詩篇51篇1節から19節までを朗読。
17節に「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」とあります。
詩篇51篇は、その表題に「ダビデがバテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの」と記されています。ダビデという人物については十分にご承知のとおりです。彼は、エッサイという羊飼いの家に生まれた子供でした。しかも兄弟は多くて、彼は八番目の子供で末っ子でした。だから、いてもいなくてもいいような存在、数に入らないような人物でもあったのです。サウル王様が神様から退けられた後、神様は祭司サムエルに命じてエッサイの家に遣(つか)わしました。「そこで次なる王様を選びなさい」と命じました。そのときにお兄さんから始まって一人一人神様の前に立たせまして、祈ったのです。一番上のお兄さん、エリアブはなかなか見栄えも立派で王にふさわしい容貌風格で、「これはいい」と思ったのです。サムエルも「この人ではないでしょうか」と神様に祈りましたが、「違う」と。その次の二番目、三番目、次々と立派な人物だったようです。でも神様は全部「駄目だ」とおっしゃいました。そうするといなくなってしまった。サムエルがエッサイに「もうほかに息子はいないのか」と言いましたら、「そういえば、忘れていました。おりました。今、野で羊を飼っていて、その番をしています」、「すぐ呼んできなさい」と言われまして、サムエルの許(もと)へ連れてこられたのが、ダビデだったのです。神様の前に祈ったところが、神様は「これがその人である。この者に油を注げ」と。「油を注ぐ」とは、神様の任職、王の位に神様が選んで定められた人を証詞する儀式、印でした。
ほかの兄弟よりもはるかに小さな存在であったダビデですが、神様は「人は外の顔かたちを見る。しかし、神は心を見る」とおっしゃいます。ダビデの心を見てくださった。お兄さんたちに比べれば、恐らくそれほど容ぼうも立派ではなかったのかもしれませんが、サムエル記を読みますと、ダビデもなかなか捨てたものではない。美男子であったと記されています。だから、お兄さんたちはもっとそれよりも素晴らしかったのだろうと思います。ダビデが神様から選ばれて王の位にやがて就くわけです。しかし、彼は、神様が見込んだだけあって、心が素晴らしい人です。何が素晴らしいか、神様を畏(おそ)れる、神様を信頼する。その点において徹底した人物です。私たちもダビデのこのようなところに学びたい、似る者となりたいと思う。ダビデはまさに神様第一だったのです。どのようなことがあっても、神様に信頼して揺るがない心を持ち続けていました。彼はそうやって次なる王様として、候補者として、事実王として神様から任命されたのですが、しかし現実はまだサウル王様が王の位に座っていました。サウル王様は、神様から捨てられてしまって後、確かに形としては王の位にいますけれども、心に平安がなくなる、喜びがなくなる。
私たちもそうなのです。神様から切り離されると、私たちの魂、心に喜びがなくなる。それは当然なのです。私たちは神様によって造られた者なのです。神様によって生きる者とされたのです。いうならば、小さな子供が親にすがって、親を信頼するように、私たちが神様と共にいることが、安心であり幸せなのです。小さなお子さんでもそうですが、親といるときが一番幸せです。
先日も木曜日でしたか、私の友人が息子を連れて来ました。その息子は今度高校受験ということで「自分はバスケットが好きだから、何としてもある高校に入りたい」と言うのです。それでわざわざ遠くから受験しに来た。お母さんも一緒に付いてきました。お母さんと私とは若いときから長い付き合いがあるのです。親子で来てうちへ泊まっていました。様子を見ていますと、殊に息子ですから、しかも年老いて与えられた一人息子なのです。男の子が一人、お姉さんたちはいるのですけれども、あまりお母さんには関心がないというか、その息子と二人で楽しそうに話している。私どもが夜早めに休みますと、息子とお母さんとが食堂のテーブルで楽しそうに話している。ソッとのぞいてみたら、うれしそうなのです。お母さんももちろんそうなのですが、息子もそうなのです。それは幸せです。なぜなら、親と何の遠慮も気遣いもない、ストレートにピタッと親と共にいるときはどんなに幸せかなと思いました。自分を振り返ってみましても、恐らくそのようなときがあったのだろうと思うのです。しかし、親とそのようにわだかまりのない関係、本当に信頼しあった関係の親子は、見ていても美しいし、また本当にそこに暖かい心があります。見るほうもうれしくなります。
私はその姿を見ながら、神様と人とはこのようでなければいけないと思いました。神様は私たちのお母さん以上のものです。肉にあってのお母さんですらも、それ程親子関係というものがどんなに大切であるかということが分かります。最近、日本の家庭が崩れてしまっていると言われます。家庭が崩れるとは、夫婦がちゃんとした夫婦になってない。親子が親子にならない。友達だったり、あるいはだんだん無関心になり、放ったらかしだったりと、本当に極端です。だから世の中はグチャグチャになる。神様との関係もそうです。私たちが神様によって造られ、この地上に命を与えられている。造り主である神様と信頼関係ができる、あるいは神様に対してわだかまりなく、何の障害もなく、つながることができる。私たちが神様と親しくなることができ、心にわだかまるものがない時は幸せです。
ところが、先ほど申し上げましたサウル王様は、神様から捨てられた途端に神様との関係が切れてしまう。それからの彼の人生は悲惨です。次から次へと疑心暗鬼、疑いや憤り、怒り、不安、失望、絶望、そのような思いが次から次へと彼を悩ますのです。王様でありながら、ひと時として心が安らぐ日がない。それは、次から次へと彼を悩ます問題があったというわけではないけれども、心が神様から離れてしまった結果です。私たちもいろいろな問題に遭い、日常生活でいろいろな事柄に会います。そうしますと、あれがあるから、私はこんなに心配、これがあるから、こんなに大変だと苦しんでいる。こんな病気だからとか、お金がないからだとか、こんな主人だからとか、こんな子供たちだからといって、いろいろな見える事情、境遇、事柄によって「私は不幸だ」と思っているでしょう。もっと、これがああなったら、こうなったら安心があるに違いない、平安があるに違いないと、私たちは思いますが、問題はそこにはない。あの人がこのようなことをしたから、私がこのような苦しい思いをしているとか、それは問題ではない。一番の根本は、私たちが神様から離れてしまった。親である、母親であり父親である神様の許から離れてしまった。そこに私たちの不安や恐れやつぶやき、苛立つ原因があることを知っておきたい。
サウル王様は、そのために大変悩みました。とうとうたまらなくなってすでに亡くなった祭司サムエルの霊を呼び出す、霊媒(れいばい)というとんでもない占い師のところに出かけていく。そして、やがてペリシテ人との戦いにおいて戦場で死んでしまいます。これは、神様がサウル王様をそのようにお取り扱いになられた。といって、サウル王様は、実は神様から愛されていたのです。そうでありながら、罪を犯して、悔い改めることをしなかった。それは一度だけではないのです。何度かサウル王様はそのようなことがあって、何度となく神様は警告を与えられたのですが、神様に立ち返ることをしなかった。これは決定的な事態です。
これは旧約聖書の昔物語ではなくて、実は、今私たちにも当てはまるのです。毎日の生活でいろいろな不安があり、恐れがあり、心配があり、苛立つことがあり、納得できないと怒り憤ることがある。その根本の原因は、目の前の事情、境遇、事柄ではない。私たちの神様との関係が崩れてしまっていることです。そのことを、よく考えなければならない。だから、サウル王様に代えて、神様はダビデを選んでくださった。ところが、このダビデは、何があっても神様を第一にしました。どのようなことでも、神様に聞き、神様に従うという、徹底した歩みをしました。もちろん、失敗もありました。あるとき、サウル王様から自分の命をねらわれて逃げました。サウル王様を恐れたのです。サムエル記を読みますと「ダビデはサウルを恐れた」とあります。怖くなった。サウルが何者かであるような大きな存在に見えたのです。その途端、彼は神様を忘れて逃げ出した。何とか命をながらえようとして、ペリシテ人ガテのアキシの所へ逃げていく。そして、そこでかくまわれようとしたのですが、そこも居心地が悪くて、彼が次なる王様であるということを見破られて、それでとうとう気違いの振りをして、そこから逃げ出していく。自分に恐れが生まれた。ダビデが失敗した原因は人を恐れ、事柄を恐れたのです。
私たちは、今このように健康だけれども、明日はどうなるかしら? と、自分が病気になることを恐れる。そのとき神様を忘れます。人を恐れる、あの人はもう苦手な人、あの人は何を言い出すか分からない。あの人と会うのは嫌だと思う。そうやって人を恐れたとき、私たちの心に神様を忘れてしまう。神様が、すべての主でいらっしゃることを忘れる。
ダビデがそのように人を恐れたり、あるいは事柄を恐れたり、何かを恐れるとき、彼は失敗をする。これは、私たちが警戒しなければならない事です。やがて、サウル王様が死んで、今度は次の王様として文字通りダビデがイスラエルという国を掌握する、支配するようになります。王の位に就いたのです。初めは彼も自分に力がないから、かつては羊飼いだったのですから、王様の家柄でも貴族でもない。当時の社会では、実に目立たない当たり前のような極々普通の生活でした。その彼が、一つの国の王様になったのですから、これは大変。だから、初めのうちは謙そんに、謙そんにへりくだって神様の前に歩みました。ところが、だんだんと国が安定してきました。自分に仕える者たちが、忠誠を尽くしてくれるようになった。そのときに彼の心にすきができる。だんだんと心が高ぶってくる、高慢になる。これも私たちが神様から離れていく、神様との関係が切れていく大変な事態です。先ほど申し上げたように、人を恐れたり、あるいは事情や境遇を恐れたりして、「これは大変、私はできない。これは困った」というときもそうでありますし、今度は逆に「おれはできるんだ」、「私は王様なんだ。もう部下は私の命令どおり動いてくれる」と、そのようになったときにダビデは高慢になりました。
ある日、アンモンの人々との戦いの真っ只中でした。戦争が起こっていたときに、ダビデは王宮に残っていた。自分の忠実な部下たちが戦いに出ています。彼はある日、暇ですから散歩していたときに一人の女性を見ました。ウリヤという一人の忠実な部下の奥さんでした。とうとうダビデはその奥さんを自分のものとして奪ってしまう。主人のウリヤを激戦の真っ只中に送り込んで殺してしまうのです。そしてダビデは事もなかったようにしていた。とんでもないことをしてしまった。そのことを読んでおきたいと思います。
サムエル記下12章7節から9節までを朗読。
罪を犯した後、ダビデが平気な顔をしていたときに、神様が神の人ナタンを遣わしてダビデに一つの譬えを話しました。大金持ちがいて、たくさんの羊を飼っていた。その隣に貧しい、たった一匹の羊を飼っている人がいた。あるとき金持ちの家に客が来た。その金持ちは、自分の飼っている羊をほふってごちそうを出そうと思ったのだけれども惜しくなって、隣のたった一匹の大切にしている羊を取って客のごちそうにした。あなたはこの者をどのように裁くか? と尋ねられました。そのときダビデは「そいつは、けしからん。その金持ちは何たる事をした。打ち首だ!」と言った。そのときにナタンが、7節に「あなたがその人です」。「あなたがその人です」、ダビデはまさか自分のこととは思わなかった。神様は王の位に置いてくださったばかりでなく、すべての必要を豊かに備えて、彼を恵んでくださったのです。7節の中ほど以下に「わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、8 あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた」。本当にそうなのです。神様がダビデをここまで憐(あわ)れんでくださって、顧みてくださって、必要なものをあふれるばかりに満たしてくださった。感謝こそすれ、何一つ不平不満を言うべきものは何もない。ところが、その後に「もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう」。ここで神様が問題にした事は、彼がした事、つまり部下を殺し、その愛する奥さんを自分が奪ってしまった、その事を責めているのではない。その事が起こってくる、その心に神様をないがしろにした、軽んじた。これまでも神様が必要なものを与えてくださった。それなのにまだ、自分が足らない、自分が欲しいと思ったものを、今度は自分の力で、自分の権力をかさに着て、王としての力でそれを奪い取ったこと、神様をないがしろにして自分が王となった。ここが問題なのです。だから、そこに「もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう」。「なぜ、わたしに求めなかったのだ」と神様はおっしゃるのです。ダビデは「おれは王様なのだから、おれが好きなようにしてもいいのだ。神様からしてもらったけれども、自分だってできる」と思った。そして心が高慢になったときに、神様の前に罪を犯したのです。その罪の具体的な結果として、人を殺すとか、そのように人の奥さんを奪うという具体的な行動になってくる。
私たちもそうです。あの人があのようなことをしたから憎まれて当然、あるいは非難を受けて当然、こんな仕打ちを受けて当然と、言いますが、実は、原因はそこにはない。神様がこのことをしていらっしゃる。神様が今私をここに置いてくださったと、神様の前に自分を低くすることがない。そのために具体的な、人を殺したり、物を盗んだり、憎んだり、苛立ったり、憤ったり、あるいはつぶやいたり、がっかりしたり……などとなる。だから、「わたしはこんなだから駄目だ」とか、あるいは「私はもっとこうなりたかった」とか、不平不満、そのようなものが起こってくるのは、神様を認めないからでしょう。神様が「お前はそれでよろしい」と言われる。それなのに「いや、そんなことは嫌だ。私はもっとこうなりたかった」「もっとこうでありたかった」「私の人生、こんな失敗をしてしまった。それはあいつがいけなかった。こいつがいけなかった。もっと時代が変わっていたら、また自分がやり直せるならば、もっと違った人生を私は生きるのだ」と言う。実はそこには神様を畏れる思いがない。神様が今日も命を与え、一人一人に食べる糧を与え、着るものを与え、住む場所を与えてくださる。すべてが神様の手の中にあること、その神様に信頼できない私があるから憤るのです。
毎日の生活の中でつぶやく思い、こん畜生と、あいつなんかと、心にフーッと思うことがあったら、「神様をないがしろにしている。神様に対して憤っている」と知るべきです。このとき、ダビデは自分の力を過信して、神様に聞こうとしない、尋ねようとしない、求めようとしなかった。そのことを神様はナタンを通して責めておられるのです。それに対して、ダビデは立派です。そのように言われたときに、彼は素直に「わたしは主に罪を犯しました」と悔い改める。そのとき、ナタンは「主もまたあなたの罪を除かれました」と、赦してくださるのです。そこが大切です。もちろん、罪を犯さないでいることは、神様を第一にして忠実に信頼することができれば、これは本当に幸いです。しかし、どうしても私たちはつい失敗をします。高ぶることがあります。あるいは自分で失望落胆して、人を恐れ、自分の弱さの故に、事情、境遇を恐れます。しかし、そのとき御霊はどこが間違っているかきちんと教えてくださいます。御言葉を通して、祈りを通して、あるいはこのように集会に出ているときに、自分の心の状態を神様は知っていて、「あなたはここから離れているではないか。ここがいけない」と語ってくださる。そのとき、「はい、ごめんなさい」と、神様の前に悔い改めることが大切です。ダビデはまさにその見本です。心砕けた者となって「本当にごめんなさい。わたしが悪うございました」と、神様の前にへりくだったのです。
創世記4章1節から6節までを朗読。
これはアベルとカインという、アダムとエバの子供たちのことです。アベルは羊を飼う者、牧羊者となります。カインは土を耕す農耕者となるのです。やがて自分たちの産物、初なりを持って神様の所にそれをささげてきました。ところが、神様はアベルの供え物を顧みて、喜んでくださって、それを受け入れてくださいました。ところが「カインとその供え物とは顧みられなかった」と記されています。その結果カインは、神様に対して憤ったのです。「どうして、私の奉げものを受け入れてくれないのだ。どうしてだ、どこが悪いのだ」と思った。その後カインは、8節に「カインは弟アベルに言った、『さあ、野原へ行こう』。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した」。カインはアベルを連れて行って、殺すのです。これは人類史上最初の殺人です。人を殺す。ところが、よく考えてみてください。アベルはカインに何をしたのでしょうか? 何もしていないのです。カインを恨んだのでもなく、カインの物を盗んだのでもなく、カインに対して何かしたのでもない。ただ、アベルは自分の与えられたものを神様にささげたのです。それを神様は受け入れてくださいました。ところが、カインについては、自分のささげ物を受け入れてもらえなかった。そして神様に対して怒った。だったら、神様に文句を言えばいいのですが、彼が具体的にしたことは、何の罪もないアベルを殺したのです。
私たちが人を恨んだり、ねたんだり、憤ったりする姿はまさにこれです。相手が悪いとか、何とか理屈をつけますけれども、そうではない。問題の根源は、神様に対して憤っている。「え!私はそんな大それた、神様になんて怒っていません」と、弁解します。
ダビデが「自分の力でどうして取ってはいけないのだ。おれは王様ではないか」と、それでウリヤの妻バテシバを自分のものとした。それは神様を押しのけて自分が王となっている。このときのカインもそうです。神様が「よし」とおっしゃったら「よし」。神様が「駄目」とおっしゃったら「駄目」です。神様のご選択についてカインが憤ったのです。「神様、あなたは偉そうなことを言われますけれども、そんな資格があなたにあるのですか」と、カインはそのように思ったのです。「私のだって、受け入れてもいいではないですか」。そうではないですよ。ここで語られていることは、神様のなさることは、人の目から不公平に見えても、それが正しいのだということです。だから、たとえ白いものを黒いと言われても「はい」と言うというのは、そこなのです。神様が、白いものを黒いとおっしゃったら、それは黒です。神様が黒いものを白とおっしゃったら、そのとおりです。人間の側が、被造物である私どもが「これは黒だ」「これは白だ」「これはいいことだ」「これは悪いことだ」と言うことと、神様がなさることとは必ずしも同じではないし、それどころか、何が優先されるかと言うと、神様の選択と決断のほうが先に立たなければならない。私どもがそれを忘れるとき、神様を恐れない者となります。
自分の生活の中で願ったことが実現できない。思いがけないことが起こってくる。願わないことが起こってくる。「どうしてやろうか」、「何でやろうか」と憤る。それは私どもが、神様がなさっていると信じられない。心に神様に対して憤るところがあるからです。まさに、カインとアベルの記事は、神様の絶対的な権威、それに対して人がどのように向き合うべきか、語られている事です。神様に対する思いが消えていくとき、神様を忘れて自分の憤りに走るとき、人は罪を犯してしまう。その心が具体化して外に現れて殺人となる。心に神様と正しい関係を築きあげていかなければならない。
ヨブ記22章21節から26節までを朗読。
21節に「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい」。「神と和らぎなさい」と、心を穏やかに、神様に信頼できる者となりなさいと。その方法は、23節に「あなたがもし全能者に立ち返って、おのれを低くし」とあります。心砕けた者となる。謙そんな者となって神様の前に立ち返って、「あなたの天幕から不義を除き去り」とは、生活すべての中から神様のみ心にかなわない事柄をすべて取り除いていく。24,25節に「オフルのこがね」「貴重なしろがね」とありますが、これこそ「私のよりどころ」「頼りとするもの」、それを全部捨て去って、神様第一に心を定めてしまう。そうするとき、私たちは「全能者を喜び、神に向かって顔をあげることができる」。私どもはいつも神様に向かって真正面から顔を上げて歩みたい。そこにこそ私たちの幸せがあり平安がある。神様と私たちの間をさえぎるカーテンのような薄い、それこそレースカーテンのようなものでも、もしあるならば、私たちの関係を失います。そして、心に苛立ちと怒りと憤りと失望落胆、つぶやきが生まれる。神様にいつも真正面から立ち得るように、砕けた悔いた心を、謙そんな心を絶えず持ち続けていきたい。
詩篇51篇17節に「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」とあります。絶えず神様の前に心砕けて、謙そんになって、十字架の主を仰いで「私のために、主が命を捨てて愛してくださった。ご自分をささげて、私たちを執り成して『父よ、彼らを赦し給え』と赦してくださる。私たちに命を与え、食べる糧を与え、着るものを与え、住まいを与え、すべてのものを豊かに備えてくださっている神様に心からへりくだって感謝していこうではありませんか。思いもかけない、願わないいろいろなことが起こってきたからといってつぶやかないで、それも神様がご存じです。だから、人にあれこれ言わないで、神様に求めればいいのです。ダビデがそうだったのでしょう。神様はおっしゃいました。「もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう」。彼は神様に求めないで、自分の力でそれをしようとした。もし私どもに足らないところがあり、不足していることがあり、欠けたところがあるなら、神様に求めていこうではありませんか。そうでなくて、自分の力で、何かお金で解決したり、あるいは人で解決したり、ここで何とかしようと走り回るから、神様からのろわれるのです。のろわれると言うのは、何も不幸な目に遭うというのではない。サウル王様のように平安を失います。喜べなくなります。私たちは罪なる者、滅びて当然の者を、今日も神様は憐れんでくださって、十字架を立ててくださったではないですか。その前にへりくだって、心砕けて神様の許へ立ち返りたい。そして、何があっても主を求めて、神様を第一として、神様に心晴れやかに顔を向けることができる歩みを日々続けていきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
17節に「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」とあります。
詩篇51篇は、その表題に「ダビデがバテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの」と記されています。ダビデという人物については十分にご承知のとおりです。彼は、エッサイという羊飼いの家に生まれた子供でした。しかも兄弟は多くて、彼は八番目の子供で末っ子でした。だから、いてもいなくてもいいような存在、数に入らないような人物でもあったのです。サウル王様が神様から退けられた後、神様は祭司サムエルに命じてエッサイの家に遣(つか)わしました。「そこで次なる王様を選びなさい」と命じました。そのときにお兄さんから始まって一人一人神様の前に立たせまして、祈ったのです。一番上のお兄さん、エリアブはなかなか見栄えも立派で王にふさわしい容貌風格で、「これはいい」と思ったのです。サムエルも「この人ではないでしょうか」と神様に祈りましたが、「違う」と。その次の二番目、三番目、次々と立派な人物だったようです。でも神様は全部「駄目だ」とおっしゃいました。そうするといなくなってしまった。サムエルがエッサイに「もうほかに息子はいないのか」と言いましたら、「そういえば、忘れていました。おりました。今、野で羊を飼っていて、その番をしています」、「すぐ呼んできなさい」と言われまして、サムエルの許(もと)へ連れてこられたのが、ダビデだったのです。神様の前に祈ったところが、神様は「これがその人である。この者に油を注げ」と。「油を注ぐ」とは、神様の任職、王の位に神様が選んで定められた人を証詞する儀式、印でした。
ほかの兄弟よりもはるかに小さな存在であったダビデですが、神様は「人は外の顔かたちを見る。しかし、神は心を見る」とおっしゃいます。ダビデの心を見てくださった。お兄さんたちに比べれば、恐らくそれほど容ぼうも立派ではなかったのかもしれませんが、サムエル記を読みますと、ダビデもなかなか捨てたものではない。美男子であったと記されています。だから、お兄さんたちはもっとそれよりも素晴らしかったのだろうと思います。ダビデが神様から選ばれて王の位にやがて就くわけです。しかし、彼は、神様が見込んだだけあって、心が素晴らしい人です。何が素晴らしいか、神様を畏(おそ)れる、神様を信頼する。その点において徹底した人物です。私たちもダビデのこのようなところに学びたい、似る者となりたいと思う。ダビデはまさに神様第一だったのです。どのようなことがあっても、神様に信頼して揺るがない心を持ち続けていました。彼はそうやって次なる王様として、候補者として、事実王として神様から任命されたのですが、しかし現実はまだサウル王様が王の位に座っていました。サウル王様は、神様から捨てられてしまって後、確かに形としては王の位にいますけれども、心に平安がなくなる、喜びがなくなる。
私たちもそうなのです。神様から切り離されると、私たちの魂、心に喜びがなくなる。それは当然なのです。私たちは神様によって造られた者なのです。神様によって生きる者とされたのです。いうならば、小さな子供が親にすがって、親を信頼するように、私たちが神様と共にいることが、安心であり幸せなのです。小さなお子さんでもそうですが、親といるときが一番幸せです。
先日も木曜日でしたか、私の友人が息子を連れて来ました。その息子は今度高校受験ということで「自分はバスケットが好きだから、何としてもある高校に入りたい」と言うのです。それでわざわざ遠くから受験しに来た。お母さんも一緒に付いてきました。お母さんと私とは若いときから長い付き合いがあるのです。親子で来てうちへ泊まっていました。様子を見ていますと、殊に息子ですから、しかも年老いて与えられた一人息子なのです。男の子が一人、お姉さんたちはいるのですけれども、あまりお母さんには関心がないというか、その息子と二人で楽しそうに話している。私どもが夜早めに休みますと、息子とお母さんとが食堂のテーブルで楽しそうに話している。ソッとのぞいてみたら、うれしそうなのです。お母さんももちろんそうなのですが、息子もそうなのです。それは幸せです。なぜなら、親と何の遠慮も気遣いもない、ストレートにピタッと親と共にいるときはどんなに幸せかなと思いました。自分を振り返ってみましても、恐らくそのようなときがあったのだろうと思うのです。しかし、親とそのようにわだかまりのない関係、本当に信頼しあった関係の親子は、見ていても美しいし、また本当にそこに暖かい心があります。見るほうもうれしくなります。
私はその姿を見ながら、神様と人とはこのようでなければいけないと思いました。神様は私たちのお母さん以上のものです。肉にあってのお母さんですらも、それ程親子関係というものがどんなに大切であるかということが分かります。最近、日本の家庭が崩れてしまっていると言われます。家庭が崩れるとは、夫婦がちゃんとした夫婦になってない。親子が親子にならない。友達だったり、あるいはだんだん無関心になり、放ったらかしだったりと、本当に極端です。だから世の中はグチャグチャになる。神様との関係もそうです。私たちが神様によって造られ、この地上に命を与えられている。造り主である神様と信頼関係ができる、あるいは神様に対してわだかまりなく、何の障害もなく、つながることができる。私たちが神様と親しくなることができ、心にわだかまるものがない時は幸せです。
ところが、先ほど申し上げましたサウル王様は、神様から捨てられた途端に神様との関係が切れてしまう。それからの彼の人生は悲惨です。次から次へと疑心暗鬼、疑いや憤り、怒り、不安、失望、絶望、そのような思いが次から次へと彼を悩ますのです。王様でありながら、ひと時として心が安らぐ日がない。それは、次から次へと彼を悩ます問題があったというわけではないけれども、心が神様から離れてしまった結果です。私たちもいろいろな問題に遭い、日常生活でいろいろな事柄に会います。そうしますと、あれがあるから、私はこんなに心配、これがあるから、こんなに大変だと苦しんでいる。こんな病気だからとか、お金がないからだとか、こんな主人だからとか、こんな子供たちだからといって、いろいろな見える事情、境遇、事柄によって「私は不幸だ」と思っているでしょう。もっと、これがああなったら、こうなったら安心があるに違いない、平安があるに違いないと、私たちは思いますが、問題はそこにはない。あの人がこのようなことをしたから、私がこのような苦しい思いをしているとか、それは問題ではない。一番の根本は、私たちが神様から離れてしまった。親である、母親であり父親である神様の許から離れてしまった。そこに私たちの不安や恐れやつぶやき、苛立つ原因があることを知っておきたい。
サウル王様は、そのために大変悩みました。とうとうたまらなくなってすでに亡くなった祭司サムエルの霊を呼び出す、霊媒(れいばい)というとんでもない占い師のところに出かけていく。そして、やがてペリシテ人との戦いにおいて戦場で死んでしまいます。これは、神様がサウル王様をそのようにお取り扱いになられた。といって、サウル王様は、実は神様から愛されていたのです。そうでありながら、罪を犯して、悔い改めることをしなかった。それは一度だけではないのです。何度かサウル王様はそのようなことがあって、何度となく神様は警告を与えられたのですが、神様に立ち返ることをしなかった。これは決定的な事態です。
これは旧約聖書の昔物語ではなくて、実は、今私たちにも当てはまるのです。毎日の生活でいろいろな不安があり、恐れがあり、心配があり、苛立つことがあり、納得できないと怒り憤ることがある。その根本の原因は、目の前の事情、境遇、事柄ではない。私たちの神様との関係が崩れてしまっていることです。そのことを、よく考えなければならない。だから、サウル王様に代えて、神様はダビデを選んでくださった。ところが、このダビデは、何があっても神様を第一にしました。どのようなことでも、神様に聞き、神様に従うという、徹底した歩みをしました。もちろん、失敗もありました。あるとき、サウル王様から自分の命をねらわれて逃げました。サウル王様を恐れたのです。サムエル記を読みますと「ダビデはサウルを恐れた」とあります。怖くなった。サウルが何者かであるような大きな存在に見えたのです。その途端、彼は神様を忘れて逃げ出した。何とか命をながらえようとして、ペリシテ人ガテのアキシの所へ逃げていく。そして、そこでかくまわれようとしたのですが、そこも居心地が悪くて、彼が次なる王様であるということを見破られて、それでとうとう気違いの振りをして、そこから逃げ出していく。自分に恐れが生まれた。ダビデが失敗した原因は人を恐れ、事柄を恐れたのです。
私たちは、今このように健康だけれども、明日はどうなるかしら? と、自分が病気になることを恐れる。そのとき神様を忘れます。人を恐れる、あの人はもう苦手な人、あの人は何を言い出すか分からない。あの人と会うのは嫌だと思う。そうやって人を恐れたとき、私たちの心に神様を忘れてしまう。神様が、すべての主でいらっしゃることを忘れる。
ダビデがそのように人を恐れたり、あるいは事柄を恐れたり、何かを恐れるとき、彼は失敗をする。これは、私たちが警戒しなければならない事です。やがて、サウル王様が死んで、今度は次の王様として文字通りダビデがイスラエルという国を掌握する、支配するようになります。王の位に就いたのです。初めは彼も自分に力がないから、かつては羊飼いだったのですから、王様の家柄でも貴族でもない。当時の社会では、実に目立たない当たり前のような極々普通の生活でした。その彼が、一つの国の王様になったのですから、これは大変。だから、初めのうちは謙そんに、謙そんにへりくだって神様の前に歩みました。ところが、だんだんと国が安定してきました。自分に仕える者たちが、忠誠を尽くしてくれるようになった。そのときに彼の心にすきができる。だんだんと心が高ぶってくる、高慢になる。これも私たちが神様から離れていく、神様との関係が切れていく大変な事態です。先ほど申し上げたように、人を恐れたり、あるいは事情や境遇を恐れたりして、「これは大変、私はできない。これは困った」というときもそうでありますし、今度は逆に「おれはできるんだ」、「私は王様なんだ。もう部下は私の命令どおり動いてくれる」と、そのようになったときにダビデは高慢になりました。
ある日、アンモンの人々との戦いの真っ只中でした。戦争が起こっていたときに、ダビデは王宮に残っていた。自分の忠実な部下たちが戦いに出ています。彼はある日、暇ですから散歩していたときに一人の女性を見ました。ウリヤという一人の忠実な部下の奥さんでした。とうとうダビデはその奥さんを自分のものとして奪ってしまう。主人のウリヤを激戦の真っ只中に送り込んで殺してしまうのです。そしてダビデは事もなかったようにしていた。とんでもないことをしてしまった。そのことを読んでおきたいと思います。
サムエル記下12章7節から9節までを朗読。
罪を犯した後、ダビデが平気な顔をしていたときに、神様が神の人ナタンを遣わしてダビデに一つの譬えを話しました。大金持ちがいて、たくさんの羊を飼っていた。その隣に貧しい、たった一匹の羊を飼っている人がいた。あるとき金持ちの家に客が来た。その金持ちは、自分の飼っている羊をほふってごちそうを出そうと思ったのだけれども惜しくなって、隣のたった一匹の大切にしている羊を取って客のごちそうにした。あなたはこの者をどのように裁くか? と尋ねられました。そのときダビデは「そいつは、けしからん。その金持ちは何たる事をした。打ち首だ!」と言った。そのときにナタンが、7節に「あなたがその人です」。「あなたがその人です」、ダビデはまさか自分のこととは思わなかった。神様は王の位に置いてくださったばかりでなく、すべての必要を豊かに備えて、彼を恵んでくださったのです。7節の中ほど以下に「わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、8 あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた」。本当にそうなのです。神様がダビデをここまで憐(あわ)れんでくださって、顧みてくださって、必要なものをあふれるばかりに満たしてくださった。感謝こそすれ、何一つ不平不満を言うべきものは何もない。ところが、その後に「もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう」。ここで神様が問題にした事は、彼がした事、つまり部下を殺し、その愛する奥さんを自分が奪ってしまった、その事を責めているのではない。その事が起こってくる、その心に神様をないがしろにした、軽んじた。これまでも神様が必要なものを与えてくださった。それなのにまだ、自分が足らない、自分が欲しいと思ったものを、今度は自分の力で、自分の権力をかさに着て、王としての力でそれを奪い取ったこと、神様をないがしろにして自分が王となった。ここが問題なのです。だから、そこに「もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう」。「なぜ、わたしに求めなかったのだ」と神様はおっしゃるのです。ダビデは「おれは王様なのだから、おれが好きなようにしてもいいのだ。神様からしてもらったけれども、自分だってできる」と思った。そして心が高慢になったときに、神様の前に罪を犯したのです。その罪の具体的な結果として、人を殺すとか、そのように人の奥さんを奪うという具体的な行動になってくる。
私たちもそうです。あの人があのようなことをしたから憎まれて当然、あるいは非難を受けて当然、こんな仕打ちを受けて当然と、言いますが、実は、原因はそこにはない。神様がこのことをしていらっしゃる。神様が今私をここに置いてくださったと、神様の前に自分を低くすることがない。そのために具体的な、人を殺したり、物を盗んだり、憎んだり、苛立ったり、憤ったり、あるいはつぶやいたり、がっかりしたり……などとなる。だから、「わたしはこんなだから駄目だ」とか、あるいは「私はもっとこうなりたかった」とか、不平不満、そのようなものが起こってくるのは、神様を認めないからでしょう。神様が「お前はそれでよろしい」と言われる。それなのに「いや、そんなことは嫌だ。私はもっとこうなりたかった」「もっとこうでありたかった」「私の人生、こんな失敗をしてしまった。それはあいつがいけなかった。こいつがいけなかった。もっと時代が変わっていたら、また自分がやり直せるならば、もっと違った人生を私は生きるのだ」と言う。実はそこには神様を畏れる思いがない。神様が今日も命を与え、一人一人に食べる糧を与え、着るものを与え、住む場所を与えてくださる。すべてが神様の手の中にあること、その神様に信頼できない私があるから憤るのです。
毎日の生活の中でつぶやく思い、こん畜生と、あいつなんかと、心にフーッと思うことがあったら、「神様をないがしろにしている。神様に対して憤っている」と知るべきです。このとき、ダビデは自分の力を過信して、神様に聞こうとしない、尋ねようとしない、求めようとしなかった。そのことを神様はナタンを通して責めておられるのです。それに対して、ダビデは立派です。そのように言われたときに、彼は素直に「わたしは主に罪を犯しました」と悔い改める。そのとき、ナタンは「主もまたあなたの罪を除かれました」と、赦してくださるのです。そこが大切です。もちろん、罪を犯さないでいることは、神様を第一にして忠実に信頼することができれば、これは本当に幸いです。しかし、どうしても私たちはつい失敗をします。高ぶることがあります。あるいは自分で失望落胆して、人を恐れ、自分の弱さの故に、事情、境遇を恐れます。しかし、そのとき御霊はどこが間違っているかきちんと教えてくださいます。御言葉を通して、祈りを通して、あるいはこのように集会に出ているときに、自分の心の状態を神様は知っていて、「あなたはここから離れているではないか。ここがいけない」と語ってくださる。そのとき、「はい、ごめんなさい」と、神様の前に悔い改めることが大切です。ダビデはまさにその見本です。心砕けた者となって「本当にごめんなさい。わたしが悪うございました」と、神様の前にへりくだったのです。
創世記4章1節から6節までを朗読。
これはアベルとカインという、アダムとエバの子供たちのことです。アベルは羊を飼う者、牧羊者となります。カインは土を耕す農耕者となるのです。やがて自分たちの産物、初なりを持って神様の所にそれをささげてきました。ところが、神様はアベルの供え物を顧みて、喜んでくださって、それを受け入れてくださいました。ところが「カインとその供え物とは顧みられなかった」と記されています。その結果カインは、神様に対して憤ったのです。「どうして、私の奉げものを受け入れてくれないのだ。どうしてだ、どこが悪いのだ」と思った。その後カインは、8節に「カインは弟アベルに言った、『さあ、野原へ行こう』。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した」。カインはアベルを連れて行って、殺すのです。これは人類史上最初の殺人です。人を殺す。ところが、よく考えてみてください。アベルはカインに何をしたのでしょうか? 何もしていないのです。カインを恨んだのでもなく、カインの物を盗んだのでもなく、カインに対して何かしたのでもない。ただ、アベルは自分の与えられたものを神様にささげたのです。それを神様は受け入れてくださいました。ところが、カインについては、自分のささげ物を受け入れてもらえなかった。そして神様に対して怒った。だったら、神様に文句を言えばいいのですが、彼が具体的にしたことは、何の罪もないアベルを殺したのです。
私たちが人を恨んだり、ねたんだり、憤ったりする姿はまさにこれです。相手が悪いとか、何とか理屈をつけますけれども、そうではない。問題の根源は、神様に対して憤っている。「え!私はそんな大それた、神様になんて怒っていません」と、弁解します。
ダビデが「自分の力でどうして取ってはいけないのだ。おれは王様ではないか」と、それでウリヤの妻バテシバを自分のものとした。それは神様を押しのけて自分が王となっている。このときのカインもそうです。神様が「よし」とおっしゃったら「よし」。神様が「駄目」とおっしゃったら「駄目」です。神様のご選択についてカインが憤ったのです。「神様、あなたは偉そうなことを言われますけれども、そんな資格があなたにあるのですか」と、カインはそのように思ったのです。「私のだって、受け入れてもいいではないですか」。そうではないですよ。ここで語られていることは、神様のなさることは、人の目から不公平に見えても、それが正しいのだということです。だから、たとえ白いものを黒いと言われても「はい」と言うというのは、そこなのです。神様が、白いものを黒いとおっしゃったら、それは黒です。神様が黒いものを白とおっしゃったら、そのとおりです。人間の側が、被造物である私どもが「これは黒だ」「これは白だ」「これはいいことだ」「これは悪いことだ」と言うことと、神様がなさることとは必ずしも同じではないし、それどころか、何が優先されるかと言うと、神様の選択と決断のほうが先に立たなければならない。私どもがそれを忘れるとき、神様を恐れない者となります。
自分の生活の中で願ったことが実現できない。思いがけないことが起こってくる。願わないことが起こってくる。「どうしてやろうか」、「何でやろうか」と憤る。それは私どもが、神様がなさっていると信じられない。心に神様に対して憤るところがあるからです。まさに、カインとアベルの記事は、神様の絶対的な権威、それに対して人がどのように向き合うべきか、語られている事です。神様に対する思いが消えていくとき、神様を忘れて自分の憤りに走るとき、人は罪を犯してしまう。その心が具体化して外に現れて殺人となる。心に神様と正しい関係を築きあげていかなければならない。
ヨブ記22章21節から26節までを朗読。
21節に「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい」。「神と和らぎなさい」と、心を穏やかに、神様に信頼できる者となりなさいと。その方法は、23節に「あなたがもし全能者に立ち返って、おのれを低くし」とあります。心砕けた者となる。謙そんな者となって神様の前に立ち返って、「あなたの天幕から不義を除き去り」とは、生活すべての中から神様のみ心にかなわない事柄をすべて取り除いていく。24,25節に「オフルのこがね」「貴重なしろがね」とありますが、これこそ「私のよりどころ」「頼りとするもの」、それを全部捨て去って、神様第一に心を定めてしまう。そうするとき、私たちは「全能者を喜び、神に向かって顔をあげることができる」。私どもはいつも神様に向かって真正面から顔を上げて歩みたい。そこにこそ私たちの幸せがあり平安がある。神様と私たちの間をさえぎるカーテンのような薄い、それこそレースカーテンのようなものでも、もしあるならば、私たちの関係を失います。そして、心に苛立ちと怒りと憤りと失望落胆、つぶやきが生まれる。神様にいつも真正面から立ち得るように、砕けた悔いた心を、謙そんな心を絶えず持ち続けていきたい。
詩篇51篇17節に「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」とあります。絶えず神様の前に心砕けて、謙そんになって、十字架の主を仰いで「私のために、主が命を捨てて愛してくださった。ご自分をささげて、私たちを執り成して『父よ、彼らを赦し給え』と赦してくださる。私たちに命を与え、食べる糧を与え、着るものを与え、住まいを与え、すべてのものを豊かに備えてくださっている神様に心からへりくだって感謝していこうではありませんか。思いもかけない、願わないいろいろなことが起こってきたからといってつぶやかないで、それも神様がご存じです。だから、人にあれこれ言わないで、神様に求めればいいのです。ダビデがそうだったのでしょう。神様はおっしゃいました。「もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう」。彼は神様に求めないで、自分の力でそれをしようとした。もし私どもに足らないところがあり、不足していることがあり、欠けたところがあるなら、神様に求めていこうではありませんか。そうでなくて、自分の力で、何かお金で解決したり、あるいは人で解決したり、ここで何とかしようと走り回るから、神様からのろわれるのです。のろわれると言うのは、何も不幸な目に遭うというのではない。サウル王様のように平安を失います。喜べなくなります。私たちは罪なる者、滅びて当然の者を、今日も神様は憐れんでくださって、十字架を立ててくださったではないですか。その前にへりくだって、心砕けて神様の許へ立ち返りたい。そして、何があっても主を求めて、神様を第一として、神様に心晴れやかに顔を向けることができる歩みを日々続けていきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。