いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(20) 「主の救い」

2013年10月11日 | 聖書からのメッセージ

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使徒行伝16章25節から34節までを朗読。

 今読みました出来事は、パウロとシラスの二人が、ピリピという町へ伝道に来た時のことです。ピリピの町は、今から2千年くらい前でしょうか、商業都市として大変栄えていました。そこで、一人のルデヤという神を敬う女性に出会います。そして、彼女の家に滞在することになって、ピリピへの伝道の道が開けました。ピリピ人への手紙は、この町にたてられた教会に宛てた手紙でもあります。ところが、その町に着いた時に、一つの事件が起こったのです。それは、占いをする女奴隷(占いをする霊に憑かれている人)がいました。その人が占うと良く当たるという。おそらく、何かの霊が働いていたのだろうと思います。この女奴隷が、パウロとシラスの行く所に、いつもついて来るのです。ついて来て、「この人は神の僕である。救いの道を伝える方だ!」と宣伝をしてくれる。言うならば、誉め殺しのようなもので、「この人たちは、神の使いですよ」と、傍でパウロたちを邪魔する。それは幾日も続いたと記されています。一日だけじゃない。彼らが行く所どこへでも、ついて来て、大声で言われるものですから、困り果てて、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から霊よ、出て行け!」と命じました。そしたら、その人がコロッと正気に返ってしまった。占いの霊が消えてしまったのです。この人はそういう霊に取り付かれて、人生を台無しにしていたのでしょうから、それは本当に良かったのだと思います。ところが、その人は主人に雇われていたのです。その人が占いをすることによって、収入を得て、生活をしている人がいた。正気に返ってしまって、占いができない。商売ができなくなってしまった。そうなると、逆に営業妨害となったのです。彼らは訴えられ、捕らえられてしまった。「とんでもないことをする奴だ」というわけで、牢屋に入れられてしまった。

この25節に「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた」。とんでもないことになってしまった。パウロとシラスはそんなにひどいことをしたわけではない。言い掛かりをつけられて、牢屋に入れられてしまった。25節「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけた」とあります。突然降って湧いた災難に出遭って、牢屋にまで入れられてしまった。これから自分がどういう処遇を受けるのか、皆目見当がつかない。何時解放されるのか、裁判が有るのか無いのか、自分はどういう罪になるのか。今でこそ法治国家ですから、それほど乱暴な事、無理無体な事はできませんが、おそらくこの当時は、法律は有って無きがごときものでしょう。どんなにでも、厳しい処罰ができたに違いない。だから、一旦捕らえられてしまったら、これからどうなっていくのか、弁護士が付くのか、付かないのか、そんなのもわからないのです。そういう皆目見当のつかない災難に遭ったのです。

それでもなお、「神に祈り、さんびを歌いつづけた」とあります。もし私がこんな目に遭ったら、賛美どころではない。ひょっとしたら、お祈りも忘れてしまうし、悲嘆にくれて泣き明かして夜を過ごすでしょう。皆さんも似たようなものではないでしょうか。思いもかけないひどい目に遭って、考えもしない辛い不幸に出会った時に、それでも尚、神に祈り賛美をすることができるのが、パウロとシラスの信仰だったのです。しかもその時、「囚人たちは耳をすまして聞きいっていた」のです。そんなに大きな建物でもないでしょうから、彼等が声を出して、祈って、賛美をしていると、同じ獄屋に繋がれた人たちは、夜中まんじりともせず、聞くともなしに聞いていたのです。祈り、賛美、全てが聞こえてくる。これもまた不思議な事でした。同じ境遇に置かれていながら、片や賛美し、歌うことができ、祈ることができる。他の囚人は自分の身の上を案じ、不安と恐れの中にあったに違いない。だからパウロとシラスの賛美と祈りを聞いた時、どれほど慰められたかわかりません。

ところが、その時26節にありますように、「突然、大地震が起って、獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖が解けてしまった」。思いもかけない大地震が突発したのです。「獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて」、幸いに建物が潰れたりはしなかった。扉が外れたり、いろんなものが落ちたりという事になったのだと思います。しかも鎖で壁にでもしっかりと繋がれていたのでしょう。それがはずれてしまったのです。逃げるには千載一遇のチャンスです。扉は開いている、鎖は解けている。逃げるに万全な状況ができたのです。その時、27節「獄吏は目をさまし、獄の戸が開いてしまっているのを見て、囚人たちが逃げ出したものと思い」ました。番人である獄吏と言いますか、看守も眠っていた。地震で目が覚めて、囚人はどうなったかと見たら、何と扉は全部開いていました。これはてっきり逃げたに違いない、自分の責任が問われると思った。この記事を読みますと、この獄吏は真面目な責任感の強い人のようです。その後にありますように、「囚人たちが逃げ出したものと思い、つるぎを抜いて自殺しかけた」とあります。大変なことが起こってしまった。自分の責任だと思ったのです。扉は開いている、囚人たちは逃げ出していなくなってしまっていた。もうこうなったら死んで謝るしかない。まるで日本人のように、切腹しようというくらいの覚悟です。電気があるわけじゃないし、地震の後ですから、暗闇の中です。だから人がいるかいないかわからないから、獄吏は大慌てで、とにかく死んでお詫びだとなったのです。

その時に、28節「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」、闇の中から死んではいけないと叫んだ。獄吏はびっくりしました。みんな逃げないでここにいるから大丈夫だと言う。さっそく獄吏は、29節「あかりを手に入れた上、獄に駆け込んでき」ました。明かりを用意して、照らして見たところ、誰も逃げた人がいない。獄吏はびっくりして、パウロとシラスの前にひれ伏したとあります。おそらく、パウロとシラスが祈り、賛美している事も知っていたと思いますし、彼も聞いていたでしょう。自分が死ななければならないと覚悟したところが、幸いに声を掛けられて、パウロとシラスによって助けられたという思いがありました。それで、彼らの前にひれ伏したのです。30節「それから、ふたりを外に連れ出して言った、『先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか』」。この時、獄吏は自分が死ぬべきところを許されたという思いが非常に強い。パウロが声を掛けなかったら、その場で死んでいたのです。幸いに、このパウロとシラスが、声を掛けてくれて、しかも彼等が逃げないで、そこに留まっていたという、とうてい信じがたい出来事に出会ったのです。そのために、彼は、「何をすべきでしょうか」と。つまり私もあなたがたと同じように救いに与りたいという事です。パウロとシラスのような信仰を持ちたいと彼は思いました。ですから、「救われるためには何をすべきでしょうか」。何をしたらあなたがたのようになる事ができるのだろうかと訊ねたのです。

それに対する二人の答えが31節に「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。「主イエスを信じなさい」と勧めました。獄吏は、「何をしたらいいでしょうか」と訊いたのです。おそらく、獄吏は、何を言われても、たとえ家、倉、財産を出せと言われても、それも出そう。あるいは、滝に打たれて修行をせよと言われたら、それもしようと思ったでしょう。どんなことでもいい、それで救われるのだったら、何でもしますという思いがありました。ところが、答えは実に単純なのです。「主イエスを信じなさい」。この一言だけです。おそらくこの獄吏は、「エッ!たったそれだけか」と思ったに違いない。「主イエスを信じなさい」、これだけなのです。今も、私たちは救われるために何をしたらいいか、あれをしてこれもしてと。そのような何かを「する」ことはいらないのです。「主イエスを信じなさい」と、実に単純なことです。

ところが、私たちはなかなかイエス様を信じる事ができない。何故できないのか。あまりにも単純すぎるからです。何か難しいことをせよと言われた方が、霊験あらたかと言いますか、ご利益が有りそうに思います。あまり単純なことだと、そんな事で大丈夫だろうかと信じられません。だから、いろんな宗教が、ややこしい手続きを踏まないと、悟りに至らない仕組みになっています。こんな難しいことを求められるのだから、きっと何かが有るに違いない、その結果は素晴しいに違いないと思います。もし神様の救いうけるに、難しいこと、ややこしいことを求められたら、誰もが救いを受けることができません。神様の救いは、全ての人に、どんな人にでも、老いている人であろうと、若い人であろうと、男の人、女の人、国が違い、人種が違っても、全ての人に開かれた救いです。ある特定の人だけ、ある階級の人だけ、ある特技が実行できる人だけが救われるというのであれば、私たちはとうてい救われません。永遠の滅びです。イエス様を信じること、これだけが私たちの救いの秘訣です。

マタイによる福音書16章13節から20節までを朗読。

イエス様がピリポ・カイザリヤの地方に弟子たちと出かけられました。この時は、弟子たち以外に他の人たちはいません。彼等が仲間内といいますか、先生と弟子たちという関係でお話をしていた時です。イエス様が彼らに訊ねました。「人々は人の子をだれと言っているか」と。「人の子」というのは、イエス様ご自身のことですから、「世間の人はわたしのことをだれと言っているか」と問われたのです。そこに居合わせた弟子たちは、自分たちの聞いてきた世間の評判を伝えました。ある人は、バプテスマのヨハネ、預言者エリヤだ、エレミヤだ、あるいは預言者の一人だ、教師の一人だと答えました。それに対して、イエス様は、「それじゃ、あなた方はわたしを誰と言うか」と訊ねました。皆びっくりして、ちょっと戸惑ったと思います。躊躇しました。「あなたはわたしをだれと言うか」。目の前に、イエス様を置いて見ているのですが、イエス様をどういう方と信じるかと問われたのです。イエス様を信じるというのはここが大切なことです。先ほどの使徒行伝にあるように、「主イエスを信じなさい」と言われますが、イエス様を信じる内容、それがはっきりしていないのです。

世界的な大聖人イエス・キリストとか、お釈迦様であるとか、孔子であるとか、マホメットであるとか、何か歴史上の人物として、イエス・キリストがいたという事は信じています。だから、「主イエスを信じなさい」と言われて、「はい、信じています」と答えられます。イエス様を信じていないわけじゃない。歴史上の人物として、あるいは道徳家として、格言や、有名な言葉を語った偉い人であったというくらいは、誰だって信じています。しかしパウロとシラスが、あの獄吏に求めた「主イエスを信じなさい」というのは、私たちがイエス様をどういう方として信じているかを問うているのです。

主は弟子たちに、「あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われました。その当時、イエス様は素晴しい奇跡を行なったり、多くの人々の人気を集めていましたから、世間の人々はいろいろと評判をしていました。あれはバプテスマのヨハネだ、あるいは、旧約聖書に書かれている預言者だ、いや、エレミヤのような人だと信じていた。弟子たちも、多かれ少なかれ、そう思っていたでしょう。イエス様と一緒に生活をし、日夜、行動を共にしているのですが、「あなたはわたしをだれと言うか」と、突然問われると戸惑ってしまいます。目の前にいるイエス様は、大工ヨセフの息子で、ナザレ村に住んでいた。そのような現実的な経歴がありますから、どう答えたらいいか分からなかったでしょう。

その時に、ペテロは16節「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えました。私たちと同じ肉体をもって、ヨセフの子供として、大工の子供として生まれ育ってきたイエス様。そのイエス様を、人ではあるけれども、神の位を捨てて、この世に来て下さった救い主、キリスト、神の油注がれた人であると告白するのは、まことに幸いな事です。神御自身が、今私の所に来て下さったのですと告白しました。主イエス・キリストを信じるという事は、ペテロが答えたように、「あなたこそ、生ける神の子キリスト」、私の救い主であって、神なる方ですと信じるのです。神でいらっしゃる方が、私の創造者であり、命の源であり、全てのものを力ある手に握っている方ですと。そこまで私たちが信頼する、信用することが、イエス・キリストを信じる事です。イエス様こそが生ける神の御子、人となって下さった神御自身でいらっしゃる。その方が私の救い主となって下さった。私の主となって下さったと信じる。これが救をうける秘訣です。

ですから、ペテロの答えに対して、イエス様は、17節に「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」と、大変喜んで下さった。100点満点の正解でした。イエス様は神の御子としての地位を捨て、人となって地上に住んで、33年と数ヶ月の生涯を生きて下さった。そればかりでなく、十字架に命を捨てて、私たちの罪の贖いとなって下さった。このイエス・キリストを信じるというのは、イエス様の全てを、自分のこととして、神様が私に近づいて下さっているのだと信じるのです。ですから、この時、イエス様は、「あなたは、さいわいである。この事をあなたに教えて下さったのは、神様であった」と言われました。神様の霊がペテロにこの事を教えて下さった。ペテロが難しい勉強や研究をして、信じたというのではない。血肉というのはそういう人間の努力の事です。自分の努力や熱心や、自分の力で信じたのではない。あるいは、誰かから聞いて、代々そういう家柄だったからというような、人の業、人の力で信じたのではありません。私たちが信じたいと思っても、自分の力で信じようとするから、なかなか信じられない。ここにありますように、「天にいますわたしの父である」とイエス様が言われるように、父なる神様が、信じる力を与えてくださらなければ、信じることはできません。その力は、御霊、聖霊です。私たちに、神様が霊を注いで、イエス・キリストが、「本当に主だ」と、信じることができるように心を変えて下さるのです。

使徒行伝に戻りますが、16章31節に「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。今申し上げたように、イエス様が私の救い主となって、神なる方が、人の世に降って下さって、十字架に私の罪を贖い、罪を許して、今、私の神となって下さった。神御自身が、私の主となり、救い主となって下さっている。私たちの日々の生活、家庭のことも、将来のことも、健康のことも、どんなことでも、イエス様は全てを知っておられる。イエス様の手に私たちが握られている。私たちには先の事が分かりません。明日の事も、来月の事も、来年の事も、これから先どうなるか、何にも分かりません。しかし、イエス様を救い主と信じていく時、自分には分からなくても、主はご存知ですと確信する。これが主イエスを信じる事です。

だから、先ほどのパウロとシラスが牢屋に捕らえられて、鎖で足を縛られて、身動きならない状態に置かれた時、彼らは祈り、賛美する事ができました。それは自分たちの身の行く末をイエス様に捧げてしまったといいますか、イエス様が知っていらっしゃる、握っていらっしゃると信じていたからです。この確信があれば、不幸といわれる出来事の中にあっても、動かない、揺るがないで、感謝する事ができ、賛美する事ができ、祈る事ができる。イエス様の救いは、私たちがどんな状態、事柄の中に置かれても、そこで本当に喜んで、感謝し、主を賛美し、そして祈る事ができる者へと私たちを造り変えて下さる。これが主イエス・キリストの救いなのです。

この31節に「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。先ず、「あなたもあなたの家族も」とあります。信じるあなたが先ず救われるのです。これが大切です。家族の救いをどうしたらいいでしょうかとよく訊かれます。神様は、私の家族を見捨たのでしょうかと言われる方がいる。でも、聖書にはそうは書いてない。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」と約束されているのだから、イエス様をあなた自身が信頼しなければ、家族は救われません。ともすると、自分はもう救われているのだと思っている。ご主人が、あるいは子供が、孫が救われなければどうしましょうと、そっちの方ばかりに心が向けられます。「じゃ、あなたは?あなたは主イエスを信じているのですか」と問い直してください。イエス様を信じているのだったら、当然家族も救われるのだと、徹底して信じてしまうのです。私が救いに与れば、大丈夫なのです。

家族の救いについて、いろいろと思い煩われるかも知れませんが、思い煩う事自体、既にイエス様を信じていない。先ず自分自身が主イエスを信じていく時、主はこの家族、この子も、あの子も、ご存知です。だから「大丈夫です」と、自分で信仰を持たなければ、救われるものも救われないかもしれません。ご家族の方が早くこの救いを受けいれたら、どんなに幸いかと思います。皆さんの願いはよく分かりますし、また神様は、その事はよくご存知です。だからこそ、そのために私たちは何をすべきか。それは主イエスを信じる以外にない。私たちはどんな中にあっても、主イエスを信じていく。今申し上げたように、家族の救いについてもそうですね。あの子供たちの救いがどうなるだろうか、何をしたらいいだろうか。ちょっと呼んで叱りつけてやろうか。言ってやろうかしら、こうもしてやろうか、ああもしてやろうかと、直ぐ、いろんな事を考えます。しかし救われるために何をしたらいいのですか。答えははっきりしています。「主イエスを信じなさい」です。

「他の家族が地獄に行くなら、私もいっそ地獄に行った方がいい。私だけが天国に行っては申し訳ない」と言われる方がいる。「それで済むのだったら、そうなさったら」と答えますが、本人がそう望むならば、どうにも致し方がありません。大切なのは、こうやってイエス様の救いを受け、主が私の全てとなって下さっているから大丈夫です、この家族も、神様、あなたが握っていますと、神様を信頼する。これが私たちの信仰ではないでしょうか。ですから、何をしようか、どうしようかと、思い煩うよりも、先ず私たちが、その事柄にも主イエスを信じ、信頼する事です。健康に不安があり、心配がある時も、主イエスを信じていく。そうすると、救いを受けることができる。また、自分の将来の事について、不安がある時に、老後の事やいろんな事を考えると心配になる時に、そこで主イエスを信じるのです。

私は、この御言葉で励まされます。つい、あの事を、この事をと心配します。その時に、自分に向かって言うのです。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたも」、ああそうだ!私も救われる。私が救われるばかりでなくて、家族も救われるとおっしゃる。「主イエスを信じなさい」、ここに全てが掛かっています。どうぞ徹底して、イエス様を信じていこうではありませんか。どんな事にもイエス様がそこにいて、私も生かされている。そこに、いつも心を向け、思いを向けましょう。心配な事、思い煩う事、ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようと不安な時にこそ、「主イエス様を信じなさい」と、先ず自分自身が、主の前に自分の姿勢を整えて、「そうでした、あなたを信じます」と、心を定めてしまう。そうすると、主が全ての事の中に働いてくださる。私たちの内に主の霊が働いて下さる。神様の力が注がれて、心と思いを新しくして、平安を満たして下さる。しかも私たちが救われるばかりでなくて、家族もちゃんと救いに導きいれて下さる!「あなたの家族も」と。それが何時であるか、これは分かりません。

ある時、一人の姉妹に、「家族のために、私は長年祈ってきました。もう、自分もそろそろ年ですから、天国に行く時が迫っているように思われるのに、うちの子は、見ていると、救いにほど遠いと思われる。どうしたらいいでしょうか」と訊ねられたことがあります。「あなたが見ているから、駄目ですよ。“見ないで信じる者”とあるでしょう。家族を誰一人滅びることなく、救いに与らせて下さるのは、神様の御目的だから、主を信じていらっしゃい」「分かりました。じゃ、それは何時ごろでしょうか」と問われました。「いや、それは分からない」「でも先生、私の目の黒い間に何とか実現できないでしょうか」と言われる。それは分からないけれど、たとえ私たちがこの地上で命を失って、いなくなった後にでも、私たちの祈った祈りを、約束を、ちゃんと果して下さる。だから何も心配はいりません。目の黒いうちに早くそれを見せてもらいたいとか、「生ける者の地で主の恵みに会わんことを」と、これが願いですが、たとえそうでなくても、主は決して私たちを捨てない方です。ですからどうぞ、私たちも31節「主イエスを信じなさい」と、いつもここに立ち返ろうではありませんか。救いの原点はここです。「そうだ、これもイエス様が私に備えて下さっている事ですから」と、絶えず信頼して、主に心をゆだね、信頼しましょう。

この時も、獄吏は、32節以下に「それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ」とあります。この最後の所に、「神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ」と。主イエス・キリストを信じる事が、実は、神様を信じる事でもあります。神様を信じるという事は、取りも直さず、主イエス・キリストを信じる事に他なりません。

この時、獄吏たちの家族全員が、イエス・キリストを信じて、バプテスマを受けて喜んだのです。私たちも、今、主イエス・キリストを信じて、喜びが与えられ、望みが与えられ、平安と安心を与えられています。私たちが信じるべきものは何か。それは唯、主イエス・キリストです。「あなたこそ生ける神の子キリストです」と。私の主です、救い主ですと、固く信じて、一つ一つどんな事の中にも、主を呼び求め、信頼し、主に望みを置いて行こうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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