学校に言論の自由を求めて!

東京都教育委員会の「職員会議で挙手・採決禁止」通知に、たった一人異議申し立てした元三鷹高校校長の土肥信雄先生を支援します

西原博史教授「鑑定意見書」(前半)

2010-03-15 23:46:32 | 裁判資料
東京地方裁判所民事第19部 御中

鑑定意見書:

教育委員会による学校行政上の措置は、どこまで校長の基本的人権としての表現の自由と、学校運営ならびに職員監督上の職務権限を制約し得るか 2010年3月xx日

早稲田大学教授
西原 博史

目 次

1.はじめに

2.原告校長の表現の自由に対する侵害
 2.1 原告に対する不合格処分が校長在職時の原告の表現行為を原因としていたことによる表現の自由侵害
  2.1.1 職員会議の挙手・採決禁止に対する問題提起を行ったことに対する不利な評価と表現の自由
  2.1.2 「C、D評価は20パーセント以上となる旨の指導」に関する情報発信を行ったことに対する不利益な評価と表現の自由
 2.2 原告による「C、D評価は20パーセント以上となる旨の指導」に関する情報発信に対する直接的抑圧行為による表現の自由侵害

3.原告校長の独立の職務権限に対する侵害
 3.1 国家機関相互の教育における権限の配分と校長の位置
 3.2 被告都教委の介入による原告校長の独立の職務権限の侵害
  3.2.1 職員会議における挙手・採決を禁止する旨の通知(訴状「第3」第2項目)
  3.2.2 教職員の業績評価に対する違法・不当な干渉(訴状「第3」第4項目)
  3.2.3 職務命令の強要(訴状「第3」第6項目)
  3.2.4 生徒の表現行為に対する検閲の強要(訴状「第3」第1項目)

4 おわりに


1.はじめに

 本件は、被告都教委による重層的な違憲・違法の権力行使を問題にした事例である。公立高等学校の組織・運営に関わる問題は、責任ある教育体制の構築に向けた地域のすべての人々が関係する公共的な論点であり、教育委員会および教育庁を構成する一部の人たちの個別利害と個人的な思い入れに基づいて恣意的に作り上げていっていいものではない。にもかかわらず、本件における被告東京都教育委員会(以下都教委)の実務は、あたかも、当事者による情報発信を封殺して情報隠蔽を図り、もって公的監視から免れた所で恣意的支配を貫徹しようとする姿勢を反映したものであるかのようにさえ見える。
 本件に関しては、現実に法的な問題を検討する場合、特に憲法上の観点から、次の二つの大きな論点を扱う必要がある。

①被告都教委が、憲法21条に直接反する形で、原告の表現行為を理由とする不利益取扱を行うことによって、原告の公的な表現を妨害した点。

②被告都教委が、教育基本法16条1項に禁じられた「不当な支配」を行い、学校教育法37条4項(同法62条で高等学校に準用)に違反して原告校長(当時。以下略)の独立の職務権限を侵し、もって健全な学校運営を妨害することを通じて間接的には生徒の憲法26条に保障された教育を受ける権利を侵害した点。

 教育行政のあり方をめぐっては、1960~70年代を中心に、様々な党派的な立場から論争の対象とされてきたが、その論点をめぐる正しい法解釈枠組の構築は、現在においてもなお道半ばにある。その過程において教育基本法が改正されてからも、まだ日も浅い。そして具体的には、校長の職務権限に対する教育委員会の直接的な妨害行為が裁判において問題にされたことは過去においてもあまり例を見ないことであり、教育委員会と校長の間の権限関係を正確に位置づけるという困難な課題を本件裁判において適正に遂行することは、今後に向けての先例的価値からいっても極めて重要である。
 こうした点から、本鑑定意見書は、上記法令の解釈に関して存在する理論的な混乱を整理し、本件事実関係を法的に評価する際に基軸となるべき枠組みを確認することを狙いとする。

2.原告校長の表現の自由に対する侵害

 憲法21条に保障された表現の自由という個人の基本的人権と、その主観的権利を保障することによって守られる自由で多元的な情報の流れは、公的な事項に関する民主的な運営を行う上で欠かすことのできない機軸である。公立高等学校の組織・運営は、生徒や親はもちろん、将来公立高等高校への進学を考える子どもやその親・親族を始め、将来において何らかの形で公立高等学校に関わる可能性のある者すべて、すなわち住民すべてが強い関心を有する公的な事項である。こうした問題に関し、合理的な決定が下されるように透明な決定手続が確保されているとともに、責任ある体制構築、必要な広く情報が社会において共有されていることは極めて重要である。
 もちろん、学校に関わる情報をすべて社会で共有することは可能でも適切でもない。子どものプライヴァシー事項を始め、場合によっては学校側の責任体制を構築する上で一時的に秘密にせざるを得ない事項など、情報の流れを遮断しなければならない場面はいくつも考えられる。しかし、例外的な領域において情報の秘匿性を確保しなければならない場面があるからといって、教育委員会による公式発表以外の情報ルートをすべて閉ざすような隠蔽工作が行われることが許されるわけでは決してない。情報の流れはあくまで原則的に自由であることが肝要であって、ただ必要な場合に必要な範囲で情報秘匿の可能な例外領域が認められるに過ぎない。これは行政組織内部においても、原則として変わるところとはない。
 本件において問題となった原告の表現活動は様々な点に及ぶが、代表的な関係として、本鑑定意見書では次の二つの情報に関わる場面を主として扱う。これは、他の表現抑圧が重要でないという意味ではないが、以下の二点が表現抑圧の目的・手段としての悪質性と反社会性という意味で際立っていることを理由とする。
 a.職員会議における挙手、採決禁止を求める通知の合理性と適法性に関する問題提起、
 b.概略「人事考課におけるC、D評価は20パーセント以上となる旨の指導が行われた」点に関する情報の社会的共有
これら二つの情報に関わる原告による表現行為が、被告の様々な実践によって妨害され、不利益付与の原因とされたことによって、原告の表現の自由は侵害されたことの意味は特に大きい。これは、明らかに原告の憲法上の権利を侵害する被告の違法な権力行使である。


2.1 原告に対する不合格処分が校長在職時の原告の表現行為を原因としていたことによる表現の自由侵害

 被告側準備書面(1)が容認するように、原告に対する平成20年度退職者非常勤教員採用選考における不合格決定(以下、「本件不合格処分」という)は、校長在職中における原告の表現活動を評価し、「職務遂行能力」や「組織支援力」なる評価基準との関係において原告に不利な人事決定の理由とするものであった。

2.1.1 職員会議の挙手・採決禁止に対する問題提起を行ったことに対する不利な評価と表現の自由

 この文脈における上記情報「a」、すなわち原告が職員会議における挙手、採決禁止を求める通知の合理性と適法性に関する問題提起を行った点を原告に不利な要素として考慮することは、人事決定において考慮すべきでない事項を考慮し、考慮すべき事項を十分に考慮しなかった違法を犯すものであり、それが表現抑圧としての意味を持つ限りにおいて、憲法21条に違反するものである。
 学校において校長がどのように教職員との間で学校運営方針を共有し、責任ある学校運営体制を構築しているのかという点は、常に社会の側から検証され、その体制の合理性を目指した不断の改善が行われていなければならない公共的な課題である。その場面において、被告都教委は、2006年(平成18年)4月13日の「学校経営の適正化について」という通知でもって、職員会議における一定の意思決定の意味を持った挙手、採決を禁止した。これが校長の「校務をつかさどる」権限に対する不当、違法な介入でないかどうかは、下記「2」で問題にするが、少なくともこうした通知を通じた学校運営方法の教育委員会による一律決定が合理性を欠くのではないかという疑念を持つことは、すべての国民に憲法上認められた自由(憲法19条、21条)に属する事柄である。
 その場面において原告は、実際に学校運営上の責任を負う者として、その通知が不当な形で校長の権限を妨げることがないよう発令機関である被告都教委の文書による公式回答を求めたわけであるが、それが満たされず、やむなく論点を社会的に共有して合理的な学校運営方法に関する民主的な討議が可能になるように、公の場における問題提起を開始したわけである。これはもちろん、一国民として保障された表現の自由の行使であり、それに対する公権力による不利益付与は許されない。
 この点被告は、あたかも本件不合格処分が人事に関わる資質評価の結果であって、表現の自由の抑圧とは無縁であると主張したいかのようである(被告側準備書面(1)50頁以下)。確かに形式上は、ここで問題となる挙手・採決禁止に関わる問題提起について、それを禁じる被告の明示的なルール設定は行われておらず、また当該言論を直接に処罰・懲戒の対象とする実務があったわけでもない。しかし、こうした事実関係から本件不合格処分のもつ表現抑圧的機能を等閑視し、憲法21条の問題から目を背けることは過度の形式主義であって、憲法解釈として正しいものではない。
 本件不合格処分が表現の自由侵害としての実質を持つことは、次の二つの観点において現れる。すなわち、①「被告都教委の意に添わない社会的発言をすると定年退職時における非常勤教員採用において不合格になる」という実務全体が生じさせる萎縮的効果と、その萎縮的効果に基づく表現の自由への抑圧機能であり、②原告本人との関係では、過去における表現の自由行使に対する制裁を別文脈で課されることによる――たとえて言えば労働基本権を行使したことによって人事上の不利益処遇を受ける、不当労働行為と侵害構造において類似した――強烈な人格侵害的な意味である。
 現代の民主制において、表現の自由は人権体系の中において優越的地位を享受するといわれることが多い(芦部信喜・高橋和之補訂『憲法』〔第4版、岩波書店、2007年〕101頁、佐藤幸治『憲法』〔第3版、青林書院、1995年〕404頁、伊藤正己『憲法』〔第3版、弘文堂、1995年〕212頁、辻村みよ子『憲法』〔第3版、日本評論社、2008年〕166頁、ほか)。これは、一方において表現の自由が個人の自己実現にとって核となるような人格的利益に直接関わるものであると同時に、他方において民主制の運営において機軸となる情報の自由な流れを実現する機能を持つことから説明される(芦部・前掲書165頁における「自己実現の価値」と「自己統治の価値」の対比参照)。この観点は主に違憲性審査基準の決定に関わるが、表現の自由の保障が及ぶ範囲を特定する上でも一定の意味を持つ。本件はまさにこの両側面において表現の自由に対する実質的侵害が問題になる。
 ①の観点は、当事者を巻き込んだ公的な討議を本件不合格処分が現在および将来にわたって封じ込めることを問題にする。本件不合格処分は実質的には過去の言論活動に対する制裁としての意味を持つものであり、こうした人事決定にあたって過去の――内容面でいって都教委の意に添わないらしい――言論活動の実績が考慮されることになると、最も優れた情報発信の環境を有する者であっても、定年退職時における非常勤教員への応募可能性を考えると発言ができない関係になりかねない。表現の自由規制に対する文面審査アプローチにおいて「萎縮的効果」が常に問題にされるが、その核心にあるのは、公の討論の対象として共有されるべき情報が規制を受ける恐れによって封殺されることをどう防ぐかという問題意識である(この点に関する最近の包括的研究に、毛利透『表現の自由』〔岩波書店、2008年〕105頁以下)。こうした観点から考えた場合、本件不合格処分は、公共的な論点に関する当事者による問題提起という、最も貴重な情報インプットに対して、内容的な観点から後になっての不利益付与と結びつけるもので、一般的な効果として将来に対する強い萎縮的効果を発生させる性格のものである。その点において、被告都教委の意図と行為目的はともあれ、具体的な機能と意味において表現の自由に対して強度の制限を及ぼし、民主的な公的討議を歪曲するものである。
 そして、②の観点を意識した場合、原告本人にとっての意味という点においても、本件不合格処分は直接の懲戒等と等しい意味を持つものであり、表現の自由を行使することを通じて社会に働きかけ、自己実現を果たしたことを禁圧するものである。
 このように①および②の観点において本件不合格処分が表現の自由に対する制約としての実質を持つところ、そうした制約を正当化するような目的も被告都教委から示されていないし、また、特定の目的を達成するために本件不合格処分が唯一必要な規制手段であることも示されていない。実際、校長に対して学校運営のあり方に関する一般的な言論を禁止することにつき――具体的な個別の学校関係者のプライヴァシーや学校運営上秘匿すべき情報が問題になる場合を除いて――合理的な理由が成り立つ場面を想定するのは極めて困難である。学校運営の一般的ルールが人前では口にしてはいけないタブーになってしまったならば、民主的な学校運営は夢のまた夢であろうし、そこでは生徒・親に対する責任を十分に果たせる制度が構築されているとはとても評価されないだろう。実際、被告都教委といえども、本件の挙手、採決禁止に対する問題提起を特に問題視して懲戒や処分の対象にしてきたわけではない。そのこと自体が、対象となる言論が規制の許されない性質のものであることを現す。形を変えて人事評価の対象と位置づけることが論理的には形式上可能だからと言って、表現の自由侵害が表現の自由侵害でなくなるわけではない。
 そうした意味において、本件不合格処分を下す過程において、原告が校長在職当時に挙手、採決禁止の通知に対する社会的な問題提起を行ったことを原告に不利な判断・評価の材料として考慮することは許されず、にもかかわらず当該事実を考慮した本件不合格処分は適法なものではない。国家賠償法上も違法な原告の権利に対する直接の侵害を意味する。

2.1.2 「C、D評価は20パーセント以上となる旨の指導」に関する情報発信を行ったことに対する不利益な評価と表現の自由

 同様に、本件不合格処分の理由としての「職務遂行能力」評価と結びつけて、原告が校長在任中に教育委員会から「C、D評価は20パーセント以上となるように指導を受けた」旨の情報発信を行ったことを考慮している限りで、本件不合格処分は違法であるとの評価を免れない。この点も、校長在職当時の言論行為をもって定年退職時の非常勤教員採用を認めない理由とすることは、①公の討議において問題とされるべき論点に関して当事者からの情報発信に対して強い萎縮的効果を及ぼし、公の討議を歪曲する悪質な表現規制としての意味を持つものであり、②過去の表現行為に対して人事で報復するものであって、原告の人格を強く傷つけるものである、という二つの点において、重大な表現の自由侵害を構成する。
 ただ、挙手・採決禁止に関する問題提起にあっては、それが不適切である旨の特別な働きかけが行為時においては被告東京都教育委員から取り立ててなされなかったのに対して、C、D評価の比率に関する指導については、以下「2.2」で問題にするように、行為に直近する時期においてすでに服務事故としての扱いがなされており、校長の発言として不適切であるとする方向の被告都教委による働きかけが行われていた。その意味で、C、D評価の比率に関する原告の発信行為については、被告都教委として当該言論が何らかの保護を必要とする優越的な価値を守るために制約が必要だと認識していた可能性が残る。
 結論的には後述(2.2)のように、C、D評価の比率に関して原告が発信した情報に実質秘として保護に値する内容は存在せず、従って原告の表現の自由を制約するに足る十分な理由はない。むしろ、人事考課の制度を運用する被告都教委において、その説明責任の範囲において示された「絶対評価」という制度趣旨と、実際に評価者である校長に求められている相対評価的な運用との断絶を社会的に確認し、あるべき教員人事体制の責任ある運用に向けた公的コミュニケーションに資することを目的として原告校長の情報提供行為があるとするならば、それは一義的に民主的な行政監視に奉仕するものであり、積極的に評価されるべきものと位置づけられる。
 それに対して、本件不合格処分を決定するにあたっては、この表現行為が「職務遂行能力」に関する能力評価と結び付けられ、能力が低いことを示す事実として用いられた。これは、公的な責任を持つ人間として市民と情報を共有しながらあるべき学校運営のあり方を求める姿勢それ自体を「無能力」と決め付ける極めて偏った評価基準を用いるもので、それが表現の自由行使を人事上の低い評価と結びつける点において憲法21条に違反している。表現の自由を侵害しているあり方については、前記(2.1.1)の挙手・採決禁止への問題提起と同じことが妥当する。

2.2 原告による「C、D評価は20パーセント以上となる旨の指導」に関する情報発信に対する直接的抑圧行為による表現の自由侵害

 このC、D評価の比率に関する指導の公表に関しては、前述のように、平成20年8月27日に「事故報告書」が作成され、同年9月4日に「事情聴取」という名の査問叱責が行われた。それに基づいて直接の懲戒処分等は行われていないものの、一定の表現行為によって懲戒処分に前置される手続に服さしめ、行動の変更を生じさせようとする被告都教委の実務は、原告の表現の自由に対する直接の侵害を構成する。
 ここでは、被告都教委は、C、D評価の比率に関する情報が守秘義務事項であることを原告に納得させるべく指導したとする立場を採る(被告側準備書面(1)31頁以下)。ただ、この部分において被告都教委の説明には矛盾が見られる。教育委員会において一定の比率に向けたC、D評価に向けての指導が行われていないならば、原告の表現は全くの虚偽であって、虚偽である以上は守秘義務の対象ではあり得ない。ありもしない指導を原告が「ある」と対外的に発信しているのであれば、それだけで教育行政に対する信用失墜行為であろうし、直接に懲戒処分の対象とし得る状況のはずである。
 それに対して、C、D評価の比率を一定の線にして人事考課の報告書を作成するよう指導が行われているのならば、これは明らかに校長の学校運営上の権限に対する違法な介入であり、教育委員会としてあり得ない行為である。教育委員会による違法な働きかけがあったのであれば、それを秘密にしたい違法行為者の主観的な思いがどうあろうと、それは国民の目を欺く違法秘密の問題であって、形式秘の扱いをすることによって関係者の口を封じることが許される対象ではない。
 最高裁判所も、公務員法上の「秘密」との関係において、形式秘指定されているだけでは秘密としての保護の対象にはならず、実質的にも秘密にしなければならない必要性がなければならないものとしており、その限りにおいて秘密扱いすることによる情報の自由な流れからの特定情報の断絶が、個別的に正当化された場面でのみ許容され得る例外的事象であると捉えている。すなわち、「国家公務員法一〇〇条一項の文言及び趣旨を考慮すると、同条項にいう『秘密』であるためには、国家機関が単にある事項につき形式的に秘扱の指定をしただけでは足りず、右『秘密』とは、非公知の事項であつて、実質的にもそれを秘密として保護するに価すると認められるものをいうと解すべき」(最判昭和52年12月19日刑集31巻7号1053頁。同旨、最判昭和53年5月31日刑集32巻3号457頁=外務省秘密漏洩事件)だとされている。
 そうである以上、問題となった情報が形式秘に該当していることを強調し、懲戒処分に至り得る手続の中に原告を服させて強度の心理的緊張状態の中に置いて原告による表現行為の抑止を図る実務は、正当化の余地の全くない違法な表現抑圧に他ならず、憲法21条を直接に侵害する活動である。この点に関しても、学校行政の適正なあり方を考えた場合、公的に説明された人事考課の運営方法から逸脱する実務を求めるような権力行使があった場合、その情報を社会的に共有してあるべき学校運営の方法を市民と共に考えようとする原告の姿勢は賞賛に値すべきでこそあれ、決して何らかの意味で否定的に捉えられべきものではない。

3.原告校長の独立の職務権限に対する侵害

3.1 国家機関相互の教育における権限の配分と校長の位置

 本件は、原告自身による憲法上の権利行使に関わる問題と並び、憲法26条に保障された教育を受ける権利を生徒に対して保障していく上で原告校長に対して委ねられた独立の職務権限に対する被告都教委による侵害行為にも関わっている。その点において、被告都教委の行為のいくつかは、教育基本法16条1項、学校教育法37条4項(同法62条で高等学校に準用)に反し、間接的には生徒の憲法26条に保障された教育を受ける権利を侵害した。
 この問題は、校長の職務権限の内容と範囲に関する論点を含む。実際、この論点については、これまでの判例・学説の流れの中でも、必ずしも十分な理論枠組が形成されてきたわけではない。1960年代から70年代にあっては、実務と教育法学説の間に著しい乖離が見られたことにより、むしろきちんとした理論枠組の形成は阻害されてきた。それが、この間の判例実務の進展により理論の骨格が見えてきているのが現在という時期であり、また2006年の教育基本法改正を経て法的な関係が整理されてきてもいる。本件は、そうした問題において明確な処理を迫るものであり、日本の憲法判例史の中でも大きな位置を占める重要な裁判である。
 ここでの問題は、1976年5月21日の旭川学テ事件最高裁判決(刑集30巻5号615頁)において、被告が前提とする、いわゆる「国民の教育権」説と、検察側の立論に組み込まれた、いわゆる「国家の教育権」説の双方とも「極端かつ一方的であり、そのいずれをも全面的に採用することはできない」ものとされたことと関係する。この判決では、「極端かつ一方的」な見解を排除した中で、いわゆる教育内容決定権が「子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者」、特に親、私立学校、教師、そして国に分有されているものとされ、その「関係者らのそれぞれの主張のよつて立つ憲法上の根拠に照らして各主張の妥当すべき範囲を画する」ことが憲法解釈の課題として必要だとされた。そして「国」と呼ばれる主体の中でも、文部省(当時)、教育委員会、校長などの機関にそれぞれ別箇の任務が割り振られ、その限界が画されているものとされる。
 

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