いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(145)「福音とは」

2014年02月22日 | 聖書からのメッセージ
 テモテへの第二の手紙2章8節から13節までを朗読。

 8節に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」。
 イエス様が私たちの罪のために十字架に死んでくださって、墓に葬られなさいました。それは私たちの罪のあがない、罪の赦しのため、罪をきよめて神様の前に義なる者としてくださるためであります。そのイエス様は、次によみがえってくださった。罪を赦されたらそれでいいのではないだろうか。イエス様が私たちの罪のあがないとなって十字架に死んでくださった。それですべて終わりではないか、と思いやすいのですが、神様はもう一つ大きなご計画を持っているのです。

私たちの罪をきよめ、罪を赦してくださった目的は、神と共に生きる者としてくださるためです。神様と共に生きる、いうならば、創世の初め、人が造られてエデンの園に神と共に生きた、神様の創造の最初の目的にかなう者にしようとしているのです。ただ単に、私たちが犯した罪をきよめて、赦してやった。「もうお前は無罪放免、好きなようにやれ」と言われるのではない。もしそのように言われてしまったら、私たちはまた同じ罪を犯し、同じ闇の中に落ちていくしかありません。私どもは自分の力で自分をどうにもできないのです。神様の手に握られるのか、あるいはサタンの支配の中に置かれるのか、絶えず二つに一つの選択が迫られているのです。

よく人は性悪説とか性善説ということを言います。性善説とは、人は本来善なるもの、よいものでありながら、それが事情や境遇やいろいろな社会の仕組みの中で人間がゆがんでしまうのだと、そして悪に走ることになるという考え方です。だから環境を変えさえすれば、あるいはいろいろな条件を変更してやれば、決して人は道を外すことはない。これはある意味で唯物論的な教育観といいますか、そのようなものの中にも根強くあります。

いま日本の多くの子供たちが、いろいろな問題を起こす。家庭も崩壊する、親が親でなくなる。それは「教育が悪い」と言うのです。教育再生会議なんて、政府は主導します。それは置かれた環境が悪かった、これからちゃんとした教育をすれば直るに違いない、良くなるに違いない。政府の考え方は、まさにそのようなところです。環境を良くしていけばいいと。昔の日本もそうだったのです。戦後、物がないから、食うや食わず、その日暮しで食べるものに事欠くから、犯罪が起こる。もう少し社会をよくし、制度をよくし、福祉を行き渡らせれば、人はそもそも善なる者であって決して悪い者ではないという考え方が性善説です。それに対して逆に悲観的な人がいる。性悪説と言われるものです。人間というのはそもそもたちが悪い、これは焼いても煮ても食えない。だから最大限、今ある現状がよければそれでいいではないか、という考えかたです。だからもっと人間は堕落するに違いない、しかし、今のところでとどまっているのは一番よい状態だ、という考え方があります。でも、多くの人たちが考えるのは、性悪説よりも性善説の方に傾きやすいのです。

聖書によると、性悪説でも性善説でもない。神様が私たちを造ってくださった時に、人を神に似たものとして造ってくださった。「ほら見ろ、だから性善説だ」と言う人もいますが、神様のかたちにかたどってくださった、と言うのは、私たち固有の性質ではなくて、神様が私たちに与えられた一つの条件です。神様のかたち、神様の姿、神様のご性質を与えられている。その与えられた性質には付帯条件があります。条件にかなっている間はいいけれども、そうでなければ取り去られるのです。アダムとエバがサタンに誘惑されて神様から離れました。その時、既に神様のかたちとしての性質は壊れてしまっている。サタンの支配の中に置かれている。だから、人は性悪でも性善でもない、ニュートラルといいますか、一つの器なのです。そこに何が入るかによって、その器の性質が変わってくる。神様が私たちのうちに入ってくだされば、私たちは変わることができる。ところが、サタンが私たちを支配している間は罪の中に生きる。

ローマ人への手紙7章にパウロが「わが欲(ほつ)する所の善は之(これ)をなさず、返って欲せぬ所の悪は之をなすなり」(19節)。自分の中に罪が入ってきて私を苦しめているのだ、という言い方をしています。だから、今度は神様の支配の中に自分を委ねていくときに、人はよい者となるのです。

ですから、よく切れる包丁でもそうですが、それは使い方によるのです。使う人によって、人を殺す道具にするかもしれない。ある人はそれで素晴らしい料理を作る道具として使うかもしれない。いうならば、包丁自体は、良いも悪いもない。この包丁はそもそも人を殺すために作られたものはありません。金物屋さんで売っている包丁は本来の目的があって造られているけれども、それを使う人、誰が使うかによって、その包丁が役に立つ包丁であり、また大きな害を及ぼすことにもなります。

それと同じだというのが、パウロが考えていることです。人間は別段悪い者として造られたのではない。ただその中にサタンが入って、罪が私たちを支配するから、私たちがとんでもないことをするのだ、と言っているのです。ですから、神様は私たちをきよめて、もう一度万物創世の初めの人間に造り変える。神と共に生きる生活へ、私たちを救い出してくださる。これが救いなのです。私たちが救われると言うのは、創造者である神様の手にもう一度戻ってくることです。これが救われることです。それまでは、サタンの手に握られていたのです。私たちのうちにあるサタンの力、肉の力に支配されていた。情欲であるとか、自我であるとか、あるいはメンツであるとか、さまざまな思いが私たちのうちにあって、私たちを駆り立てていく。「これはこうしてあげたらいいな」と思いながらもできない。「これはもうやめよう。こんな事をしてはいけない」と思いながらやってしまうのは、私たちのうちにある罪の力によるのです。その罪を打ち砕いて、私たちを神様のものとして取り戻してくださいます。これが十字架のあがないです。

そして、取り戻した神様が、私たちと共に生きるためには、私たちが清いものでなければ神と共に住むことができません。それは当然です。神様と私たちとは肩を並べられるような存在ではない。神様は創造者です。私たちは造られた被造物に過ぎません。これはまったく次元が違う話です。この二つのものが一緒になるということは、まずできない相談です。しかし、神様はあえて私たちと共に住むことを選んでくださいました。その動機は愛です。私たちをご自分のかたちにかたどって尊い者として造り、ご自分の愛の対象、愛するべき者として造ってくださったがゆえに、神様は私たちを惜しんでくださいました。そして、何としてももう一度神の民にしよう、神様の手に取り返そうとしてくださった。そして、ひとり子、イエス様を遣わしてくださった。それによって、十字架に罪のあがないをなし、罪をきよめてくださったのです。それだけでなく、清い者として神と共に住むことができるようにしてくださいました。イザヤ書57章にありますように、神様は「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者」(15節)です。その聖(きよ)い方が住まわれるのに、泥だらけの所には住めない。私たちも清い者となること、これが、神様が求められる事です。しかし、自分できれいになりたいと思っても、自分ではなれない。いかんせん、私たちはサタンの支配から、自分の力で逃れることができない。奴隷になっている。そこから私たちを解放して、神様が私たちと共にいることができるように、きよめてくださったのです。だから、何が幸いといって、神様が共にいてくださること以上のものはありません。

私たちは神様と共に生きられるようなものではない。出エジプト記を読むと分かりますが、モーセがシナイ山に登ったときに、神様がシナイ山に臨在するから「この山のふもとから一歩も中に入ってはいけない。入ったら殺される」というのです。それほど厳しい神様と人との関係は、死という隔ての中垣で区別される存在です。本来、私たちは神様に近づくことができない、神様を親しく呼び求めることすらも許されない存在です。それが今「愛する天のお父様……」「父なる神よ……」と呼びかけ祈ることができるのは、イエス様が十字架に死んで罪を赦してくださって、神様と共にあることができる、神様に近づくことができる者としてくださったゆえです。これは大きな恵みであり特権であります。

日本でも、神と人とは違うものと考えられています。神社などは決して人の頻繁(ひんぱん)に通るような所にはありません。そこだけ別格です。神域という神様の領域として区別しています。だから、そこへ入るには、斎戒沐浴(さいかいもくよく)、身を清めてという、だからよく神社に行きますと、入り口の所に手水場(ちょうずば)があってひしゃくが置いてあるでしょう。それで手を洗ったり口をゆすいだりして、清めるということが一つの神様に近づく条件というのが神に対する考え方の基本にあります。それほど神様は自分たちと違うという自覚があるのです。

先だって、友人が春休みに来ましたので、国立九州博物館が大宰府に出来ましたからそこへ行き、ついでに天満宮も見に行きました。拝殿に上がってご祈祷をしてもらっている人がいました。彼が「自分たちもあそこまで行ってみようか」と言いますから、「いや、あそこへは行けない。あそこはお祓(はら)いをしてもらう人だけが行くもので、お金を払わなければならない」と。そのような仕切りがあるのです。彼は「どこに神様がいるの」と、私は「この奥にいる」と。「どこだ」と彼はしゃがんで見るのですが、幕が垂れていて見えないのです。人が神に直接会えない。これが神様と人との関係のあり方です。これは洋の東西を問わず共通している。それは不思議なことだな、と思います。神様の前に人が罪人だ、という自覚があるのです。だから、神様の前に近づくには、何らかの形で自分が罪人であることを認め、それをきよめなければ神様の前に出られない。そのためにいろいろ考え出したのが、口をすすいでみたり、手を洗ってみたり、あるいは洋服を着替えて白いものを着てみたりとか、あるいはお祓(はら)いといって、パッパッとほこりを払うがごとく清められた気持ちになって神様の前に出ようという仕組みを考えたのです。

ところが、そんな程度で私たちの罪が赦されるはずがないでしょう。チョコチョコッと水でちょっとうがいをして、それで赦されるほど私たちの罪は軽いものでしょうか? それだったら皆さん、みな聖人です。到底赦されない。だからこそ、神のひとり子が十字架にかからなければならなかった。またそれがどんなに大きな恵みであるかがよく分かります。もし、イエス様がいらっしゃらなければ、私たちの罪は永遠に赦されることのない滅びであります。その罪のためにイエス様が命を捨ててくださいました。そして、私たちをきよめて神と共にあることができるように、神様が共にいてくださるために、イエス様をよみがえらせてくださった。よみがえって、私たちと共にいることを証詞してくださったのです。ですから、イエス様はよみがえられてから、40日間いろいろな機会をとらえて多くの人々にご自身を現してくださいました。それは、イエス様は死んでおしまいではなく、時間空間を超えて、どんな所にでも私たちと共にいらっしゃる方であることを宣言してくださった、証詞してくださったのです。だから今、目には見えませんが、よみがえってくださった主が絶えず私と共にいてくださるということを信じております。

ガラテヤ人への手紙2章19節から21節までを朗読。

この19節以下に「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。これはまさに今申し上げたように、罪人であった私たちがイエス様と一緒に死んだ者となった。死んでしまったら罪は消えるのです。そのようにパウロは言っています。借金取りでも死んだ人からは取らない。それと同じように神様は私たちが、十字架に死んでしまったら、もうそれで終わりだと、帳消しになる。そのようにイエス様の十字架の死を私の罪のあがないと信じて、私はイエス様が死んだ十字架にすでに死んだのだ。これによって、私たちは罪からきよめられたです。そして20節に「生きているのは、もはや、わたしではない」。それでもなお肉にあって生きています。「十字架に死にました」と言うと、「あなたのお墓はどこにあるの? 」と尋ねられるでしょう。死ぬためにお墓を用意している方もいらっしゃるかもしれません。しかし、まだ実際に入ってはいないのです。だから、私たちは肉体的には死んでない。けれども、イエス様を信じることによって、イエス様の十字架と一つとなって、「私はもう死んだ者です」と告白し、信じていく。「では、お前は今何によって生きているのだ」と問われる。そのとき、20節の続きに「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。言い換えますと、よみがえったイエス様が私と共にいらっしゃる。これが「神が人と共に住む」ということにほかならないのです。言うならば、私たちのかつての支配者、罪が死んで、私たちの部屋が空になり、きれいに掃除がされた。そこへ、今度はイエス様が宿ってくださる。これが救いです。今の私たちのいのちです。ですからパウロが言っているように「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。この御言葉は本当に素晴らしい。皆さんもどうぞ、遠慮しないで「キリストが私のうちに生きておられます」と言い切っていただきたい。「かもしれない」とか、「だろう」とか、はっきりしないならば信仰に立てない。「そんなことを言ったら、パウロのまねをするようで二番煎(せん)じは嫌だ」なんて、そのようなことを言っている間、私たちはいつまでも救われません。たとえ何であっても「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」と信じる。

その後に「しかし」とありますが、これは「というのは」という意味です。「言い換えると」という意味です。「わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」。パウロはここで「わたしはもう死んだ。イエス・キリストは私のうちに生きている」と言ったのですが「現実に、お前は生きているではないか。以前と同じではないか。どこに変わったことがある。『キリストが生きている』と言うけれども……」という非難がある。だから、もう一度正確な表現として、それは「信仰によって、生きているのである」。「わたしは、わたしを愛して、わたしのために命を捨ててくださった御子を信じる信仰によって、生きているのである」。

テモテの第二の手紙2章8節に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」。ここにつながってくるのです。パウロが、「わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのために命を捨ててくださって、死んでよみがえったイエス・キリストを信じる信仰によって、生きている」。言い換えると「死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思って」生きているのだ。これは「キリストが私のうちに生きていらっしゃる」ということのあり方、具体的な生き方です。ですから、どんなときにもイエス・キリストを心に置いて、そのことを思っていく。「思う」と言うと、昔、西洋で描かれたキリストの像でも思い浮かべながら、あんな顔かな、こんな顔かな、とそのようなことを思うのではありません。「イエス・キリストを思う」と言うのは、今自分がしようとしていることが、これはキリストのためだ。今これをさせていただいているのは、イエス様がそれを許してくださっているからだ。「イエス様のために」と思い続けるのです。食べるにしても、買い物をするにしても、何をするにしても、友達と遊ぶにしても、すべてのことの中に、主が何とおっしゃるだろうか。私は今これをしようとしているけれども、イエス様、これはあなたのみ心でしょうか? と、主を思う思い。イエス様を絶えず心に思うことが大切です。

一日にどのくらいイエス様のことを心に思い浮かべて生活をしていますか。昨日一日を考えてみて「そう言えば朝起きて15分お祈りしたあのときぐらいかな」と。「後はほとんど忘れていた、そう言えば夜寝るときまた思い出したわ」と、合わせてみたら一日30分足らず、20分かな、15分かなと。それでは「いつも思って」いるとはならない。「いつも」ですよ。だから、歩きながらでも電車に乗るのでも、バスに乗るにでも、車を運転しながらでも、何をしていても「イエス様、これからこうしようと思いますけれども、どうしたらいいでしょうか? あの事はどうしたらいいでしょうか? 心に思い浮かぶことを、自分であれこれ考えないで、イエス様と対話するのです。それが「主を思う」ことです。だから、私たちはいつもイエス様を思っていくことができるのです。今日の午後何をしようかな、あれを食べにいきたいな、天気がいいからあそこへ花見にいこうかな、ここにしようか、よし、これでよし、と自分でプランを立てているでしょう。そうではなく、一つ一つを考えるときに、イエス様を思うのです。「今日は天気がいいな。花見に行こうか」と思った瞬間に、「イエス様、どうしましょうか? 」と尋ねるのです。そして「花見に行くには弁当がいるな。何の弁当にしようか。ほか弁にしようか。何にしようか。イエス様、どれにしましょうか? 」と尋ねる。今まで全部自分で考え、自分で決めていたのを、そこにイエス様を入れていく。「イエス様、このことはどのようにしたらいいでしょうか」。そうすると、いつもイエス様を思って、人のことを考える暇がなくなる。人が何をしていてもあまり気にならない。イエス様が何とおっしゃるか、心を絶えずそこに向けていく。これは私たちの福音です、いのちです。そうするとき、イエス様が、ただ、頭の中にあるイエス様ではなくて、現実にわたしと一緒に生きていらっしゃるイエス様に変わってくる。これは私自身の体験でもありますから、皆さん、だまされたと思ってやってみてください。何か考えるときにいつも「イエス様、どうしましょうか? 」。親子げんか、夫婦げんかするときだって「イエス様。どうしましょうか? 」と考えたら、いい言葉が浮かんでくるに違いない。どんなことでもイエス様に聞くことです。これが、パウロが言っていることです。

先ほどガラテヤ人への手紙で「キリストが、わたしのうちに生きておられる」ということは、まさにそこです。私たちはどうもイエス様を死んだものとして、どこかの棚の中にしまい込んでいるから、どんなことも自分で考えなければいけない。「ああしようか。どうしようか? いや困ったな」、財布の中を見てはため息をついて、それでまた「ああしようか。こうしようか」と。結局、訳が分からなくなって、つい隣の人に苛立って、言わなくてもいいことを言って、けんかになる。だから、私たちはいつでもイエス様を心に置いていくことです。よみがえってくださったイエス様を……。

8節に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」。そうしますと、いつもどんなときにでも心が揺れ動かないのです。安心がくる、平安になってきます。「イエス様どうしましょうか? 」「イエス様、ここはどうしたらいいでしょうか? 」。口に出さなくてもいいです。「ちょっと、あの人はおかしいのではない? 独り言ばかり言っているけれども」と疑われます。そうならないように、もちろん口に出してもいいですが、心の中でいつも「主よ、なんと言いましょうか? 」「どうしましょうか? 」。私は今皆さんにお話をしながらも「主よ、何を語りましょうか? 次は何を導いてくださいますか? 」と、心をいつも主に向けます。人と話をしていてもそうです。それを忘れて、自分の思いや感情でしゃべってしまうから、後になって「言わなければよかった。あの人は何と思っただろうか。どうしようか」と、夜眠れなくなるのです。だから、いつも心にイエス様を置いて、「イエス様、ここは何と言ったらいいでしょうか」、「主よ、何を語りましょうか? 」と、いつも主のことを思う。自分がしようとすることの一つ一つの中に主を思っていくこと、これが私たちのいのち、力です。

ヨハネの第一の手紙5章11,12節を朗読。

よく「永遠の命」ということを言いますが、「永遠の命」とは神様のこと、主イエス・キリストです。イエス様のことを「永遠の命」といいます。そして、私たちがこの「永遠の命」につながっていく、と言うのは、ここ12節に「御子を持つ者はいのちを持ち」、言い換えると、イエス・キリストが私のうちにあって生きてくださっていることが「いのち」なのです。イエス様を心に持つことが「永遠の命」です。それで「御子を持たない者はいのちを持っていない」。イエス様を持たなければ、私たちのうちにはいのちがない。どうぞ、私たちはいつもイエスを思っていく。よみがえってくださったイエス様のことを絶えず心に置いていく。主が、今私にこのことをさせようとしてくださっている。「イエス様、ここへ行きますから、どうぞ、道を開いてください、知恵を与えてください。私は今このことに迷っていますから、イエス様、何をどうしたらいいでしょうか? 教えてください」。いつも祈ってご覧なさい。いつも主を求めてご覧なさい。そうしますとイエス様が具体的に「本当に私を導いてくださっている」と体験できます。まさに「いのち」が私たちのうちにとどまってくださるのです。イエス様がよみがえってくださった目的はこれです。そのために主が墓を打ち破ってよみがえって、私たちのいのちになってくださったのです。

ペテロとヨハネが神殿に上っていく時に、生まれながらの足のきかない人が「美しの門」に置かれていました。物ごいをしていたのです。その前を通りかかったときに「わたしたちを見なさい」と言った。何かもらえる、と思って見たとき、ペテロが「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう」と言った。私たちもそのように言いたいと思います。もっとも、金銀のある方は「ある」と言ったらいいですが、私達には無いから「金銀はわたしには無い」と言います。それで「わたしにあるもの? 」、私にあるものが無い、これでは困ります。「私にはイエス・キリストがいらっしゃる。主が私と共にいらっしゃる。このイエス様を信じなさい」このように言ってあげることが、私たちの使命です。イエス様を信じてください。だから「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。ペテロは「わたしにあるもの、この永遠の命であるイエス様をあなたは信じなさい」と言って、引き上げたのです。足のきかなかった彼が立って踊って、神様をほめたたえる者となったのです。

皆さん、私どもは自分のうちにいのちがない、あげるものがないと困りますよ。だから、よく言われます。うちの家族はどうして救われないのでしょうか。わたしが一生懸命にこんなに励んでいるのに……、と言われるのです。もう一度考え直して、あなたが「わたしにあるものをあげよう」と言えるもの、それが有るのか無いのか、私たちのうちにそれが無ければ、いくら何をしてみても「いのち」につながることはできません。私はこのイエス様によって生きている。だから、あなたもこのイエス様によって生きてご覧なさい、と言って、悩みの中、苦しみの中から起こしてあげる。これが私たちの証詞であり、また生きる喜びでもあります。

ですから12節に「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」とあります。どうぞ、いつもイエス様を、私たちの心に絶えず持ち続けていく、「私のうちにキリストが生きていてくださる」と言い得る者となりたい。そうでなければ、私たちにいのちがないのです。永遠の命を受けることができないのです。

テモテへの第二の手紙2章8節に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」というのです。パウロはこれこそが「わたしの福音」と。そのとおりだと思います。私どもは、イエス様のことを思って、主が今このことを備えてくださっている。私は主に従っているのだ。どんなに小さなことも大きなことも、「主よ」、「主よ」と、主に密接になっていくこと、これが私たちのよみがえった主に出会う、主と共に生きる秘けつであります。

どうぞ、この御言葉のごとく、主を心に置いて、イエス様を体験する、味わっていく、手で触れる毎日でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。




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