唱に関わって個別的職務命令の発出を求める指導を原告校長に対して行い、同指導の実現を迫るための指導を繰り返した。
 しかし、所属職員を監督し、校長の教育構想を実現するにあたって、命令服従関係ばかりによって拘束することは校長と教職員の信頼関係を傷つけ、むしろ教育の営為を妨げる危険がある。その点をも考慮しながら校長は教職員との関係を形づくるわけであり、どのような場合にどのような内容の職務命令をどのような形式において発出するのかは、その内容・形式が校長としての裁量権を逸脱しない限り、まさに校長の裁量に委ねられたことであって、教育委員会といえども外部から介入し、自らの信奉する恣意的な思惑を押し付けることの許される対象ではない。そうである以上、個別的職務命令の発出に関わる被告東京都教育委員会による上記指導は、教育委員会の権限濫用に当たり、教育基本法16条1項、学校教育法37条4項(同法62条で高等学校に準用)に違反する。

3.2.4 生徒の表現行為に対する検閲の強要(訴状「第3」第1項目)

 生徒の知的な能力を発展させ、自分の力で調査した事項に関し責任ある表現を行う生徒の能力を養成することは、高等学校の重要な任務である。これは、学校教育法51条が「中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、高度な普通教育及び専門教育を施すこと」を高等学校の目的とし、それを受けて同法52条が高等学校の教育目標として、
「一 義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展拡充させて、豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。
二  社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な知識、技術及び技能を習得させること。
三  個性の確立に努めるとともに、社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと。 」
と規定するとおりである。
 こうした能力の育成のためには、自らの見解を形づくることを支援する活動が不可避となる。高等学校の教育において、生徒が常に「中立的」見解を形成すると考えるのは現実的でもないし、自ら考える能力の育成という点において破壊的ですらある。子どもは極端な見解を抱く可能性を常に保障されていなければならず、ただ、その極端な見解に対しても批判があることを知って自ら修正を施すことによって初めて健全な知的能力の発達が可能になるのである。
 にもかかわらず、被告東京都教育委員会は、平成17年8月26日の「文化祭にかかわる事故防止等の徹底について」とする指導文書を初めとして、「学校教育において大切な公正中立かつ多面的なものの見方を育てるという視点において支障が生じない」ような展示物や文集等による生徒の意見表明を求める措置を積み重ねてきた(被告側準備書面(1)3頁以下)。しかし、生徒が自らの調査に基づき、自らの責任において独自の見解を発表することを妨げることが常に一般的に高等学校として求められることである保障は全くない。
 事柄はまさに教育的な課題に属する。当該高等学校における生徒の間で前提として共有された知識や推論能力を踏まえ、その中で全体として「多面的なものの見方」を育てるために一部において批判的討議が可能な素材を生徒自身による意見表明としてどこまで許容するべきなのかは、教育上、極めて専門的な判断が必要な課題に属する。これは同時に、高等学校に通う段階まで成長すれば原則として成人にかなり近い表現能力や自己批判能力を身につけていることとの関係で、生徒個人の表現の自由をどこまで尊重し、どこにおいて制約を加えるべきかという極めて難しい調整の課題でもある。
 高等学校におけるこうした教育上の課題は、一人ひとりの生徒の能力を熟知する教員たちと、その教職員との間で日常的なコミュニケーションを重ねることによって学校全体の生徒の能力について総合的な判断できる立場にある校長の権限によって果たされるべき課題である。ところが前記の被告東京都教育委員会による指導は、子どもの権利保障を直接に妨害するとともに、教育上の効果を狙った生徒の意見表明の機会をどの生徒にどの範囲において認めていくかという、極めて高度に教育的な課題に関して校長や教職員の専門的な判断を妨害し、場合によっては教育上非効率ないし破壊的な働きかけを校長に強制するものである。
 さらに生徒の表現の自由という観点から考えた場合、基本的には対外的な意見表明を旨とする文化祭掲示物について内容的な観点から包括的な発表前審査を行うことは、表現の事前抑制という極めて侵害度合いの高い規制手法に該当する。文化祭発表に関して一般的許可制のような形式の審査手続を導入することは、成績評価権を握る教員側の意に沿う表現のみに自らの思考を限定するような方向において、生徒の側に強い萎縮的効果を発生させる可能性が伴う。例外的な場合において教員上の観点から個別作品に関して文化祭出展を見合わせるような措置を採る可能性が常にあり得るとしても、だからといって事前規制を原則と考えるのは、生徒を精神的能力の主体として信用することを拒否するものである。憲法21条に保障された表現の自由を考えた場合には、強い萎縮的効果を伴う発表前審査というような事前抑制を行うことは、そうした強度の介入を行わなければ具体的な害悪発生を防げないような例外的な場合に限って許される。この事前抑制原則禁止の法理は、1986年6月11日の北方ジャーナル事件最高裁判決(民集40巻4号872頁)が「表現行為に対する事前抑制は、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法21条の趣旨に照らし、厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許容されうる」とするとおりである。生徒が未成年であり、表現の場が学校内における意見発表であるという状況は、表現を規制する目的について様々な教育的観点を考慮することを学校側に許す事情であるとしても、生徒の根源的な人格的利益を損ねるような事前規制的手段を広範に正当化するものではない。手段において過度に統制的な事前規制を導入することは、生徒の表現の自由に対する侵害を構成し得る。そうした点において、被告東京都教育委員会による本件働きかけは、校長が本来有する生徒の表現に対する関わり方の広い裁量を歪め、本来ならば裁量権の及ばない所において裁量権を行使するよう促し、本来の裁量権の範囲における裁量権行使をためらわせる、違法・不当な介入である。
 そうである以上、被告東京都教育委員会による上記指導は、教育委員会の権限濫用に当たり、教育基本法16条1項、学校教育法37条4項(同法62条で高等学校に準用)に違反するとともに、生徒の表現の自由に対する不当な制限を要求するものであって、生徒の憲法21条の権利をも侵害する。

4 おわりに

 前述のとおり、本件訴訟は、教育委員会による学校行政上の措置がどこまで校長の基本的人権としての表現の自由と、学校運営ならびに職員監督上の職務権限を制約し得るかを、日本の判例史上初めて根本的に問うものである。校長と教育委員会の権限区分に関して、原理的な方向設定が求められる。特に近時の教育政策において、学校の教育方針を決定し、教職員との協力関係の中で効果的にその教育方針を実施していく「学校経営」という視点が強調されていることもあって、校長の権限と責任は極めて重要な位置にある。その校長の権限と責任が、教育委員会を構成する者の思い入れによってどこまで振り回されてよいのか、という点が本件における本質的な問題の一つである。
 教育委員会と校長の権限配分に関わる問題に答えるということは、同時に、教育基本法16条1項にいう「教育行政」と「教育」の権限区分に関わる重要な論点において解決の方向性を示すことでもある。この論点は、前掲の旭川学テ最高裁判決で未解決のまま残された、教育法全般を考える上で極めて重要なポイントである。
 被告東京都教育委員会の本件訴訟における主張や、それ以前からの実務を見るに、被告東京都教育委員会は、旭川学テ判決やその後の下級審判決で確認されてきている、教育に関わって学校が有する一定の権限の独立性を全く理解できていないように思われる。その意味で、被告東京都教育委員会は、旭川学テ判決で最高裁によって「極端かつ一方的」であるとして明示的に退けられた「国家の教育権」の考え方から脱却できておらず、違法な権限行使を積み重ねてきている。
 これまでそれが問題とならなかった原因の一つは、過去および大部分の現在の校長が、本件で明らかになるように定年退職後の処遇に関わる重要な決定権限を教育委員会に委ねたまま、違法・不当な指導であっても教育委員会の思召しに従わざるを得ないような事実上・構造上の権力関係が定着しており、校長としての問題提起ができない状況にあったことに求められるであろう。しかし、こうした力関係において正当な権限行使が妨げられる状況は、極めて不健全であり、法治主義的な行政運営としてはあってはならない事態である。
 本件は、過去において事実上の圧力によって学校側の権限に対する違法・不当な教育委員会による侵犯行為が一定の閾値を越え、明らかに学校運営上・教育上合理性を欠いた押し付けが行われるところまで達し、教育上の誠実さと熱意を持つ原告校長として問題提起をなさざるを得ないところまで追い詰めた結果として発生した事件だと位置づけられる。そうである以上、本件訴訟における裁判所の責任は社会的に見ても極めて重大だといわざるを得ない。旭川学テ以来、未解決のまま残された重大な法的論点に明確な決着をつけ、教育行政に関わる教育委員会が子どもの教育という貴重な活動を行う学校の権限を妨害し、もって子どもの教育を受ける権利の実現を妨げるようなことのないよう、教育基本法16条1項や学校教育法37条4項(同法62条で高等学校に準用)の正しい解釈を示すことが期待されている。
 ここで正しい法解釈を提示することが憲法上保障された国民の基本的人権を守る上で果たす役割を意識して、被告東京都教育委員会の暴論に対して厳正に教育行政としてあるべき道を示すような判決が下されることを期待する。

1. 経歴について

(字数制限のため省略します - ブログ担当者)

2. 研究業績と専門研究について

[単行本]
『良心の自由』(成文堂・1996年, 増補版 2001年)
“Vom paternalistischen zum partnerschaftlichen Rechtsstaat”(Nomos [ドイツ]・2001年・
Sung-Soo Kimと共著)
“Das Recht auf geschlechtsneutrale Behandlung nach dem GG und EGV”(Duncker & Humblot
[ドイツ]・2002年)
『平等取扱の権利』(成文堂・2003年)
『学校が「愛国心」を教えるとき』(日本評論社・2003年)
『教育基本法「改正」――私たちは何を選択するのか(岩波ブックレット)」(岩波書店・2004年)
『良心の自由と子どもたち』(岩波新書・2006年)
『子どもは好きに育てていい』(生活人新書=NHK出版・2008年)
『自律と保護――憲法上の人権保障が意味するものをめぐって』(成文堂・2009年)

[編著書]

『子ども中心の教育法理論に向けて』〔エイデル研究所、2006年11月〕《戸波江二と共編》
『岩波講座 憲法 2 人権論の新展開』〔岩波書店、2007年8月〕

[本鑑定意見書関連論文]

(多数につき掲載を割愛させていただきます ― ブログ担当者)

[専攻領域]
思想・良心の自由(憲法19条) 平等権(憲法14条) 表現の自由(憲法21条)
基本的人権の基礎理論



最新の画像もっと見る