コリント人への第二の手紙5章16節から19節までを朗読。
17節に、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。
私どもは新しくなりたいという願いを持ちます。自分の性情性格、自分の力や能力などを考え、生活の中で不都合なこと、不足すること、欠けていることを常日頃しみじみと感じるからです。ここは何とかならないだろうか。自分は気が弱くて、人前に出るとすぐおどおどして、まともにものも言えない。このような私の性格は何とかならないだろうかと悩みます。また、自分はかたくなで強情で、ひねくれ者で、本当にこのような私は自分でも愛想を尽かす。恐らく、家族だって友人だって嫌に違いない。何とか変われないものだろうか。いろいろなことで、今の自分が、どうしても納得できないと思います。何とかして自分が変われないだろうか。人の言葉にすぐ乗って調子よく振り回されて、後で嫌な思いをして、ブツブツ毎日つぶやいて嘆いている自分を見ては、もうちょっとしっかりできないだろうか、と叱咤(しった)激励する。周囲の者からも「あんた、もっとしっかりせんね!」と言われます。しっかりしたくてもできようがない。そのようなときに何とか変わりたい、と多くの人が思います。
ですから、何か事があって自分ができない、失敗すると、「おれはなんて駄目な人間だろうか」と思います。そのようなときに何を思うか? 「よし、心機一転、心を入れ替えて、死んだつもりになって今度は新しくやり直そう」と決心します。そのように何度となく失敗を繰り返した結果が今であるという。私どもの年齢以上になりますと、そのようなことも考えたくない、どっちみち出来やしないとあきらめているかもしれません。しかし、どうしてもあきらめるわけにはいかない。何とか変われないものだろうかと、これが多くの人の持っている悩みです。その悩みは年を取ろうと取るまいと変わりはありません。もっとも最近は医療技術も進歩しましたから、外見的に鼻を高くしたり、まぶたを二重にしてみたり、そのようなプチ整形というものがあります。外面的なことはどうにでも変わるかもしれません。けれども、大切なのは内側の性情性格、自分の生きざまです。
ところが、人が変わるのは、なかなか難しい。どのように修行をしても、あるいは難行苦行、自分を痛めつけて変わろうと思っても、うまくいかない。それは当然だと思います。私たちは造られた者であって、自分で自分を造った者ではありません。だから、変えることができない。それはそうですね。ここにあるオルガンやマイクロホンにしろ、テーブルにしろそうですが、これらは作られたものです。この作られたものが勝手に「テーブルは嫌だから、何かほかのものに変わりたい」と思っても、自分では変われない。オルガンが、いつもブガブガ音を鳴らされて嫌だから、私はもっとほかのものになりたい。洋服ダンスのように人目につく所に置かれたいと思っても、自分で変わるわけにはいかない。ところが、それを作った人が来て、全部入れ替える、あるいは作り変える、塗り替えるなら、どのようなことでもできます。建物でもそうだと思います。長年住みなれた建物でも、あそこが不自由、ここが不便、ここを何とか変えたい、あそこを変えたいと、だんだんと年を取るにつれて、背が低くなってきて、流しが高く見えるようになり、腰も曲がって蛇口に届かなくなる。手首が痛くなってねじれない。ドアのノブが回せない。何とかそれを変えたいと思っても、扉に向かって「お前、自動で開くように変われ」と言っても、変わりようがない。ところが、大工さんに頼んで「ここをこうしてください。あれをこう変えてください」と、作った人に頼めば、変わります。そうでしょう。
では、私たちが変わるためにはどうするか? 私たちを造った方のところに持っていかなければなりません。「そうか、でも造ったのは親だから、もう墓の中だ」と失望しますか。しかし、親が造ったのではない。私たちを造られたのは神様でしょう。詩篇の139篇にありますように「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました」(13節)と一切を創造してくださったのは、私たちの目には見えないけれども、万物の創造者、神様です。だから、神様の所に自分を持っていかなければ変わりようがないのです。
ヨハネによる福音書3章1節から8節までを朗読。
これはニコデモというユダヤ人の指導者、また、先生とも呼ばれている人がいました。彼は尊敬された、パリサイ人でした。その人が夜こっそりとイエス様の所へ訪ねてきました。イエス様とパリサイ人は犬猿の仲でした。だからイエス様と付き合っていることが知れたら問題になりかねません。彼はイエス様がただ者ではない、また、イエス様のようになれないものだろうかと思ったのでしょう。ですから、イエス様の所へその秘けつを聞きに、こっそりと夜になって来たのです。「イエス様、あなたはただの人ではない。とくべつな方に違いない」。そのような意味ですね。「神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。「あなたはきっと神様と深い関係があるのではないだろうか」と、秘密を探りに来たのです。2節に「神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」と。ここでニコデモはもう少し立派な先生になりたい。指導者として有能な指導者になりたい。あるいはイエス様のような超自然のパワーを身につけられたら、自分が変わりたいと思ったのです。イエス様は彼の思いを見抜いて、3節に「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。どんな人でも、まず新しく造りかえられなければならない。今のままでは、生まれながらの自分であっては、神の国、神様の恵み、祝福、神様のいのちを頂くことができません。イエス様は「わたしは神から遣わされた者だ」と自覚していますから、私のようになりたかったら、神の国に住むものとならなければならない。そのためには、あなたが生まれたままでは駄目だよ、とイエス様は言われました。「新しく生まれかわりなさい」と。
このときニコデモ先生は、はたと困った。生まれかわれと言ったって、今からどうしてお母さんのおなかにもう一度戻って、オギャーと生まれかわれるだろうか。「人は年をとってから生まれることが、どうしてできますか」と。できませんね。そのようなことを言うことすらもおかしいくらい、当たり前のことですが、ニコデモ先生はまじめに「もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」と。できるならば、とっくに何度となく生まれかわっています。ところが、できないのです。だから、イエス様は5節に「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」と。「水と霊とから生れる」と言う。「水」とは、イエス様のお言葉、聖書のお言葉のことです。イエス様はご自分を「生ける水である」と例えています。イエス様がご自分を「生ける水である」と言われるのは、み言葉がイエス様ご自身なのです。そして、「霊」とは神様の霊に満たされること。聖霊によらなければ生まれかわることができない、新しくなることができないと言われます。6節に「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」と言われます。私たちが死んで、お母さんのおなかに入ることができたとしても、また生まれてきたら今と変わらない肉を持った、欠けだらけの、不足だらけの、罪にまみれた、穢(けが)れた私たちでしかない。だから、そのようなことをいくら繰り返してみても、救いにはならない。ではどうするか? それは、イエス様の言葉、神様の言葉を信じて従うとき、神様から力が与えられるから、その力によって生きる者となること。これが新しく生まれかわることなのです。これは今も変わらない真理です。皆さん、自分が変わりたいと願うなら、生まれかわらなければなりません。よみがえってくださったイエス様が天に帰られ、今私たちに神の霊を注いでくださっています。言うならば、よみがえってくださったイエス様は、見えないけれども私たちと共にいてくださると信じることです。これが生まれかわる秘けつです。
ガラテヤ人への手紙2章19,20節を朗読。
19節以下に「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。20 生きているのは、もはや、わたしではない」。これは聖徒パウロが今ある自分を語ったものです。パウロという人は、ピリピ人への手紙にあるように、ユダヤ人の名門の家に生まれ、学識豊かで将来を嘱望(しょくぼう)された前途有為な人物、宗教的にも熱心な人物でした。ですから、彼は自分ほど立派な人間はいない、自分ほど正しい人間、とがめられるところのない人間はいないと自負しておりました。そのために彼は熱心になってクリスチャンを迫害したのです。エルサレムの町から更に広げてダマスコという町にまで、彼はクリスチャンを迫害するために出かけていきました。ところが、ある日、その途中、突然大音響と共にまばゆいばかりの光に照らされて、彼は地に倒されてしまったのです。その大音響の中からイエス様の声を聞いた。彼の心の中に神様が語ってくださいました。恐らくパウロ以外にほかにも、仲間がいたに違いないけれども、彼らはただただ漠然とした大音響に聞こえただけで終わったでしょう。ただその中で一人パウロだけはそこでイエス様の声を聞きました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答えがあった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と。よみがえってくださったイエス様が直接パウロに語ってくださったのです。そのときにイエス様に触れたのです。
その時をきっかけに、彼の生涯は180度変わってしまって、完全に打ちのめされた。自分のプライド、自分の誇りとしていたもの、自慢していたもの、自分の義としていた己(おのれ)というものが木っ端みじんに破壊されてしまった。挫折です。そして完全にゼロになってしまって、ご破算になった。その後、神様の霊が彼に注がれ、御霊が注がれて生きる者と変えられたのです。その彼の生涯はその時をきっかけに180度変わって、今まで迫害していた、敵対していたイエス様を宣べ伝える伝道者へと変わっていく。まさに、これが新しく造りかえられることです。パウロが新しく造りかえられたのは、苦しいことを耐えた、何か一生懸命に我慢した、忌み断ちをして、卵断ちとか厳しい修行によって、自分を変えたのではない。ただ、一つだけです。主の言葉を聞き、それを信じて自分を捨てたのです。イエス様に出会って、イエス様を自分の主としたのです。
19節に「わたしはキリストと共に十字架につけられた」。イエス様が十字架にかけられたゴルゴダの丘で、パウロは一緒に十字架にかけられたのではありません。彼はそのころイエス様のことは直接知らないのです。イエス様が十字架にかけられたとき、彼は恐らくほかの所にいたに違いない。まだ幼少のころでしょう。だから直接は何も知らないのに、「わたしはキリストと共に十字架につけられた」と言っています。それは、イエス様を信じることによって、今まで生きてきた自分を捨てたのだ。イエス様が十字架に完全に息絶えてくださった。まさに、そのイエス様こそがわたしだと、イエス様と自分を一つにしてしまった。これが「水と霊とから生れる」ことです。
造りかえるためには古いものを全部取り壊さなければいけません。それがいちばん早い、部分的に手を入れたってあまり変わり映えがしない。それよりも、更地(さらち)にして、全く新しいものに建て替える。神様がわたしたちを造りかえるのはそうやってくださる。イエス様を信じて、今まで自分が、自分がと、自分が主になって生きてきた生き方をご破算にする。
では、今度はどうするか? その後20節に「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。イエス様が私の主となって、私の救い主となって、私の中に宿ってくださった。そのことを信じていく。イエス様はよみがえってくださったと、このイースターを通して教えられましたが、よみがえった御方はどこにいらっしゃるか。まさに、あなたの中にいらっしゃる。私たちはもう自分ではない。イエス様を信じる、救いにあずかることは、何でもかんでも「私が!」と言っていた私ではなくて、今度は主が、イエス様がよみがえって私の中に生きてくださっている。言うならば、今日、私たちが生きているのは、イエス様がよみがえって生きてくださる、そのいのちによって、生かされているのです。自分で生きていると思ったら大間違いです。イエス様が私を生かしてくださっている、と信じることが大切です。そしてイエス様が、私にすること、語ること、どんなことでも教えてくださる、また力を与えてくださる。すべてのものの根源となってくださる方ですから、私が足らなくても、欠けていても、主がいらっしゃるのですから、私たちを新しく造りかえてくださいます。これが「水と霊とから生れる」ことです。
イエス様が私のうちに生きておられる。「しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」。私たちはいまイエス様がよみがえって、私のうちにあって私を生かしてくださっている、と信じます。毎日、朝から晩まで、イエス様が私を生かしてくださるのですから、私たちはイエス様に聞かなければいけません。イエス様をそっちのけにして、「イエス様が私を生かしてくださる」とは言えません。イエス様が私を生かしてくださるのですから、イエス様、今日は何をしましょうか。どこへ行きましょうか。何を食べましょうか。これはどうしたらいいでしょうか。あれはどうしましょうか。ことごとくどんなこともイエス様に尋ねなければ、イエス様が私を生かしてくださっている、とは言えません。どうでしょうか、いつもイエス様が私の中に生きている、と信じていますか? ぜひ信じてください。それと同時にイエス様が、私に知恵を与え、力を与え、どんなことも導いてくださる方、救い主ですから、困ったことがあれば、どんなことでもイエス様に聞く、これが私たちの新しい者として生きる生き方です。
コリント人への第二の手紙5章17節に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」。ここに「だれでもキリストにあるならば」とあります。「キリストにある」と言いますことは、どうすること、何のことなのだろうか、と皆さん思われるに違いない。それは今申し上げましたように、イエス様が私のうちに宿って住んでくださる。生きてくださって、そして私を今日も生かしてくださる御方、私のいのちとなってくださったイエス様が、私と共にいらっしゃる。それを信じることが「キリストにある」ということです。そして、イエス様が私を今日も小さなこと、大きなこと、どんなことでもすべてのことの中に私を導いてくださる。私に思いを与えてくださる。導かれる、語ってくださるそのイエス様に私は従っていくのだ、と定めていく。これが私たちのすべてです。だから、どうぞ、一日中、いつもどんなときにもイエス・キリストを絶えず心に置いていくことです。
この木曜会でも教えられましたように「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(2テモテ2:8)「いつも思っている」、言い換えますと、主が私を生かしてくださる。今日も主が私のいのちとなってくださった。皆さん、朝起きてから「今日もイエス様、あなたが私のいのちです。主よ、今日は何をしましょうか。あれをしましょうか」「昨日の今日は、今日の明日、毎日決まったことだからいちいち聞くこともない。イエス様もうるさかろうから、黙っておこう」と、それは大間違いです。私たちは自分では生きられないのですから、昨日そうであっても今日どうなるか、イエス様が求められることが何であるかは、これは分かりませんから、私たちはいちいち聞くのです。えらいうるさいな、もういちいち聞かなければいけないのかなと、そうですよ。そうしないと私たちは「キリストにある」者となり得ない。それはうるさいように思うかもしれませんが、実に楽しいことです。もしうそだと思ったら、だまされたと思って、この午後からでもやってください。歩きながらでも、何をしながらでも、料理をしながらでも、ケンカをしながらでも、イエス様に聞いたらいいのです。私どもはいつもそのように主に触れ、主を主として生きる生活に変わる。これが自分を変えていく大きな力です。性情、性格どんなものも生活自体がガラッと変わっていきます。
Y姉は高校を卒業して、関東地方に出て働いていましたが、自分自身に失望して、なんとか人生をやり直したいと、福岡へ出てきました。ある日、ふと教会へ行ってみたいと思って、電柱広告の教会案内に導かれて、初めて福岡の礼拝に出たのです。そこで聖書の御言葉に触れたときに「ここに何かあるに違いない」と感じました。それから彼女はズーッと仕事の合間をぬって、礼拝、伝道集会、祈祷会、時には休みを取って火曜会と各集会に熱心に続いて来られました。そして、イエス様を信じて、新しい喜びに満たされました。そのときの洗礼式を今でも忘れませんけれど、彼女は本当に「イエス様が私の救い主となってくださいました」と喜びに輝いて、私どもも本当に感動しました。その後、いろんな中を通りましたが、やがて、導かれてイタリア人のご主人と結婚しました。言葉の分からない異国での生活、経済的なゆとりの無い生活。そのような生活の中で彼女が寄り頼むものはただ一つだけです。イエス様以外に頼るものはないのです。ですから、真剣に聖書を読み、祈る。何度となくくじけそうになりましたが、神様を見上げて、主が遣わしてくださったところであると信じ続けました。やがて子供が産まれるときになって入院をいたしました。言葉の分からないイタリアの病院で出産を迎える。その中にあっても絶えず御言葉を、御言葉を求め続けたのです。やがて子供が与えられました。姉妹が病院に入って出産を前にしたときに夜も眠られない。朝、空が明るくなって、そのときに神様が私を生かしてくださる。イエス様のいのちによって私はあがなわれた。その喜びが光とともに差してきた。その体験から生まれてきた子供に「ひかり」と名付けたのです。彼女は主によって生きる者となったのです。ご主人はまだ信仰がありませんが、彼女の祈りに支えられて、主の恵みのうちに過ごしています。
皆さんもそうですよ。私たちも変わることができるのです。それはただ一つだけ、「だれでもキリストにあるならば」、この一言ですよ。キリストにある生活、パウロが言うように「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり。最早(もはや)われ生くるにあらず」。わたしが生きているのではない。「キリスト我が内に在りて生くるなり」、イエス様が私のうちにあって私を生かしてくださる、その生かしてくださっているイエス様に聞かなければ、イエス様と共に生きていかなければ、私たちは変われない。共に生きていくとき、私たちは変わっているのです。そうでしょう。私たちが自分の今まで生きてきた生き方とガラッと180度かえて、イエス様を中心にして生きる生活に変わっていく。どうぞ、皆さん、この素晴らしいイエス様のいのちと恵みをぜひ体験していただきたいと思います。これは素晴らしい。人生が変わる。人が変わりますよ。そのようにイエス様によって新しく造りかえられる。皆さんもそうでしょう。
どうぞ、今ここにありますように17節に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。本当にそうです。「すべてが」ですよ。生活の隅から隅まで、自分の性情性格、見えるところ見えないところ一切合切ひっくるめて、すべてが新しく造りかえられていくのは、イエス様が、よみがえられた主が、私と共にあって、私の主となってくださる。その主に向かって私たちが絶えず耳を傾け、そのみ声に従って歩む者と変わっていくとき、神様は私たちを根こそぎに造りかえて、新しい者にしてくださる。今、私たちをそのように造りかえてくださっている。このことを信じてどうぞ、このイエス様に仕えていく新しい日々を生きたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
17節に、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。
私どもは新しくなりたいという願いを持ちます。自分の性情性格、自分の力や能力などを考え、生活の中で不都合なこと、不足すること、欠けていることを常日頃しみじみと感じるからです。ここは何とかならないだろうか。自分は気が弱くて、人前に出るとすぐおどおどして、まともにものも言えない。このような私の性格は何とかならないだろうかと悩みます。また、自分はかたくなで強情で、ひねくれ者で、本当にこのような私は自分でも愛想を尽かす。恐らく、家族だって友人だって嫌に違いない。何とか変われないものだろうか。いろいろなことで、今の自分が、どうしても納得できないと思います。何とかして自分が変われないだろうか。人の言葉にすぐ乗って調子よく振り回されて、後で嫌な思いをして、ブツブツ毎日つぶやいて嘆いている自分を見ては、もうちょっとしっかりできないだろうか、と叱咤(しった)激励する。周囲の者からも「あんた、もっとしっかりせんね!」と言われます。しっかりしたくてもできようがない。そのようなときに何とか変わりたい、と多くの人が思います。
ですから、何か事があって自分ができない、失敗すると、「おれはなんて駄目な人間だろうか」と思います。そのようなときに何を思うか? 「よし、心機一転、心を入れ替えて、死んだつもりになって今度は新しくやり直そう」と決心します。そのように何度となく失敗を繰り返した結果が今であるという。私どもの年齢以上になりますと、そのようなことも考えたくない、どっちみち出来やしないとあきらめているかもしれません。しかし、どうしてもあきらめるわけにはいかない。何とか変われないものだろうかと、これが多くの人の持っている悩みです。その悩みは年を取ろうと取るまいと変わりはありません。もっとも最近は医療技術も進歩しましたから、外見的に鼻を高くしたり、まぶたを二重にしてみたり、そのようなプチ整形というものがあります。外面的なことはどうにでも変わるかもしれません。けれども、大切なのは内側の性情性格、自分の生きざまです。
ところが、人が変わるのは、なかなか難しい。どのように修行をしても、あるいは難行苦行、自分を痛めつけて変わろうと思っても、うまくいかない。それは当然だと思います。私たちは造られた者であって、自分で自分を造った者ではありません。だから、変えることができない。それはそうですね。ここにあるオルガンやマイクロホンにしろ、テーブルにしろそうですが、これらは作られたものです。この作られたものが勝手に「テーブルは嫌だから、何かほかのものに変わりたい」と思っても、自分では変われない。オルガンが、いつもブガブガ音を鳴らされて嫌だから、私はもっとほかのものになりたい。洋服ダンスのように人目につく所に置かれたいと思っても、自分で変わるわけにはいかない。ところが、それを作った人が来て、全部入れ替える、あるいは作り変える、塗り替えるなら、どのようなことでもできます。建物でもそうだと思います。長年住みなれた建物でも、あそこが不自由、ここが不便、ここを何とか変えたい、あそこを変えたいと、だんだんと年を取るにつれて、背が低くなってきて、流しが高く見えるようになり、腰も曲がって蛇口に届かなくなる。手首が痛くなってねじれない。ドアのノブが回せない。何とかそれを変えたいと思っても、扉に向かって「お前、自動で開くように変われ」と言っても、変わりようがない。ところが、大工さんに頼んで「ここをこうしてください。あれをこう変えてください」と、作った人に頼めば、変わります。そうでしょう。
では、私たちが変わるためにはどうするか? 私たちを造った方のところに持っていかなければなりません。「そうか、でも造ったのは親だから、もう墓の中だ」と失望しますか。しかし、親が造ったのではない。私たちを造られたのは神様でしょう。詩篇の139篇にありますように「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました」(13節)と一切を創造してくださったのは、私たちの目には見えないけれども、万物の創造者、神様です。だから、神様の所に自分を持っていかなければ変わりようがないのです。
ヨハネによる福音書3章1節から8節までを朗読。
これはニコデモというユダヤ人の指導者、また、先生とも呼ばれている人がいました。彼は尊敬された、パリサイ人でした。その人が夜こっそりとイエス様の所へ訪ねてきました。イエス様とパリサイ人は犬猿の仲でした。だからイエス様と付き合っていることが知れたら問題になりかねません。彼はイエス様がただ者ではない、また、イエス様のようになれないものだろうかと思ったのでしょう。ですから、イエス様の所へその秘けつを聞きに、こっそりと夜になって来たのです。「イエス様、あなたはただの人ではない。とくべつな方に違いない」。そのような意味ですね。「神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。「あなたはきっと神様と深い関係があるのではないだろうか」と、秘密を探りに来たのです。2節に「神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」と。ここでニコデモはもう少し立派な先生になりたい。指導者として有能な指導者になりたい。あるいはイエス様のような超自然のパワーを身につけられたら、自分が変わりたいと思ったのです。イエス様は彼の思いを見抜いて、3節に「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。どんな人でも、まず新しく造りかえられなければならない。今のままでは、生まれながらの自分であっては、神の国、神様の恵み、祝福、神様のいのちを頂くことができません。イエス様は「わたしは神から遣わされた者だ」と自覚していますから、私のようになりたかったら、神の国に住むものとならなければならない。そのためには、あなたが生まれたままでは駄目だよ、とイエス様は言われました。「新しく生まれかわりなさい」と。
このときニコデモ先生は、はたと困った。生まれかわれと言ったって、今からどうしてお母さんのおなかにもう一度戻って、オギャーと生まれかわれるだろうか。「人は年をとってから生まれることが、どうしてできますか」と。できませんね。そのようなことを言うことすらもおかしいくらい、当たり前のことですが、ニコデモ先生はまじめに「もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか」と。できるならば、とっくに何度となく生まれかわっています。ところが、できないのです。だから、イエス様は5節に「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない」と。「水と霊とから生れる」と言う。「水」とは、イエス様のお言葉、聖書のお言葉のことです。イエス様はご自分を「生ける水である」と例えています。イエス様がご自分を「生ける水である」と言われるのは、み言葉がイエス様ご自身なのです。そして、「霊」とは神様の霊に満たされること。聖霊によらなければ生まれかわることができない、新しくなることができないと言われます。6節に「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」と言われます。私たちが死んで、お母さんのおなかに入ることができたとしても、また生まれてきたら今と変わらない肉を持った、欠けだらけの、不足だらけの、罪にまみれた、穢(けが)れた私たちでしかない。だから、そのようなことをいくら繰り返してみても、救いにはならない。ではどうするか? それは、イエス様の言葉、神様の言葉を信じて従うとき、神様から力が与えられるから、その力によって生きる者となること。これが新しく生まれかわることなのです。これは今も変わらない真理です。皆さん、自分が変わりたいと願うなら、生まれかわらなければなりません。よみがえってくださったイエス様が天に帰られ、今私たちに神の霊を注いでくださっています。言うならば、よみがえってくださったイエス様は、見えないけれども私たちと共にいてくださると信じることです。これが生まれかわる秘けつです。
ガラテヤ人への手紙2章19,20節を朗読。
19節以下に「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。20 生きているのは、もはや、わたしではない」。これは聖徒パウロが今ある自分を語ったものです。パウロという人は、ピリピ人への手紙にあるように、ユダヤ人の名門の家に生まれ、学識豊かで将来を嘱望(しょくぼう)された前途有為な人物、宗教的にも熱心な人物でした。ですから、彼は自分ほど立派な人間はいない、自分ほど正しい人間、とがめられるところのない人間はいないと自負しておりました。そのために彼は熱心になってクリスチャンを迫害したのです。エルサレムの町から更に広げてダマスコという町にまで、彼はクリスチャンを迫害するために出かけていきました。ところが、ある日、その途中、突然大音響と共にまばゆいばかりの光に照らされて、彼は地に倒されてしまったのです。その大音響の中からイエス様の声を聞いた。彼の心の中に神様が語ってくださいました。恐らくパウロ以外にほかにも、仲間がいたに違いないけれども、彼らはただただ漠然とした大音響に聞こえただけで終わったでしょう。ただその中で一人パウロだけはそこでイエス様の声を聞きました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答えがあった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と。よみがえってくださったイエス様が直接パウロに語ってくださったのです。そのときにイエス様に触れたのです。
その時をきっかけに、彼の生涯は180度変わってしまって、完全に打ちのめされた。自分のプライド、自分の誇りとしていたもの、自慢していたもの、自分の義としていた己(おのれ)というものが木っ端みじんに破壊されてしまった。挫折です。そして完全にゼロになってしまって、ご破算になった。その後、神様の霊が彼に注がれ、御霊が注がれて生きる者と変えられたのです。その彼の生涯はその時をきっかけに180度変わって、今まで迫害していた、敵対していたイエス様を宣べ伝える伝道者へと変わっていく。まさに、これが新しく造りかえられることです。パウロが新しく造りかえられたのは、苦しいことを耐えた、何か一生懸命に我慢した、忌み断ちをして、卵断ちとか厳しい修行によって、自分を変えたのではない。ただ、一つだけです。主の言葉を聞き、それを信じて自分を捨てたのです。イエス様に出会って、イエス様を自分の主としたのです。
19節に「わたしはキリストと共に十字架につけられた」。イエス様が十字架にかけられたゴルゴダの丘で、パウロは一緒に十字架にかけられたのではありません。彼はそのころイエス様のことは直接知らないのです。イエス様が十字架にかけられたとき、彼は恐らくほかの所にいたに違いない。まだ幼少のころでしょう。だから直接は何も知らないのに、「わたしはキリストと共に十字架につけられた」と言っています。それは、イエス様を信じることによって、今まで生きてきた自分を捨てたのだ。イエス様が十字架に完全に息絶えてくださった。まさに、そのイエス様こそがわたしだと、イエス様と自分を一つにしてしまった。これが「水と霊とから生れる」ことです。
造りかえるためには古いものを全部取り壊さなければいけません。それがいちばん早い、部分的に手を入れたってあまり変わり映えがしない。それよりも、更地(さらち)にして、全く新しいものに建て替える。神様がわたしたちを造りかえるのはそうやってくださる。イエス様を信じて、今まで自分が、自分がと、自分が主になって生きてきた生き方をご破算にする。
では、今度はどうするか? その後20節に「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。イエス様が私の主となって、私の救い主となって、私の中に宿ってくださった。そのことを信じていく。イエス様はよみがえってくださったと、このイースターを通して教えられましたが、よみがえった御方はどこにいらっしゃるか。まさに、あなたの中にいらっしゃる。私たちはもう自分ではない。イエス様を信じる、救いにあずかることは、何でもかんでも「私が!」と言っていた私ではなくて、今度は主が、イエス様がよみがえって私の中に生きてくださっている。言うならば、今日、私たちが生きているのは、イエス様がよみがえって生きてくださる、そのいのちによって、生かされているのです。自分で生きていると思ったら大間違いです。イエス様が私を生かしてくださっている、と信じることが大切です。そしてイエス様が、私にすること、語ること、どんなことでも教えてくださる、また力を与えてくださる。すべてのものの根源となってくださる方ですから、私が足らなくても、欠けていても、主がいらっしゃるのですから、私たちを新しく造りかえてくださいます。これが「水と霊とから生れる」ことです。
イエス様が私のうちに生きておられる。「しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」。私たちはいまイエス様がよみがえって、私のうちにあって私を生かしてくださっている、と信じます。毎日、朝から晩まで、イエス様が私を生かしてくださるのですから、私たちはイエス様に聞かなければいけません。イエス様をそっちのけにして、「イエス様が私を生かしてくださる」とは言えません。イエス様が私を生かしてくださるのですから、イエス様、今日は何をしましょうか。どこへ行きましょうか。何を食べましょうか。これはどうしたらいいでしょうか。あれはどうしましょうか。ことごとくどんなこともイエス様に尋ねなければ、イエス様が私を生かしてくださっている、とは言えません。どうでしょうか、いつもイエス様が私の中に生きている、と信じていますか? ぜひ信じてください。それと同時にイエス様が、私に知恵を与え、力を与え、どんなことも導いてくださる方、救い主ですから、困ったことがあれば、どんなことでもイエス様に聞く、これが私たちの新しい者として生きる生き方です。
コリント人への第二の手紙5章17節に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」。ここに「だれでもキリストにあるならば」とあります。「キリストにある」と言いますことは、どうすること、何のことなのだろうか、と皆さん思われるに違いない。それは今申し上げましたように、イエス様が私のうちに宿って住んでくださる。生きてくださって、そして私を今日も生かしてくださる御方、私のいのちとなってくださったイエス様が、私と共にいらっしゃる。それを信じることが「キリストにある」ということです。そして、イエス様が私を今日も小さなこと、大きなこと、どんなことでもすべてのことの中に私を導いてくださる。私に思いを与えてくださる。導かれる、語ってくださるそのイエス様に私は従っていくのだ、と定めていく。これが私たちのすべてです。だから、どうぞ、一日中、いつもどんなときにもイエス・キリストを絶えず心に置いていくことです。
この木曜会でも教えられましたように「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(2テモテ2:8)「いつも思っている」、言い換えますと、主が私を生かしてくださる。今日も主が私のいのちとなってくださった。皆さん、朝起きてから「今日もイエス様、あなたが私のいのちです。主よ、今日は何をしましょうか。あれをしましょうか」「昨日の今日は、今日の明日、毎日決まったことだからいちいち聞くこともない。イエス様もうるさかろうから、黙っておこう」と、それは大間違いです。私たちは自分では生きられないのですから、昨日そうであっても今日どうなるか、イエス様が求められることが何であるかは、これは分かりませんから、私たちはいちいち聞くのです。えらいうるさいな、もういちいち聞かなければいけないのかなと、そうですよ。そうしないと私たちは「キリストにある」者となり得ない。それはうるさいように思うかもしれませんが、実に楽しいことです。もしうそだと思ったら、だまされたと思って、この午後からでもやってください。歩きながらでも、何をしながらでも、料理をしながらでも、ケンカをしながらでも、イエス様に聞いたらいいのです。私どもはいつもそのように主に触れ、主を主として生きる生活に変わる。これが自分を変えていく大きな力です。性情、性格どんなものも生活自体がガラッと変わっていきます。
Y姉は高校を卒業して、関東地方に出て働いていましたが、自分自身に失望して、なんとか人生をやり直したいと、福岡へ出てきました。ある日、ふと教会へ行ってみたいと思って、電柱広告の教会案内に導かれて、初めて福岡の礼拝に出たのです。そこで聖書の御言葉に触れたときに「ここに何かあるに違いない」と感じました。それから彼女はズーッと仕事の合間をぬって、礼拝、伝道集会、祈祷会、時には休みを取って火曜会と各集会に熱心に続いて来られました。そして、イエス様を信じて、新しい喜びに満たされました。そのときの洗礼式を今でも忘れませんけれど、彼女は本当に「イエス様が私の救い主となってくださいました」と喜びに輝いて、私どもも本当に感動しました。その後、いろんな中を通りましたが、やがて、導かれてイタリア人のご主人と結婚しました。言葉の分からない異国での生活、経済的なゆとりの無い生活。そのような生活の中で彼女が寄り頼むものはただ一つだけです。イエス様以外に頼るものはないのです。ですから、真剣に聖書を読み、祈る。何度となくくじけそうになりましたが、神様を見上げて、主が遣わしてくださったところであると信じ続けました。やがて子供が産まれるときになって入院をいたしました。言葉の分からないイタリアの病院で出産を迎える。その中にあっても絶えず御言葉を、御言葉を求め続けたのです。やがて子供が与えられました。姉妹が病院に入って出産を前にしたときに夜も眠られない。朝、空が明るくなって、そのときに神様が私を生かしてくださる。イエス様のいのちによって私はあがなわれた。その喜びが光とともに差してきた。その体験から生まれてきた子供に「ひかり」と名付けたのです。彼女は主によって生きる者となったのです。ご主人はまだ信仰がありませんが、彼女の祈りに支えられて、主の恵みのうちに過ごしています。
皆さんもそうですよ。私たちも変わることができるのです。それはただ一つだけ、「だれでもキリストにあるならば」、この一言ですよ。キリストにある生活、パウロが言うように「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり。最早(もはや)われ生くるにあらず」。わたしが生きているのではない。「キリスト我が内に在りて生くるなり」、イエス様が私のうちにあって私を生かしてくださる、その生かしてくださっているイエス様に聞かなければ、イエス様と共に生きていかなければ、私たちは変われない。共に生きていくとき、私たちは変わっているのです。そうでしょう。私たちが自分の今まで生きてきた生き方とガラッと180度かえて、イエス様を中心にして生きる生活に変わっていく。どうぞ、皆さん、この素晴らしいイエス様のいのちと恵みをぜひ体験していただきたいと思います。これは素晴らしい。人生が変わる。人が変わりますよ。そのようにイエス様によって新しく造りかえられる。皆さんもそうでしょう。
どうぞ、今ここにありますように17節に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。本当にそうです。「すべてが」ですよ。生活の隅から隅まで、自分の性情性格、見えるところ見えないところ一切合切ひっくるめて、すべてが新しく造りかえられていくのは、イエス様が、よみがえられた主が、私と共にあって、私の主となってくださる。その主に向かって私たちが絶えず耳を傾け、そのみ声に従って歩む者と変わっていくとき、神様は私たちを根こそぎに造りかえて、新しい者にしてくださる。今、私たちをそのように造りかえてくださっている。このことを信じてどうぞ、このイエス様に仕えていく新しい日々を生きたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。