「ホセア書」6章1節から6節まで朗読。
1節「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」。
この記事は預言者ホセアを通して語られた神様の深いご愛の御思い、神様が私どもに願ってくださることであります。5章15節には「わたしは彼らがその罪を認めて、わが顔をたずね求めるまで、わたしの所に帰っていよう」と語られています。ホセアの時代、またイザヤの時代もそうですが、神の選びの民であったイスラエルが、真(まこと)の神様を離れて、様々な偶像、神ならぬものを神として拝むようになっていました。そのことに神様は大変心を痛めて、ご自分のものであるイスラエルの民が神様に立ち返ることを切に願ったのです。そのために神様は繰り返し様々な問題や事柄をイスラエルの民に起こされました。それによって彼らが「自分が悪かった」と悔い改めて神様に帰ることを願ったのです。しかし、なかなか彼らはそうならない。
この時もホセアという一人の預言者を用いて、彼らに警告なさいました。預言者ホセアに神様はご自分がどんな思いでいるか、実体験させるために、あえてホセアに一人の女の人と結婚をさせます。しかし、その女の人がほかの男性を求めて、あちらこちらとふしだらな歩みをします。ホセアに自分の愛する者がほかのものに心を寄せることがどれほど苦しいものであるかを味あわせなさったのです。それと同じように、イスラエルの民が、真の神様以外のものに心を寄せることを、ねたましく思うほどに、民の心を求めておられることをホセアに体験させました。ほかの男性に心を寄せる女性をあえて迎えて、罪を赦して、自分の妻として処遇する、扱うことを神様から求められたのです。
まさに、私たちに対しての神様の御思いもそのような思いです。神様は私たちに神を神として仕える者となることを切に願っておられます。ですから、神様はいろいろな問題や事柄を起こしなさいます。というのは、それによって私たちがもう一度神様に帰るようにと願うからです。ところが、この時のイスラエルの民は誠にかたくなで、頑固で、一向に神様の声に従おうとしない。ですから、5章15節に言われているように、「わたしは彼らがその罪を認めて、わが顔をたずね求めるまで、わたしの所に帰っていよう」。神様はあれこれと言うことはやめよう。イスラエルの民に干渉することはもうしない。きっと彼らは行き詰るに違いない。それまで放っておくしかない。これが神様の御心です。だからといって、イスラエルの民を捨てたわけではない。何としてもわたしのところに帰ってきてほしいと思うゆえに、様々な干渉をしておられた。いろいろな事によって彼らの心を揺さぶって、目を覚まさせようとなさったのですが、一向にその効果がない。だから、しばらく黙っていよう、手を引いておこうと神様は決めなさった。そして、5章15節以下に「彼らは悩みによって、わたしを尋ね求めて言う、6:1 『さあ、わたしたちは主に帰ろう』」。イスラエルの民が悩みに遭い、苦しみに遭い、どうにもならなくなった時、きっとこう言うだろうというのが、6章1節以下です。これは神様が私たちに対して期待している事です。そうなってほしいのです。悩みに遭うその時にこそ、わたしを尋ね求める。「そうだった。私たちは今までこんなに恵まれていたのに、それに気がつかなかった。もう一度、神様、あなたの許(もと)に帰らせてください」と、神様を呼び求める者になるに違いない。これが神様の願っていることです。
6章1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう」。このように神様はいつでも私たちが主に立ち返ることを求めておられるのです。いろいろな問題に遭う時、悩みや苦しみに遭う時、だからこそ、まさに神様のご愛の呼び掛けの時なのです。私どもは苦しみに遭いたくない、つらい思いをしたくない、そう願います。しかし、私たちはあまりにもかたくなです。悟りのない、うなじのこわい民だと、神様はイスラエルの民のことを語っています。(エレミヤ7:26、17:23、19:15文語訳)「項(うなじ)の強(こわ)い」とは、手綱を引かれた馬やロバが引っ張っても「ウー」と首を反対方向へ向ける。その強さのために手綱を持っている人が飛ばされてしまうぐらいです。引っ張られても、素直に首を動かさない。「うなじ」とは、首筋です。ここがカチカチに固まっている。そのような私たちですから、神様は手を焼いておられる、なすすべがない。だから、いろいろな問題の中でもう一度主に帰ろうではないかと、立ち返ってくれるようにと、切に願っておられるのです。私どもは日々の生活の中で、事のないことを願います。物事が順調に、思いどおりに進んでいくことが幸いだと思いやすい。もちろん、それはそれで誠に幸いなことだと思います。「私は何も悩みがないから、神様から捨てられたのかな。神様は私のことを見捨てたから干渉しないのか」というのではありません。それは神様の憐(あわ)れみであり、恵みです。だから、いよいよ主のご愛と恵みに感謝して、事がなければないだけ、なお一層神様を求めて、神様の前に心と思いを整えていく。これがなすべきことです。ところが、私たちは愚かですから、順調に事が進む時、物事がうまくいく時、思いどおり願いどおり進んでいくと、気がつかないうちに神様を離れる。意識はしません。でも、心が神様からずれていく。病気になったり、子供や家族に問題があって、夜も眠られないくらいに悩む時、祈らなければおれません。ほかに方法がない。助けてくれる人もない。これはもう祈るしかない。
ある時、ひょっこりと知人の子が私どものところへやって来ました。「久しぶりやね、どうしているね?」と「いや、いま仕事探しで走り回っているけれども、なかなか仕事がない。どうしたものだろうか」と。食事をさせていろいろと話を聞いてみると、あちらの話、こちらの話があっても断られる。「もうこうなったら、神頼みしかない」と言ったのです。すると家内が「あなた、どこに来てそんなことを言っているの!ここは教会よ!」と。「初めからここに来なければ。どうして神様の所へ来ないの」。本当にそうなのです。“苦しい時の神頼み”という言葉がありますが、これは恵みだと思うのです。世間では“苦しい時の神頼み”、問題がある時、用事のある時しか行かないのは申し訳ない。普段からお付き合いがないのに、普段は疎遠にしているのにこんな時ばかり……、という意味で“苦しい時の神頼み”という言葉をネガティブ、否定的な悪い意味で使いやすいですが、クリスチャンにとっては、これは最高の恵みです。苦しい時こそ神に頼まなくて、いつ頼みますか。だから、その子に「これは神様に頼まなければ、お祈りしなければ駄目!」と言って、一緒にお祈りして、「さぁ、どうするか」と。それから仕事を探したらすぐに決まったのです。そして、それは神様の与えてくださった道だと思うのです。苦しい時の神頼みは大いに役に立ったわけです。
だから、どんな時にでも「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と主に帰ること。まさにここです。すぐ前の15節に「彼らは悩みによって、わたしを尋ね求めて言う」とあるように、まさに“苦しい時”ですよ。「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、神頼みをしなさいと神様は求めている。だから、まずなすべきことは、どんなことの中にあっても神様の前に帰ること。神様の前に自分の思いを整え、心を整えていくこと、これが大切です。そうしますならば、1節に「主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし」とあります。神様が悩みを与えられると同時に、その悩みを取り除くのも神様。それを解決することができるのも神様です。「わたしたちを打たれたが」と、神様は私たちを打たれることがある。しかし、主に帰るならば、神様の許(もと)に立ち返るならば、「包んでくださる」。その打たれた傷を癒し包んで、新しくしてくださる。これは確かであります。ですから、どんな時にもいちばん大切なことはここだと思います。人生、何が大切といって、神様に対して自分がどういう姿勢で今あるかを問わなければならない。先ほど申し上げたように、事が順調に行きますと、我が世の春と言いますか、うれしくて鼻歌の一つも出てくる。それは幸いです。そうやって礼拝にも各集会にも励むし、祈ることも欠かさないし、聖書を日々読んで、感謝賛美をしているに違いない。しかし、それはあくまでも外側の事柄です。神様が求め給うのは私たちの心です。確かに礼拝にもやって来る、各集会にも励んで来る。しかし、悩みの時に礼拝に出る時と、物事が順調の時とは違うでしょう。これは致し方ないくらいにはっきりしています。物事が順調の時、礼拝に来ても「あの人はあんな洋服を着ている。似合うな」とか「あの髪型は新しいな、どこの美容室かしら」とか、そんなことを考えながら礼拝に出ている。それで帰る時には、「さぁ、今からどこへ行ってお昼を食べようかしら」と思う。だからといって、礼拝を欠いたわけではない。ちゃんと体はここに座っている。また各集会も欠かさない。しかし、そこに心がない。これは神様が最も嘆かれる事態です。これは私たちにとって信仰の危篤状態です、病気です。そういう自覚を持っているか?案外、気がついていない。調子がいいと、気がつかないうちにウキウキとして、飛び回るのです。しかし、それは危ない。神様がいちばん「危険だよ」と警告なさる時です。ですから、常に反省、省(かえり)みて、自分が今神様の前にどういう者であるかを点検していかなければならない。そして、神様が私たちに求めておられることは何か?それは一つです。私たちが神様だけに心を向けること。
「ヤコブの手紙」4章5節から10節までを朗読。
5節に「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」。ここに、神様は私たちを愛してくださっている。そのご愛は「ねたむほどに」と。神様のご愛は、私たちが神様と一つ思いになること、神様だけに心を向けることを願っていらっしゃる。愛とは本来そういうものです。だから、聖書を読むと、「すべての人を愛しなさい」と語られます。キリスト教は愛の宗教、万民を愛する、博愛主義などと言いますが、「すべての人を愛する」人は、すべての人を愛していないということと同義であります。すべての人など愛せません。私たちは一人の人しか愛せないのです。だから「私はすべての人を愛していますよ」と言う人は「その人は誰も愛していないんだな」と理解できます。神様もそうです。神様はすべての人を愛しているという意味で、「わたしはあなた方を愛している」と言われるのではなく、神様が私たちを愛してくださるのは、わたしを愛してくださっているのです。私一人なのです。「神様は皆を愛していらっしゃる。その中の隅っこでいいから、ちょっと神様、愛の欠けらでも私に注いでください」という、そんな愛ではない。なぜなら、イエス様がたとえで語っています。百匹の羊がいてその一匹が失われた時に、九九匹を置いたまま、羊飼いはその失われた一匹を求めて行く。神様のご愛は一人に対するご愛なのです。失われた、たった一つの金貨を捜し求めて、それを見出す。神様が人類を、すべての人を、だれを愛しているか、そんなことは分かりません。ただ「神様は私を愛してくださっている」と言えます。それを信じなければ「神は愛である」とは言えないのです。「いや、神様はあの人もこの人も皆愛しているのだ。私ももちろん愛されているけれども、皆も愛している」という人にとって、その人は神様のご愛を徹底して自覚できているか、知っているかというと、知らない人です。ほかの人はどうか分からない。あの人、この人を、神様は愛しているかどうか、それは分からない。ただはっきりしているのは「知りかつ信ず、神は愛なり」。「私は知っている。神様は私を命懸けで愛してくださっています」ということに尽きるのです。まず、このことがしっかりと私たちの内になければ愛を知ることができません。
5節に「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」。ここに「わたしたち」と言われると、たくさんの中の一人、one of them という、多くの人の中の一人だという表現がされていますが、決してそうではなくて、私の内に神様が与えてくださった霊、神の霊を愛しておられるのです。私たちの人柄がいいからとか、取り柄があるから、神様は愛してくださるのではなくて、私たちが神にかたどられて、神の霊に生かされているがゆえにこそ、神様は愛してやまないのであります。そして、私を掛け替えのないものとして、この宇宙を捨ててでも、どんなものと取り替えてでも惜しくない。「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ 43:4)と言われます。私のことなのです。だから、厚かましいぐらいに「神様は私を愛してくださっている」と、言い切れる者でありたいと思うのです。「神様は皆を愛していらっしゃる。私もその中の一部分、今日も加えられているだろうか。ひょっとしたら今日は外されたかも知れない。こんなにあれこれと思わないことばかり起こるから、神様は私のことを愛の外側に置かれたかな」と。そんなことはない。もっと自信を持って、厚かましく、神様は私を愛してくださっていると確信してください。ねたむほどに愛しておられる。これが、むなしい言葉だと思うのか。そうではないのです。
6節以下に「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う』とある」。「へりくだる者」、謙そんになる者に神様は恵みを与えてくださる。だから、「ホセア書」にありますように、「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、悩みに遭い、苦しみに遭って、どうにもならなくなって打ちひしがれて謙そんになる。私たちが謙そんになる時は、そういう時です。物事の調子がいい時、謙そんぶることはできますけれども、謙そんにはならない。私たちが病の中に置かれたり、どうにもならない問題の中に置かれて「神様、私は何もできません。お手上げです」と言う時、人は謙そんで、また美しいのです。だから、ここに「そういう人に恵みを賜う」、神様は恵んでくださる。だから、7節に「そういうわけだから、神に従いなさい」また8節に「神に近づきなさい」とも言われているのです。「神に近づきなさい」、「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、まず神様に帰り、神様に近づく。これは私たちのほうからです。どちらが先かというと、私たちがまず神様に近づかなければ、神様は私たちに近づいてくださらない。私たちが謙そんになって、「こうなったら、神様に頼る以外にありません」と、この世の方策は尽きて、「私の頼むのは、神様、あなた以外にありません」と、本当にへりくだる時、心を一つに、思いを一つにしていく時、神様は私たちに恵んでくださる。ここにありますように「あなたがたに近づいて下さる」。神様に近づくならば、神様も私たちのほうに近づいて、ご自分の臨在、神様がそこにいますことを鮮やかに教えてくださる。だから、まず私たちの側から神様を求めて神に帰る。これが大切です。だから、どんなことになっても主に立ち返ること。そして、その思いが謙そんにへりくだった者に自分はなっているかどうか?神様の前に本当に謙そんであるか?このことを点検していただきたい。そして、神様以外に頼るべきものはない者となっていく。これが私たちに神様が願っておられることです。ですからその後に「罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ」と。「二心の者」、神様以外に何ものかを神とする思い。お金がある、あるいは親がいるとか、子供がいるとか孫がいるとか、あるいはあの友達がいるとか、あるいは自分の持っている学歴や経歴や、あるいは自分の身に付けた技能とか、そういうものを頼りとして「私にはこれがあるから大丈夫」と、神様以外に心を寄せることです。これは神様が最も嫌われる「二心」、心が二つに分かれる。二つばかりか三つも四つも、ある人は10も20も千々に乱れてしまう。これは神様が最も嫌われる事柄です。
だから、9節に「苦しめ、悲しめ、泣け」と、どうでしょうか?私どもは苦しまないように、悲しまないように、泣かないようにおりたい。ところが、神様はそうではない。「苦しめ」とおっしゃる。「どうぞ、皆さん、苦しんでください」というのです。「悲しめ」と「泣け」というのです。しかもその後に一歩進んで、「笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」というのです。私どもは、悲しいからこそうれしくなりたい、喜びたい、楽しみたいと、安心を得たい。でもそうではない。「そういうものをぶち壊せ」と。というのは、私たちが笑い、喜ぶのは幸いですが、そこでもし神様を離れるのだったら、そんな喜びや楽しみは無いがいい。それは邪魔者です。むしろ、それをぶち壊して、泣く状態、泣かなければおられないような状態、悲しまなければならないような状況に置かれて人がへりくだるならば、そのほうがはるかに良い。だからイエス様はそのように言われます。五体満足で地獄に行くよりは、片手がなくなる、片足がなくなる、片目がなくなってでも天国にいるほうが幸いではないかと(マタイ5:29,30 18:9 マルコ29:45,47)。ところが、「私は五体満足で地獄へ行きたい」と言う人が案外多いのです。神様を離れる思いがあるならば、「私の手が失われてもいい。あるいは私が寝たきりになっても、そこで神様に結びつくのだったら、私の老後は寝たきりで認知症になろうと構いません」と言えますか? 「いや、何とかそこは……」と、逃げ腰になる。どんなものを失ってでもいいから、神様に立ち返ることができて、神様に結び付くことができたら、これはいのちです。だから、神様は私たちに絶えずそのことを求めておられる。10節に「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」。繰り返して「へりくだる者」「へりくだれ」と言われます。神様の前に謙そんになって心を一つにする。「神様以外に私の頼るべきものはありません」と、一つ心になる。
「ヤコブの手紙」1章6節から8節までを朗読。
6節に「疑わないで、信仰をもって願い求めなさい」。「信仰」とは、一途に、一つ心になって、神様のみに信頼することです。疑う人は「いや、神様もいいだろうけれども、あっちにも保障をしておかなければ、保険を掛けとこう。こっちにも頼るものを置いておこう」と、あちらこちらタコ足のごとく手を掛け、足を掛ける。そんなことをしていると、「風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている」と。海は休みなく波が上下していて定まりがありません。疑う人はそういう人なのだと。確かに言われてみると、いつもそうですね。「こうしようと決めたけれども、いいやろうか、やっぱりこっちにしようか。これがいいやろうか」。あの人がこう言うと「そうしようかしら……」と。そうではなく、一つ心で神様だけに心を定めていくことです。そうすると、ドシッと安定します。8節にありますように「二心の者であって、そのすべての行動に安定がない」。だから、常にどんなことがあっても「天にも地にも私の慕うべきものは、あなた以外にありません」と、神様だけに信頼していくと、神様は喜ばれる。それを求めておられる。「十戒」のいちばん最初のいましめは「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト 20:3)。これは神様が切に願っていることです。この神様だけに私たちが心を向けること、全身全霊を懸けてこの神様に信頼していくこと。これが私たちのなすべきただ一つの道、またそこにこそ私たちが神様から恵まれる、神様の恵みにあずかるただ一つの道が備えられているのです。
「エレミヤ書」29章10節から14節までを朗読。
ホセアに語られたように、すべてのものから神様は手を引かれて、「したいようにしてみたらどうだ。そのうち行き詰るから」と待っておる。それでも彼らは悔い改めなかったために、とうとうバビロンという大国を興(おこ)して、彼らを捕囚の民となさいました。捕虜にしてしまうのです。ユダの国は全部廃墟(はいきょ)となってしまう。大変な苦しみを受けてバビロンで異邦人の支配の下に身を低くすることを求められました。そして70年後、神様はもう一度彼らを新しく作り直して、廃墟になってしまったそのエルサレムを回復すると約束なさいました。11節に「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」。わたしがあなた方のことを初めから終わりまでちゃんと計画を持って導いてきたものであると語っています。そして、決して災いを与え、悲しみ、嘆き、失望、落胆させるためではないのだ、むしろ「将来を与え、平安を与え、希望を与えるためだ」と。神様は私たちを悲しみのままで終わらせない。失望のままで終わることのないように、必ず答えてくださる。だから「主に帰りなさい」と、13節に「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば」と。「一心に」ですよ。一つ心。ただ神様のみを求めて近づいてくるならば「わたしに会う」と。神様はご自分をあらわしてくださる。「ここに主がいます。誠にこれは神様のわざです」と、言わざるを得ないような喜びを与え、主を褒めたたえる者と変えてくださる。だから、私たちに神様が求められることは、ただ一つ、潔(きよ)い思いをもって、一つ思いをもって、ただ神様のみに結びついてくれるようにと、求めておられるのです。
ですから、ホセア書6章1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」。神様は必ずご愛をもって私たち一人一人に答えてくださる御方です。信頼する者に答えてくださる。私が右代表で信頼していますから、家族もひとつよろしくというのは駄目です。信頼するあなたに神様は答えてくださる。「そんな、私だけだなんて、だったら、私も遠慮します」と言う方がいいますが、それは後になって後悔するだけです。どうぞ、まず自らを神様に真剣に向き合って、主を求めて、主のいのちを力とご愛と恵みをしっかりと受け止めようではありませんか。
まず私が救われること、まず一人一人が神様にしっかりと一つ心で結びつくこと。それによって神様は「あなたもあなたの家族も救われます」(使徒 16:31)と約束されます。神様は私たちの思いを、願いを知っていらっしゃいます。だから、その神様に信頼していくのです。私が何とかしようとしてもできないのですから、まず「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、いつも事ある度ごとに「いま私は本当にこの神様だけに信頼しているだろうか。心がほかに向いていないだろうか」と、自分の心をしっかりと神様に向けて信頼していこうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
1節「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」。
この記事は預言者ホセアを通して語られた神様の深いご愛の御思い、神様が私どもに願ってくださることであります。5章15節には「わたしは彼らがその罪を認めて、わが顔をたずね求めるまで、わたしの所に帰っていよう」と語られています。ホセアの時代、またイザヤの時代もそうですが、神の選びの民であったイスラエルが、真(まこと)の神様を離れて、様々な偶像、神ならぬものを神として拝むようになっていました。そのことに神様は大変心を痛めて、ご自分のものであるイスラエルの民が神様に立ち返ることを切に願ったのです。そのために神様は繰り返し様々な問題や事柄をイスラエルの民に起こされました。それによって彼らが「自分が悪かった」と悔い改めて神様に帰ることを願ったのです。しかし、なかなか彼らはそうならない。
この時もホセアという一人の預言者を用いて、彼らに警告なさいました。預言者ホセアに神様はご自分がどんな思いでいるか、実体験させるために、あえてホセアに一人の女の人と結婚をさせます。しかし、その女の人がほかの男性を求めて、あちらこちらとふしだらな歩みをします。ホセアに自分の愛する者がほかのものに心を寄せることがどれほど苦しいものであるかを味あわせなさったのです。それと同じように、イスラエルの民が、真の神様以外のものに心を寄せることを、ねたましく思うほどに、民の心を求めておられることをホセアに体験させました。ほかの男性に心を寄せる女性をあえて迎えて、罪を赦して、自分の妻として処遇する、扱うことを神様から求められたのです。
まさに、私たちに対しての神様の御思いもそのような思いです。神様は私たちに神を神として仕える者となることを切に願っておられます。ですから、神様はいろいろな問題や事柄を起こしなさいます。というのは、それによって私たちがもう一度神様に帰るようにと願うからです。ところが、この時のイスラエルの民は誠にかたくなで、頑固で、一向に神様の声に従おうとしない。ですから、5章15節に言われているように、「わたしは彼らがその罪を認めて、わが顔をたずね求めるまで、わたしの所に帰っていよう」。神様はあれこれと言うことはやめよう。イスラエルの民に干渉することはもうしない。きっと彼らは行き詰るに違いない。それまで放っておくしかない。これが神様の御心です。だからといって、イスラエルの民を捨てたわけではない。何としてもわたしのところに帰ってきてほしいと思うゆえに、様々な干渉をしておられた。いろいろな事によって彼らの心を揺さぶって、目を覚まさせようとなさったのですが、一向にその効果がない。だから、しばらく黙っていよう、手を引いておこうと神様は決めなさった。そして、5章15節以下に「彼らは悩みによって、わたしを尋ね求めて言う、6:1 『さあ、わたしたちは主に帰ろう』」。イスラエルの民が悩みに遭い、苦しみに遭い、どうにもならなくなった時、きっとこう言うだろうというのが、6章1節以下です。これは神様が私たちに対して期待している事です。そうなってほしいのです。悩みに遭うその時にこそ、わたしを尋ね求める。「そうだった。私たちは今までこんなに恵まれていたのに、それに気がつかなかった。もう一度、神様、あなたの許(もと)に帰らせてください」と、神様を呼び求める者になるに違いない。これが神様の願っていることです。
6章1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう」。このように神様はいつでも私たちが主に立ち返ることを求めておられるのです。いろいろな問題に遭う時、悩みや苦しみに遭う時、だからこそ、まさに神様のご愛の呼び掛けの時なのです。私どもは苦しみに遭いたくない、つらい思いをしたくない、そう願います。しかし、私たちはあまりにもかたくなです。悟りのない、うなじのこわい民だと、神様はイスラエルの民のことを語っています。(エレミヤ7:26、17:23、19:15文語訳)「項(うなじ)の強(こわ)い」とは、手綱を引かれた馬やロバが引っ張っても「ウー」と首を反対方向へ向ける。その強さのために手綱を持っている人が飛ばされてしまうぐらいです。引っ張られても、素直に首を動かさない。「うなじ」とは、首筋です。ここがカチカチに固まっている。そのような私たちですから、神様は手を焼いておられる、なすすべがない。だから、いろいろな問題の中でもう一度主に帰ろうではないかと、立ち返ってくれるようにと、切に願っておられるのです。私どもは日々の生活の中で、事のないことを願います。物事が順調に、思いどおりに進んでいくことが幸いだと思いやすい。もちろん、それはそれで誠に幸いなことだと思います。「私は何も悩みがないから、神様から捨てられたのかな。神様は私のことを見捨てたから干渉しないのか」というのではありません。それは神様の憐(あわ)れみであり、恵みです。だから、いよいよ主のご愛と恵みに感謝して、事がなければないだけ、なお一層神様を求めて、神様の前に心と思いを整えていく。これがなすべきことです。ところが、私たちは愚かですから、順調に事が進む時、物事がうまくいく時、思いどおり願いどおり進んでいくと、気がつかないうちに神様を離れる。意識はしません。でも、心が神様からずれていく。病気になったり、子供や家族に問題があって、夜も眠られないくらいに悩む時、祈らなければおれません。ほかに方法がない。助けてくれる人もない。これはもう祈るしかない。
ある時、ひょっこりと知人の子が私どものところへやって来ました。「久しぶりやね、どうしているね?」と「いや、いま仕事探しで走り回っているけれども、なかなか仕事がない。どうしたものだろうか」と。食事をさせていろいろと話を聞いてみると、あちらの話、こちらの話があっても断られる。「もうこうなったら、神頼みしかない」と言ったのです。すると家内が「あなた、どこに来てそんなことを言っているの!ここは教会よ!」と。「初めからここに来なければ。どうして神様の所へ来ないの」。本当にそうなのです。“苦しい時の神頼み”という言葉がありますが、これは恵みだと思うのです。世間では“苦しい時の神頼み”、問題がある時、用事のある時しか行かないのは申し訳ない。普段からお付き合いがないのに、普段は疎遠にしているのにこんな時ばかり……、という意味で“苦しい時の神頼み”という言葉をネガティブ、否定的な悪い意味で使いやすいですが、クリスチャンにとっては、これは最高の恵みです。苦しい時こそ神に頼まなくて、いつ頼みますか。だから、その子に「これは神様に頼まなければ、お祈りしなければ駄目!」と言って、一緒にお祈りして、「さぁ、どうするか」と。それから仕事を探したらすぐに決まったのです。そして、それは神様の与えてくださった道だと思うのです。苦しい時の神頼みは大いに役に立ったわけです。
だから、どんな時にでも「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と主に帰ること。まさにここです。すぐ前の15節に「彼らは悩みによって、わたしを尋ね求めて言う」とあるように、まさに“苦しい時”ですよ。「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、神頼みをしなさいと神様は求めている。だから、まずなすべきことは、どんなことの中にあっても神様の前に帰ること。神様の前に自分の思いを整え、心を整えていくこと、これが大切です。そうしますならば、1節に「主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし」とあります。神様が悩みを与えられると同時に、その悩みを取り除くのも神様。それを解決することができるのも神様です。「わたしたちを打たれたが」と、神様は私たちを打たれることがある。しかし、主に帰るならば、神様の許(もと)に立ち返るならば、「包んでくださる」。その打たれた傷を癒し包んで、新しくしてくださる。これは確かであります。ですから、どんな時にもいちばん大切なことはここだと思います。人生、何が大切といって、神様に対して自分がどういう姿勢で今あるかを問わなければならない。先ほど申し上げたように、事が順調に行きますと、我が世の春と言いますか、うれしくて鼻歌の一つも出てくる。それは幸いです。そうやって礼拝にも各集会にも励むし、祈ることも欠かさないし、聖書を日々読んで、感謝賛美をしているに違いない。しかし、それはあくまでも外側の事柄です。神様が求め給うのは私たちの心です。確かに礼拝にもやって来る、各集会にも励んで来る。しかし、悩みの時に礼拝に出る時と、物事が順調の時とは違うでしょう。これは致し方ないくらいにはっきりしています。物事が順調の時、礼拝に来ても「あの人はあんな洋服を着ている。似合うな」とか「あの髪型は新しいな、どこの美容室かしら」とか、そんなことを考えながら礼拝に出ている。それで帰る時には、「さぁ、今からどこへ行ってお昼を食べようかしら」と思う。だからといって、礼拝を欠いたわけではない。ちゃんと体はここに座っている。また各集会も欠かさない。しかし、そこに心がない。これは神様が最も嘆かれる事態です。これは私たちにとって信仰の危篤状態です、病気です。そういう自覚を持っているか?案外、気がついていない。調子がいいと、気がつかないうちにウキウキとして、飛び回るのです。しかし、それは危ない。神様がいちばん「危険だよ」と警告なさる時です。ですから、常に反省、省(かえり)みて、自分が今神様の前にどういう者であるかを点検していかなければならない。そして、神様が私たちに求めておられることは何か?それは一つです。私たちが神様だけに心を向けること。
「ヤコブの手紙」4章5節から10節までを朗読。
5節に「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」。ここに、神様は私たちを愛してくださっている。そのご愛は「ねたむほどに」と。神様のご愛は、私たちが神様と一つ思いになること、神様だけに心を向けることを願っていらっしゃる。愛とは本来そういうものです。だから、聖書を読むと、「すべての人を愛しなさい」と語られます。キリスト教は愛の宗教、万民を愛する、博愛主義などと言いますが、「すべての人を愛する」人は、すべての人を愛していないということと同義であります。すべての人など愛せません。私たちは一人の人しか愛せないのです。だから「私はすべての人を愛していますよ」と言う人は「その人は誰も愛していないんだな」と理解できます。神様もそうです。神様はすべての人を愛しているという意味で、「わたしはあなた方を愛している」と言われるのではなく、神様が私たちを愛してくださるのは、わたしを愛してくださっているのです。私一人なのです。「神様は皆を愛していらっしゃる。その中の隅っこでいいから、ちょっと神様、愛の欠けらでも私に注いでください」という、そんな愛ではない。なぜなら、イエス様がたとえで語っています。百匹の羊がいてその一匹が失われた時に、九九匹を置いたまま、羊飼いはその失われた一匹を求めて行く。神様のご愛は一人に対するご愛なのです。失われた、たった一つの金貨を捜し求めて、それを見出す。神様が人類を、すべての人を、だれを愛しているか、そんなことは分かりません。ただ「神様は私を愛してくださっている」と言えます。それを信じなければ「神は愛である」とは言えないのです。「いや、神様はあの人もこの人も皆愛しているのだ。私ももちろん愛されているけれども、皆も愛している」という人にとって、その人は神様のご愛を徹底して自覚できているか、知っているかというと、知らない人です。ほかの人はどうか分からない。あの人、この人を、神様は愛しているかどうか、それは分からない。ただはっきりしているのは「知りかつ信ず、神は愛なり」。「私は知っている。神様は私を命懸けで愛してくださっています」ということに尽きるのです。まず、このことがしっかりと私たちの内になければ愛を知ることができません。
5節に「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」。ここに「わたしたち」と言われると、たくさんの中の一人、one of them という、多くの人の中の一人だという表現がされていますが、決してそうではなくて、私の内に神様が与えてくださった霊、神の霊を愛しておられるのです。私たちの人柄がいいからとか、取り柄があるから、神様は愛してくださるのではなくて、私たちが神にかたどられて、神の霊に生かされているがゆえにこそ、神様は愛してやまないのであります。そして、私を掛け替えのないものとして、この宇宙を捨ててでも、どんなものと取り替えてでも惜しくない。「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ 43:4)と言われます。私のことなのです。だから、厚かましいぐらいに「神様は私を愛してくださっている」と、言い切れる者でありたいと思うのです。「神様は皆を愛していらっしゃる。私もその中の一部分、今日も加えられているだろうか。ひょっとしたら今日は外されたかも知れない。こんなにあれこれと思わないことばかり起こるから、神様は私のことを愛の外側に置かれたかな」と。そんなことはない。もっと自信を持って、厚かましく、神様は私を愛してくださっていると確信してください。ねたむほどに愛しておられる。これが、むなしい言葉だと思うのか。そうではないのです。
6節以下に「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う』とある」。「へりくだる者」、謙そんになる者に神様は恵みを与えてくださる。だから、「ホセア書」にありますように、「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、悩みに遭い、苦しみに遭って、どうにもならなくなって打ちひしがれて謙そんになる。私たちが謙そんになる時は、そういう時です。物事の調子がいい時、謙そんぶることはできますけれども、謙そんにはならない。私たちが病の中に置かれたり、どうにもならない問題の中に置かれて「神様、私は何もできません。お手上げです」と言う時、人は謙そんで、また美しいのです。だから、ここに「そういう人に恵みを賜う」、神様は恵んでくださる。だから、7節に「そういうわけだから、神に従いなさい」また8節に「神に近づきなさい」とも言われているのです。「神に近づきなさい」、「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、まず神様に帰り、神様に近づく。これは私たちのほうからです。どちらが先かというと、私たちがまず神様に近づかなければ、神様は私たちに近づいてくださらない。私たちが謙そんになって、「こうなったら、神様に頼る以外にありません」と、この世の方策は尽きて、「私の頼むのは、神様、あなた以外にありません」と、本当にへりくだる時、心を一つに、思いを一つにしていく時、神様は私たちに恵んでくださる。ここにありますように「あなたがたに近づいて下さる」。神様に近づくならば、神様も私たちのほうに近づいて、ご自分の臨在、神様がそこにいますことを鮮やかに教えてくださる。だから、まず私たちの側から神様を求めて神に帰る。これが大切です。だから、どんなことになっても主に立ち返ること。そして、その思いが謙そんにへりくだった者に自分はなっているかどうか?神様の前に本当に謙そんであるか?このことを点検していただきたい。そして、神様以外に頼るべきものはない者となっていく。これが私たちに神様が願っておられることです。ですからその後に「罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ」と。「二心の者」、神様以外に何ものかを神とする思い。お金がある、あるいは親がいるとか、子供がいるとか孫がいるとか、あるいはあの友達がいるとか、あるいは自分の持っている学歴や経歴や、あるいは自分の身に付けた技能とか、そういうものを頼りとして「私にはこれがあるから大丈夫」と、神様以外に心を寄せることです。これは神様が最も嫌われる「二心」、心が二つに分かれる。二つばかりか三つも四つも、ある人は10も20も千々に乱れてしまう。これは神様が最も嫌われる事柄です。
だから、9節に「苦しめ、悲しめ、泣け」と、どうでしょうか?私どもは苦しまないように、悲しまないように、泣かないようにおりたい。ところが、神様はそうではない。「苦しめ」とおっしゃる。「どうぞ、皆さん、苦しんでください」というのです。「悲しめ」と「泣け」というのです。しかもその後に一歩進んで、「笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」というのです。私どもは、悲しいからこそうれしくなりたい、喜びたい、楽しみたいと、安心を得たい。でもそうではない。「そういうものをぶち壊せ」と。というのは、私たちが笑い、喜ぶのは幸いですが、そこでもし神様を離れるのだったら、そんな喜びや楽しみは無いがいい。それは邪魔者です。むしろ、それをぶち壊して、泣く状態、泣かなければおられないような状態、悲しまなければならないような状況に置かれて人がへりくだるならば、そのほうがはるかに良い。だからイエス様はそのように言われます。五体満足で地獄に行くよりは、片手がなくなる、片足がなくなる、片目がなくなってでも天国にいるほうが幸いではないかと(マタイ5:29,30 18:9 マルコ29:45,47)。ところが、「私は五体満足で地獄へ行きたい」と言う人が案外多いのです。神様を離れる思いがあるならば、「私の手が失われてもいい。あるいは私が寝たきりになっても、そこで神様に結びつくのだったら、私の老後は寝たきりで認知症になろうと構いません」と言えますか? 「いや、何とかそこは……」と、逃げ腰になる。どんなものを失ってでもいいから、神様に立ち返ることができて、神様に結び付くことができたら、これはいのちです。だから、神様は私たちに絶えずそのことを求めておられる。10節に「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」。繰り返して「へりくだる者」「へりくだれ」と言われます。神様の前に謙そんになって心を一つにする。「神様以外に私の頼るべきものはありません」と、一つ心になる。
「ヤコブの手紙」1章6節から8節までを朗読。
6節に「疑わないで、信仰をもって願い求めなさい」。「信仰」とは、一途に、一つ心になって、神様のみに信頼することです。疑う人は「いや、神様もいいだろうけれども、あっちにも保障をしておかなければ、保険を掛けとこう。こっちにも頼るものを置いておこう」と、あちらこちらタコ足のごとく手を掛け、足を掛ける。そんなことをしていると、「風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている」と。海は休みなく波が上下していて定まりがありません。疑う人はそういう人なのだと。確かに言われてみると、いつもそうですね。「こうしようと決めたけれども、いいやろうか、やっぱりこっちにしようか。これがいいやろうか」。あの人がこう言うと「そうしようかしら……」と。そうではなく、一つ心で神様だけに心を定めていくことです。そうすると、ドシッと安定します。8節にありますように「二心の者であって、そのすべての行動に安定がない」。だから、常にどんなことがあっても「天にも地にも私の慕うべきものは、あなた以外にありません」と、神様だけに信頼していくと、神様は喜ばれる。それを求めておられる。「十戒」のいちばん最初のいましめは「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト 20:3)。これは神様が切に願っていることです。この神様だけに私たちが心を向けること、全身全霊を懸けてこの神様に信頼していくこと。これが私たちのなすべきただ一つの道、またそこにこそ私たちが神様から恵まれる、神様の恵みにあずかるただ一つの道が備えられているのです。
「エレミヤ書」29章10節から14節までを朗読。
ホセアに語られたように、すべてのものから神様は手を引かれて、「したいようにしてみたらどうだ。そのうち行き詰るから」と待っておる。それでも彼らは悔い改めなかったために、とうとうバビロンという大国を興(おこ)して、彼らを捕囚の民となさいました。捕虜にしてしまうのです。ユダの国は全部廃墟(はいきょ)となってしまう。大変な苦しみを受けてバビロンで異邦人の支配の下に身を低くすることを求められました。そして70年後、神様はもう一度彼らを新しく作り直して、廃墟になってしまったそのエルサレムを回復すると約束なさいました。11節に「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」。わたしがあなた方のことを初めから終わりまでちゃんと計画を持って導いてきたものであると語っています。そして、決して災いを与え、悲しみ、嘆き、失望、落胆させるためではないのだ、むしろ「将来を与え、平安を与え、希望を与えるためだ」と。神様は私たちを悲しみのままで終わらせない。失望のままで終わることのないように、必ず答えてくださる。だから「主に帰りなさい」と、13節に「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば」と。「一心に」ですよ。一つ心。ただ神様のみを求めて近づいてくるならば「わたしに会う」と。神様はご自分をあらわしてくださる。「ここに主がいます。誠にこれは神様のわざです」と、言わざるを得ないような喜びを与え、主を褒めたたえる者と変えてくださる。だから、私たちに神様が求められることは、ただ一つ、潔(きよ)い思いをもって、一つ思いをもって、ただ神様のみに結びついてくれるようにと、求めておられるのです。
ですから、ホセア書6章1節に「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ」。神様は必ずご愛をもって私たち一人一人に答えてくださる御方です。信頼する者に答えてくださる。私が右代表で信頼していますから、家族もひとつよろしくというのは駄目です。信頼するあなたに神様は答えてくださる。「そんな、私だけだなんて、だったら、私も遠慮します」と言う方がいいますが、それは後になって後悔するだけです。どうぞ、まず自らを神様に真剣に向き合って、主を求めて、主のいのちを力とご愛と恵みをしっかりと受け止めようではありませんか。
まず私が救われること、まず一人一人が神様にしっかりと一つ心で結びつくこと。それによって神様は「あなたもあなたの家族も救われます」(使徒 16:31)と約束されます。神様は私たちの思いを、願いを知っていらっしゃいます。だから、その神様に信頼していくのです。私が何とかしようとしてもできないのですから、まず「さあ、わたしたちは主に帰ろう」と、いつも事ある度ごとに「いま私は本当にこの神様だけに信頼しているだろうか。心がほかに向いていないだろうか」と、自分の心をしっかりと神様に向けて信頼していこうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。