いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(21) 「死んで生きる」

2013年10月12日 | 聖書からのメッセージ
 ヨハネによる福音書12章20節から28節までを朗読。

 24節に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。イエス様は、十字架におかかりになる前、「過越の祭」で礼拝するためにエルサレムに来られました。「過越の祭」は、イスラエルの民が、エジプトで奴隷の生涯から解放されたのを記念して、長く守り続けた大切な行事でした。12章1節を見ますと、「過越の祭の六日まえに」と記されていますから、この12章の記事は「過越の祭」の始まる直前一週間くらいのことが語られています。やがて、この祭のクライマックスにイエス様の十字架が立てられる事になります。その直前に、イエス様の所にギリシャ人が訪ねて来ました。ピリポとアンデレはイエス様にその事を伝えましたが、イエス様は、23節に「人の子が栄光を受ける時がきた」と語って、彼らの言葉に注意を向けません。この時イエス様の思いは、ピリポやアンデレたちのようなこの世の事柄から、遠く離れていました。浮世離れしたという事ではありませんが、もっと大切な事がイエス様の使命として与えられていました。弟子たちはまだ理解していませんが、イエス様自身はよく知っていました。父なる神様の御心にしたがって、十字架に罪の贖いの犠牲として捧げるという重大な使命が、始まろうとしていたのです。

私どもでも何か大切な行事や事柄を目前にしていると、普段やっている事は、それどころではないと思います。この時のイエス様もおそらく、そうだったでしょう。それまでは、人々に対して真剣に神の国の事を、福音について、また罪の赦しについて語っておられました。この時期から、イエス様は群衆に語りかけたり、あるいは病を癒したりという事は殆んど見る事ができません。有名人と話がしたいと寄って来るような人など、そんな事に係わっている暇が無い。イエス様は真剣に父なる神様の御心に従う戦いの中にあったのです。23節に「人の子が栄光を受ける時がきた」と言うイエス様の返事は、何かちぐはぐに感じますが、イエス様は、神様の栄光を現す道を歩む事だけに集中していました。

24節に、イエス様は自分の事を、一粒の麦に譬えています。同時に、命にいたる道をイエス様自身が先立って歩いて下さっています。イエス様のお話の中には、刈り入れとか、種を蒔く話であるとか、農耕に関する譬え話を多く語っていますが、この時もそうです。一粒の麦が地に蒔かれる。すると、麦の種は土の中に埋められて、形が見えなくなってしまいます。しかも、地面の中の薄暗い、じめじめした湿気の多い所に埋められて、やがて分解を始めます。堅かった表面の殻が破れて、新しい芽がでてきて、育ってきます。土の中で芽を出し始めた麦は、種の形は失われてしまいます。そうでなければ、新しい命に芽生える事ができません。一粒の麦が地に落ちるように、私たちが自分を捨てて、死んだ者となってしまう。これが「一粒の麦が地に落ちて死ななければ」と言うことです。言うならば、麦が死ぬというのは、命を失う事でもありますが、成長する命がそれにとってかわります。種の古い命が新しい命と入れ替わるのです。

「命」というのは、私たちが生活する肉体的な命のことばかりではなくて、むしろ、肉体の命よりも大切なものがあります。それは名誉であったり、地位や財産であったり、あるいは、自分の家庭であったり、仕事であったりという事です。そのために命を捨てる人もいます。先ごろ、ある大企業の傘下だった会社の社長さんが自殺をした。何のために自分の命を捨てたのか。自分の生きているこの地上の肉体の命よりも大切なものが、彼にはあったのです。それは、自分のそれまでの生き方と言いますか、プライドと言いますか、職業的な誇りが失われてしまった。この地上に生きている自分の身体的命すらも惜しくないほどに、それを守りたいと思ったのでしょう。真実な所はよく分かりませんが、横から見ているとそう思わざるを得ません。彼にとって、命は老齢になって肉体の命が消えるまで地上に生きることではなく、もっと大切な他の事が命だったのです。

確かに、人間にとって肉体の命も大切なものです。だから、子供たちに、「何が一番大切?」と訊きますと「いのち」というような答えが返ってきます。人の命は大切なものだと思います。しかし、肉体の命ばかりでなくて、それ以外にももっと大切な命がある。肉体の命を捨ててでも、守る大切なものがあるのです。その大切なもの、かけがえのないものが実は「命」という言葉で表わされているのです。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである」とありますが、麦の種が自分のプライド、自分の在り様、種としての存在を、これは大切だ、これは命だと、それにしがみついてと言いますか、それに固執して、地面に埋められる事を拒んだならば、何時までも何か器の中にしまっておくのと同じで、種としての姿形はそのままズーッと何年でも変わりません。以前、中国の古い遺跡を発掘したら、古代のはすの種が出てきたという話を聞いたことがあります。それは土の中に埋まっていたのですが、残念ながら、幸か不幸か、しっかりした器の中に入れられて、密閉されたままだったから、何千年もの後に掘り出しても、そのままの種が残っている。その器から取り出して、地面の中に入れて埋めてしまうと、種としての姿形は失われます。しかし、それに取って代わって新しい命が芽生えていきます。芽が出てきて、成長して、やがて実ってきます。そして一粒の種であったものが、今度は何万倍にも増えていく。稲でたとえるほうが、日本人は分かりやすのですが、一粒の籾(もみ)が苗となり、田植えされ、日月を経て、秋の実りになると、一粒から出た穂に何十倍もの多くの新しい命が宿ってきます。

イエス様はその事を、24節に「しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」と語っています。種が自分というものを捨てる。種としての姿形を、あるいは、プライド、大切な自分を捨てて死んでしまう。地面に埋められてしまって、見えないものとなり、分解して形を失う時、今度は別の新しいものに変わる。これは、神様が定められた素晴しい真理です。命を豊かに結ぶ原理、新しく命を生み出す原理と言いますか、そういう法則を神様は備えていらっしゃる。これは植物の譬えではありますが、植物ばかりではありません。

私たちの生活も同じ事だとイエス様は言われます。その後の25節に「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」と。私たちが、自分の立場とか、自分の名誉とか、自分が大切だと思うものを、何時までもしっかりと握っている間は、いつまでも変わる事がない。あるいはそこから新しく命を生み出す事ができない。ところが、逆に25節の後半に、「この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」。自分の命を憎む、憎むというのは捨てることですが、惜しみながら捨てるのではありません。憎むというのは、こんなものはどうでもいい、いや、汚らわしいものとして、喜んで捨て去る。その時に、「それを保って永遠の命に至るであろう」。逆説ですから、なかなか信じがたい事です。「捨てて拾う、死んで生きる」という言い方をします。死んで生きるなんて矛盾した話です。それだったら初めから死ななければいいと思います。「どっちみち、生きるのだったら、死ななくても良いじゃないか」と思います。しかし、イエス様が言われるのは、「もし、死んだなら」、私たちは初めて「実を結ぶ命」を受ける事ができる。これは、私たちにとって黄金律、大切な事柄です。また、普段の日常生活の中でも言える事です。「自分が、自分が」と自分のことばかりを考えている限り、そこから、新しい命に繋がることができない。しかし、自分の思いを捨てて、「それでは、そうしましょう」と、自分を捨ててかかると、今度は思いがけない結果、自分の想像のつかない新しい事へ私たちを引き入れて下さる。

イエス様の生涯は、正にその事を証詞した生涯でもあります。イエス様はこの地上生きて、やがて十字架に命を捨てなさいました。それで一巻の終わり、お終いかというと、そうではありません。イエス様が十字架にかからないままで、その寿命を全うして、地上の生涯を終ったというだけなら、それは一人の優れた宗教家、あるいは倫理家、道徳家という人物としては残りますが、それだけの事です。ところが、罪を知らないイエス様は私どものために罪人とされて、十字架に命を捨てて下さった。そこから、新しい命が芽生えてきました。

ピリピ人への手紙2章6節から11節までを朗読。
これはイエス様の生涯を短く語った一節ですが、6節に「キリストは、神のかたちであられたが」とあります。神のかたち、神様御自身でもあった。神の位にあった方です。ところが、「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」とあるように、何時までも自分のプライドと言いますか、神としての立場を譲れない、捨てる事ができないと言ったのではない。「かえって」と、それどころか、「おのれをむなしうして僕のかたちをとり」、自分を捨ててしまったのです。神としての栄光も、神としての権威も、力も、一切のものを離れて、人の世に降って下さった。7節に「僕のかたちをとり、人間の姿になられた」と。これがイエス様の生涯の全てです。まさにそれは一粒の麦が地におちたのと同様です。

そればかりではなくて、8節に「おのれを低くして、死に至るまで」、自分を低くしてというのです。神が人に成って、人の世に来たのだから、人間の中でも最高の位につくべきだ。王様か貴族か、何かそういう者になるべきだと言ったのではない。それどころか、「僕のかたちをとり」とあります。僕となって、己を低くして、しかも、やがて罪人とされて、十字架に命を捨てる。多くの人から罵詈讒謗(ばりざんぼう)、悪口を言われて、罪なき者が罪人とされ、苦しみと嘆きと悲しみの中に自分を置き、黙々と父なる神様の御心に従い続けて行く。一粒の種であるイエス様が、地に蒔かれるというのはここなのです。そして8節に「しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。何に従順か、父なる神様に徹底して従うのです。神様の前に自分を捨て切って、主の御心にと自分を捧げるのです。それゆえに、9節に「神は彼を高く引き上げ」とあるように、父なる神様は、彼をそのままに放っておかない。今度はイエス様をそこから高く引き上げて、「すべての名にまさる名」、救い主として、神の御子としての名を多くの者の中で高くして下さる。

自分を捨てて、父なる神様の御思いの中に全く死に切っていく。従順に従う事に徹底する。その時、神様の方が彼をその中に捨て置く事をなさらない。むしろそこから引き上げて、多くの名に勝る名を与えて下さった。ですから、先ほど申し上げた、イエス様が、唯、地上に来て下さって、王侯貴族となって、世の指導者となって、社会改革者となって、変革者となって、あるいは革命家となって、この地上の生涯を終ったとしたならば、それは唯、単なる義人であるかも知れない、あるいは、歴史的に名を残す立派な人であっただけにすぎません。そういう人は歴史上にたくさんいます。社会の諸悪の改革のために、身を挺して生涯を尽くした人は幾らでも数えることができます。しかし、それはそれだけの事です。命を捨てて、父なる神様の手の中に自分を捧げ切った時に、新しい命、肉体の命を越えて、永遠に滅びることのない命を受けることができます。

イエス様が十字架に死んで、滅ぼされた時、ローマの兵隊たちも、ユダヤ人の指導者たちも、これでイエス・キリストを抹殺したと思いました。これで全部終った、これでお終いだと思った。ところが、どうですか。そうじゃなかったのです。イエス様は墓に葬られましたが、そこから甦って、イエス様の命が多くの人々の中に広がって行った。あのユダヤの小さな国から始まったイエス様の救いが、時代を超え、地域社会を越え、今に至るも尚、多くの人々に命を与え続けている。私たちも主のよみがえりの命を戴いています。その事を思うと、神様は本当に驚くべき事をなさると思います。唯、単にその時代、その地域の人たちに役立ったというだけで終らない。イエス様の命が、今度は多くの人々に火をつけ、命を与える。またそれを受けた人たちが、その子に、またその子にと、どんどん広がっていった。2千年以上の長きに亘って、主イエス・キリストの名が多くの人々に崇められ、称えられ、そして今尚、私たちの内に命を与えて下さる。

だからペテロの第一の手紙2章21節から25節までを朗読。

この21節に、「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである」。今、私たちがイエス様の救いに入れられたのは、イエス様と同じように、一粒の麦となって、多くの実を結ぶのを求められています。また神様はそれを、私たちに期待していて下さる。そう言われると、途端にシュンとなって、「そんな実を結ぶって大変な事だ」と思いますが、実に単純な事なのです。ここにイエス様が語っているように、「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」。私たちもまた、イエス様の歩まれた足跡に倣う者となる事です。このことを、ヨハネによる福音書15章には、「誰でもわたしにつながっているならば、その人は多くの実を結ぶものとなる」とおっしゃいます。イエス様に繋がる事は、イエス様の御足の跡に踏み従って行くことです。イエス様がどういう風に歩んで下さったか。それは父なる神様の御心に従って、自分を捨てて、唯、主の御旨に捧げた生涯です。私たちも絶えずそこに留まる事、これが死んで生きる道なのです。人のため、世のために、自分を犠牲にすることではありません。私たちが神様の御心に自分を捧げることです。「私は一粒の麦となって地に落ちて、死んだから豊かに実を結びましょう」と、勝手に自分で死んだ、死んだと言っても駄目ですよ。イエス様は十字架に死なれましたが、それはイエス様が願ったわけでも、また、誰かの借金の肩代わりになったのでもありません。イエス様は自分の好き嫌いにかかわらず、父なる神様の御思いに従って、十字架に死んで下さったのです。結果として、私達の罪を赦す、贖いの供え物となりましたが、私達のためにというよりは、父なる神様のためになさったことです。

私たちは今イエス様の救いを受けて、神様の霊に満たされ、御霊が主となり、私たちを導いて下さる。聖霊は様々な神様の御思いを私たちに教えて下さっている。そこで、私たちは常に自分の思いとぶつかります。そこに戦いがあります。祈って、聖書の言葉を通して、私たちの心に、神様は何が正しい事であり、何が神様の喜ばれる事であるかを、私たちの思いに入れて下さる。語って下さる。御思いを教えて下さるのですが、私たちはそれを知りつつも、拒んでしまう。「いや、そんな事はできない、そんな事をしていたら、私の生活ができない」とか、「そんな事をしたら私が困る」とか、あの人が悪い、この人が何とかと言って、神様の御心を知りながらも、拒んでいる間は一粒のままなのです。死ぬというのは、神様の御思いの中に自分を置いて、「今、神様が、私にこの事を求めていらっしゃるのだ」と信じて実行する。そのためには自分が犠牲を払わなければならない事がたくさんあります。時間を失うに違いない、財を費やさざるを得ないかも分からない、ひょっとして健康を失うような事態が起こるかも知れない。でも、それが主の御心ならばと、神様の御思いの中に死んで行くのです。委ねきる時に、神様が責任を持って下さる。神様は私たちをそこから引き上げて下さる。私たちの思わない、考えもしない、想像のつかない大きな命を与えて下さる。また、実を豊かに結ばせて下さいます。

この21節に「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」。私たちはいつもイエス様の御足の跡を踏み従っていく。イエス様が父なる神様の御思いに自分を捧げて歩んだ事を、絶えず覚えておきたいと思います。ともすると、自分の思いに引き込まれていく。そんな事をしてはおれない、こうでなきゃ嫌だとか、ああでなければ嫌だとか、そして、聖書にはそうはあろうけれども、私はそんなことはできないと、拒んでしまうならば、いつまでも一粒のままです。そこからは命が湧いてこない。神様は、私たちを「そうするようにと召された」のです。イエス様の御足の跡に倣って、私たちもまた、主のために命を捨てる事。これが、イエス様の命を受ける秘訣です。22節以下に「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」。全ての事をご存知でいらっしゃる父なる神様の手に、自分を委ねて、「ののしりかえさず」と。私どもはなかなかそれができません。ののしられたら、二倍も三倍も、ののしり返す。そうして、スカッとして、「ああ、言ってやった!」と思うかもしれないけれども、それっきりのことで命に繋がらない。ところが、そこで、もう一つ、父なる神様の前に自分を捨ててかかっていく時、「そうだ、ののしられてもののしり返さずに、父なる神様は、全ての事をご存知でいらっしゃる」と、一粒の麦となって、神様の手の中に死んでしまうとき、神様が新しい命を芽生えさせて下さる。これは確かです。

ですから、もう一度初めに戻りまして、ヨハネによる福音書12章24節に「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。確かに、父なる神様の御心に従って、「私が責任を取ればいいんだから、何を言われてもかまいません」と、神様の御心を信じて、主がこれを導いて下さっているからと、信じて踏み出して行く時、神様は道なき所に道を設けて下さいます。到底無理だと思えた所をちゃんと通ることができるようにして下さいます。私たちを用いて驚くべき事をして、多くの人々に命と力と御愛を注いで下さいます。辛くても、苦しくても、どんな事があっても、主の御心とあらば、主の御旨と確信するならば、躊躇しないで、「はい」と従って、自分の命を捨てて、主に従う道を選び取っていこうではありませんか。それが私たちの命を輝かす唯一つの道です。その後26節に「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう」。イエス様の行かれる所について行く。イエス様が行かれる所は何処だろうかと、それは、私たちが、父なる神様の御心だと信じる所に、私たちが自分を捨ててかかるところ、そこがイエス様の行かれる所です。

前にも、お証詞したと思いますけれど、福岡に遣わされた一人の伝道者の方が、開拓伝道を始められたのです。その方は、関東の方で開拓伝道をしておられたのです。その群れの方針として、福岡でも開拓伝道を始めることになり、誰を派遣しようかとなったとき、彼が選ばれました。ところが、十数年、苦労に苦労を重ねて、一つの教会を立ち上げて、教会員も百名近くになっていました。そこを離れて福岡に行けと言われたのです。まだ子供さんは小学校一年生を頭に、幼稚園の子と乳飲み子を抱えていらっしゃった。誰もいない所に遣わされて、ゼロから始めなくてはならない。福岡へ行くようにと言われた時、自分は到底そんな所に行く器じゃない。私はここに使命がある、ここでするべきことがある。そう信じて、何度となく断った。でも強い要請で、どうしてもあなたしか人材がいないからと言われて、お祈りしていたそうです。お祈りをしていた時に、このお言葉が与えられた。「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい」。自分は、イエス様に仕えているのだと思っていた。今もそう思っている。けれども、イエス様は「わたしは福岡に行くよ」と言っているのに、私がここに残っていていいのだろうか。その方は心を刺されました。「自分はイエス様に仕えていると言いながら、自分の思いに仕えていた。自分の願いを押し通していた」と。そこで悔い改めて、主がそこへ行かれるならば、私はついて行きます。私はあなたから離れては何もできません。イエス様に従って行きますと決断したそうです。そういうお証詞を伺いました。

どんな境遇に置かれようとも、イエス様が行くという所に私たちもついて行く。これは命を捨てる事です。イエス様が絶えず皆さんと共にいて下さって、生活の中で、「わたしはこの事をするよ」とおっしゃっているのに、「いや、私は結構です。イエス様、あなたは勝手にして下さい。私はこっちの方がしたいから、あっちのほうがしたいから…」と、いつまでも「自分が」、「私が」と固執し続ける限り、イエス様のいらっしゃる所について行けません。いつでも身軽に、どんな時にでも喜んで、主が行かれる所に、主がおられる所に、遣わされる所に、求められる所に、せよとおっしゃる事に、「はい」と従って行きたいと思います。それが、「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」という事です。イエス様の御思いに、神様の御心に自分を捧げて、「はい」と従って歩んで行く時に、その結果は、神様が備えて下さる。実を豊かに実らせて下さるのです。結果を見たらしようとか、あるいはいい結果が保証されたら、そこへ行こうとか、そうしている間、動けません。しかし、イエス様がそうであったように、「正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねて」、今私がすべき事、今主が私に求められる所に従って、全力を尽くしたいと思います。この主の御愛と恵みを味わって、愈々命から命に、私たちも生きる者となりましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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