イザヤ書40章3節から5節までを朗読。
3節に「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』」とあります。
ここに「荒野」あるいは「さばく」とありますが、私たちにはあまりなじまないと言いますか、実際にどのような所であるか、経験することができません。中国の奥地にある砂漠だとか、中近東の荒野と呼ばれる所へ行けば、「なるほど、このような所か」と分かるのでしょうが、残念ながら日本は大変恵まれた所で、「荒野」「さばく」を実際の生活で目にすることはできません。せいぜい、鳥取の砂丘に行って、観光のラクダを眺めては、「これが砂漠かな」と想像しますが、現実はもっと厳しいだろうと思います。今はよくテレビなどのドキュメンタリーで、世界のそのような場所を見ることができますが、「荒野」「さばく」は人の住む所ではありません。人が住むには全く適さない場所です。乾燥している、昼と夜の寒暖の差が激しい。日中は40℃を超す灼熱(しゃくねつ)、ところが夜になると零下に近いぐらいの気温になるというような所です。しかも雨は降らない、潤いはない、慰められるべきものは何もないような所、それが「荒野」あるいは「さばく」です。
その3節に、「主の道を備え」「大路をまっすぐにせよ」とあります。そのような所に「主の道を備え」と。道を造るには需要と供給という考えがあります。利用者が多ければもちろん造る。しかし使う人がないのに、そんな所に道を造るなんてばかげた話はありません。だから、東九州自動車道路を大分県の方から宮崎県にかけて造りたいと、いくら陳情しても一向にらちがあかない。なぜなら造ってもそこを通る人がいないとい。日に何台かしか通らない道路を何十億円というお金をかけて造るわけがない。そんなのは無駄だとなります。
それと同じで、「荒野」とか「さばく」は、人が行く所ではない。観光旅行でその入り口を眺めて来るくらいのことはするでしょうが、そこに町ができて、多くの人が住んで、集まるような場所ではありません。ところがそこに「主の道」「大路をまっすぐにせよ」、道を造れと言う。いったいこれは何のことかなと思いますが、実はこれは一つの例えであり、今申し上げたように、決して人の住まない、人の通わない所にハイウェーを造れというような話ではありません。この「荒野」「さばく」とは、現実の私たちが目にする、あるいは耳に聞く、世界のある地理的な場所を指しているわけではなく、これは私たちの生活です。私たちは、日々生活を営んでいますが、決して自分の生活が砂漠であるとか、荒野であるなんて感じたことはありません。むしろ、緑あふれる、潤い豊かな楽天地のような、あるいはパラダイスのような生活だと思っているならば、それは誠に幸いなことです。しかし、必ずしもそのような順風満帆、物事が順調に行き、すべてが安楽で気持ちがよい人生は、そんなに長い間ではない。ご自分のこれまでの何十年かの生涯を振り返ってみて、本当に幸せだった、あの時がもっと続いておればよかったな、と思われる時間はどのくらいあるでしょうか。人生70年80年のうち、あの時はよかった、この時がよかったと考えてみますと、それは半年続いたかな、3ヶ月ぐらいかな、それをズーッと拾い集めて70年の生涯に置いてみると、一年足らずかもしれない。その後の時間はどのように過ごしていたでしょうか。思い煩い、心配、不安、恐れ、憤り、怒り、苛立ち、誠にそのようなものに満ちた月日のほうが多い。どうでしょうか、今もってそのような中にいる方もおられるかもしれませんが、人生は、必ずしもそのようなうれしい、楽しいばかりの人生ではありません。むしろ逃げ出したい、あるいはこんな事はやっておれんと思うような事柄や事態、そのような問題の中に絶えず置かれています。ところが、神様はそのような「荒野」や「さばく」に、「主の道」「神のために、大路をまっすぐにせよ」と言われる。私どもは問題や事柄に遭うと、すぐに何とかしてこの状況を打開しよう、問題を何とか解決しよう、取り除こうと思って、そちらのほうを優先します。一つの問題が起こると、すぐに「ああ、どうしよう」「ああしようか、こうしようか」と悩みます。またあそこへ行けばいいに違いない、この人に頼めばいいに違いない、いろいろなことを考えて、右往左往する。ところが神様は、まず「荒野」、「さばく」、自分にとって住み心地が悪い、居心地が悪い、そのような問題や悩み、困難の中に置かれたとき、それが1ヶ月、2ヶ月、半年、一年、何年か続くかわからない。火事が起こったら、私どもは119番します。何か問題が起こったら110番、救急車を呼ぶときにはここにと、早く手を打たなければと思います。
しかし、それで事は解決するかというと、必ずしもそうではない。この「さばく」「荒野」に、私たちを置いているのは、誰でしょうか。実は、神様が私たちに与えてくださる場所であり、また私たちが受くべき事柄でもある。だから、問題が起こったとき、悩みが生じたときに、いろいろな不安や恐れや人生の問題が起こったとき、早くそれを何とか解決しよう、ここから脱出しようと焦るのではなく、もう一度その事柄を神様の前にどうあるべきなのか、神様に対して私たちはどのような姿勢を持つべきなのか、私と神様はどのような関係なのか整理し、点検する。というのは、「さばく」だとか「荒野」だと思える人生の一コマ一コマも、実は神様が私たちのために置いてくださったのです。
ヨハネの黙示録1章8節を朗読。
8節は、神様が自己紹介なさった。神様がどのような方でいらっしゃるかを、語っています。「今いまし、昔いまし、後きたり給ふ」、過去、現在、未来、永遠にわたって絶えず存在している御方、そういう御方は神様をおいてほかにありません。地球であろうと宇宙であろうと、栄枯盛衰と言いますか、生まれては消え、生まれては消えているのです。地球であっても、あるいはこの大宇宙であっても、これはやがて消えるときがくるでしょう。しかし、神様は決してそれで終わらない方、始まりのない方であり、終わりのない方、「今いまし、昔いまし、やがて来(きた)るべきもの」、そういう意味です。神様は永遠から永遠に、過去、現在、未来にわたって変わることなく、絶えず存在し給う御方です。そしてもう一つ「全能者にして主なる神」。全能者、オールマイティーな御方、これは何でもお出来になるということばかりでなくて、すべての権能、権限を持ち、すべての上に君臨しておられる御方です。すべてのものをご支配している御方、全能者と言われます。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10:27)と言われます。「なんでもできる」というお言葉は「どんなことでもお出来になられる」というばかりでなくて、形のない、いわゆる私たちの生涯をご支配している、力を持つ御方。大宇宙、そのすべてのものを、ご自分のみ心のままに、自在に導き給う御方という意味です。だから「全能」、と「万能」は大違いです。「全能者」は、すべてものがお出来になる、言い換えると、私たちの生殺与奪の権を持つ。全てのものを生かすも殺すも神様の力の中にある。そのようなご支配をなさる御方が「全能者」なのです。だから「全能者」は神様をおいてほかにありません。何でもできる万能なものと言うのは、世間にもあるでしょうが、しかし、「全能者」といわれる方はただお一人、神様以外にはありません。
そして「主なる神」とあります。「主なる」という言葉がありますが、中心、すべてものの主人である、その主(ぬし)でいらっしゃる御方、これが神。その方が、「わたしはアルパであり、オメガである」と言われる。ブランド商品のような名前ですけれども、「アルパであり、オメガである」とはそういうことではない。「アルパであり、オメガである」とは、アルファベットの「A」からX、Y,Zの「Z」にあたるギリシア語アルファベットの文字であり、そのことが17節に「わたしは初めであり、終りであり」と記されています。日本語で言うならば「あいうえお」の「あ」から「ん」までですね。初めと終わり。私はその始まりであり、終わりである。すべてのものの始まりとなっているのが神様です。
創世記を読みますと、神様がまずおられて、すべてのものが創り出されたということが記されています。「なるほど、だからアルパなのだな。神様は創造者で、すべてのものを創られたから、初めである方」。なるほどそのとおりであります。ところがそればかりでなくて、私たち一人一人を造ったのも神様。私たちに今日の命を与えているのも神様。私たちの生活の中でいろいろなことが起こります。思いがけず、家族に事故があったり、病気になったり、自分自身の身の回りに次から次へと嫌な事態や事柄が起こります。しかし、それらもまた実は神様が始められた。人がしたわけではなくて、実は神様が事を起こしていらっしゃる。
実は今日から、今日、明日、明後日と名古屋にM牧師を訪問する予定にしていたのですが、火曜日の夜から家内がどうもおなかの調子がおかしくなって、もどしたり下痢をしたり、熱も出まして、今日は朝から熱が出て「それでは行けそうにない」と言う。でもせっかくだから何とかと、大慌てでお医者さんに診てもらって、「何とか行けるものなら行きたい」と願ったのですが、お医者さんからドクターストップがかかったのです。「駄目!静かに寝ておかなければいけない」と言う。それで大慌てで午後、すべての予定をキャンセルしました。その時教えられたのは、まさにこのお言葉です。「わたしはアルパであり、オメガである」。最初は、こんな時に病気にならなくても、帰ってきてからで良かったのに、事が済んでからなってくれよと。ところがそうはいかない。人がしているわけではないのです。病気を自分のスケジュールに入れることができたら、どんなに好都合なことでしょう。この忙しいときは風邪もひかないように、ここは今のところ予定がないからこの辺で風邪、ここで腹痛を入れようかとか、そんなことができるのだったらいいですが、できない。しかも航空券を予約していて、直前のキャンセルですから、キャンセル料を取られる。そうすると、背に腹は代えられないから、欲と二人連れで、少々薬を飲んでも、「熱冷シート」を張りながらでも行こうか、などとんでもない話になる。私はもう一度、これは誰がなさっていらっしゃるのか。「わたしはアルパであり、オメガである」。事を始められるのは神様です。私もちょっとがっかりしまして「なんでこんなときに病気になってくれるのだ」と思った。といって本人の責任ではない。いくら責めてみたって自分でなったわけではないし、これは神様がなさっている。その時、教えられましたが、「何でこんなことになった」と思った瞬間、「私は神様に対して怒っている」。「どうしてこんなことをしてくださったのですか。神様!あなたともあろう御方が、全能者でしょうが、私の言うとおりにしてください」と非難し、咎める心がある。それでは神様を尊び、敬うことにならない。それどころか、罪を犯すことです。そのような一つ一つの小さな事柄すらも、それを始め給う御方は神様です。人がするのではない。人の業ではない、誰かがそれをしているのではない。もし人がそれをしているのなら、その人に文句を言えばいいし、その人に頼めばいいし、どこかにもっとほかの方法を探せばいいわけです。ところが、すべての事は神様が始められた事なのです。そして導いて、それを終わらせてくださるのも神様。アルパでありオメガである、初めであり終わりである。だから、神様に信頼することが何よりも大切な事です。なぜならばすべての原因、すべての始まりが神様にあるのですから、その神様に対してどのように向き合うか、これが大切であって、その事をどのように解決するか、この悩みを何とかして取り除く方法はないかともがき苦しむことは、神様をないがしろにしていることです。原因である神様に向かって求めることが大切です。なぜならば、原因となっている御方が、それを終わらせることもできるからです。そして、時を握っていますから、いつも「誰がこの事の主でいらっしゃるか」、私の人生だから、私の毎日の生活の時間は私が自由にするのだと、「私」が主になっている。しかし、ここに「全能者にして主なる神が仰せになる」。神様は「わたしが主だ」とおっしゃる。
もう一度初めのイザヤ書40章3節に「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』」。そのような思いもかけない悩みや困難、病に私たちが置かれたとき、そこはまさに「荒野」であり、「さばく」です。何とかそこから逃げ出そう、あるいはそれを何とか避けていこうとしますが、そうではなくて、まず主の道を備えなさい。「神のために、大路をまっすぐにする」。神様に対する私たちの信頼、信仰、神様に対して自分がこの問題の中でどのような思いを持っているかをよく探る。これがまず第一になすべき事柄。なぜならばそれはすべての事の始まりである方の前に立つことですから、そこで祭壇を整えると言いますか、神を神とし、主を主としている自分であるかが問われます。心の思いを探っていただく。その中で本当に神様から離れているところがあるならば、あるいは神様に対してつぶやく思いがあるならば、あるいは神様に対してどうしても信頼し得ない自分があるならば、そこで悔い改めて、すべての事の主でいらっしゃる御方を、主を主とする、神を神とする態度、姿勢、心に自分を変えていく。これはもっとも大切なこと、またそれがすべての事の解決です。ところが、その事はすぐに問題と直結しませんから、お祈りして神様を求めて、自分の心を整えたら、今の問題がすぐに消えるのか、とすぐ疑います。そして、もっと別の方法があるに違いない。先にそちらのほうへとすぐに流されます。でもそうしてしまうと、返って、事はややこしくなる。問題は解決しなくなります。何か遠回りのように思います。それは問題とあまり直接関係がないように、そんな神様との関係なんて事が済んでからゆっくりやればいい、時間のあるときやっとけばいい、今はそんな暇はない、早くしないと手遅れになる。急がないとこうなる。そういって大慌てをする。それでは本当の解決、神様からの恵みを受けることができません。どうぞ、今もう一度このお言葉をしっかりと心に留めていただきたい。「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ」。本当に神様の前にしっかりと思いを整え、心を新しくする。
私も思いがけない病気になり、ガンを宣告された時、まさに「さばく」の真っ只中に立たされたようでした。その事態に置かれたとき、それはもう一日でも早く、何とかしなければ、いよいよ悪くなるように思う。そのような切迫した不安・恐れはどんどん深くなり、まるで一週間後には死ぬかなと、思うぐらいになりました。後になって考えると笑い話ですが、そのときは本当にそのような事態です。そのとき、「そうだ、主に帰ろう」と心を神様にむけると、冷静に事態を把握できるようになり、祈ることが出来るようになります。
問題の順番はまさにそこだと思います。ここに「われわれの神のために、大路をまっすぐにする」、神様に向かってピシッと心と思いを整える。殊にそのような思いもかけない事態や事柄が起こると、受け入れられない。あるいは早く何とかしなければ、という焦る思いのほうが先走って、この問題を神様が今どういう意味で私に与えられたのか?私はこの中で神様を、本当に主を主としているのだろうか。その神様を神様とするにはどのような具体的な歩み方が必要なのだろうか、いろいろな点から自分自身の心と思いを点検する。そうして、詩篇にうたわれているように「わが心定まれり」(57:7・108:1)と、心をしっかりと定め、神様の導かれることがあると、はっきり自分自身が確信を持てるところに立つ。いろいろと今は医療情報があふれていますから、そういうものに引っ張り回されやすい。そして中途半端な心で治療をしますならば、うまくいったら良いですけれども、ちょっとでも事がうまくいかないと自分の選択が悪かったのではないだろうか、医者が悪かったのではないだろうか、もっとああしとけばよかった、こうして……、悔やむ。そうならないために、「さばくに、神のために、大路をまっすぐにしておくこと」。あるいは「荒野に主の道を備える」ことが先決です。そしてこの道へ、この事柄へ、この治療へ、神様がこのように導いてくださいましたと、心から信仰を持って受ける。与えられた医療機関にしろ、医者にしろ、これは主が私のために備えてくださった。その方を信頼することができる。そしてその信頼に基づいて受ける治療について、結果がどうであれ、これは神様がしてくださったと喜ぶことができるでしょう。私たちの人生にとって、まさにそれが大切なことではないかと思います。
今お読みいたしました、その先4節に「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる」とあります。そうやって「荒野」に、「さばく」に、「主の道、大路をまっすぐ」に整えて、神様に対する姿勢がビシッと決まってしまうならば、神様のほうが後はやってくださる。4節にあるように「もろもろの谷は高くせられ」、失望、望みのない暗闇と思われる谷ですらも、それを引き上げてくださる。それを埋め合わせて高くしてくださる。また「もろもろの山と丘とは低くせられ」、青息吐息、もうこんな山は登れない、こんな悩みの中は通られない、これはもう越えられない、と思われるような大きな障害、そのような問題が目の前に立ちはだかっていても、神様の前に道をまっすぐに整えるならば、それは「低くせられ」とあります。そのようなすべてのものを切り除いて平らにしてくださる。「高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる」。神様がすべての問題、悩み、悲しみ、苦しみを平たく地ならしをしてくださいます。問題や事柄を解決に至らせてくださるに違いない。
何が私たちの生活の中でいちばん大切なものか。それはいろいろな問題や事柄が起こります。「さばく」や「荒野」の中を通ります。そのときにこそ、私たちに求められること、それは神様の前に自分の道をまっすぐに心と思いを整えていくこと。これが私たちに求められている生き方です。どうぞ、私たちがまずこのことを求めていきたい。そのために力を尽くすものとなりたいと思います。
その後5節に「こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり」と、神様がすべての問題をブルドーザーでやるがごとく取り除いて、そしてピシャッと平坦にしてくださる。それは私たちのためであると同時に、必ずしも皆さんのためばかりでなく、それは神様ご自身の目的なのです。5節に「こうして主の栄光があらわれ」と。そのようなことをお前のためにしてやるよと、神様が言われるのではない。もしそうだったら、神様が気に入らなかったら、それをしてくれないかもしれないと、疑ってしまう。そうではなくて、神様が神様であることをあらわしたい。私たちにそのような「荒野に道を備えて」、はっきりと神様に信頼して、思いと心を定めていくとき、神様のほうが働いて業を起こして、事柄をすべて整えて、その結果として私たちが幸いにもなり、喜ぶことにもなりますが、何よりも、そうすることによって、神様はご自身の栄光をあらわされる。だから、神様は損をしないのであります。そうやって私たちを喜ばせることは、何もお前のためにしてやった、などと恩着せがましいことはおっしゃらない。神様は「いや、それはわたし自身のためにするんだ」と言われる。神様が神様であることを証詞しようとして、そのことをなさるのですから、だから決して放っておくわけではない。ただその始まりは「荒野」に、「さばく」に、まず私たちが道をきちんと備えていくこと。神様の前に、神が神でいらっしゃることを、主が主でいらっしゃることを認めて、与えられた問題や事柄をはっきりと神様からのものとして感謝して受けることができるように道を整える。そうしますと、後は神様の領域ですから、だから私たちが受けた問題や事柄を、神様からの恵みとして感謝して受けるようになったときに、それで問題は終わりです。解決したものです。目の前にまだ大きな山が見え、あるいは丘が見えようとも大丈夫。神様はそれを平坦にしてくださるに違いない。
私は自分の病のことも、神様は最善にしていちばん喜ぶべきことをしてくださるに違いないと確信しました。なぜならば、神様がご自分の栄光を現すためなのだから、これは神様の業であり、主の戦いなのです。私たちいろいろな問題や事柄が、今も、これからもあるでしょう。しかし、その中で何をまず第一にすべきか。「神のために、大路をまっすぐに」、主のために、主の道を備える、このことに力を尽くしていきたいと思います。そうするとき、神様は私たちの思いを越え、願いを越え、驚くべき事をなしてくださる。そして、私たちに神の栄光を見せてくださる。
どうぞ、このことを期待して、与えられたこの地上の日々、だからこそ生かされているわけですから、いろいろなことがあることを逃げない、嘆かない、むしろ「初めであり終わり」でいらっしゃる御方、神様が一つ一つ事を導かれる御方であることを信じて、心を定めていきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。