いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(134)「神様の思い」

2014年02月11日 | 聖書からのメッセージ
 ローマ人への手紙11章33節から36節までを朗読。

 33節に「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」とあります。
 この記事の前、11章には、イスラエルの民が神様から選ばれ、愛された民でありながら、神様の救いは異邦人のほうに伝えられていったではないかとあります。神様はイスラエルの人々を見捨てられたのだろうか、という質問にパウロが答えて書いたものです。旧約聖書を読みますと「救いはイスラエルから」と記されています。まずイスラエルの人々が救われることによって、そのほかの神様を知らない多くの民も救いにあずかるのだと。

ところが、イエス様がお生まれになった後、十字架のみ苦しみを受けられて、よみがえられました。弟子たちはそれぞれ神様の使命を受けて、ペンテコステの霊に満たされ伝道を始めました。ところが、パウロの伝道がそうであったように、地中海沿岸のイスラエルよりも異邦人へと、福音が伝えられていくことになった。そのような現状を見て「どうして神様は約束を変えたのか」「なぜ、イスラエルを救われないのだろうか」という疑問があった。ところが、11章を通してパウロが語っているのは、決して神様はイスラエルを捨てているわけではない。その証拠に、救い主イエス・キリストは他の民族に生まれたのではなくて、まさにユダヤ人そのものの中に救い主として来てくださったではないか。それを拒んだのはあなた方ではなかったか。だからといって、神様はイスラエルの民を捨てたのではない。イエス様の救いが、異邦人と言われている、神を知らない民の所に福音が伝えられることによって、それを見たイスラエルの民が「本来、自分たちがあの恵みにあずかるべきであったのに間違っていた」と悔い改めて、神様の所へ求めてくるようにと、そのような願いをもって異邦人にまず福音が宣べ伝えられている。だからといってイスラエルを見捨てたわけではない。そのようにひがむことはない。それよりもむしろ自分たちこそ救われるべきだと、どうして神様の所へ帰ってこないのだ、とパウロは書いているのです。

その最後33節に「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は」と。言い換えますと、神様のなさるご計画、神様が抱いてくださる一つ一つの事柄は、私たちの知恵では到底測り知れない、というのです。一見したところは、異邦人に神様は肩入れしているように見え、自分たちを見捨てたという不平不満の思いを持っているかもしれないが、それは間違いだ。神様のみ思いはもっと違うところに、神様のご計画はもっと深いことがあるのだ、と言っているのです。ですから「神の知恵と知識との富は」とありますが、神様の知恵、神様の知識がどんなに豊かであるか。「富」とはそのような意味です。深くまた豊かな神様の知恵と知識であると。神様のみ思いは人間がいくら考えても測り知ることができない、知り尽くすことができない。

また「そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」とあります。「さばき」とは、神様の政(まつりごと)、政治、私たちに行う神様の判断、ご支配はどのように及んでくるのか、何をどうしようとしてくださるのか、これは「窮めがたく」、私たちが計り知ることができない。また「その道は測りがたい」とありますが、神様が備えてくださる道は千変万化、どんなにでもあり得る。このような神様のわざの中で私たちは導かれ、持ち運ばれているのです。これは私たちが神様を信じるとはどういうことなのか? それと密接にかかわった事柄です。あるいはもっと信仰の根本、基本です。神様を信じたとき、具体的に何をどうすることなのか? それにはいろいろなことがあると思いますが、一番分かりやすくてしかも最も基本的なことは、まず私たち自身がこの地上に神様によって置かれていることです。自分は自分のものであって、自分のものではない。何かややこしいですが、私たちは造り主である神様によって造られ、神様がご計画を持って導いている。決して私たちが自分の計画や、自分の知恵や努力や業で今あるのではないことを認める。これが神様を認める、信じることですよ。だから、「神様を信じる」と言いながら、「どうしてこんなになったのだ」とつぶやくならば、それは神様を信じていない。実に分かりやすいのです。

ところが、私どもはそれを忘れる。毎日毎日、神様は必要なものを与え、知恵を与え、力を与えて、またなすべきことを備えてくださっている。それなのに何だか自分で考えて、自分で決めて、自分で努力してやっているように思う。神様を忘れている。これが常に問題になる点です。神様を信じていくことは、神様がすべての主でいらっしゃって、中心であり、私を導いてくださる方であることを認めることにほかなりません。私たちは何をどうしたらいいか分からないことばかりです。ところが、自分が分かっているように思う。あるいは自分の見えるところ、自分の手で触るところ、自分が努力してやることが最善にして最高なものだと思い込む。これが神様を押しのけていく私達の性質です。私たちはともするとすぐそのように考えます。「これをこうしたら次はこうなって、その次はこうなってこうなって、私の願いが実現する」というように、自分でシナリオを書き、筋立てをして、これが私にとって一番幸せな道だと、決めて掛かる。その心には、その思いには、神様が備えてくださっているという、へりくだった、砕けた思いがない。神様が喜んでくださるのは、燔祭やいけにえを喜ばれるのではなく、私たちの砕けた、悔いた心を喜んでくださるのです。

「砕けた、悔いた心」になるには、どうするか? 実に簡単です。一つ一つの事の中に神様の手を、力を承認する。心から「本当にそうでした」と、神様の手に自分を委ねていく。これが砕けた魂です。「私は悪かった」とか「私ができなかったから悪かった」というのではない。ところが、世間で「砕けた魂」とか「謙そんな」と言うのは、「自分はできないから、今度はできるようになりましょう」と言う姿勢です。

ダビデがバテシバとの問題を起こしたときに、預言者ナタンから「あなたがその人です」と言われて、ダビデは「そうだった、神様がこれまですべての必要を備えてくださったのだ」と認めたのです。だから、「神様、ごめんなさい。わたしは主に罪を犯しました」と告白しました。これが正しい砕けた姿勢です。いうならば、神様を認めて、神様に対して自分がどのような者であるか、認めるのです。ところが、神様のことを横に置いて、神様を認めないで考えると、「あの失敗、あんなことをして私が悪かった」と言います。「私が悪かった。今度するときはあのようにはしない」と言うでしょう。「次は私がちゃんとやるから……」「次は私が間違いのないようにするから、ごめんなさい」「今回は私が本当に悪かった。私が至らなくて、知恵がなくて、私ができなくて失敗してしまった」「私が強情を張ったため、このようなことになってしまって申し訳ない。次は決してこのようなことはやりませんから……」と。新聞紙上でいつもいろいろな人、政治家も経営者も言うではないですか。「もう二度とこのようなことはしません」。それが謙遜であるように思いますが、これは大間違いです。決して謙遜ではない。「次の時には、このような失敗をしない」と。そこにごう慢があるでしょう。
先ごろ、大臣が言葉のために非難されていますが、彼が言うのは「もう二度とこのようなことは言いません。次のときは絶対そのようなことは言いませんから」と。実は、それが問題ではない。その人が神様に対してどうであるか、ということです。世の中は変わらない、それどころか、真の意味での謙遜がない。神様を認める、一つ一つどのようなことも、神様の見えないご計画とみ思いによっていることを確信する。24時間、365日、自覚していくことが、神様を信じることです。日常生活の中で、自分が計画したとおりにいかない、思ったとおりにいかない、あるいは考えもしない、思いもしない事態や事柄が起こる。そうすると、「どうしてだ!」「なんでだろう」と言ってうろたえる。そのとき神様がいらっしゃることを忘れている。神様が今このことをしてくださった。私には分からないけれども、神様は大きなご計画、深いみ思いをもって、この事をしてくださっている。これを信じるのか信じないのか。そこが神様を信じるか、信じないかということです。「いや、私は神様を信じている。信じているけれども心配なのです」と言うなら、これは矛盾した話です。神様を信じているのでしたら、神様がこのことを起こしていらっしゃる。神様が今この事態の中に私を置いてくださっている。ここからどのように神様がしてくださるか、私には分からないけれども、神様が……と、そこに絶えずとどまっていく。それが謙遜です。砕けた魂とは、そのような魂です。だから、「今日も神様、あなたが私のために備えられた一日でした。私の知恵や、私の計画ではなく、神様、あなたがここまで導いてくださいました」と、神様に感謝し喜ぶことができる。また自分の力でどのようにしたらいいか分からない、与えられた問題や事柄をどのように処理したらいいか、どう決断したらいいか分からないことがたくさんあります。そのとき、人に聞きます。あるいはいろいろな情報を調べます。あるいはいろいろな自分の経験に基づいて判断しようとします。それは神様抜きの姿勢です。そうではなくて、分からないことがあり、どのように判断したらいいか分からない、どのように決断すべきか分からないとき、「そうだ、今ここで私の主は誰なのか。私にその道を備えられる方はどなたであるか」、そこで思い返すことが大切です。これが実際の信仰生活の歩み方です。だから、分からないこと、右にすべきか左にすべきか、あるいは進むべきかとどまるべきか、皆目どちらにしたらいいか分からないとき、「神様どのようにしましょうか」と尋ねる。人に尋ねるよりも誰かに聞くよりも、まず神様に聞くところに、神様を信じる者の信仰の歩みがあります。ところが、まず人に聞き、あるいは経験者に聞き、あちらに頼みこちらに頼み、そうしてやった挙句にもうどうにもならなくなって、「そうだ。神様に頼もう、神様にお祈りしよう」となる。順序が逆です。まず、神様がある。はじめに神様がいらっしゃって……、これが私たちの信仰の歩み方です。

どうぞ、自分自身の日々の歩みを振り返って、どこに神様がいらっしゃると言えるだろうか? 何か知らないけれども、全体的に神様がいらっしゃるに違いないけれども、個別の事柄、一つ一つについては私がやらなければ……と。いうならば総論賛成、総論、全体は神様、でも個別の事柄は私がやらなければいけない。家庭のことは、家計のことは、子供たちのことは、私が、私が、私が、と言っている間は、神様を信じているとは言えない。そのような小さな事柄で、私が、私が、とやっているうちに、神様を遠くへ押しやってしまっている。これが私たちの一番の問題点です。

ですから、33節に「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」と。神様が私どもに備えていること、私たちに願っていることはどのようなことであるか? また、そのことを通して神様は私たちに何をしようとしているか、それら全部を知り尽くすことはできません。その結論、行き着く先がどのようになっているか、事態がどのように展開していくのか、どのように変わっていくのか、私たちには分からないのです。分からないのが当然です。ところが、人は分からないのが嫌なのです。何とか自分が分かっておきたい、知っておきたい。自分の人生なのだから、私の、私の……と、自分が中心になろうとするから、分からないことに苛立つ。分からないこと、これが私たちの初めからの姿です。分からないで当然です。何もかも分かっている、ということ自体がおかしい。だから、将来のことについても分かりません。何がどのようにこれから変わっていくのか分からない。分からないでいいのです。知っている方がいます。神様が全部を知っていらっしゃる。

詩篇139篇1節から6節までを朗読。

神様は私たちのすべてをご存じでいらっしゃる。1節に「あなたはわたしを探り、わたしを知り尽くされました」とあります。隠すところがない。神様の前には裸もいいところ、何もかも全部知られている。そして、神様は私たちの日々の歩みも知っている。2節以下に「すわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます」と、また「わが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます」。それは当然です。なぜなら、神様が私たちにそのことを備えているのですから。神様にいくら隠そうと思っても出来ません。また、神様の手を超えて何も起こらないし、何もあり得ないのです。すべてが神様に知り尽くされ、組み込まれている事柄です。だから、神様の御手にしっかりと握られていることを、まず認めたいと思います。心に思うこと、考えることも神様が一つ一つ教えてくださる。私たちはそれを全て知り尽くすことはできません。だから、5節に「あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます」。前後左右、上も下もことごとく神様が私たちを握ってくださる。パウロはアテネでこう言っています。「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである」(使徒17:28)。神様の中に取り込まれてと言いますか、神様に握られて生きているものです。「そのようなことはあまりに不思議で到底思い及ぶことができない」と6節にうたっていますね。

詩篇139篇15、16節を朗読。

神様が私たちの全部を暗い所で、何も分からない所で造ってくださいました。16節にあるように、まだ完成していない私たちの姿をすでに見ていたというのです。

設計図を書いて物を造る人は設計段階で完成図を描きます。建設現場に囲いがしてあり、そこに造られている建物の完成図、パースと言いますが、出来上がったビルの写真のような絵が描いてありますね。あれは空想して描いたのではないのです。絵を描く専門家がいる。与えられた設計図を全部見て、窓の形はこんなの、窓の位置や数、外壁はどのようなスタイルになるのか、どのような色合いになるのか、設計図から読み取って描くのです。だから、あれ一枚描くのにもいい加減ではない。ちゃんとその設計図を頭に入れて、そこから具体的に完成した姿が見える。素人(しろうと)では分かりません。線が引いてあってグジャグジャしている設計図をいくら見ても、どのような形になるのか分からないが、分かる人が見るならば、その完成図が「このようになる」と分かるのです。

神様もそうです。私たち一人一人を造られたときに、まだ形もないのに「これはこのような形になるのだ」と、みな神様が知っていてくださって、造って下さった。16節に「あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた」とあります。まだ姿かたちもないときに、私たちの体を、姿かたち、またその人生のすべてを神様は見ておられる。その後に「わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた」。生まれていない、まだ日の目を見ていない、お母さんのおなかの中に造られる以前から、エペソ人への手紙1章には「世の基を置ざりし先より」(4節元約)と書いてありますが、生まれるであろう私たちを知って、その生涯を全部神様は作っている。そう言われると、「何だ、これからのことも全部神様は知っていらっしゃる。では、私がいくらあがいても、もがいても仕方がないのだ」と思います。そのとおりです。私たちが自分の人生を自分の力で何とかできるという思い上がりが、諸悪の根源ですから。私たちは今日私に与えられたことしかできない。神様が定めてくださったことしかできないのだと認めていく。その代わり、神様が「せよ」と言われたら、自分ができないでも、できるようにしてくださる。神様が「やめよ」と言われたら、私たちがいくらしようとしても、それはできないのです。ここを認めることが、神様を信じることです。私どもはよく「そのようなことは私にはできません。私はそのような能力はありません」と、謙遜なつもりで言われるけれども、それは謙遜とは言えない。主が「せよ」と言われれば、できます。神様がさせなさるから、できるのです。神様が「駄目」と言われたら、いくらしたくてもできません。神様は私たちに絶えず思いを与え、願いを起こさせ、それを実現に導いていらっしゃる。いうならば、何から何まで全部神様任せなのです。それを認めないで、自分の責任で、自分の努力で、自分の何かでしようとするところに、私たちは神様を押しのけて、ないがしろにしているのです。

 17節に「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう」。神様が私たちに期待している、させようとしていることはどのようなことか分からない。常にわたしたちの前には未知のばら色の世界が開けているのです。ところが、私どもはすぐ自分の年齢を考えたり、自分の体力を見たり、いろいろな現実を見て「こうなって、ああなって、こうなったらおしまい」などと自分で決めてしまいますが、それはおかしい。神様がこれからどのように導かれるか分からない。どのようなことでもあり得る。神様が「よし」とおっしゃるならば、私にできないことはありませんと信じて、神様を信頼していくことが、信仰の基本です。これが私たちの一番大切なことです。

 もう一度、ローマ人への手紙11章33節に「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」。絶えずこの事を心に置いていきたい。神様がご計画してくださる事は私には分からない。私は私の人生であって、私のものではない。神様が「よし」とおっしゃるならできるし、神様が「駄目」とおっしゃったら駄目。神様がどのように導かれるか分かりません、というのが、実は私たちの大切な心のありようです。そのような心になると、よくても感謝、悪くても感謝です。なぜならば、自分で決める必要がないから、私の人生はこうでなければ嫌だとか、あるいはこれが私にとって幸せ、最善だ、と決めてかかることは要らない。今、神様が私にその事の思いを与え、願いを起こさせてくださる。「私はこのようになりたい」という願いを持つことはありますが、でも、それが実現に至るかどうかは、これは神様がなさることです。私たちの力があるから、ないからではない。また、こうなることが私にとって幸せだ、と決めてかかりますが、果たしてそれが幸せなのかどうか、これは分かりません。もちろん、健康でありたいとか、あるいは病気をしないで少しでも長生きを、などと思います。しかし、果たしてそれが幸せかどうかこれは分からない。私たちには分からない事だらけです。それで当り前、それが当然です。私たちの思い煩いは、分からない事を分かろう、分かろうとする、知ろう知ろうとするから苦しむのです。だから、いつも神様を前に置く。ダビデが詠ったように「わたしは常に主をわたしの前に置く」(詩篇16:8)と。主を前に置くとは、そのような生活です。「今日も神様が許してくださって、これだけの事をすることができた」と、一日を締めくくる。明日はどのようになるか、これは分からない。イエス様はそう言われました。「あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。」(マタイ6:34)神様の手に握られていますから、神様が責任を持って私たちを導かれるのです。ついこのことを忘れるのです。神様がすべてのことを備えてくださっている。わたしたちには分からない深いご計画をもって、導いていらっしゃることを信じられないから「どうなった。こうなった」「どうしよう、こうしよう」とうろたえます。

 この時期は特に進学、就職などいろいろな人生の岐路に立つ機会でもあります。若い人はみな自分の人生について、「私はこうなったら幸せ」、「私の夢はこれだ」と、一生懸命に努力をします。しかし、その道が閉ざされると失望、落胆して、落ち込んで、生きるエネルギーを失って、引きこもったり、いろいろな問題に陥ったりしていきます。その一番の原因は、「神様が……」ということが抜けているからです。

 だから33節に「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」と言われます。どんなに「私の夢が実現した」、「私がこうなった」と、えらそうなことを言っていても、それが果たして幸せなのかどうか分からない。どんなにエリートになっても、汚職か何かで引っ張られてどうなるか分からないのですから……。では、私たちは何がいいかと言うと、一番良いのはただ一つ、神様を信じて、神様が備えられたことの一つ一つを感謝していく。自分が良い悪いではない。私が考えてこれが良かった、悪かったではなくて、神様が備えられたことです、と感謝していくこと、神様が導いていらっしゃることがあると信じていく。これが私たちの本当に幸せな生涯だと思います。人と比べて、世の中の立身出世のコースがどうのこうの、そんなことが私たちの幸せとは関係がない。世の人がうらやむような高学歴で、高収入で、何とかと言う、そのような生活をしてみても神様を畏(おそ)れる思いがなければ、それはむなしいのです。

「伝道の書」に語られているとおりです。神様を信じて、神様の前に謙そんになって生きること。小さな一つ一つの事柄のどのようなことも「これも神様が備えてくださったことです」、「ここに神様が導いてくださったのですね」と、そのことを認めて感謝していくことができるならば、その生涯は最高の生涯です。だから、どのようなことがあっても自分の思いを捨て、自分の考えを離れて、そこで神様を認めて「私には分からないけれども、神さまがどのように導いてくださるか。神様が備えてくださることがある、神様が導かれることがあるのですね」と、絶えずそこに思いを向けていきたい。

また36節に「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである」。エレミヤ書の言葉で文語訳聖書に「事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)エホバその名をエホバと名のる者」(33:2)とありますが、36節の言葉はそれと同じことです。すべてが神様から出ている。神様によって導かれ堅く立たせられ、そして神様に帰する。神様の結論に、神様の栄光に結びついていく生涯。これが私たちの生き方であり、信仰の歩みです。私たちがどのような信仰に導かれているのか、私の信じる生き方がどこにあるのかを、具体的な自分の生活の中で明らかにしたい。私たちに備えてくださる、見えない神様を前に置いて、導かれるところに、喜び感謝して、何がどうであっても「主が私に備えられたことです」と、感謝して受けていく日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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