ヘブル人への手紙10章32節から39節までを朗読。
38節「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。
38,39節に「信仰」という言葉が繰り返し語られています。また教会に来ると「信仰」「信仰」と言われます。「信仰」とは「信じ仰ぐ」ことです。何を仰ぐ? 天を仰ぐのです。「仰ぐ」というのは上を見ることであります。上のどこを見るか。空を見て、今日は晴れているとか曇っているかと、そのようなことを見るのではありません。上を見るは、すべてのものを統べ治めている神様を仰ぐのです。「仰ぐ」といっても、それを信じなければ仰ぐことができません。「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ」(45:22)とイザヤ書には記されています。神様を仰ぎ望む、といっても、そこに神様がいらっしゃることを信じなければ上を見ることはできない。イザヤ書に同じく「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」(40:26)とあります。見るべきものは何もありません。空を見上げてみても、あるいは「目を高くあげて」、山を、海を、空を見、様々な山川草木、森羅万象のいろいろなものを見ても「……だから何だ? 」となりますが、それらのすべてのものの始まりはいったいどこにあったのか。すべてのものの根源でいらっしゃる神様に心を向けなさいということです。思いをそこへ向けてご覧なさいと。これが「信じ仰ぐ」ことです。だから、信仰とは、実に単純なことです。イエス様は「幼な子のようにならなければ神の国に入ることも見ることも、また救いにあずかることもできない」(マルコ10章)と言われました。「幼な子のごとくなる」とは、単純になることです。子供は、幼ければ幼いほどすぐに信じます。「これをあげようね」と言ったら、スーッと手を出します。大人だとなかなかそうはいきません。「これをあげようね」と言ったら「ありがとうございます」と言いながら手も出さない。くれるはずがないと思う。
昨日もある方といろいろな話をしておりました。私が名古屋にいましたから、名古屋と福岡の違いをいろいろと比較していました。その中で話題になったのは、名古屋の人に「どうぞ、これを使ってください。これをあなたに差し上げましょう」と勧める。「そうですか。ありがとう」と、もらうのははしたない。あまり好ましくない。「いいえ、もうそんな、私はそんなこと……結構です」と、先ず断る。二回は断らなければいけない。ところが、やるほうも心得ていますから、三回目にもらってくれるはずだからと、三回ぐらい言わなければいけないのです。家内はそのようなことを知らないで、結婚して名古屋に来ました。向こうの方が「いや、もう結構です」と言ったから、スーッと引いてしまった。それでちょっと誤解されたことがありまして、それからだいぶ向こうになじみ、今度は福岡にまいりましたら、逆にこちらの人はスーッと取ってしまう。「あげよう」と言ったら、さっと……。福岡は、北九州もそうですけれども、大体ストレートです。単純です。素直なのです。「あげよう」と言ったら「はい」ともらいます。また、「要らない」と言ったら、本当に要らないのです。
神様がいらっしゃるというけれども「神様がいても私とは関係がありません。結構です」と、言っている間は駄目です。神様が私を造り生かしてくださっていると聞いて、「ああ、そうですか。良かった」と信じるのが前提でしょう。そして「仰ぐ」とは、その御方に目を留めていくことです、常に上を見上げていくこと。私たちの心が神様のほうを向くこと、これが信仰です。目には見えないけれども、そこにいてくださる。それはどうして分かるか。聖書にそのように書いてあるからです。聖書の一番初めに「はじめに神は天と地とを創造された」と記されています。ということは、すべてのものに先立って、まず神様がいらっしゃったと宣言されている。何にもない所に、ただ神様だけがいらっしゃって、その後に次々とすべてのものが、生きとし生けるすべてのものが、森羅万象が創り出されてきた。これが聖書の一番初めに書かれていることです。それを私たちが信じるのか、信じないのか。聖書に書かれているけれども、お前は天地万物の創造の時に立ち会ったのか、現場にいたのか、と言われると、そうではありません。どのくらい前に出来たのか、これも分かりません。その時に、そばで見ていたわけではありません。しかし、それを見ていた御方が、ひとり子、イエス・キリストとなって人の世に降ってくださった。私たちの内に宿ってくださったと聖書に記されています。主イエス・キリストは創世の初め、父なる神様と共にいて、森羅万象が創られるのを見ていたと、箴言8章に記されています。私たちは見たことはなくても、また、実際に体験したことはなくても、聖書にそのように書いてあると信じる。これが信仰の原点、土台です。だから、よく世間で言われるように“いわしの頭も信心から”、なんでもいいから信じれば何とかなるよ、とは大いに違う。いわしの頭も信じたら何とかなりそうな気がするかもしれませんが、いわしの頭はいつまでもそれに過ぎません。日がたてば腐りますから。神様を信じるとは、聖書の言葉を信じることです。また、これが信仰です。
11章1節から3節までを朗読。
1節に「信仰とは」と、信仰の定義が記されています。信仰とは何かと。そこに「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」。これはいくら考えても何のことかなと思います。しかし、よくは分からないけれども、少し分かることはあります。「望んでいる事がら」「見ていない事実」これは今目の前にあることではない。「望んでいる事がら」「見ていない事実」、見ていない事実なんて、今目の前にある事柄を指す言葉ではありません。目の前の今ここにあって、具体的に起こっている事があるならば、「望む」とは言わない。「望む」とは明日、明後日、来年を望む。礼拝の只中に居ながら「今日は日曜日だから礼拝に行きたいと望んでおります」という人はいない。今、すでに来ているのですから。朝起きたときはそう言うかもしれない。「今日は礼拝に行こう。10時だから8時には食事をして」と思います。10時からという先のことを望むのです。「望んでいる」という言葉は、明らかに今目の前にないこと、私たちが今実際に体験していない事柄を指すわけです。その後の「まだ見ていない事実」という言葉があります。「まだ見ていない事実」とは何のこと? 「事実」という言葉は、これは実際にあっていること、起こっていることです。起こっているのだけれども私たちは見たことはない。過去のことも現在のことも将来のことも、ここで「望んでいる事がら」「見ていない事実」という言葉は、将来のことも、過去のことも確かなことと信じるというのです。これはいったい何のことを指しているのか。これは神様のこと、聖書の言葉です。聖書には私たちの見ていないことがたくさん書かれています。神様によって万物が造られたこと、すべてのものが神様のご計画に従って導かれ、さまざまな時代が作り出されてこの世界が成り立っていることが書かれている。これは事実、過去の事柄を語っている。しかし、私たちはその場に立ち会って見たわけではない。そのように見ていない事実を信じる。しかも聖書に語られている事実、神様がいて、すべてのものが造り出された、この事実を私たちは見ていないけれども信じる。神のひとり子、イエス・キリストが人となってこの世に来て、二千年前ベツレヘムの馬小屋に生まれてくださったと聖書に書いてある。それを皆さん見ましたか? 「二千年前、ベツレヘムの馬小屋に行って見てきました」と言う人はいません。けれども、クリスマスになると、まるで見てきたかのごとく聖誕劇をします。言うならば、見ていないけれどもその事実を確かなこととして信じている。私たちの罪のためにイエス様が十字架にかかって、命を捨ててくださった。誰も見たことがない。『聖歌』に「きみもそこにいたのか」というタイトルの賛美がある。「きみもそこにいたのか 主が十字架につくとき」という歌詞です。それを歌うとき、私は「きみもそこにいたのか」、いや、そこにはいなかったけれども、信じますと言います。「そうだ、私のために、ひとり子なるイエス様が人となってこの世に来てくださって、私たちの罪を負うてくださった」。自分を振り返ると、生まれてから今まで罪のなかった人なんていません。どこか心に、「あんなことをしなければ良かった。あんなことを言わなければ良かった」と、心に引っ掛かっているものがある。それらすべてを神様は知っている。私たちの一つ一つの罪のゆえに、無意識の中に忘れている罪のためにも、主は十字架に命を捨ててくださった。ゴルゴダの丘でいばらの冠をかぶせられ、両手両足を釘づけられて、胸をやりで突かれて、あの痛みの、苦しみの極みの中で「父よ、彼らを赦し給へ」(ルカ23:34文語訳)と赦してくださった。これを信じる。素晴らしい恵みですね。見ていないけれども、その現場に立ち会ってはいないけれども、約束された聖書のお言葉を信じていく。
パウロは決してイエス様の十字架に立ち会ったわけではない。処刑された場所にいたわけではない。しかし、彼は「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり」(ガラテヤ2:20文語訳)。「私はイエス様と一緒に十字架に死んだ者だ」と告白しました。そのころ、まだパウロは幼少のころですから、イエス様のことなんて全然知らないで生きていた。しかし、見ていない事実を確認したのです。「そうだ、私のためにイエス様は十字架に死んでくださった。そのイエス様の死によって、私は罪を許されて、神の子供としてくださったと確信した。神様は勝手にこっちの承諾もなく、神の子供なんかにしてしまって……と、思うかもしれませんが、それが私たちにとって最高の恵みです。
私たちが望んでいる事とは何でしょうか?「ポックリ死にたい」とか、「もっと楽になりたい」とか、「この病気が癒されたい」とかでしょう。その望んでいる事柄、イエス様はどうしてくださったか。罪人の罪を赦し、そればかりでなく、病める者の病を癒し、悲しみに打ちひしがれた、人生に重荷を負うて苦労している者は来なさいと言われる。わたしたちが願うこと、望んでいること、どんなことでも、そこにありますように「確信すること」。神様は私たちの思いを知り、願いを知り、祈る一つ一つの祈りに答えてくださる。明日のこと、来年のこと、再来年のこと、私たちの老後のこと、また老後から死後のこと。死んでから後のことまでも神様は「望んでいる事がら」を私たちにいちばん良いようにしてくださる。望んでいることでいちばん幸いなことは死です。死に直面したときに、その死を乗り越えていく希望、死に打ち勝って先に望みを持ち続けることができたら、私たちは勝利です。元気な間は「そうやすやすとは死ぬもんか」と思っています。しかし、死は必ずすべての人に平等にきます。それは時期が遅いか早いか、ただそれだけのことです。そのことをしっかりと心に留めておかなければならない。
先日もある方とお話をしていましたら、その方は今年70歳になられる。「先生、私もう70歳になります」。見たところまだお若い。でも、掛け値なしに70歳です。その方がしみじみといわれた。「この年になると、もう今まで生きた分だけ生きることはない」と思う。それはそうでしょう。「いくら欲張っても70歳の人があと70年は生きない。では半分ぐらい生きるかと、これも先ず無理、そうなると終わるときが非常に近いなと、ひしひし感じます」と言われる。今年も年賀状をいただいた中に、「私も古希をはるかに過ぎて、だんだん喜寿に近づいてくるにつけ、終わりのときをしきりに思わされています。昨年末はある方が書いた『死について』という本を読みました。榎本さん、一度お話を聞かせてください」とありました。その方は私が大学に勤めていたころの先輩ですが、自分の終わりをどのように迎えようかと準備している。寝たきりになるとか、認知症になるとか、そのようなことはどっちでもいいのです。そのような現象的なことよりも、死というものに対して自分はどのような心構えを持って、それに向かい合っていこうか。これが非常に大きな問題です。
ところが、神様は約束してくださっている。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」。「わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」(ヨハネ14:1,2)。イエス様が私たちよりも先に御国に帰ってくださった。そこに私たちの住むべき場所を用意してくださった。やがて私たちが来ることを待ち、「またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(同3節)と約束してくださった。何と素晴らしい約束ではないでしょうか。私たちの望んでいるいちばんの願いはまさにそのことではないでしょうか。確かに、目の前の明日どうするか、来年どうなるか、早くこの病気がどうかなってほしい、ああなってほしい、この家族の問題がこうなってほしい、ああなってほしいと願います。しかし、いちばんの望みは、死を越えていく希望につながって生きたい。これは私たちのいちばん大切な事柄です。またいちばんの願いです。
そのことがこの11章1節に「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」。過去から現在、未来にわたって、すべてのものを貫いて握っている神様を信じ、神様が約束してくださった聖書のお言葉の一つ一つに、信頼していく、心と思いをそこにつないでしまう。これが信仰です。だから、3節に「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」とあります。神様が言葉を用いてすべてのものを創り出される。確かに創世記の初めの方を読みますと、「光あれ」と言われたら光があって、「昼と夜に分かれよ」と言われると、光を分けて夜と昼が出来た。陸と海とを造り、そこにあらゆる生きとし生けるものを創造してくださいました。その創造の方法は「言葉によって」、神様が言葉を出すことによって、その言葉が具体化して目の前に現れてくる。ということは、見えているすべてのものの背後に見えないものが存在していることを証詞しているのです。3節「わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」。例えば、私たちにはお父さんとお母さんがいて、私がその子供となって生まれてきた。これは見えるものから「私」という現れたものが出てきている。だから世間で先祖代々、先祖があってその先祖のおかげで今の私がある。親がいて、そのまた親がいてと、親の親の親……ズーッと代々続いてという考え方は、見えるものが現れたものから出てきたということです。しかし、そのことだけで事は終わらないと聖書は語っている。現れているもの(私)は見える親から出たのではなくて、見えないものがあって「私」がここに在る。そのことがこの3節に「したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」。言葉を発してくださった神様の力によって、私たちがここに在るのだと、聖書は語っている。ところが、私たちは原因、結果ということを考えまして、目の前に見える事柄、状況、その見えるものが現れたものから出てきたと考える。これは信仰ではない。だから、あの人がいてこうなったという、あの人という、現れているものから、今見えるこの事柄が出てきたと、そのつながりにいつまでもとどまっているかぎり、私たちは信仰に立つことができない。だから、自分が親になって、子供の育て方が間違っていたとか、私がもっとこうしておけば……、私が原因です。 “私が”という、それはおかしい。なぜならば、見えるものから現れたものが出てきたと主張しているわけですから。ところが、聖書には「見えるものは現れているものから出てきたのでない」。「見えないものから出てきた」。その見えないものとは何か? これはすべての根源でいらっしゃる神様がいて、私たち一人一人が今ここに在る。それを信じる。
聖書の言葉は素晴らしいですね。だから、その後4節以下に「信仰によって」という言葉でたくさんの信仰に生きた人々の記事が記されています。
11章7節を読みましょう。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった」。ノアという人物について語られています。ノアは箱舟を造った人物です。その時代は大変悪に満ちた時代、今の世の中のように神を畏(おそ)れず、人を人とも思わない、悪がはびこった世の中で、神様は人を造ったことを悔いたとまで記されています。その中でただ一人、義人、正しい人としてノアがいた。彼は「正しく、かつ全き人であった」(創世6:9)と記されています。あるとき神様は人類すべてを無くしてしまおう、御破算にしようと計画なさいました。その中でノアだけは何とか助けたいと、それでノアに、「大きな箱舟を造るように」と命じました。そのときノアは「すべて命じられたようにした」(創世7:5)と書いてある。自分が造る箱舟がどのように役に立つのか、これからどのようなことが起こってくるのか、何が起こってくるのか、そんな物を造ってどうなるのか、そんなことを一切考えない。神様が「そのようにせよ」と言われたから、それに従った。これが信仰です。「神様のお言葉だから」と信じて、そのとおりにしたのです。箱舟を造りました。造るといって、今のようにいろいろな道具があって一気に造るわけではない。また、手伝ってくれる者もいません。しかも随分と大きな船ですから、造るだけでも大変です。
ノアは一人で造った。しかも、100メートルを超えた大きな物。箱舟を造り始めて何年掛かったか分からない、10年15年でしょうか。その間、彼は毎日毎日その仕事に掛かりっきりですから、恐らくほかの仕事はしていなかったでしょう。家族がいましたから、どうして養っていたのか。奥さんが内職をしたかなとも思いますが、分かりません。恐らく家族からも嫌われたでしょう、「何でそんなことをする」と。町の人から笑い者になったでしょう、「何でそんな馬鹿なことをするのか」と。確かに考えてみたら……、損なことですよ。信仰に立って生きるのは、この世の人々から愚かなこと、馬鹿なこと、そんなことは何の役にも立たない、と言われるのが実情であり、またそうでなければ信仰ではありません。家族のみんなが「お母さん、そんな馬鹿みたいな、そんなものを信じてどうなるの」と言われたら感謝したらいい。「私の信仰は本物だな」と。ところが、ものの見事にその箱舟によってノアの家族は新天新地に新しい命につながれるのです。
私たちも今その恵みの中に置かれている。神様が喜んでくださることは、まさに信仰によって生きることです。私たちは先ほど申し上げましたように、原因、結果、見えるものは現れているものから出てきたと考えやすいけれども、そうではなくて、すべてのもの、望んでいること、まだ見ていない事実を確信し、確認して、過去から現在、未来にわたって神様の約束の中に私たちが生きていくのが信仰です。主が命を懸けて私を愛し、私をあがない、天のお父様になってくださる。そうでしたら、私たちは何を失望することがあるでしょうか、何を嘆くことが要るでしょうか。私たちは先のことは分かりません。しかし、神様はすべてのものをご自分の計画に従って私たちにとって善きことにしてくださるから。だから、信仰生涯は悲観しないのです。信仰によって生きるとき、「もう駄目だ」とは言わない。いろいろな目に見える状態や事柄はあります。なるほどそうかもしれない。しかし、神様はどのようにしてくださるだろうか。確かに世間ではみんながそう言うように、この事はこれでおしまいになる。もうこれで駄目、これ以上のことは何もできない、どん詰まり、行き詰まりという事態や事柄があります。しかし、だから駄目だというのなら信仰は要りません。目に見える状態や事柄はそうではあるけれども、確かにそのとおりだ。しかし、「しかし」ですよ。神様はそこからどのような道を開いてくださるか。これが信仰に立つ生き方です。神様が私たちを命まで捨てて愛してくださった。「ひとり子を賜うほどに限りない愛をもってあなたを愛したよ」とおっしゃってくださる。その証拠として十字架を立ててくださった過去の事実がある。まだ見ていない事実を確認して、信仰に立って、そんなにまで愛してくださった神様が、この行き詰まった問題や事柄の中からどのように道を開いてくださるか、神様は何をしてくださるか分からない。神様に期待していく、これが信仰に生きることです。
今年も新年から御言葉を与えられてまいりました。この調子で行くとあっという間に年末ですが、別に急ぐことはありません、でも、余程心して信仰に立って歩もうではありませんか。この10章38節に「わが義人は、信仰によって生きる」とあります。「義人」とは、神様に喜ばれる人と考えていただいたらいい。神様が「よし」とおっしゃってくださる、人としていちばん正しい生き方をする人、それは神様を信じて信仰によって生きる人なのです。「見えるものが現れたものから出てきた」と言う人は信仰に立てないのであります。そうではなくて、見えるところがどうであれ、聞くおとずれが何であれ、神様の約束、聖書に書かれていることを信じて、望みを持ち続けていくことです。「もう駄目だ」とか「もう終わりだ」とか、「これでもうおしまい」と言うときに、そこで立ち止まって、はたして本当におしまいなのだろうか。すべてのものをおしまいにされるのは、私たちがこの地上を去るときです。それまで神様は、どんな方法、どんな道を備えてくださるか分からない。行き詰まりどん詰まりからも神様は何をしてくださるか、期待していく。
お正月になると、私は自分自身が献身に導かれた時のことも思い起こすのですが、もう一つ忘れられないのは母が召されたことです。1月2日でありました。今年でもう5年になります。先日、福岡の皆さんと記念会をさせていただいたのですが、今読みました「わが義人は、信仰によって生きる」と、これは母の生涯のメッセージでありました。母がまだ伝道者の卵であった父と結婚するとき、これからの生活がどうなるか全く分からないわけです。伝道者の姿を見ていると、どうもばら色ではなさそうに見える。先行き暗い。そんな中でどうするか、結婚の決断を大変悩みました。母は生まれ育ったのが五島列島の田舎であり、また母方は仏教信徒です。お寺のお坊さんの出身です。そのような風土の中で育ち、キリスト教には縁が薄かったのです。ところが、幸いに福岡に住んでいた叔母がクリスチャンだったことで母を若いときから呼んでくれて、信仰に触れました。やがて女学校を終わって郷里の田舎に代用教員として2年ほど帰ります。ちょうど二十歳前後ですから、結婚しようという話になって郷里で結婚の話があったのです。その時、母は、ここで結婚してしまったら、そのままズーッと五島で生涯を送ることになる。そうすると教会に行くことができないから、信仰は遠くなってしまう。それで博多にいる叔母に相談しました。「どうしたものだろうか」と。そうしたときに叔母から「あなたが信仰を第一にするのだったら、そこにいては駄目だから福岡に出てきなさい」と勧められる。それで進んでいた話を断って福岡に出てきたのです。その時に叔母に結婚の条件として、クリスチャンの人と自分は結婚したいと話して、では、そのためにお祈りをしましょうと、叔母が言ってくれたのです。そう願っていたところへきたのが父との話です。クリスチャンであることは願ったけれども、伝道者とは願ってなかった。これは困ったと思います。その時に祈り、祈っていて、最後に決断に導かれたのがこの御言葉だったのです。「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。もしこの信仰を捨ててほかの道を行くのだったら、それは私の魂の喜びにならない。
晩年、母が召される数年前にどうしても郷里を見たい、ということで、母を連れて行ったことがあります。昔の田舎の村を歩いていた時、よぼよぼのおじいさんが杖を突きながら歩いて来たのです。行き過ぎるなり、母が「あの人よ。私に『結婚してくれ』と言ったのは」。よく覚えているものですね。60年ぐらい前の話だと思いますが、私はびっくりしてもう一度振り返りましたね。その人は村にいまして、助役にまでなった人物ですから、その人と結婚していたら、母もその地の知名士になって、そこそこの生活になったかなと思います。向こうは覚えていませんから、彼は他人のごとくして通り過ぎました。そのような不思議な神様の導きがあったことを思います。
その後の母の生涯は、ご存じのように波乱万丈であります。しかし、私が今振り返って思い出すことの中に、母は決して「もう、これで駄目」と言ったことがない。失望落胆して落ち込んでしまったことがない。兄と私は一つ違いですから受験期になると、次から次と大学受験。受験はするけれども落ちます。こっちの方がしょ気返って「もう駄目や」と思う。父も母も「そんなことはない。大丈夫」「『大丈夫』って私の代わりに勉強してくれるのかな」と思うが、そうではないですね。神様がいらっしゃるから、必ずよき事をしてくださると信じる。だから今考えると、幸いだったと思うのは「こんな成績だから、やめとけ」と言われたことがない。「お前はどうしたいのか」「いや、こういう大学」。学校の先生のほうが「そこは無理だぞ。お前には」と言っても、父と母は「いい、良かろう」と言う。「良かろう」と言ったって、受験するのはこちらなのですが、いつも何を見ていたのか。目の前の息子の能力や成績表を見ていたら、これは不可能です。そうではない。「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する」、すべての根源であり、すべてのものを御手をもって握っている神様がおられる。親がこの子を育てているのではない。神様がこの子を育てている。この子に備えてくださる人生があるに違いない。それが何であるか親は分からない。だから、神様がこの子に「よし」とおっしゃっているなら、それでいいだろう。親は神様に従うしかないのですから。息子が到底望み得ない大学を受験する。受験するのはお金さえ払えば誰でも受験できます。「ここを受けたい」と、「それは良かろう。それはきっと通るに違いない」と、誰が言っている?「いや、神様がしてくだされば」と。誠にそのとおりなのです。だから、今思い出してみましても、母は生涯、そういう意味で失望……、私どものように「もうそれは無理よ、やめときなさい」と「ああ、こんなになったから、もう私は駄目だ」ということを言ったことはない。それはただ一つだけ、神様に望みを置くことだけです。聖書にあるように、「主が善にして善を成し給う」、いちばん善いことを私たちのために備えてくださる。「凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」(ローマ8:28b文語訳)、どんなことでも神様が私たちにいちばん善いことをしてくださるから、何も失望することはない、嘆くこともありません。それなのにどうして嘆いているのでしょうか。私どもは上を見て信仰に立って、主に信頼しましょう。神様はこんな私たちを愛して、命を懸けて顧(かえり)みてくださるのです。
38節「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。私たちも「わが義人」となりたい。神様に喜ばれる者はこの信仰に立って歩む者、それが秘けつです。この御方を信じて、私たちも信仰によって上を望み見て、輝いて生きたいですね。失望落胆して「もう駄目なのよ。私こんなだから」と、「あんなだから私はもうできないよ」、「こうだからもうこれはおしまい。もうこれはほかの人に……」と、そのような泣き言や後ろ向きの生き方ではなくて、前に向かって信仰を持って進みましょう。神様がなさるのですから、どんな事でもできない事はない。どうぞ、そこに心を向けて主に期待していきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
38節「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。
38,39節に「信仰」という言葉が繰り返し語られています。また教会に来ると「信仰」「信仰」と言われます。「信仰」とは「信じ仰ぐ」ことです。何を仰ぐ? 天を仰ぐのです。「仰ぐ」というのは上を見ることであります。上のどこを見るか。空を見て、今日は晴れているとか曇っているかと、そのようなことを見るのではありません。上を見るは、すべてのものを統べ治めている神様を仰ぐのです。「仰ぐ」といっても、それを信じなければ仰ぐことができません。「地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ」(45:22)とイザヤ書には記されています。神様を仰ぎ望む、といっても、そこに神様がいらっしゃることを信じなければ上を見ることはできない。イザヤ書に同じく「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」(40:26)とあります。見るべきものは何もありません。空を見上げてみても、あるいは「目を高くあげて」、山を、海を、空を見、様々な山川草木、森羅万象のいろいろなものを見ても「……だから何だ? 」となりますが、それらのすべてのものの始まりはいったいどこにあったのか。すべてのものの根源でいらっしゃる神様に心を向けなさいということです。思いをそこへ向けてご覧なさいと。これが「信じ仰ぐ」ことです。だから、信仰とは、実に単純なことです。イエス様は「幼な子のようにならなければ神の国に入ることも見ることも、また救いにあずかることもできない」(マルコ10章)と言われました。「幼な子のごとくなる」とは、単純になることです。子供は、幼ければ幼いほどすぐに信じます。「これをあげようね」と言ったら、スーッと手を出します。大人だとなかなかそうはいきません。「これをあげようね」と言ったら「ありがとうございます」と言いながら手も出さない。くれるはずがないと思う。
昨日もある方といろいろな話をしておりました。私が名古屋にいましたから、名古屋と福岡の違いをいろいろと比較していました。その中で話題になったのは、名古屋の人に「どうぞ、これを使ってください。これをあなたに差し上げましょう」と勧める。「そうですか。ありがとう」と、もらうのははしたない。あまり好ましくない。「いいえ、もうそんな、私はそんなこと……結構です」と、先ず断る。二回は断らなければいけない。ところが、やるほうも心得ていますから、三回目にもらってくれるはずだからと、三回ぐらい言わなければいけないのです。家内はそのようなことを知らないで、結婚して名古屋に来ました。向こうの方が「いや、もう結構です」と言ったから、スーッと引いてしまった。それでちょっと誤解されたことがありまして、それからだいぶ向こうになじみ、今度は福岡にまいりましたら、逆にこちらの人はスーッと取ってしまう。「あげよう」と言ったら、さっと……。福岡は、北九州もそうですけれども、大体ストレートです。単純です。素直なのです。「あげよう」と言ったら「はい」ともらいます。また、「要らない」と言ったら、本当に要らないのです。
神様がいらっしゃるというけれども「神様がいても私とは関係がありません。結構です」と、言っている間は駄目です。神様が私を造り生かしてくださっていると聞いて、「ああ、そうですか。良かった」と信じるのが前提でしょう。そして「仰ぐ」とは、その御方に目を留めていくことです、常に上を見上げていくこと。私たちの心が神様のほうを向くこと、これが信仰です。目には見えないけれども、そこにいてくださる。それはどうして分かるか。聖書にそのように書いてあるからです。聖書の一番初めに「はじめに神は天と地とを創造された」と記されています。ということは、すべてのものに先立って、まず神様がいらっしゃったと宣言されている。何にもない所に、ただ神様だけがいらっしゃって、その後に次々とすべてのものが、生きとし生けるすべてのものが、森羅万象が創り出されてきた。これが聖書の一番初めに書かれていることです。それを私たちが信じるのか、信じないのか。聖書に書かれているけれども、お前は天地万物の創造の時に立ち会ったのか、現場にいたのか、と言われると、そうではありません。どのくらい前に出来たのか、これも分かりません。その時に、そばで見ていたわけではありません。しかし、それを見ていた御方が、ひとり子、イエス・キリストとなって人の世に降ってくださった。私たちの内に宿ってくださったと聖書に記されています。主イエス・キリストは創世の初め、父なる神様と共にいて、森羅万象が創られるのを見ていたと、箴言8章に記されています。私たちは見たことはなくても、また、実際に体験したことはなくても、聖書にそのように書いてあると信じる。これが信仰の原点、土台です。だから、よく世間で言われるように“いわしの頭も信心から”、なんでもいいから信じれば何とかなるよ、とは大いに違う。いわしの頭も信じたら何とかなりそうな気がするかもしれませんが、いわしの頭はいつまでもそれに過ぎません。日がたてば腐りますから。神様を信じるとは、聖書の言葉を信じることです。また、これが信仰です。
11章1節から3節までを朗読。
1節に「信仰とは」と、信仰の定義が記されています。信仰とは何かと。そこに「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」。これはいくら考えても何のことかなと思います。しかし、よくは分からないけれども、少し分かることはあります。「望んでいる事がら」「見ていない事実」これは今目の前にあることではない。「望んでいる事がら」「見ていない事実」、見ていない事実なんて、今目の前にある事柄を指す言葉ではありません。目の前の今ここにあって、具体的に起こっている事があるならば、「望む」とは言わない。「望む」とは明日、明後日、来年を望む。礼拝の只中に居ながら「今日は日曜日だから礼拝に行きたいと望んでおります」という人はいない。今、すでに来ているのですから。朝起きたときはそう言うかもしれない。「今日は礼拝に行こう。10時だから8時には食事をして」と思います。10時からという先のことを望むのです。「望んでいる」という言葉は、明らかに今目の前にないこと、私たちが今実際に体験していない事柄を指すわけです。その後の「まだ見ていない事実」という言葉があります。「まだ見ていない事実」とは何のこと? 「事実」という言葉は、これは実際にあっていること、起こっていることです。起こっているのだけれども私たちは見たことはない。過去のことも現在のことも将来のことも、ここで「望んでいる事がら」「見ていない事実」という言葉は、将来のことも、過去のことも確かなことと信じるというのです。これはいったい何のことを指しているのか。これは神様のこと、聖書の言葉です。聖書には私たちの見ていないことがたくさん書かれています。神様によって万物が造られたこと、すべてのものが神様のご計画に従って導かれ、さまざまな時代が作り出されてこの世界が成り立っていることが書かれている。これは事実、過去の事柄を語っている。しかし、私たちはその場に立ち会って見たわけではない。そのように見ていない事実を信じる。しかも聖書に語られている事実、神様がいて、すべてのものが造り出された、この事実を私たちは見ていないけれども信じる。神のひとり子、イエス・キリストが人となってこの世に来て、二千年前ベツレヘムの馬小屋に生まれてくださったと聖書に書いてある。それを皆さん見ましたか? 「二千年前、ベツレヘムの馬小屋に行って見てきました」と言う人はいません。けれども、クリスマスになると、まるで見てきたかのごとく聖誕劇をします。言うならば、見ていないけれどもその事実を確かなこととして信じている。私たちの罪のためにイエス様が十字架にかかって、命を捨ててくださった。誰も見たことがない。『聖歌』に「きみもそこにいたのか」というタイトルの賛美がある。「きみもそこにいたのか 主が十字架につくとき」という歌詞です。それを歌うとき、私は「きみもそこにいたのか」、いや、そこにはいなかったけれども、信じますと言います。「そうだ、私のために、ひとり子なるイエス様が人となってこの世に来てくださって、私たちの罪を負うてくださった」。自分を振り返ると、生まれてから今まで罪のなかった人なんていません。どこか心に、「あんなことをしなければ良かった。あんなことを言わなければ良かった」と、心に引っ掛かっているものがある。それらすべてを神様は知っている。私たちの一つ一つの罪のゆえに、無意識の中に忘れている罪のためにも、主は十字架に命を捨ててくださった。ゴルゴダの丘でいばらの冠をかぶせられ、両手両足を釘づけられて、胸をやりで突かれて、あの痛みの、苦しみの極みの中で「父よ、彼らを赦し給へ」(ルカ23:34文語訳)と赦してくださった。これを信じる。素晴らしい恵みですね。見ていないけれども、その現場に立ち会ってはいないけれども、約束された聖書のお言葉を信じていく。
パウロは決してイエス様の十字架に立ち会ったわけではない。処刑された場所にいたわけではない。しかし、彼は「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり」(ガラテヤ2:20文語訳)。「私はイエス様と一緒に十字架に死んだ者だ」と告白しました。そのころ、まだパウロは幼少のころですから、イエス様のことなんて全然知らないで生きていた。しかし、見ていない事実を確認したのです。「そうだ、私のためにイエス様は十字架に死んでくださった。そのイエス様の死によって、私は罪を許されて、神の子供としてくださったと確信した。神様は勝手にこっちの承諾もなく、神の子供なんかにしてしまって……と、思うかもしれませんが、それが私たちにとって最高の恵みです。
私たちが望んでいる事とは何でしょうか?「ポックリ死にたい」とか、「もっと楽になりたい」とか、「この病気が癒されたい」とかでしょう。その望んでいる事柄、イエス様はどうしてくださったか。罪人の罪を赦し、そればかりでなく、病める者の病を癒し、悲しみに打ちひしがれた、人生に重荷を負うて苦労している者は来なさいと言われる。わたしたちが願うこと、望んでいること、どんなことでも、そこにありますように「確信すること」。神様は私たちの思いを知り、願いを知り、祈る一つ一つの祈りに答えてくださる。明日のこと、来年のこと、再来年のこと、私たちの老後のこと、また老後から死後のこと。死んでから後のことまでも神様は「望んでいる事がら」を私たちにいちばん良いようにしてくださる。望んでいることでいちばん幸いなことは死です。死に直面したときに、その死を乗り越えていく希望、死に打ち勝って先に望みを持ち続けることができたら、私たちは勝利です。元気な間は「そうやすやすとは死ぬもんか」と思っています。しかし、死は必ずすべての人に平等にきます。それは時期が遅いか早いか、ただそれだけのことです。そのことをしっかりと心に留めておかなければならない。
先日もある方とお話をしていましたら、その方は今年70歳になられる。「先生、私もう70歳になります」。見たところまだお若い。でも、掛け値なしに70歳です。その方がしみじみといわれた。「この年になると、もう今まで生きた分だけ生きることはない」と思う。それはそうでしょう。「いくら欲張っても70歳の人があと70年は生きない。では半分ぐらい生きるかと、これも先ず無理、そうなると終わるときが非常に近いなと、ひしひし感じます」と言われる。今年も年賀状をいただいた中に、「私も古希をはるかに過ぎて、だんだん喜寿に近づいてくるにつけ、終わりのときをしきりに思わされています。昨年末はある方が書いた『死について』という本を読みました。榎本さん、一度お話を聞かせてください」とありました。その方は私が大学に勤めていたころの先輩ですが、自分の終わりをどのように迎えようかと準備している。寝たきりになるとか、認知症になるとか、そのようなことはどっちでもいいのです。そのような現象的なことよりも、死というものに対して自分はどのような心構えを持って、それに向かい合っていこうか。これが非常に大きな問題です。
ところが、神様は約束してくださっている。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」。「わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」(ヨハネ14:1,2)。イエス様が私たちよりも先に御国に帰ってくださった。そこに私たちの住むべき場所を用意してくださった。やがて私たちが来ることを待ち、「またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(同3節)と約束してくださった。何と素晴らしい約束ではないでしょうか。私たちの望んでいるいちばんの願いはまさにそのことではないでしょうか。確かに、目の前の明日どうするか、来年どうなるか、早くこの病気がどうかなってほしい、ああなってほしい、この家族の問題がこうなってほしい、ああなってほしいと願います。しかし、いちばんの望みは、死を越えていく希望につながって生きたい。これは私たちのいちばん大切な事柄です。またいちばんの願いです。
そのことがこの11章1節に「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」。過去から現在、未来にわたって、すべてのものを貫いて握っている神様を信じ、神様が約束してくださった聖書のお言葉の一つ一つに、信頼していく、心と思いをそこにつないでしまう。これが信仰です。だから、3節に「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」とあります。神様が言葉を用いてすべてのものを創り出される。確かに創世記の初めの方を読みますと、「光あれ」と言われたら光があって、「昼と夜に分かれよ」と言われると、光を分けて夜と昼が出来た。陸と海とを造り、そこにあらゆる生きとし生けるものを創造してくださいました。その創造の方法は「言葉によって」、神様が言葉を出すことによって、その言葉が具体化して目の前に現れてくる。ということは、見えているすべてのものの背後に見えないものが存在していることを証詞しているのです。3節「わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」。例えば、私たちにはお父さんとお母さんがいて、私がその子供となって生まれてきた。これは見えるものから「私」という現れたものが出てきている。だから世間で先祖代々、先祖があってその先祖のおかげで今の私がある。親がいて、そのまた親がいてと、親の親の親……ズーッと代々続いてという考え方は、見えるものが現れたものから出てきたということです。しかし、そのことだけで事は終わらないと聖書は語っている。現れているもの(私)は見える親から出たのではなくて、見えないものがあって「私」がここに在る。そのことがこの3節に「したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」。言葉を発してくださった神様の力によって、私たちがここに在るのだと、聖書は語っている。ところが、私たちは原因、結果ということを考えまして、目の前に見える事柄、状況、その見えるものが現れたものから出てきたと考える。これは信仰ではない。だから、あの人がいてこうなったという、あの人という、現れているものから、今見えるこの事柄が出てきたと、そのつながりにいつまでもとどまっているかぎり、私たちは信仰に立つことができない。だから、自分が親になって、子供の育て方が間違っていたとか、私がもっとこうしておけば……、私が原因です。 “私が”という、それはおかしい。なぜならば、見えるものから現れたものが出てきたと主張しているわけですから。ところが、聖書には「見えるものは現れているものから出てきたのでない」。「見えないものから出てきた」。その見えないものとは何か? これはすべての根源でいらっしゃる神様がいて、私たち一人一人が今ここに在る。それを信じる。
聖書の言葉は素晴らしいですね。だから、その後4節以下に「信仰によって」という言葉でたくさんの信仰に生きた人々の記事が記されています。
11章7節を読みましょう。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった」。ノアという人物について語られています。ノアは箱舟を造った人物です。その時代は大変悪に満ちた時代、今の世の中のように神を畏(おそ)れず、人を人とも思わない、悪がはびこった世の中で、神様は人を造ったことを悔いたとまで記されています。その中でただ一人、義人、正しい人としてノアがいた。彼は「正しく、かつ全き人であった」(創世6:9)と記されています。あるとき神様は人類すべてを無くしてしまおう、御破算にしようと計画なさいました。その中でノアだけは何とか助けたいと、それでノアに、「大きな箱舟を造るように」と命じました。そのときノアは「すべて命じられたようにした」(創世7:5)と書いてある。自分が造る箱舟がどのように役に立つのか、これからどのようなことが起こってくるのか、何が起こってくるのか、そんな物を造ってどうなるのか、そんなことを一切考えない。神様が「そのようにせよ」と言われたから、それに従った。これが信仰です。「神様のお言葉だから」と信じて、そのとおりにしたのです。箱舟を造りました。造るといって、今のようにいろいろな道具があって一気に造るわけではない。また、手伝ってくれる者もいません。しかも随分と大きな船ですから、造るだけでも大変です。
ノアは一人で造った。しかも、100メートルを超えた大きな物。箱舟を造り始めて何年掛かったか分からない、10年15年でしょうか。その間、彼は毎日毎日その仕事に掛かりっきりですから、恐らくほかの仕事はしていなかったでしょう。家族がいましたから、どうして養っていたのか。奥さんが内職をしたかなとも思いますが、分かりません。恐らく家族からも嫌われたでしょう、「何でそんなことをする」と。町の人から笑い者になったでしょう、「何でそんな馬鹿なことをするのか」と。確かに考えてみたら……、損なことですよ。信仰に立って生きるのは、この世の人々から愚かなこと、馬鹿なこと、そんなことは何の役にも立たない、と言われるのが実情であり、またそうでなければ信仰ではありません。家族のみんなが「お母さん、そんな馬鹿みたいな、そんなものを信じてどうなるの」と言われたら感謝したらいい。「私の信仰は本物だな」と。ところが、ものの見事にその箱舟によってノアの家族は新天新地に新しい命につながれるのです。
私たちも今その恵みの中に置かれている。神様が喜んでくださることは、まさに信仰によって生きることです。私たちは先ほど申し上げましたように、原因、結果、見えるものは現れているものから出てきたと考えやすいけれども、そうではなくて、すべてのもの、望んでいること、まだ見ていない事実を確信し、確認して、過去から現在、未来にわたって神様の約束の中に私たちが生きていくのが信仰です。主が命を懸けて私を愛し、私をあがない、天のお父様になってくださる。そうでしたら、私たちは何を失望することがあるでしょうか、何を嘆くことが要るでしょうか。私たちは先のことは分かりません。しかし、神様はすべてのものをご自分の計画に従って私たちにとって善きことにしてくださるから。だから、信仰生涯は悲観しないのです。信仰によって生きるとき、「もう駄目だ」とは言わない。いろいろな目に見える状態や事柄はあります。なるほどそうかもしれない。しかし、神様はどのようにしてくださるだろうか。確かに世間ではみんながそう言うように、この事はこれでおしまいになる。もうこれで駄目、これ以上のことは何もできない、どん詰まり、行き詰まりという事態や事柄があります。しかし、だから駄目だというのなら信仰は要りません。目に見える状態や事柄はそうではあるけれども、確かにそのとおりだ。しかし、「しかし」ですよ。神様はそこからどのような道を開いてくださるか。これが信仰に立つ生き方です。神様が私たちを命まで捨てて愛してくださった。「ひとり子を賜うほどに限りない愛をもってあなたを愛したよ」とおっしゃってくださる。その証拠として十字架を立ててくださった過去の事実がある。まだ見ていない事実を確認して、信仰に立って、そんなにまで愛してくださった神様が、この行き詰まった問題や事柄の中からどのように道を開いてくださるか、神様は何をしてくださるか分からない。神様に期待していく、これが信仰に生きることです。
今年も新年から御言葉を与えられてまいりました。この調子で行くとあっという間に年末ですが、別に急ぐことはありません、でも、余程心して信仰に立って歩もうではありませんか。この10章38節に「わが義人は、信仰によって生きる」とあります。「義人」とは、神様に喜ばれる人と考えていただいたらいい。神様が「よし」とおっしゃってくださる、人としていちばん正しい生き方をする人、それは神様を信じて信仰によって生きる人なのです。「見えるものが現れたものから出てきた」と言う人は信仰に立てないのであります。そうではなくて、見えるところがどうであれ、聞くおとずれが何であれ、神様の約束、聖書に書かれていることを信じて、望みを持ち続けていくことです。「もう駄目だ」とか「もう終わりだ」とか、「これでもうおしまい」と言うときに、そこで立ち止まって、はたして本当におしまいなのだろうか。すべてのものをおしまいにされるのは、私たちがこの地上を去るときです。それまで神様は、どんな方法、どんな道を備えてくださるか分からない。行き詰まりどん詰まりからも神様は何をしてくださるか、期待していく。
お正月になると、私は自分自身が献身に導かれた時のことも思い起こすのですが、もう一つ忘れられないのは母が召されたことです。1月2日でありました。今年でもう5年になります。先日、福岡の皆さんと記念会をさせていただいたのですが、今読みました「わが義人は、信仰によって生きる」と、これは母の生涯のメッセージでありました。母がまだ伝道者の卵であった父と結婚するとき、これからの生活がどうなるか全く分からないわけです。伝道者の姿を見ていると、どうもばら色ではなさそうに見える。先行き暗い。そんな中でどうするか、結婚の決断を大変悩みました。母は生まれ育ったのが五島列島の田舎であり、また母方は仏教信徒です。お寺のお坊さんの出身です。そのような風土の中で育ち、キリスト教には縁が薄かったのです。ところが、幸いに福岡に住んでいた叔母がクリスチャンだったことで母を若いときから呼んでくれて、信仰に触れました。やがて女学校を終わって郷里の田舎に代用教員として2年ほど帰ります。ちょうど二十歳前後ですから、結婚しようという話になって郷里で結婚の話があったのです。その時、母は、ここで結婚してしまったら、そのままズーッと五島で生涯を送ることになる。そうすると教会に行くことができないから、信仰は遠くなってしまう。それで博多にいる叔母に相談しました。「どうしたものだろうか」と。そうしたときに叔母から「あなたが信仰を第一にするのだったら、そこにいては駄目だから福岡に出てきなさい」と勧められる。それで進んでいた話を断って福岡に出てきたのです。その時に叔母に結婚の条件として、クリスチャンの人と自分は結婚したいと話して、では、そのためにお祈りをしましょうと、叔母が言ってくれたのです。そう願っていたところへきたのが父との話です。クリスチャンであることは願ったけれども、伝道者とは願ってなかった。これは困ったと思います。その時に祈り、祈っていて、最後に決断に導かれたのがこの御言葉だったのです。「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。もしこの信仰を捨ててほかの道を行くのだったら、それは私の魂の喜びにならない。
晩年、母が召される数年前にどうしても郷里を見たい、ということで、母を連れて行ったことがあります。昔の田舎の村を歩いていた時、よぼよぼのおじいさんが杖を突きながら歩いて来たのです。行き過ぎるなり、母が「あの人よ。私に『結婚してくれ』と言ったのは」。よく覚えているものですね。60年ぐらい前の話だと思いますが、私はびっくりしてもう一度振り返りましたね。その人は村にいまして、助役にまでなった人物ですから、その人と結婚していたら、母もその地の知名士になって、そこそこの生活になったかなと思います。向こうは覚えていませんから、彼は他人のごとくして通り過ぎました。そのような不思議な神様の導きがあったことを思います。
その後の母の生涯は、ご存じのように波乱万丈であります。しかし、私が今振り返って思い出すことの中に、母は決して「もう、これで駄目」と言ったことがない。失望落胆して落ち込んでしまったことがない。兄と私は一つ違いですから受験期になると、次から次と大学受験。受験はするけれども落ちます。こっちの方がしょ気返って「もう駄目や」と思う。父も母も「そんなことはない。大丈夫」「『大丈夫』って私の代わりに勉強してくれるのかな」と思うが、そうではないですね。神様がいらっしゃるから、必ずよき事をしてくださると信じる。だから今考えると、幸いだったと思うのは「こんな成績だから、やめとけ」と言われたことがない。「お前はどうしたいのか」「いや、こういう大学」。学校の先生のほうが「そこは無理だぞ。お前には」と言っても、父と母は「いい、良かろう」と言う。「良かろう」と言ったって、受験するのはこちらなのですが、いつも何を見ていたのか。目の前の息子の能力や成績表を見ていたら、これは不可能です。そうではない。「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する」、すべての根源であり、すべてのものを御手をもって握っている神様がおられる。親がこの子を育てているのではない。神様がこの子を育てている。この子に備えてくださる人生があるに違いない。それが何であるか親は分からない。だから、神様がこの子に「よし」とおっしゃっているなら、それでいいだろう。親は神様に従うしかないのですから。息子が到底望み得ない大学を受験する。受験するのはお金さえ払えば誰でも受験できます。「ここを受けたい」と、「それは良かろう。それはきっと通るに違いない」と、誰が言っている?「いや、神様がしてくだされば」と。誠にそのとおりなのです。だから、今思い出してみましても、母は生涯、そういう意味で失望……、私どものように「もうそれは無理よ、やめときなさい」と「ああ、こんなになったから、もう私は駄目だ」ということを言ったことはない。それはただ一つだけ、神様に望みを置くことだけです。聖書にあるように、「主が善にして善を成し給う」、いちばん善いことを私たちのために備えてくださる。「凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」(ローマ8:28b文語訳)、どんなことでも神様が私たちにいちばん善いことをしてくださるから、何も失望することはない、嘆くこともありません。それなのにどうして嘆いているのでしょうか。私どもは上を見て信仰に立って、主に信頼しましょう。神様はこんな私たちを愛して、命を懸けて顧(かえり)みてくださるのです。
38節「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。私たちも「わが義人」となりたい。神様に喜ばれる者はこの信仰に立って歩む者、それが秘けつです。この御方を信じて、私たちも信仰によって上を望み見て、輝いて生きたいですね。失望落胆して「もう駄目なのよ。私こんなだから」と、「あんなだから私はもうできないよ」、「こうだからもうこれはおしまい。もうこれはほかの人に……」と、そのような泣き言や後ろ向きの生き方ではなくて、前に向かって信仰を持って進みましょう。神様がなさるのですから、どんな事でもできない事はない。どうぞ、そこに心を向けて主に期待していきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。