いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(438)「しもべの心」

2015年01月11日 | 聖書からのメッセージ
 「ルカによる福音書」17章5節から10節までを朗読。

 10節「同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕(しもべ)です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。

 イエス様は主人と僕の関係について語っています。10節に「ふつつかな僕(しもべ)です」と言いなさいとあります。その他にもイエス様は繰り返して「僕」のあり方、その生活ぶりについて語った箇所が幾つかあります。いまの世の中、いまの時代には、この言葉が消えていく、使われなくなりました。「僕(しもべ)」と言われても、なかなか理解ができません。殊に若い人など「僕(しもべ)」と言われても「何のことですか」と。私はメールを送るとき、時々「しもべ」と入力して変換すると「僕」という漢字になります。これは「ボク」とも読めますから、果たして「しもべ」と読んでくれるだろうかと心配になります。恐らく若い人は「ぼく」とか「ぼくたち」という意味の漢字として理解し、「しもべ」と読める人は少ないように思います。ましてや、召使であるとか、使用人であるとか、そういう言葉は消えつつあります。ひと昔前はまだ「女中さん」という言葉は一般的でした。しかし、今ではこれは差別用語というか、すたれてしまった。差別どころか、そういう仕事をする人がいなくなっている。だから「しもべ」と言われると「何のことかな」と思われる懸念が大きい。現代の生活で、「しもべ」にあたる人はどこにいるか。ほとんどいません。いるとすればサラリーマンぐらいが「しもべ」かもしれません。しかし、それとても労働法という規約があり、決して「しもべ」ではなくて、経営者と対等の関係であります。そういう上下関係ではありません。となると、イエス様の話が意味をなさないように感じられるかもしれません。しかし、たとえ私たちの生活の中で「しもべ」という立場に立つ人がいない、あるいは経験できないとしても、「しもべ」という言葉は非常に大切であります。

というのは、私たちがこの世に造り出され、神様によって命を与えられて地上の生活を営んでいますが、そもそも人生を生きるのは何のために生きているか、このことと「しもべ」とは大変密接なかかわりのある言葉です。最初に神様が私たちをお創(つ)くりになったとき、私たちが自由気ままに、好き放題するように造られたのではありません。「創世記」にあるように、神様によって創られた全ての被造物、動物も空の鳥も水の中の魚に至るまでありとあらゆる森羅万象全てのものを治(おさ)める者として、神様から仕事を与えられているのです。だから「人が自分の好きなように、自分の欲望のおもむくままに何でもしてよろしい」と、神様はおっしゃったのではありません。人が最初に創られたとき、神様に仕えるものとして造られたのです。神様は私たち全ての人々に使命といいますか、役割を与えてくださった。その役割は、具体的にこれをする、あれをするという事もありますが、もっと根本的には人の生き方、存在が神様に仕えるものとして造られていることに尽きるのです。そもそも私たちは自分の力で生きる、自分の知恵と自分の才覚、努力や何かの業で事を進めて、自分の人生を生きているのではないのです。世の中は神様を知りませんから、何のために生きるかと問われると、自分のために生きると答えます。自分の夢を実現し、願いを完成し、自己実現といいますか、自分をしっかりと建て上げるのが人生だと思っています。ところが、神様が私たちに求めておられるのは、私たちが神様に仕える僕となることです。ここに決定的な違いがあります。自分の力で自分の夢を実現し、自分の思いのままに生きようとすると、私たちは神様から離れてしまう。それは罪の結果であると聖書は語っています。私の満足がいくように、私が納得できるように、私が……と、自分が中心になり、自分の思いを全うしようと努めます。ですから、功なり名を遂げて生きるべき道のりを終わって召され、「あの人は良い人生を送った」と言われる。そのとき「いい人生」とは「自分の思いどおりに生きた」と言う意味です。思いどおりに生きることが幸せな人生を生きると、世の多くの人々は思います。「我がまま放題で、周囲に迷惑を掛けっ放し、だけども、あの人は思いっきりしたいことをして、本望やったね」という褒め方をしますが、それは神様の目からご覧になったら、決して褒められたものではないのです。私たちは何のために生きているか? それは決して自分のためではなく、自分の夢を実現する、自分の何かを完成するために生きているのではない。では、何なのか? それは私たちが造られたものであり、造り主でいらっしゃる神様に仕えるものとしてエデンの園に置かれたのであります。そこでは主人である神様に仕えていく生涯であります。これが神様と私たちとのあり方の根本的な姿であります。

聖書には私たちと神様との関係を「父と子」という関係にもたとえています。私たちは子供であって神様は私たちの天のお父さんでいらっしゃると語っています。だから「主人と僕の関係ではない」と言われるかもしれませんが、しかし、神様と人との関係の表し方が複数あって、その中の一つとして父と子という関係も別の意味で大切な関係です。しかし、今日一つだけ取り上げるとすれば、まさに神様と私たちが「主人と僕」の関係であることをまずしっかりと心にとどめておきたいと思います。というのは、私たちの毎日の生活がまさにその枠組み、神と人、言い換えると「主人と僕」の中で生きているものであります。それが神様と人との正しいあり方です。

「ピリピ人への手紙」2章6節から8節までを朗読。

これはイエス様の人生といいますか、ご生涯を短く表した言葉です。6節に「神のかたちであられた」、すなわち、神と等しくあったというのです。神様の位にあり給うた御方、神と等しい御方、いうならば、神ご自身と言い換えてもいい、そういう御子イエス様は7節に「かえって、おのれをむなしうして」と、あえて自分を無にする。「むなしく」というのは、空っぽにすることです。ご自分の立場を離れて、何になられたか? 「僕のかたちをとり」とあります。イエス様は徹底して僕となり、そのように生きてくださった。僕として生きるためにこの地上に来てくださった。イエス様が神の位を捨て人となり給うたこと、これが僕となった最初です。このことが実は私たち人の生き方の大切な原型であることを、ご自身が身をもって証詞してくださったのです。だから、イエス様がこの地上に来られたとき、決して王として、あるいは、貴族や、高貴な家柄の一人として生まれたのでもありません。ベツレヘムという寒村の馬小屋にあるまぶねの中に身を置いて、自らを低い者とし、徹底してご自分を無にして、父なる神様に仕える僕としてのご生涯を歩んでくださいました。これが7節以下に語られていることです。「人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、8 おのれを低くして」と。徹底して従うもの、「僕」になりきってしまう。これがイエス様の歩まれたご生涯です。そして、イエス様は「御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(Ⅰペテロ 2:21)と語られています。イエス様は私たちに人として生きる最善の生き方を示されました。それは父なる神様、万物の創造者、全能の神であられる御方の僕となりきって生きることです。それは取りも直さず、私たちが神様に創られた創世の初めのときの目的であります。イエス様が神の位を捨てて人の世に来てくださった。それは今の私たちにも求められている事柄であります。イエス様の救いにあずかる、イエス様を信じて救われることを表す一つに、私たちが主のものであるということがあります。

 「ローマ人への手紙」14章7節から9節までを朗読。

 7節に「だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない」と。生きる死ぬとは、いうならば、初めから終わりまでです。人が生まれてから死ぬまで、その生涯全てが自分のためではないというのです。これはイエス様の救いにあずかることがまさにこのことだからです。私たちはイエス様を知らず、神様を知らないで、自分のためであり、自分の家族のためであり、あの人この人のために生きてきた人生でありました。いちばんの中心は何と言っても自分のためであります。自分の夢を追い求め、自分の願いを実現し、自分の力で自分の努力で、自分の何かで人生を生き抜いて行く。これが私たちの生き方でありました。だから、人は自分のために生きるというのが世間一般の考えるところであろうと思います。しかし、それは必ず行き詰るときがきます。自分の思いどおりに、自分の願いを求めながら、人は決してそれを実現できません。人の力は弱いですから、こうしたいと思いながらできない。これはやめようと思いながらそれをやってしまう。根本的な弱さを人は持っているのです。それは私たちが神様に仕える者となるために、あえてその弱さを人に与えておられるのです。私たちが創られたときから既に神様は、私たちが神様にたよらなければ生きられない者であり、神様に仕えていく者となることを願っていたのです。だから、私たちがどんなに有能であろうと、どんなに力ある人であろうと、どんなに知恵に満ちた人であろうと、決して自分の力で自分の好きなように自分のために生きることはできません。いや、それは必ず行き詰って、失望し、世を嘆き、人を呪い、自分の置かれた事情、境遇、事柄を受け入れ難くて、不平不満、苛立ちとつぶやきの中で生きることとなります。人がそうやって自分の力で生きられないということは、神様が備えられた大きな恵みです。神様は私たちをお創りになられたときに決して不完全な者として創られたのではありません。私たちが神様と共にあることによって初めて完成されたもの、一つになることを願っておられるのであります。私たちが僕となって造り主でいらっしゃる神様に仕えていく者、徹底して神様の僕となりきって行くときに、神様は私たちに全ての必要を備えてくださる。ご主人でありますからその僕のために必要な物はどんな物でも惜しまないで与えることのできる御方、またそれによって主人たることを証詞することができるからであります。パウロは肉体に一つのとげを与えられてこれを何とか取り除いてほしいと神様に祈りました。そのとき神様は「わたしの恵みはあなたに対して十分である」(Ⅱコリント 12:9)とおっしゃった。むしろ「その弱いところにこそキリストの力が完全にあらわれる」とおっしゃった。そのとき初めてパウロは「むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と語っています。なぜならば、その弱いところにこそ神の力が完全にあらわれるからである。私たちが神様に仕える者となるときに、神の僕となって行くところに、初めて私たちの欠けた所、足らない所、不足している力を主人である御方が徹底してそれを補って、私たちをしてご主人でいらっしゃる神様がどんな恵み豊かな力ある御方であられるかをあらわそうとしてくださるからです。だから、私たちが地上に置かれているこの日々、人生は誰のためでもない、主のためであります。7節以下に「わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ」とあります。「主のために」というのは、主に仕える、主の御心に従って、ということに他なりません。だから、私たちが神様の僕となりきってしまう。神の僕であることで、初めて私たちの人生は100パーセント生きた人生となるのです。ところが、私どもは神様のためよりも自分のためだと思う。私がああしたいから、私がこうなりたいから、私はこれが好きだから、私はこうでなければ、といつもそういう思いで生きているので、自分の力の及ばないこと、あるいはどうにも解決のつかない問題や、自分の願わない思いがけない事態や事柄に当たると、「どうしてだ」、「何でだ」とつぶやくのです。そうではなくて、神様が一つ一つの事柄の中に私たちを置いてくださって、私たちが主に仕えている者であることを徹底して悟らせて下さるのです。そのために神様はいろいろな境遇、事柄の中に私たちを置きなさるのです。

 「ルカによる福音書」17章7節以下に「あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか」。
 僕とは徹底して主人に仕えるべき者であることをここで語っておられます。耕作、牧畜、昼間肉体労働で疲れているでしょうが、その僕は、雇われ人といいますか、恐らく僕ですから、いま時のサラリーマンではないから、8時から5時までという勤務ではないでしょうし、とにかく朝から晩まで働き詰めでしょう。そして疲れて帰って来ると主人は待ちうけて「はい、今度は私の食事の用意をしてくれ」と要求するに違いない。それに対して僕は従う他はないのであります。どんなことがあっても徹底してその主人の要求に応えていく。だから、8節に「夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい」と。「お前、疲れているだろうから、先に風呂に入ってゆっくり休んで、まずお前が先に食事をして、それから俺の食事の用意をしてくれ」と言う主人はいません。主人はあくまでも主人でありますから、「さぁ、おなかがすいたのだから、お前早く用意をしてくれ」と言うに違いない。そして「自分の食事の間お前はちゃんと給仕をして、それが終わってからお前が食べよ」と。僕とは、ある意味でそういう過酷な面があることは事実であります。また、そうでなければ従えないのであります。神様と私たちとの関係もまさにそのような関係です。

だから、9節に「僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか」と。そうやって朝から晩まで休む間のないぐらいに一生懸命に働く僕、ご主人が「お前、よくやってくれたな、申し訳ない」なんて、言いません。「当り前じゃないか」と。だから僕は「うちの主人は何と厳しい人だろうか。少しぐらい優しくしてくれても」と思うかもしれませんが、しかし、僕はあくまでも僕であります、徹底して。主人はあくまでも主人です。神様と人との関係もまさにそういう関係です。だから、神様が「良し」とおっしゃったら、それこそ人がどうであろうと、そんなことは考慮しません。主人である御方が「こうする」とおっしゃったらそれに従うのが僕のなすべき全てです。だから、神様は私たちの人生に「お前はこれをしなさい」「お前はこれを受けなさい」「こういう中を通りなさい」と事を起こしていらっしゃる。主人がそれを求めておられるのです。ところが私どもは「いや、これは嫌です。私はこちらのほうがいいです」「私はこれのほうが楽だから」あるいは「私はこれが好きだからこうしました」と、勝手なことをする。それでは主人に従うことにはなりません。どんなに苦しくても疲れていても、主人が「そうせよ」とおっしゃったら「はい」と従うしかない。これが主人と僕の関係です。

「どうして私はこういう目に遭わなければならない。どうしてだろう」「私はそんなことは願ってないのに、神様がいらっしゃると言いながら、神様はちっとも私の言うことを聞いてくれない」と文句を言われます。「先生、お祈りしていたのに、こんな風になって、神様って何だか意地悪です」と言われる。「どうしてこうなったんでしょうか」と。「いや、それは神様がいらっしゃるからでしょう」と言うと、「え!神様がいらっしゃってこんなことになるのですか」と。「それはそうでしょう。私たちは僕ですから、私たちは造られたものです。神様がなさることは何も分かりませんよ」と。「そうなのですか。それでは考え直します」と、何を考え直すのか分かりませんが、神様という御方はそういう絶対的な御方です。もし、そうでない神様がいたら、それはあまり頼りにならない。だから、神様が「こうする」とおっしゃったら、ことごとくそれに従う。それが僕の使命であります。そして、そのことを十分にやり尽くしたとしても、お礼一つ、感謝一つないに違いない。「お前、よくやったな。ご苦労だった。少しは休んでくれよ」なんて言わないでしょう、神様は。「はい、次はこれを」と、休む間もなく次から次へといろいろな問題や事柄の中に私たちを置かれるのです。その中で、主に仕える自分であることを、神様の僕であることを徹底して認め、僕になりきっていくことが求められるのです。

そのとき9節以下にありますように「僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」と。「ふつつかな」とは、役立たない、あるいは、ちょっと目方が少ないといいますか、規格外の人間という意味です。そろっていない、凸凹だらけの私ですということです。私どもは自分ではそう思っていません。私こそいちばんそろって、出来がいい人間だと思っている。ところが、ここには「わたしたちはふつつかな僕です」、「本当に足らないだらけの中途半端な僕です。すべき事をしたに過ぎません」、「私は僕としてなすべきことを最善にさせていただきました」と感謝しなさい。僕とはこういうものです。だから、地上に旅路を終わるとき、お医者さんから「もう臨終間近です」、血圧がどんどん下がってきて、「あと数時間でしょう」と言われたとき、格好のよい事を言い残して死にたいものだと思うかもしれませんが、そのとき「神様、私はふつつかな僕です。これまで僕としてなすべきことをして来たにすぎません。感謝します。有難うございました」と、神様に感謝して終わる。これが私たち僕の使命であります。私たちは神様に仕えて、主の僕となりきってしまう。これがイエス様の私たちに求めていることです。と同時に、イエス様ご自身がそうやって僕となってくださったのです。私たちの生きる模範として、私たちの目指すべき御方としてイエス様は父なる神様から徹底していじめられました。見るところはいじめられたような感じがします。なぜならば、イエス様は人の世にわざわざ送られてきて、苦しみ悩みの中にあって、最後は十字架の死です。しかもご自分の罪ではない。人の罪を負うものとなって十字架に呪われてくださいました。父なる神様からの刑罰をあえて受けてくださいました。これは父なる神様がイエス様をそのように願った、僕となることを求められたゆえに徹底して従いなさった。イエス様は父なる神様に徹底して従われた。

私どもは自分の思わない問題や願わない事態や事柄、健康の問題、家族の問題、いろいろなことの中に置かれます。ともすると「どうしてなんだろうか」「何でだろうか」と嘆く。ところが、神様は「お前はわたしの僕」だと。そのこと、その問題、私たちが嫌だとか、逃げ出したい、こんなものは早く消えてもらいたいと思う事柄について、「わたしが主だよ」とおっしゃる。神様がそれを置いておられる、与えておられる。その中へ私たちを入れている。そこで私たちは何をするか。徹底して僕になりきって神様に従う。

「使徒行伝」20章17節から19節までを朗読。

これはパウロがエルサレムに戻って行く途中であります。というのは、パウロはどうしても行かなければならない用事ができて、伝道旅行の途中でしたが、地中海のある町からエルサレムへ戻って行きます。しかし、エルサレムでは彼を捕らえて殺そうという陰謀が既になされていたのです。それはもう公然の秘密でありました。ですから、みんなが心配したのです。「パウロ、あなたはそこへ行ったら必ず捕えられて殺されるに違いないから、行かないでくれ」と。ところが、パウロは聖霊に導かれて「私はどうしてもエルサレムへ行かなければならない」と決めました。船で地中海沿岸を航行して、ミレトという港町に着きました。今のトルコの地中海側の町であります。そこからエペソの教会に使いをやったのです。そこの主だった教会の長老たちにミレトまで来てもらいました。最後のお別れをしたのです。エペソの教会はパウロにとっては忘れ難い、大変親しい教会でした。彼はかつて二年ちょっとエペソに滞在して伝道をしました。その結果、教会が建てられてクリスチャンたちがそこで集っておったのです。ですから、長老たちを呼びましてお別れの挨拶(あいさつ)といいますか、言葉を残したのです。それが19節「すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた」と。パウロはかつてイエス様を迫害する側に立っていました。彼はよみがえったイエス様に出会ったとき、徹底して悔い改めて人生の方向が変わりました。救いにあずかったパウロの人生は主に仕える僕としての人生です。「コリント人への第二の手紙」に、彼は「あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている」とも語っています(6:4)。徹底して自分はキリストの僕である。神様の僕となりきって歩む。この19節にありますように、様々な困難、苦しみ、「涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練」と彼は言っていますが、とてつもない様々な悩みの中に彼は置かれましたけれども、その中にあっても絶えず主に仕える。「お前のためにこんなにしてやったんだから」と、パウロは一切言いません。彼が今まで生きてきた全てが、これは主のために、キリストのためにわたしは生きてきた。これが僕の生涯です。

私たちは今いろいろな試練というものの中にあります。夜も眠られない、涙を流すような事柄や事態もあります。まさにそこでこそ徹底して、今このことを主が私に負えとおっしゃっている。私が担うべき、私が受けるべき事態や事柄であること、主が負わせてくださる重荷を感謝して喜んで負う者となる。「ふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」と。僕となりきること、これがキリストの求め給うこと、私たちの生きる道筋であります。私たちは人のため、世のため、誰彼のために生きているわけではないのです。家族のためとか、誰のために生きていると。確かに、形としてはそのように見えます。しかし、私たちの心は人ではなくキリストにあるのです。

「コロサイ人への手紙」3章16節から19節までを朗読。

殊に最後の17節に「あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず」とあります。有形無形どんなことでも、私たちの全てが「主イエスの名によってなす」のです。いうならば、僕となって、主人であるイエス様のためにしていることです。「主イエスの名によってしていること」。僕として主人の名代であります。私たちが今この世に生かされているのはそのためであります。皆さんが毎日自分のために生きているように見えますが、しかし、あくまでも私たちの心はキリストのために生きている自分、キリストの名によって今このことをしているのです。私たちが社会に出て仕事に就(つ)こうと、あるいは家庭にあって家族の世話をしていようと、主婦であろうと主人であろうと、どんな立場に置かれても、そこで主イエスの名によって生きている自分であること、主の僕となりきっている生き方、これが私たち救われた者の今であります。ですから17節の後半に「言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい」と。ここで私はいつも教えられることですが、私たちが主イエス・キリストの名によって、あの人のためにこれをしよう、この人のためにこれをしてあげようと願いますが、それを主は喜んでくださる。「キリストが今このことを私に求めておられるから、だから、これを私はさせていただきます」と信じて、具体的に行動します。その後どうするか? そこにありますように「彼によって父なる神に感謝しなさい」。今度はキリストのゆえに神様にしたことを感謝するのです。相手から感謝されるべきだ、ギブ・アンド・テイクだから、私はこんなにしたんだから、相手からお礼のひと言、「有難う」の一言ぐらいありそうなものだと思いがちですが、それはないのです。それどころか、逆に「僕としてこれだけさせていただいた。神様、感謝します」と、主に感謝する者となる。これが僕の生き方です。「ふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」。そして、神様に感謝する。

「ルカによる福音書」17章10節に「同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。「不十分なことしかできない自分ですけれども、なすべきことをさせていただきました」と、一つ一つ感謝して行く。これが私たちの生きる生き方です。私たちの置かれる状況や事柄が何であっても、たとえ、年を取って体が動かなくなり身動きならなくなり、人の世話を受けるようになったとしても、生きること自体が僕として生きるのであります。だから、徹底して主の僕となりきる。

時々「私は身動きならない。寝たきりだから何の役にも立たない」とつぶやきます。私の家内の叔母が98歳で半身不随になり、寝たきりで2年近くになりますが、時々訪問してあげると、必ずこぼされるのです。「こんなになってしまって、自分は生きていても仕方がない。何とか早く召されたい」と言われる。「どうしてですか」と言うと、「いや、こんなに皆さんに迷惑を掛けて、人の世話を受けながら生きるのは忍びない」と言うのです。人の世話を受けてあげるのは、僕の使命でありますから、主がそのような中に置かれたのです。だから感謝して受ける。僕になるとは、そういうことです。自分が有能で役に立っているから、僕であるというのではない。私たちが生きていること自体が主に僕として仕えていく生涯であります。

どういう状態や事柄の中に置かれても、そこで「わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」、私はあなたの僕にすぎませんと、神様の前に自分の身分をきちんと定めて、主に仕える生涯を歩み抜きたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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