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般若波羅蜜多prajñāpāramitāは、サンスクリットから「彼岸に渡るための智慧(叡智)」と訳することは可能

2017年01月03日 19時57分29秒 | サンスクリットからの般若心経の解釈

中村元・紀野一義両氏の著書 「般若心経・金剛般若経 (岩波文庫1960/7/25)」の「p.17般若心経 註 1般若波羅蜜多」


般若波羅蜜多prajñāpāramitāは、サンスクリットから「彼岸に渡るための智慧(叡智)」と訳することは可能




仏教界では般若波羅蜜多は「智慧の完成」と解釈することが当たり前とされています。
この解釈を現代仏教界に固定したのは、仏教学の大家の中村元・紀野一義氏の著書「般若心経・金剛般若経 (岩波文庫1960/7/25)」の役割が大きいと考えられます。

私が般若心経の解釈を教わった巽直道先生は、サンスクリットの経典ではなく、漢訳の般若心経に基づき、般若波羅蜜多を「彼岸に渡るための智慧」と解釈されました。
今回、2つのサンスクリットからの翻訳を検討し、サンスクリットに基づき般若波羅蜜多を「彼岸に渡るための智慧」と解釈できるかどうか検討しました。


1. 中村元・紀野一義両氏の著書 「般若心経・金剛般若経 (岩波文庫1960/7/25)」の「p.17般若心経 註 1般若波羅蜜多」のサンスクリットの考察

出典:
般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)
中村 元 (翻訳), 紀野 一義 (翻訳)
出版社: 岩波書店; 改版 (1960/7/25)


現代仏教学の大家である中村元・紀野一義両氏は、サンスクリットの般若波羅蜜多prajñāpāramitāの解釈に関して、次のように述べています:

『p.17般若心経 註 1般若波羅蜜多
般若は原語プラジュニャー(prajñā)の音訳であるといわれるが、厳密にいうと、プラジュニャーの俗語形(例えば俗語の一つとしてのパーリ語ならpaññāとなる)を漢字にうつしたものである。
人間が真実の生命に眼覚めたときにあらわれる根源的な叡智のこと。
普通にいう判断能力としての分別知(vijnāna)と区別するために、般若と音訳のまま用いられる。
無分別智ともいう。
本書では般若を「智慧」、分別知を「知識」と書き分けてある。
般若波羅蜜多は原語パーラミター(pāramitā)の音訳。
この言葉の意味については種々の意見が出されている。
その中、代表的なものは、
(a) pāram(彼岸に)+itā(到れる)という過去受動分詞を女性形にしてpāramitāとしたとする説
および
(b) pārami(彼岸に至れる)+tā(状態、抽象名詞の語尾)としてのpāramitā(完全に到達せること)であるとする説
の二者である。
この邦訳では後者に従い、「完成」と訳してある。
故に般若波羅蜜多とは、「智慧の完成」の意味となる。
漢訳では「智度」と訳してある。』


ブログ著者の解釈

現代仏教学の大家である中村元・紀野一義両氏は、サンスクリットの般若波羅蜜多prajñāpāramitāの翻訳・解釈に関して、
『(b) pārami(彼岸に至れる)+tā(状態、抽象名詞の語尾)としてのpāramitā(完全に到達せること)であるとする説』を採用して「完成」と訳し、般若波羅蜜多とは「智慧の完成」と邦訳されています。
しかし、(b)を選択した学問的な根拠を全く説明していません。
単に「この邦訳では後者(b)に従い、「完成」と訳してある」と書いているだけであり、選択理由の説明がないのです。
このような根拠を示さずに選択や決定を行う方法は、学問的には、非常に奇妙な対処です。

また、『(a) pāram(彼岸に)+itā(到れる)という過去受動分詞を女性形にしてpāramitāとしたとする説』を採用しなかった根拠に関しても、全く説明していません。

つまり、現代仏教学の大家である中村元・紀野一義両氏は、学問的な根拠を説明せずに(b)を選択しているのです。
このような根拠のない決定は不可解であり納得できません。

サンスクリットの語学的な解釈論では、(a)も(b)も両方とも正しいのであり、(a)の解釈に基づく邦訳、つまり『智慧により彼岸に到れる』という邦訳も語学的に正しいと考えられます。

この『智慧により彼岸に到れる』は、『智慧により彼岸に渡ること』であり、これはさらに『彼岸に渡るための智慧』と意訳することは可能であり、漢訳から解釈されていた巽先生の解釈が正しいことが、サンスクリットの原典から証明できます。


2. 大崎正瑠氏(日本大学非常勤講師、元東京経済大学教授)のサンスクリットの翻訳に関する考察

文献名
サンスクリット原文で『般若心経』を読む
大崎 正瑠 (日本大学非常勤講師、元東京経済大学教授)
総合文化研究第19巻第1・2 号合併号(2013.12)p.41-59
http://www.bus.nihon-u.ac.jp/laboratory/pdf/oosakimasaru.pdf

著者経歴
http://camp.ff.tku.ac.jp/tool-box/TKU/faculty/data/osaki.html
東京経済大学の教員一覧:大崎 正瑠
大崎 正瑠:教授:経済学部:ビジネス英語:
略歴:おおさき・まさる
1944年9月生まれ。
慶應義塾大学商学部卒業。キャノン株式会社等勤務を経て、早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了。
大妻女子大学助教授、教授を経て、1999年、東京経済大学経済学部教授。
研究分野は、ビジネス・コミュニケーション、異文化コミュニケーション。
日本コミュニケーション学会理事(1998-2000)。
主要著作: 『ビジネスレターの英語』(1994:荒竹出版)、『ビジネス・コミュニケーション論』(1995:西田書店)、『韓国人とつきあう法』(1998:ちくま新書)、『英文契約書を読みこなす』(1999:丸善ライブラリー)
(資料:ご本人からいただいた情報:『CAMPUS NETWORK』68,p6)


サンスクリットの般若心経のテキストには様々なものが知られているそうですが、大崎正瑠氏は、「中村元が校訂したテキストを基準とした」と書かれていますから、1.のものと同じサンスクリットの経典に関する検討です。

般若波羅蜜多prajñāpāramitāに関して大崎正瑠氏は次のように解釈されています:

『p.44
prajñāpāramitāyāṃ は,prajñāpāramitā- の女性・単数・処格である。
prajñā-(f.)「智慧」は,pra-(pref.)「あまねく」+ jñā-(adj.)「知っている」で,「あまねく知っている(こと)」が本来の意味である。
修行に必要な「英知・見識」のこと。漢訳文では音写で「般若」である。 

pāramitā には2説あり,
(1)pārami-tā:parama-(adj.)「最高」の女性形+ tā(抽象名詞を作る接尾辞)で「完成」,
(2)pāram-i-tā:pāra-(adj.)「向こうへ」(副詞的用法)+ itā(語根√i-「行く」の過去受動分詞ita- の女性形)で,「到彼岸」。

結局prajñāpāramitā-(f.) は,「智慧の完成」または「智慧による到彼岸」という意味となる1)。全体では格限定複合語を構成している。漢訳文では,この部分を音写にしている。』


ブログ著者の解釈
大崎正瑠氏 (日本大学非常勤講師、元東京経済大学教授)は、サンスクリットprajñāpāramitāの翻訳として、「智慧の完成」または「智慧による到彼岸」であると書かれています。
つまり、般若波羅蜜多は、サンスクリットでprajñāpāramitāと表現され、その解釈としては、「智慧の完成」または「智慧による到彼岸」のどちらも正しい解釈であり、中村元氏などの仏教界の権威者が長年主張している「智慧の完成」という解釈に固執したり捉われる必要はなく、「智慧による到彼岸」と解釈する方法も正しい翻訳であることを意味しています。

「智慧(叡智)による到彼岸」は、「智慧(叡智)により彼岸に渡ること」であり、これはさらに「彼岸に渡るための智慧(叡智)」と意訳することは可能であり、漢訳から解釈されていた巽先生の解釈が正しいことが、サンスクリットの原典から証明できています。


3.結論

(a)現代仏教学の大家である中村元・紀野一義両氏の著書 「般若心経・金剛般若経 (岩波文庫1960/7/25)」の「p.17般若心経 註 1般若波羅蜜多」のサンスクリットの翻訳に関する考察

(b)大崎正瑠氏(日本大学非常勤講師、元東京経済大学教授)のサンスクリットの翻訳に関する考察

は両方とも、般若波羅蜜多prajñāpāramitāは、サンスクリットから「彼岸に渡るための智慧(叡智)」と訳することは可能であることを示しています。
このため、漢訳から解釈されていた巽先生の解釈が正しいことが、サンスクリットの原典から証明できます。



補足1
「智慧の完成」という奇妙な言葉

(1)現代仏教学の大家である中村元・紀野一義両氏は、サンスクリットの般若波羅蜜多prajñāpāramitāを「智慧の完成」と邦訳されています。
そして、これが仏教界の定説として信じられています。

この点に関して、巽先生は、『「智慧」とは凡人の知識や知恵ではなく、真如(万物の本体としての永久不変の真理、宇宙万有にあまねく存在する根元的な実体(デジタル大辞泉の解説))から来られた如来の知識や智慧であるから、それは真如=永久不変の真理であるため既に完成されたものであり、今さら追加したり修正したりして完成させる必要はないものである。だから「智慧の完成」と解釈するのは間違いである。』と述べられていました。

現代仏教学の大家である中村元・紀野一義両氏は、般若=智慧に関して次のように解釈されています。

『人間が真実の生命に眼覚めたときにあらわれる根源的な叡智のこと。
普通にいう判断能力としての分別知(vijnāna)と区別するために、般若と音訳のまま用いられる。
無分別智ともいう。
本書では般若を「智慧」、分別知を「知識」と書き分けてある。』

この解釈では、般若=智慧とは、『根源的な叡智』ですから、完全なものであると考えられます。
別の言葉では、真如、つまり「万物の本体としての永久不変の真理、宇宙万有にあまねく存在する根元的な実体(デジタル大辞泉の解説)」と言い表すことが可能であると考えられます。
これは、それ以上変更したり修正したりできないもので、巽先生の言われるように既に完成されているものであり、今さら新たに改めて完成させる必要はないものであると考えられます。

したがって、「智慧の完成」という表現は、本来、あり得ないものであると考えられます。


(2)大崎正瑠氏(日本大学非常勤講師、元東京経済大学教授)は、次のように解釈しています:
『prajñā-(f.)「智慧」は,pra-(pref.)「あまねく」+ jñā-(adj.)「知っている」で,「あまねく知っている(こと)」が本来の意味である。』

この解釈では「智慧」=「あまねく知っている(こと)」という解釈になります。あまねく知ってしまえば、もうそれ以上知る必要があるものは何もないですから、今さら新たにさらに追加・修正して完成させる必要はどこにもありません。

したがって、「智慧の完成」という表現は、本来、あり得ないものであると考えられます。

(3)以上、2つのサンスクリットの解釈から考察すると、巽先先生の言われるように、般若波羅蜜多prajñāpāramitāを「智慧の完成」と解釈することは無理があり、正しいものとは言えないと私は考えています。



補足2
般若波羅蜜多prajñāpāramitāは「彼岸に渡るための智慧(叡智)」という解釈

「彼岸に渡る」とは、人の知識・知恵では渡ることのできない大河の両岸を想定して、人の願いがまだかなっていない状態を「此岸(しがん)」、願いがかなった状態を「彼岸(ひがん)」と想定します。
此岸から彼岸に渡って願いをかなえるための『根源的な叡智』が『彼岸に渡るための智慧(叡智)』であるという解釈になります。


その「彼岸に渡るための智慧(叡智)」とは、次のような素晴らしいものであると般若心経と大般若経に説かれています:

(1)般若心経「菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙無し、罣礙無きが故に、恐怖有ること無く、一切の顛倒夢想を遠離して、究竟涅槃す。」
翻訳: 菩薩(凡人から聖者までの真理を知り願いを叶えたいと思っている人)は、「彼岸に渡るための智慧」を実行するので、心に怒りや不安のようなとらわれがない、とらわれがないので恐怖心がない、全ての間違った考えを捨て去って、願いをかなえている。

(2)般若心経「三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり」。
翻訳: 現在・過去・未来の仏様も、「彼岸に渡るための智慧」を実行されるので、無常正等正覚と呼ばれる素晴らしい悟りを達成された。

(3)「大神呪、大明呪、無上呪、無等等呪」と呼ばれている呪文である
(4)その呪文は「能除一切苦(全ての苦しみを取り除く能力がある)、真実不虚(真実であって嘘ではない)」
(5)呪文の唱え方は、「掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶 (渡った、渡った、彼岸に渡った、彼岸に完全に渡った、めでたし)」である
(具体的にこの呪文の唱え方が書かれているのは般若心経だけであり、大般若経には全く書かれていません)


般若波羅蜜多である大明呪「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦」が「一般形(一般式)」で書かれており、具体的な個々の目的に合わせて自由に変形させて使うという、大明呪の具体的な使い方に気づき、実行され、多くの人の命や人生を救われたのは巽直道先生でした。

一般式とは、例えば数学の1次関数を一般式で y = ax + bと書き、aとbを変化させることにより、無数の1次関数を作ることができます。
これと同様な書き方が大明呪「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦」でも行われており、これは一般式です。
大明呪を一般式の元の形(原形) 「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦」で唱えても効果はありません。
具体的な個々の目的に合わせて変形させて使う必要があります。

例えば、
病気の場合には、「治る、治る、きっと治る」「治った、治った、完全に治った」
何かをやりたい場合には、「できる、できる、きっとできる」「できた、できた、完全にできた」
と、声に出して、あるいは心の中で、何千回、何万回、何十万回も唱え続けると、願いがかない、苦しみから解放されます。
(空=言葉には時間・空間が存在しませんから、呪文を過去形、現在形、未来形のいずれの時制で唱えても同じ効力があります)

具体的な大明呪の応用と実績に関しては、詳しくは、巽直道先生の著書とサイトをご覧ください。
60年余りに渡る膨大な症例の実績があります。
http://www.maroon.dti.ne.jp/jikidoukai/newpage3.html

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