「詩篇」92篇1節から15節までを朗読。
4節-5節前半「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います。5 主よ、あなたのみわざはいかに大いなることでしょう」。
92篇の表題には「安息日の歌・さんび」と記されています。この詩篇が歌われた時代、何千年か前であろうと思いますが、その当時はユダヤ教が中心で、旧約聖書の世界で生きていた人々です。旧約聖書の「創世記」に神様が森羅万象、ありとあらゆるものを創造なさって、7日目にそのわざを休まれたという記事があります。そのことから、六日働いて七日目は休んで何もしない安息日と言われました。
「それはそれでいいじゃないか。なぜ、私たちが休まねばならないのか」となりますが、実は、私たちの毎日の生活は神様が創造してくださっているのです。神様の創造は、天地万物が造られた最初のときで終わったように思いますが、そうではなくて神様はその後も常に創造のわざを続けておられるのです。
私たちの使い慣れたカレンダーはいちばん左側に日曜日、赤い字が来るでしょう。そして、土曜日が最後になって、また次に週の初めの日、聖なる日、赤い字で書かれている日が来ますが、安息日は一週間の休みの日でありますから、実は月曜日から始まって最後、日曜日が終わりに来るというのが、旧約聖書と言いますか、聖書的な考え方です。だから、一週間のわざが終わって、7日目の朝になる。神様は創世記に語られているように、第一日目、第二日目、第三日目と、ズーッと六日間、すべての創造をなさって、七日目に休まれた。それは一つの始まりであって、それから後も絶えず神様が私たちを造り出してくださっている。だから、月曜日から土曜日まで一週間生きているというのは、神様が第一日目、第二日目、第三日目と造ってくださっているからです。私たちは一日一日、神様の創造によってここにあるのです。だから、神様が休まれると、私たちは何もできないのです。神様がしてくださることの中に、私たちは生きているのです。神様の創造のわざの中で、一日一日生かされていますから、七日目に神様がお休みになったら当然、私たちも何もしないのです。しないというか、できないのです。神様が力を与え、知恵を与え、食べること、着るもの、その他すべてを備えてくださる。ところが、私たちはそれを無視して、何かできるように思う。自分の力で一日一日を生きているように思うから、「そんなに休んでおるわけにはいかん」と、七日間びっしり働くのです。安息日無しで働くことをしやすい。それでは神様の創造のわざ、神様が主であることを否定することになります。だから、「安息日を守る」ことが、旧約聖書で一つの戒律、律法として定めています。モーセに対して神様が「十戒」を与えられたとき、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(出エジプト 20:8)と言われました。ただ単に、神様が言われたからと言うだけではない。実は、神様が求められたのは、今申し上げましたように、もっと深いのです。言うならば、神様の創造、神様の手によって人は生かされていることを、告白するのが安息日を守ることです。神様がお休みになるのだから、私たちも一切のわざができない。なぜならば、神様がなさらないでは、どんなこともあり得ないからです。
だから、旧約聖書にあるように、荒野の旅をしているとき、マナをもって神様は民を養いました。ところが「土曜日だけは二日分集めなさい」と言われました。七日目は安息日だから何もしてはいけないと。何もしてはいけないというと、禁止条項のようで、「何と窮屈な」と思いますが、なぜ禁止されるかと、その意味をもうひとつ踏み込んで考えていただいたら、当たり前のことです。なぜならば、神様が働いて私を生かしてくださるから今日の一日があるのです。健康を与えられ、働く場所を与えられ、この一日が造り出されているのです。そして、安息日・七日目に、私たちはすべてのわざを休む。神様がお休みになられるからです。神様が休んでいるのに、私たちがするわけにはいかない。神様のお許しがなければ私たちは何もできないのですから、そのことを認めること。安息日を聖(きよ)くして、それを守ることは、神が神でいらっしゃること、主が主でいらっしゃること、私たちの命、日々の生活が誰によって造り出されているかを告白するわざです。そのことを考えたら、安息日に休むのは至極当然のことです。また、それは私たちの生活に直結したことでもあります。神様がいろいろなことを私たちの生活の中に備えてくださる、創造のわざをしてくださって今日があり、この安息日が与えられたわけです。それで主がお休みになるから私たちも休みますというのが、旧約時代の安息日だったのです。もちろん、今はまた少しその意味が変わってきました。と言うのは、今では「安息日」という言葉は旧約時代の言葉であって、新約の今は使わないと言う人もいます。厳密なことを言う口やかましい人に言わせると「今、安息日というのは使わない。『聖なる日』『主なる日』『キリストの日』と言うべきだ」と、細かい重箱の隅をつつくようなことを言う人がいます。「どちらでもいいではないか」と思いますが、それはそれなりに一理ある。と言うのは、いま私たちは安息日と言わないで、「主の日」、「キリストの日」、「復活の日」などと言います。安息日は、今申し上げましたように、最初の創造のわざが月曜から始まって土曜までで、日曜日は一週の終わりでした。言うならば、カレンダーが月曜から始まって日曜で終わるというのが安息日の考え方。ところが、その後、今は私たちが知っているように、日曜日が先頭に来て、それから月、火、水、木、金、土と来て、また日曜日に返るのです。なぜそうなってしまったのか?これは、救い主でいらっしゃるイエス様が、十字架に死んで葬られなさって、三日目の朝よみがえられました。その三日目の朝は安息日の翌日、その当時で言うならば月曜日なのです。その日によみがえってくださった。それから後、歴史的に言うと、その後しばらく混乱した時期が続きますが、クリスチャンはイエス様の復活の日、その当時の月曜日、ユダヤ教でいうところの月曜日を私たちの「聖なる日」としよう、この日を「主の日」と呼んで、その日に神様の前に礼拝をささげようではないかとなった。ところが、長年ユダヤ教で生きてきた人は「いや、そんなことはない。安息日は安息日だ」といって、ある時期混乱しました。それで後に、宗教会議が開かれ、カトリック、その当時はカトリックだけだったのですが、そこで決められたのが新しい新約の時代、イエス・キリストの救いが完成したことを中心にして、今度は聖なる日、この一日を主のものとして主にささげることに決めたのです。ところが、セブンスデー・アドベンチストというグループの方々は、今でも土曜日が、昔の安息日だからこの日を大切にすべきだという考え方を持っておられ、今でもカレンダーでいう日曜日ではなくて、その土曜日を安息日だと主張しています。どれが正しいということはないと思いますが、今は主イエス・キリストがよみがえられた日を「主日」とします。私どもは「聖日礼拝」、聖なる日の礼拝と言いますが、難しいことを言う人は「それは違う。聖なる日とはどう意味なのだ。「聖」というのは神様の称号であって、そんなものを日に使うわけにはいかない」と主張します。だから、教会によっては「主日礼拝」、主の日の礼拝というのです。主の日なんて、ほかの人が聞いたら何の日か分からない。知っている人だけが知っていることになります。これはキリストがよみがえられたその日ですという意味です。私どもの教会では昔から「聖日」、聖なる日として、聖別しています。この日は主のものであることにおいては変わりがありません。また神様がわざを休まれた日であり、私たちに魂の休息を与え、いのちと力に満たされる日である意味で、「聖日」という言葉を使っています。いずれにしても、いのちを与え、生きるすべを与え、わざを進めてくださる神様の手の中にあって、私たちは生きているのです。
「わたしたちは神の作品であって」(エペソ 2:10)と教えられているように、神様がこの地上に命を与えて、生きる者として、日々にわざを導いてくださる。だから、92篇1節以下に「いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。2 あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために、3 十弦の楽器と立琴を用い、琴のたえなる調べを用いるのは、よいことです」、「神様を褒めたたえなさい、賛美、感謝しなさい」と歌われているのです。そのためには楽器を用い、心から主を褒めたたえなさいと。なぜ主を褒めたたえるか?それは4節に「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました」と。神様が一週間、一日、一日、わざを進めてくださる。神様は御手のわざをもって私たちを生かしてくださった。いろいろな事を起こし、そこに私たちを置いてくださって楽しませてくださった。神様は、私たちのすべてのいのちの、生活、この地上にある私たちの人生の主でいらっしゃる。すべてのものを導き給う神様に感謝、賛美し、主を褒めたたえなさいというのです。私どもは日曜日ごとに礼拝を守りますが、まさにその意味なのです。過ぎて来た一週間、神様のわざの中に生かされたのだ。命を与えられ、生活の糧を与えられ、すべての必要を備えられて、今日ここまで来た。だから、旧約聖書に語られている安息日としての意味もそこには当然あります。旧約時代の安息日はもう終わったということは有り得ません。月曜日から日曜日に至るまで、絶えず神様の恵みとそのわざの中に生きているのです。時には思いがけないことや、心配なことや、悲しい出来事など、いろいろなことに出会いますが、それもこれも実は神様のみわざなのです。4節に「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました」とあります。神様は私たちを楽しませてくださる。この地上にあって、私たちを神の作品として置いてくださった神様は、私たちが喜び感謝し、神様を褒めたたえることを願っておられる。それによって、神様が愛なる御方、力ある御方であり、すべてのものを統べ治めていらっしゃる御方だと証詞するためです。
「イザヤ書」43章8節から12節までを朗読。
ここに「あなたがたはわが証人」と語られています。神様は私たちを証人と言われます。「証人」とは、目撃証人という言葉などにありますように、ある事柄を体験し、自分が見て知っている事実、それを証しする、言い表す人のことです。だから、裁判などに使われる言葉でもあります。何か事件、交通事故など、そばで見ていた、現場に居合わせた人、その人に事実関係、加害者と被害者がどういう関係にあったか証言してもらう。当事者はどうしても主観が入りますから、信ぴょう性にかけます。自分の都合のいいように話を作りますから、作るということはないでしょうけれども、無意識のうちにそのような見方になります。私たちは一方的にしか、ものが見えませんから、相手が言うことと大いに食い違います。そういうときに証人を立てます。それをそばで見ていた人、交通事故などは特にそうです。どちらが先に交差点に入ったかとか、あるいはそのときに信号は青であったかどうか、黄色であったか、赤であったか。そういうことを当事者に聞いても「私が入ったとき、目の前の信号は青でした」と「いや、私のほうが青でした」と両方が言い張ります。信号が全部青になるはずがないのですが、でも、どちらが正しいかは、第三者、証人がそれを証言します。「自分が見たときにはこちらの信号は赤だった。そこへ、この車が無視して入り込んだ」というようなことが証言されると、これは決定的であります。
神様も10節に「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである」と、私たちを証人にしようと言うのです。このように主イエス・キリストの救いにあずからせてくださったご目的の一つは、ここです。私たちをして神様がおられること、私たちを造り、生かしてくださる主がおられること。私たちのすべての事を導かれる、アルパでありオメガであり、初めであり終わりである神様がいらっしゃることを証詞する、証言する者として、私たちはこの地上に生きているのです。
10節のその後に「それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる」と。神様がまず求めておられるのは、私たち自身が直接的に神を体験すること、イエス様を体験することです。そして、ここにありますように、「あなたがたは知って、わたしを信じ」「主であることを悟る」。私たち自身がまず神様を知らなければ証人になり得ません。「神様がいるらしい」なんていう伝聞(でんぶん)は証言になりません。「じゃ、あなたはどうなの?」「いや、私は分からないけれども、何かそういう話ですよ」と。人から聞いた話をいくらしたってどうにもならない。「あなたはどうしたのですか?」「私は知っています。神様がいらっしゃる、神様は愛なる御方ですよ」と、自分が体験しなければ駄目です。だから、10節に「それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟る」と。神様が主である、すべてのものの根源でいらっしゃる御方、これを知らなければ駄目です。そのために日々の生活の一つ一つの中で、誰がこのことの主であるか?それをはっきりと体験していく、知ること、経験すること、これが求められているのです。神様は神様のわざをもって絶えず生かしてくださる。朝起きて夜寝るまで神様のわざの中に、神様のしてくださる一つ一つの事柄の中に生きているのです。
昨日は世紀の天文ショーとテレビも宣伝をしていましたが、日食が起こるという。私もたまたま皆が上を見ていますから何事かと思って見ました。すると雲の合間から、ちょうど雲が掛かってくれてガラスもなしに、太陽が欠けてくるのが「ほう、欠けたか」と見ましたが、周囲の人々は「オー、すごい、すごい!」と歓声を上げていました。しかし「何がすごいのだろうか」と思いました。「神様がなさっているのに、これくらいのことは当たり前じゃないか」と思いました。でも、これは非常に不思議です。太陽と月はまずもって大きさが違います。比較にならないほどです。ところが、太陽、月、そして地球が一直線上に並ぶ。太陽の大きさがある距離によってズーッと小さく見えて、月と同じ大きさにならないとあの皆既日食は起こらないのです。月がズーッと小さかったら太陽は全部隠れきれません。だから、太陽・月・地球というこれがどの位置にあるか、これは実に難しい計算です。これを神様がきちっと決めなさったから出来ているのです。そんなのは不思議でも何でもないのです。神様がなさるのですから、それがちょうど重なり合うような位置関係。太陽の直径と月の直径と、それから太陽と月との距離、月と地球との距離、この比率がきちっとならないとピタッと一つに合わないのです。それを見て「オー、すごいな!」と言うでしょう。「その神様があなたを生かしていらっしゃるのですよ。あなたが今日あるのも、この神様のわざではないですか」、これを忘れるのです。太陽が欠けることだけを見て、「オー、すごいな!すごいな!」と言いながら、自分の人生を「何だ、これは!おれはこんな中で苦しんでいる」「私はこんなひどい目に遭っている」「私はこうだから……」「私はああだから……」「何でこうなったのだろうか」「どうして私の人生はこうだろうか」とグチャグチャ言いながら、空を見て、「あー、すごいな!」なんて、矛盾していないでしょうか。向こうは神様、こっちは私と思っている。太陽が欠けるのは不思議な神様のわざだと言いながら、自分の生活は私のわざだというところに、人の悲劇があるのです。
ここにありますように、「それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟る」。自分の人生、自分の日々の生活、一日一日生きていること自体が、あの太陽が欠けるどころか、もっとすごい神様の深い、深いご計画と御思いの中にいるのだと、これを驚かなくて、いったい何をしてびっくり仰天することがあるでしょうか。まず自分自身が今日ここに生きていること、ここまで地上の人生を生かされてきたこと、その間いろいろなことがあったに違いない。皆さんも振り返ってみたら決して平坦ではなかった。山あり谷あり、いろいろなトンネルの中、これで自分はおしまいかと思うような中を通ったかもしれない。しかし、それを通り抜けて今ここにある。今日ここにこうして存在している。だから、パウロが「我が今の如くなるは、の恩恵(めぐみ)に由るなり」(Ⅰコリント15:10文語訳)と告白しました。今日ここにあるのはただ一重に神様の恵みによるのですと言うほかなかったのです。自分の努力でも、自分の熱心な業によるのでもなければ、知恵によるのでもない。ただ一重に神様の憐れみにより、神様の恵みによって、今私はここに生かされている。私たちはただ天体で太陽が欠けるだけのことすら、「オー、すごいな」なんて言いますが、もっと毎日を驚くべきではないでしょうか。朝起きて、「私は今日も生きているのか。これは何とすごいことではないか。神様はこうやって私を生かしてくださっている。」と驚き、「これはもう感謝するしかない」と言って、大きな声で賛美し、感謝していますか。起きるなり、「また今日も、また目がさめてしまった」と、「寝ておけばよかった」とか、「なんなら、永遠に眠らせてもらった方がよかった」とか、そのくらいに思いますが、ここにありますように、「それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟る」者となり、神様が私を造り生かして、今日も創造のわざの中に生かされている証人となりましょう。
詩篇92篇4節に「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います」。神様のみわざと言うのは、何か超自然的な天変異変が起こることではありません。神様のみわざは、私たちが今日ここにあることです。だから「神様なんか、いるものか」と言う人に、「では、私を見てご覧、私がこうやって生きているのは神様以外にないのですよ」と、私たちは言わなければいけない。神様がいらっしゃるからこそ、私はここにあるのであって、もし神様のお許しがなければ、私はとっくに消えていて当然であります。それが今日も神様のわざによって生かされ、健康を与えられ、あるいは時に病気を与えられる。あるいは悲しい出来事にも遭うでしょう。どれもこれも神様によらないものは何もないのです。神様は私たちを喜ばせたり悲しませたり、失望させてみたり、あるいは有頂天にさせてみたり、いろいろと私たちを取り扱ってくださる。わざを行ってくださる。それは、私たちが楽しむためです。神様の手に握られて上げられたり、下ろされたりしているわけですから楽しんだらいい。ところが、それを楽しめないのはなぜか? それは、「自分が!」「私が!」と思っているからです。「思いどおりにいかない」「そんなはずじゃなかった」と。それは当たり前です。そんなはずでないのは当たり前で、神様が備えられるのです。神様のわざなんだから、私たちに分からなくて当然であります。だから、今日の一日をどのように神様が備えられるのか分かりません。明日があるかどうかも分かりません。しかし、神様は私たちを楽しませようとしてくださっている。どうぞ、私たちはすべてのものを造り生かし、力あるみ手をもって支えてくださる神様のわざの中にあること、そして、そのわざを楽しむ者としてくださるのです。ですから、「主よ、あなたのみわざはいかに大いなることでしょう」と。神様のわざは大いなること、言うなら、私たちが計り知ることができません。
「詩篇」139篇16節から18節まで朗読。
16節に「あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた」。神様は、姿かたちがなかったとき、既に私たちのこの地上にある日々を全部ご存じで、その一日一日を書に記してくださった。ちゃんとシナリオを書いてくださった。出来上がっているというのです。いま私たちは神様が書いてくださったシナリオに従って一日一日を送っているのです。明日のことも、神様の中にはちゃんと分かっている。知らないのは私たちだけです。ひょっとしたら、皆さんの終わりが明日に決められている人もいるかもしれないし、その先もあるかもしれない。明日、病気になる人がいるかもしれない、これは分かりません。でも、神様はそのすべての事を書に記して、17節に「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう」。神様がご計画してくださったことこそが、私には本当に尊い大切な恵みだと、この詩篇の記者は歌っているのです。私たちも明日のことは分かりませんが、明日を知っている主がおられる。神様が私たちのために備えてくださることこそが、最善にして最高の恵みなのだと信じていきたい。そして「その全体は何と広大なことでしょう」、私たちはそれを計り知ることができません。18節に「わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い」。神様がなさるみわざは、千変万化、数多いものだと語られています。私たちでは到底計り知れないのであります。だから、私どもはお手上げ、神様の手に自分を委ねて任せていく以外にない。そうするとき、神様は御心のままに私たちを持ち運んでくださる。そして、私たちを楽しませてくださる。だから、目に見える問題や事柄、これで失望落胆しそうになりますが、そのことの背後にすべてをつかさどっておられる神様を見ていきたい。その御方に目をとめておきたい。しかも、神様は私たちを限りない大きなご愛をもって、取り扱ってくださっている。
詩篇92篇5節「主よ、あなたのみわざはいかに大いなることでしょう」。誠に神様は大きな恵みをもって私たちを楽しませてくださる。「愚かな者はこれを悟ることができません」とありますから、私たちは賢くなってそのことを悟って、今日も神様の手のわざの中にありますと、一日一日を過ごし、そして七日目、主の日、主のよみがえりの日、私たちはご愛の中に取り込んでくださった主の前に近づいて一週間の恵みを感謝する。これが礼拝、そしてまた次なる新しい一週間の旅路を導き守ってくださるのはどなたかということをはっきりと確認して出発するのが礼拝です。
だから、この礼拝は安息日であると同時に主のよみがえりの日であり、私たちの救いの日であります。それはまた私たちの日々の生活の中心です。これをいい加減にしたら、私たちは神様を失ってしまうのです。聖日、聖なる日、礼拝を命懸けで守るのはそのためです。自分の思い通りになろうと、違ったことが起ころうと、どれもこれも一つ一つ主のわざですと、神様が与えてくださる恵みを感謝しつつ、主を褒めたたえて、喜び感謝して生きようではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
4節-5節前半「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います。5 主よ、あなたのみわざはいかに大いなることでしょう」。
92篇の表題には「安息日の歌・さんび」と記されています。この詩篇が歌われた時代、何千年か前であろうと思いますが、その当時はユダヤ教が中心で、旧約聖書の世界で生きていた人々です。旧約聖書の「創世記」に神様が森羅万象、ありとあらゆるものを創造なさって、7日目にそのわざを休まれたという記事があります。そのことから、六日働いて七日目は休んで何もしない安息日と言われました。
「それはそれでいいじゃないか。なぜ、私たちが休まねばならないのか」となりますが、実は、私たちの毎日の生活は神様が創造してくださっているのです。神様の創造は、天地万物が造られた最初のときで終わったように思いますが、そうではなくて神様はその後も常に創造のわざを続けておられるのです。
私たちの使い慣れたカレンダーはいちばん左側に日曜日、赤い字が来るでしょう。そして、土曜日が最後になって、また次に週の初めの日、聖なる日、赤い字で書かれている日が来ますが、安息日は一週間の休みの日でありますから、実は月曜日から始まって最後、日曜日が終わりに来るというのが、旧約聖書と言いますか、聖書的な考え方です。だから、一週間のわざが終わって、7日目の朝になる。神様は創世記に語られているように、第一日目、第二日目、第三日目と、ズーッと六日間、すべての創造をなさって、七日目に休まれた。それは一つの始まりであって、それから後も絶えず神様が私たちを造り出してくださっている。だから、月曜日から土曜日まで一週間生きているというのは、神様が第一日目、第二日目、第三日目と造ってくださっているからです。私たちは一日一日、神様の創造によってここにあるのです。だから、神様が休まれると、私たちは何もできないのです。神様がしてくださることの中に、私たちは生きているのです。神様の創造のわざの中で、一日一日生かされていますから、七日目に神様がお休みになったら当然、私たちも何もしないのです。しないというか、できないのです。神様が力を与え、知恵を与え、食べること、着るもの、その他すべてを備えてくださる。ところが、私たちはそれを無視して、何かできるように思う。自分の力で一日一日を生きているように思うから、「そんなに休んでおるわけにはいかん」と、七日間びっしり働くのです。安息日無しで働くことをしやすい。それでは神様の創造のわざ、神様が主であることを否定することになります。だから、「安息日を守る」ことが、旧約聖書で一つの戒律、律法として定めています。モーセに対して神様が「十戒」を与えられたとき、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(出エジプト 20:8)と言われました。ただ単に、神様が言われたからと言うだけではない。実は、神様が求められたのは、今申し上げましたように、もっと深いのです。言うならば、神様の創造、神様の手によって人は生かされていることを、告白するのが安息日を守ることです。神様がお休みになるのだから、私たちも一切のわざができない。なぜならば、神様がなさらないでは、どんなこともあり得ないからです。
だから、旧約聖書にあるように、荒野の旅をしているとき、マナをもって神様は民を養いました。ところが「土曜日だけは二日分集めなさい」と言われました。七日目は安息日だから何もしてはいけないと。何もしてはいけないというと、禁止条項のようで、「何と窮屈な」と思いますが、なぜ禁止されるかと、その意味をもうひとつ踏み込んで考えていただいたら、当たり前のことです。なぜならば、神様が働いて私を生かしてくださるから今日の一日があるのです。健康を与えられ、働く場所を与えられ、この一日が造り出されているのです。そして、安息日・七日目に、私たちはすべてのわざを休む。神様がお休みになられるからです。神様が休んでいるのに、私たちがするわけにはいかない。神様のお許しがなければ私たちは何もできないのですから、そのことを認めること。安息日を聖(きよ)くして、それを守ることは、神が神でいらっしゃること、主が主でいらっしゃること、私たちの命、日々の生活が誰によって造り出されているかを告白するわざです。そのことを考えたら、安息日に休むのは至極当然のことです。また、それは私たちの生活に直結したことでもあります。神様がいろいろなことを私たちの生活の中に備えてくださる、創造のわざをしてくださって今日があり、この安息日が与えられたわけです。それで主がお休みになるから私たちも休みますというのが、旧約時代の安息日だったのです。もちろん、今はまた少しその意味が変わってきました。と言うのは、今では「安息日」という言葉は旧約時代の言葉であって、新約の今は使わないと言う人もいます。厳密なことを言う口やかましい人に言わせると「今、安息日というのは使わない。『聖なる日』『主なる日』『キリストの日』と言うべきだ」と、細かい重箱の隅をつつくようなことを言う人がいます。「どちらでもいいではないか」と思いますが、それはそれなりに一理ある。と言うのは、いま私たちは安息日と言わないで、「主の日」、「キリストの日」、「復活の日」などと言います。安息日は、今申し上げましたように、最初の創造のわざが月曜から始まって土曜までで、日曜日は一週の終わりでした。言うならば、カレンダーが月曜から始まって日曜で終わるというのが安息日の考え方。ところが、その後、今は私たちが知っているように、日曜日が先頭に来て、それから月、火、水、木、金、土と来て、また日曜日に返るのです。なぜそうなってしまったのか?これは、救い主でいらっしゃるイエス様が、十字架に死んで葬られなさって、三日目の朝よみがえられました。その三日目の朝は安息日の翌日、その当時で言うならば月曜日なのです。その日によみがえってくださった。それから後、歴史的に言うと、その後しばらく混乱した時期が続きますが、クリスチャンはイエス様の復活の日、その当時の月曜日、ユダヤ教でいうところの月曜日を私たちの「聖なる日」としよう、この日を「主の日」と呼んで、その日に神様の前に礼拝をささげようではないかとなった。ところが、長年ユダヤ教で生きてきた人は「いや、そんなことはない。安息日は安息日だ」といって、ある時期混乱しました。それで後に、宗教会議が開かれ、カトリック、その当時はカトリックだけだったのですが、そこで決められたのが新しい新約の時代、イエス・キリストの救いが完成したことを中心にして、今度は聖なる日、この一日を主のものとして主にささげることに決めたのです。ところが、セブンスデー・アドベンチストというグループの方々は、今でも土曜日が、昔の安息日だからこの日を大切にすべきだという考え方を持っておられ、今でもカレンダーでいう日曜日ではなくて、その土曜日を安息日だと主張しています。どれが正しいということはないと思いますが、今は主イエス・キリストがよみがえられた日を「主日」とします。私どもは「聖日礼拝」、聖なる日の礼拝と言いますが、難しいことを言う人は「それは違う。聖なる日とはどう意味なのだ。「聖」というのは神様の称号であって、そんなものを日に使うわけにはいかない」と主張します。だから、教会によっては「主日礼拝」、主の日の礼拝というのです。主の日なんて、ほかの人が聞いたら何の日か分からない。知っている人だけが知っていることになります。これはキリストがよみがえられたその日ですという意味です。私どもの教会では昔から「聖日」、聖なる日として、聖別しています。この日は主のものであることにおいては変わりがありません。また神様がわざを休まれた日であり、私たちに魂の休息を与え、いのちと力に満たされる日である意味で、「聖日」という言葉を使っています。いずれにしても、いのちを与え、生きるすべを与え、わざを進めてくださる神様の手の中にあって、私たちは生きているのです。
「わたしたちは神の作品であって」(エペソ 2:10)と教えられているように、神様がこの地上に命を与えて、生きる者として、日々にわざを導いてくださる。だから、92篇1節以下に「いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。2 あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために、3 十弦の楽器と立琴を用い、琴のたえなる調べを用いるのは、よいことです」、「神様を褒めたたえなさい、賛美、感謝しなさい」と歌われているのです。そのためには楽器を用い、心から主を褒めたたえなさいと。なぜ主を褒めたたえるか?それは4節に「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました」と。神様が一週間、一日、一日、わざを進めてくださる。神様は御手のわざをもって私たちを生かしてくださった。いろいろな事を起こし、そこに私たちを置いてくださって楽しませてくださった。神様は、私たちのすべてのいのちの、生活、この地上にある私たちの人生の主でいらっしゃる。すべてのものを導き給う神様に感謝、賛美し、主を褒めたたえなさいというのです。私どもは日曜日ごとに礼拝を守りますが、まさにその意味なのです。過ぎて来た一週間、神様のわざの中に生かされたのだ。命を与えられ、生活の糧を与えられ、すべての必要を備えられて、今日ここまで来た。だから、旧約聖書に語られている安息日としての意味もそこには当然あります。旧約時代の安息日はもう終わったということは有り得ません。月曜日から日曜日に至るまで、絶えず神様の恵みとそのわざの中に生きているのです。時には思いがけないことや、心配なことや、悲しい出来事など、いろいろなことに出会いますが、それもこれも実は神様のみわざなのです。4節に「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました」とあります。神様は私たちを楽しませてくださる。この地上にあって、私たちを神の作品として置いてくださった神様は、私たちが喜び感謝し、神様を褒めたたえることを願っておられる。それによって、神様が愛なる御方、力ある御方であり、すべてのものを統べ治めていらっしゃる御方だと証詞するためです。
「イザヤ書」43章8節から12節までを朗読。
ここに「あなたがたはわが証人」と語られています。神様は私たちを証人と言われます。「証人」とは、目撃証人という言葉などにありますように、ある事柄を体験し、自分が見て知っている事実、それを証しする、言い表す人のことです。だから、裁判などに使われる言葉でもあります。何か事件、交通事故など、そばで見ていた、現場に居合わせた人、その人に事実関係、加害者と被害者がどういう関係にあったか証言してもらう。当事者はどうしても主観が入りますから、信ぴょう性にかけます。自分の都合のいいように話を作りますから、作るということはないでしょうけれども、無意識のうちにそのような見方になります。私たちは一方的にしか、ものが見えませんから、相手が言うことと大いに食い違います。そういうときに証人を立てます。それをそばで見ていた人、交通事故などは特にそうです。どちらが先に交差点に入ったかとか、あるいはそのときに信号は青であったかどうか、黄色であったか、赤であったか。そういうことを当事者に聞いても「私が入ったとき、目の前の信号は青でした」と「いや、私のほうが青でした」と両方が言い張ります。信号が全部青になるはずがないのですが、でも、どちらが正しいかは、第三者、証人がそれを証言します。「自分が見たときにはこちらの信号は赤だった。そこへ、この車が無視して入り込んだ」というようなことが証言されると、これは決定的であります。
神様も10節に「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである」と、私たちを証人にしようと言うのです。このように主イエス・キリストの救いにあずからせてくださったご目的の一つは、ここです。私たちをして神様がおられること、私たちを造り、生かしてくださる主がおられること。私たちのすべての事を導かれる、アルパでありオメガであり、初めであり終わりである神様がいらっしゃることを証詞する、証言する者として、私たちはこの地上に生きているのです。
10節のその後に「それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる」と。神様がまず求めておられるのは、私たち自身が直接的に神を体験すること、イエス様を体験することです。そして、ここにありますように、「あなたがたは知って、わたしを信じ」「主であることを悟る」。私たち自身がまず神様を知らなければ証人になり得ません。「神様がいるらしい」なんていう伝聞(でんぶん)は証言になりません。「じゃ、あなたはどうなの?」「いや、私は分からないけれども、何かそういう話ですよ」と。人から聞いた話をいくらしたってどうにもならない。「あなたはどうしたのですか?」「私は知っています。神様がいらっしゃる、神様は愛なる御方ですよ」と、自分が体験しなければ駄目です。だから、10節に「それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟る」と。神様が主である、すべてのものの根源でいらっしゃる御方、これを知らなければ駄目です。そのために日々の生活の一つ一つの中で、誰がこのことの主であるか?それをはっきりと体験していく、知ること、経験すること、これが求められているのです。神様は神様のわざをもって絶えず生かしてくださる。朝起きて夜寝るまで神様のわざの中に、神様のしてくださる一つ一つの事柄の中に生きているのです。
昨日は世紀の天文ショーとテレビも宣伝をしていましたが、日食が起こるという。私もたまたま皆が上を見ていますから何事かと思って見ました。すると雲の合間から、ちょうど雲が掛かってくれてガラスもなしに、太陽が欠けてくるのが「ほう、欠けたか」と見ましたが、周囲の人々は「オー、すごい、すごい!」と歓声を上げていました。しかし「何がすごいのだろうか」と思いました。「神様がなさっているのに、これくらいのことは当たり前じゃないか」と思いました。でも、これは非常に不思議です。太陽と月はまずもって大きさが違います。比較にならないほどです。ところが、太陽、月、そして地球が一直線上に並ぶ。太陽の大きさがある距離によってズーッと小さく見えて、月と同じ大きさにならないとあの皆既日食は起こらないのです。月がズーッと小さかったら太陽は全部隠れきれません。だから、太陽・月・地球というこれがどの位置にあるか、これは実に難しい計算です。これを神様がきちっと決めなさったから出来ているのです。そんなのは不思議でも何でもないのです。神様がなさるのですから、それがちょうど重なり合うような位置関係。太陽の直径と月の直径と、それから太陽と月との距離、月と地球との距離、この比率がきちっとならないとピタッと一つに合わないのです。それを見て「オー、すごいな!」と言うでしょう。「その神様があなたを生かしていらっしゃるのですよ。あなたが今日あるのも、この神様のわざではないですか」、これを忘れるのです。太陽が欠けることだけを見て、「オー、すごいな!すごいな!」と言いながら、自分の人生を「何だ、これは!おれはこんな中で苦しんでいる」「私はこんなひどい目に遭っている」「私はこうだから……」「私はああだから……」「何でこうなったのだろうか」「どうして私の人生はこうだろうか」とグチャグチャ言いながら、空を見て、「あー、すごいな!」なんて、矛盾していないでしょうか。向こうは神様、こっちは私と思っている。太陽が欠けるのは不思議な神様のわざだと言いながら、自分の生活は私のわざだというところに、人の悲劇があるのです。
ここにありますように、「それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟る」。自分の人生、自分の日々の生活、一日一日生きていること自体が、あの太陽が欠けるどころか、もっとすごい神様の深い、深いご計画と御思いの中にいるのだと、これを驚かなくて、いったい何をしてびっくり仰天することがあるでしょうか。まず自分自身が今日ここに生きていること、ここまで地上の人生を生かされてきたこと、その間いろいろなことがあったに違いない。皆さんも振り返ってみたら決して平坦ではなかった。山あり谷あり、いろいろなトンネルの中、これで自分はおしまいかと思うような中を通ったかもしれない。しかし、それを通り抜けて今ここにある。今日ここにこうして存在している。だから、パウロが「我が今の如くなるは、の恩恵(めぐみ)に由るなり」(Ⅰコリント15:10文語訳)と告白しました。今日ここにあるのはただ一重に神様の恵みによるのですと言うほかなかったのです。自分の努力でも、自分の熱心な業によるのでもなければ、知恵によるのでもない。ただ一重に神様の憐れみにより、神様の恵みによって、今私はここに生かされている。私たちはただ天体で太陽が欠けるだけのことすら、「オー、すごいな」なんて言いますが、もっと毎日を驚くべきではないでしょうか。朝起きて、「私は今日も生きているのか。これは何とすごいことではないか。神様はこうやって私を生かしてくださっている。」と驚き、「これはもう感謝するしかない」と言って、大きな声で賛美し、感謝していますか。起きるなり、「また今日も、また目がさめてしまった」と、「寝ておけばよかった」とか、「なんなら、永遠に眠らせてもらった方がよかった」とか、そのくらいに思いますが、ここにありますように、「それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟る」者となり、神様が私を造り生かして、今日も創造のわざの中に生かされている証人となりましょう。
詩篇92篇4節に「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います」。神様のみわざと言うのは、何か超自然的な天変異変が起こることではありません。神様のみわざは、私たちが今日ここにあることです。だから「神様なんか、いるものか」と言う人に、「では、私を見てご覧、私がこうやって生きているのは神様以外にないのですよ」と、私たちは言わなければいけない。神様がいらっしゃるからこそ、私はここにあるのであって、もし神様のお許しがなければ、私はとっくに消えていて当然であります。それが今日も神様のわざによって生かされ、健康を与えられ、あるいは時に病気を与えられる。あるいは悲しい出来事にも遭うでしょう。どれもこれも神様によらないものは何もないのです。神様は私たちを喜ばせたり悲しませたり、失望させてみたり、あるいは有頂天にさせてみたり、いろいろと私たちを取り扱ってくださる。わざを行ってくださる。それは、私たちが楽しむためです。神様の手に握られて上げられたり、下ろされたりしているわけですから楽しんだらいい。ところが、それを楽しめないのはなぜか? それは、「自分が!」「私が!」と思っているからです。「思いどおりにいかない」「そんなはずじゃなかった」と。それは当たり前です。そんなはずでないのは当たり前で、神様が備えられるのです。神様のわざなんだから、私たちに分からなくて当然であります。だから、今日の一日をどのように神様が備えられるのか分かりません。明日があるかどうかも分かりません。しかし、神様は私たちを楽しませようとしてくださっている。どうぞ、私たちはすべてのものを造り生かし、力あるみ手をもって支えてくださる神様のわざの中にあること、そして、そのわざを楽しむ者としてくださるのです。ですから、「主よ、あなたのみわざはいかに大いなることでしょう」と。神様のわざは大いなること、言うなら、私たちが計り知ることができません。
「詩篇」139篇16節から18節まで朗読。
16節に「あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた」。神様は、姿かたちがなかったとき、既に私たちのこの地上にある日々を全部ご存じで、その一日一日を書に記してくださった。ちゃんとシナリオを書いてくださった。出来上がっているというのです。いま私たちは神様が書いてくださったシナリオに従って一日一日を送っているのです。明日のことも、神様の中にはちゃんと分かっている。知らないのは私たちだけです。ひょっとしたら、皆さんの終わりが明日に決められている人もいるかもしれないし、その先もあるかもしれない。明日、病気になる人がいるかもしれない、これは分かりません。でも、神様はそのすべての事を書に記して、17節に「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう」。神様がご計画してくださったことこそが、私には本当に尊い大切な恵みだと、この詩篇の記者は歌っているのです。私たちも明日のことは分かりませんが、明日を知っている主がおられる。神様が私たちのために備えてくださることこそが、最善にして最高の恵みなのだと信じていきたい。そして「その全体は何と広大なことでしょう」、私たちはそれを計り知ることができません。18節に「わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い」。神様がなさるみわざは、千変万化、数多いものだと語られています。私たちでは到底計り知れないのであります。だから、私どもはお手上げ、神様の手に自分を委ねて任せていく以外にない。そうするとき、神様は御心のままに私たちを持ち運んでくださる。そして、私たちを楽しませてくださる。だから、目に見える問題や事柄、これで失望落胆しそうになりますが、そのことの背後にすべてをつかさどっておられる神様を見ていきたい。その御方に目をとめておきたい。しかも、神様は私たちを限りない大きなご愛をもって、取り扱ってくださっている。
詩篇92篇5節「主よ、あなたのみわざはいかに大いなることでしょう」。誠に神様は大きな恵みをもって私たちを楽しませてくださる。「愚かな者はこれを悟ることができません」とありますから、私たちは賢くなってそのことを悟って、今日も神様の手のわざの中にありますと、一日一日を過ごし、そして七日目、主の日、主のよみがえりの日、私たちはご愛の中に取り込んでくださった主の前に近づいて一週間の恵みを感謝する。これが礼拝、そしてまた次なる新しい一週間の旅路を導き守ってくださるのはどなたかということをはっきりと確認して出発するのが礼拝です。
だから、この礼拝は安息日であると同時に主のよみがえりの日であり、私たちの救いの日であります。それはまた私たちの日々の生活の中心です。これをいい加減にしたら、私たちは神様を失ってしまうのです。聖日、聖なる日、礼拝を命懸けで守るのはそのためです。自分の思い通りになろうと、違ったことが起ころうと、どれもこれも一つ一つ主のわざですと、神様が与えてくださる恵みを感謝しつつ、主を褒めたたえて、喜び感謝して生きようではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。