いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(194)「最高の喜び」

2014年05月10日 | 聖書からのメッセージ
 ルカによる福音書2章8節から20節までを朗読。

 11節「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」。
 これは私たちがそらんじるぐらいに覚えているクリスマス物語の一節であります。クリスマスでは聖誕劇を子供たちや大人たちも含めて演じたりしますが、その中で必ずこの記事は登場します。

 8節以下には、その地方に羊飼いたちがいたことが記されています。私どもの日本の社会では羊飼いというのを間近に見ることはできませんが、イエス様の時代、ユダヤの地方では羊を飼うことは生活の最も基本の大切な仕事でした。彼らにとって羊は財産であり、また生活の糧でもあったのです。羊飼いたちが野宿をして羊を飼っている。これは日常的な光景でした。そこへ主の御使が現れて、まばゆいばかりの光に照らされた。その時、羊飼いはびっくり仰天しました。いったい何事だろうかと。その時、御使が語ったのが今読みました記事です。10節に「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える」とあります。「大きな喜び」とあります。しかもそれは「すべての民に与えられる」のです。「すべての民」、これには例外がない。ある特定のこのような人たちだけ、このようなグループの人、あるいはこのような民族にだけ与えられるというものではない。その当時としては驚くべき事です。というのは、聖書を読むと分かるように、イスラエルの民が聖書の中心的な登場人物であり、舞台であります。このイスラエルの民は、神様から選ばれ、「神の民」と特別な名前を持って呼ばれる人々でした。ですから、自分たちこそが他の人々よりも優れている、神様から多く愛された者だという自負心、そのような誇りがありました。聖書の中に「異邦人」という言葉が出てきます。これはイスラエルの民から見るならば、ほかの人々、日本人も含めて世界にはいろいろな民族がたくさんいますが、そのような人々はイスラエル人とは違う、異邦人でした。言うならば、神様の救いに遠い者という意味です。そのような区別、差別があった時代です。そのような時代にあって、「すべての民」と言われることは、これはびっくり仰天です。しかも語っている相手は羊飼いたちです。もちろん、この羊飼いはイスラエルの民ではありました。イスラエルの人々よ、あなたのためにこういう素晴らしいおとずれがあるのだよ、という意味ではない。ここでは「すべての民」、どんな人にでも与えられる大きな喜び。「大きな喜び」とはどんな喜びであるのか、私どもは分かりません。うれしい、楽しいという気持ち、それが大きいというのはどのような状況を表すか、具体的なことは分かりませんが、まさに「大きい」としか言いようがない。本当に大きな喜びを私たちに与えてくださる。
このようなニュースを聞くなら、どんなにかうれしいことでしょう。今日「すべての民に与えられる大きな喜び」、皆さんに喜びを与えてくださるという。では、何がもらえるだろうかと、つい期待します。何かおいしいものでも食べられるかしら、あるいは何か思いがけないプレゼントをもらうかもしれない。目に見える、あるいは自分の五感を刺激し、物質的な楽しみ、そのような喜びをつい期待します。「喜び」と言うと、そういうことしかないように私どもは思っています。私たちが日常生活の中で喜ぶとき、考えてみると、ラッキー、良かったという、そのような事態や事柄、思いがけない良いことがある。そうすると喜ぶ、それがないと喜べない。何か一日中詰まらない、なぜ詰まらないか。何か良いことがないと、楽しめない。私どもはいつもそうですね。

以前のことですけれども、一人の若い姉妹がいまして、いつも私どもの所へ遊びに来て、来るなり「ああ、……」とため息をつく。「どうしたの? 」と聞くと、「つまらない、つまらない」と嘆く。ある日、ニコニコしてやって来ました。「何か楽しいことかうれしいことがあったの」と尋ねると、「今度旅行することになった」とのこと。その喜びたるやもう満面の笑みですよ。つい昨日まで「つまらん、ああつまらん」と言っていた子が、途端にニコニコして……、それからしばらくはいいですね。一ヶ月ぐらい前からそのような計画を立てて、そうすると来るたびに、何を持って行こうか、どこで何を食べようか、どうしようか、こうしようか、その話で盛り上がって、こちらも一緒になって楽しんでいる。しばらくして、いよいよ行くという前の日になって「明日から行く」と。「よかったね、はい、行っていらっしゃい」。それで一泊二日ぐらいで戻って来る。夜遅く帰って来る。帰って来るなり私どもの所へ来るのです。そうするとまたショボンとしている。「どうしたの、楽しかったでしょう」「ウン、まぁ、別に……」と言う。「どうして? 」、「終わってしまったから」と。それからまたズーッと毎日「つまらない」の連続です。私はその子に「行事追っかけ症候群」という病名をつけていましたが、いつも何か行事がないと楽しめない。皆さんもそうではないですか。昨日も今日も同じでちっとも変わらない。何も楽しいことがない、何もうれしいこともない。家族の者や孫たちから「おばあちゃん、おじいちゃん、明日どこかレストランに行こうね」と言われると、途端に喜ぶ。ところが、それが終わるとまたシュンとして火が消えたようになります。私どもの喜びは、生活の上でそのような思いがけないプレゼントをもらったり、あるいは楽しい旅行に出かけたり、そういうプランが出来たり、行事が目の前にぶら下がっていると喜べるけれども、ただ単に、朝起きて食っては寝、食っては寝、昨日の今日、今日の明日、同じことで、何が楽しいかしら、と思っている。

ところが、ここには、「大きな喜びを、あなたがたに伝える」とあります。喜ばせてくださるというのです。これで喜ばないはずがない。こんなうれしい話はないのです。では、その「大きな喜び」とは、何であったかと言うと、11節に「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった」。私たちのために救い主が生まれてくださった。私はそんなものを願っているわけではない。私はあのデパートの洋服が欲しかったのに。あるいは、海外旅行がしたかったとか、あそこに行きたかったのにと思う。救い主が生まれたなんてと、どこかでそのように冷ややかに、何故これが大きな喜びであろうかと思うかもしれません。しかし、ここで「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった」と告げられ、私たちを救ってくださると言うのです。喜べない原因はどこにあるか。私たちを喜ぶ者と造り変えてくださる御方、これが救い主です。実は、私たちは本来救われなければどうにもならない存在、ただ目先の行事を追っかけて、これがあるから楽しい、これがあるからうれしい。これが無くなったらもうおしまい。そのような目先の自分の感情を楽しませ、感覚的な喜びだけを求めて生きている私たちに、そうではない、もっと消えることのない心から喜べる喜び、これを与えてくださるために、救い主を私たちのところに遣わしてくださいました。救って、私たちの主となってくださる。だから11節に「このかたこそ主なるキリストである」。お生まれくださって、私どものところに来てくださる救い主こそが、実は私たちの主でいらっしゃる。

私どもはなぜ救われなければならないのか。そのようなことを言われる。「私はそのような救いは必要ありません。救われなくてもいいです」と言っているのです。教会に来られた方に、牧師先生が「あなたはイエス様の救いにあずからなければ天国に行けない。だからイエス様を信じてください」と言った。すると彼が「いや、みんな天国へ行きたがるから、天国は満員で込み合っているに違いない。私は人の少ない地獄へ行きたいと思います」と言った。ところが、その方もやがてついには救いにあずかって、喜んで天国へ帰られましたが、私どもは、「なぜ救われなければいけないのか」と思っているでしょう。「なぜ私が救われなければ……」、自分はそんな救われなくてもいい、と思っている。ところが、現実の私たちの生活を振り返ると、今申し上げたように喜べない、感謝ができない、望みがない。そういう現実の中にいるのではないですか。それはもう人生だから仕方がない。人の世の中はそんなに年がら年中喜んでいるわけにはいくまい。苦しみもある、悲しみもある、つらいこともある、失望することもある。これが人生だよと、だからもう仕方がないのだ、とおっしゃるならば、それはもうまさに仕方がないから、諦めるほかありません。ところが、私たちがこの地上に命を与えられて生きるのに、わずか80年か90年か、長くて100年でしょうか、短い人生を生きるにあたって、悲しみながら、つらい思いをして、失望落胆、怒り憤り、恨みつらみを持ちながら、歯ぎしりして、悔やみながら生きるのがいいか、あるいは毎日喜んで感謝して望みにあふれて輝いて生きているほうがいいのか、どちらがいいですか。イエス様は、私たちにそのような大きな喜びを与えるために来てくださいました。老い先短いから喜ぶことができない、感謝することができない、失望落胆し、望みがない、お先真っ暗という人もいるでしょうが、若くても自分は望みがない、生きていたって詰まらない、そのような思いで生きているとするなら、これは誠に気の毒です。聖書に記されているように、神様は私たちに地上に命を与えてくださったのです。決して、自分で生まれ出てきてこの世にあるわけではありません。神様が一人一人を造って、その日その時その場所を定めて、ここに置いてくださったのです。人生を苦しみ悩み悲しみの中でしん吟(ぎん)しながら、うめき苦しみながら生きるためにこの地上に置いたのではないのです。そうではなくて、私たちをして喜び感謝し輝いている者として、私たちを造ってくださいました。それなのに現実の私たちは、それとは程遠いどころか、全くそれとは違う人生を生きている。その原因は何なのかをよく考えていただきたい。「ああそうか、なるほど私はこうして楽しむべく、また望みをもって輝いて生きるべく造られたのか」と思って、自分の生活を振り返ると、「どうも、あの主人がよくない。自分の結婚が間違っていた」と。あるいは「あの子供を育て損なったから、私の不幸が始まった」とか、あるいは「自分は一生懸命に努力しているのだけれども、世の中が私を認めてくれない。この世間が悪い」、あるいは「政治が悪い、社会の仕組みが悪い。世が世ならば、もう少しましな人間になっていたはずで、こんな惨めな日々を送っているわけはない」と言って、あの人がいけない、この人がいけない、こういう問題があるから、こういう悩みがあるから、こういうことがあるから、だから私は可哀相に気の毒な者だ。自己憐憫(れんびん)という言葉があるでしょう。自分を哀れんで生きている。私はこんなにまじめに、一生懸命人生を生きているのに、世間がそれを認めてくれない。あるいは家族があんなことを言う、こんな事をする。あんな家族がいるから、私は悲しんでいる、苦しんでいる、望みが持てないと嘆きつぶやく。しかし、私たちの問題は、誰がどうしたとか、社会がどうであるとか、家族がどうであるとか、あるいは自分の生い立ちがどうであるとか、親がどうであるとか、先祖がどうであるとか、そんなこととは一切関係がないのです。私たちが喜べない、感謝できない、輝いておられない理由は自分の中にある。諸悪の根源、すべての原因は私たちの中にある。私自身の中にある。

ある方が先生に一つ相談があると来られました。息子さんのことで悩んでいました。福岡でも有名な進学校を卒業して、ストレートで関東のある有名な大学へ入学しました。家族は喜んで送り出した。しっかりやっているものと思っていた。3年ぐらいたったら学校から「お宅の息子さんは単位が足らないから4年では卒業できません」と連絡が来て、親はびっくりして、本人を呼びつけて聞いてみたら、何と2年生からぜんぜん大学へ行ってない。授業料だけ納めて、月々仕送りをさせて遊び暮らしていた。とうとう1年延期、卒業延期になってしまった。それでお母さんはびっくりして私の所へ来て、「こんな息子になってしまって、どうして? もう何とかならないだろうか」と。自分はこれまでああして、こうしてといろいろなことを言う。でも、その息子さんは自分がやりたいことを今やっている。聞いてみると、学校に行かないで、オーケストラに入って自分の好きな楽器を演奏するのに夢中になってしまった。「いいじゃないですか。息子さんにはやることがあるのだから」、「先生は人ごとと思ってそんなことを言う」と。私は「問題は息子ではなくて、お母さんにある。あなたが問題」と言いましたら、大変怒りまして、「そんな馬鹿な、牧師ともあろう者が人を非難する。私の問題は息子にあるのに、私のことを言った」と、それっきり来なくなりましたが、私はそのように思うのです。問題は誰かほかにあるのではない、実はあなたにある。皆さんもそうですよ。なぜ自分が喜べない、なぜ自分が悲しんでいるか。考えてみると、すぐ犯人探し、原因探しをする。あいつがいけない、こいつがいけない、これがあの問題と。そうではない。諸悪の根源はほかでもない、私にある。「では、私の何がいけないのだ!」と言われるでしょう。その私のいちばんいけないのは、私たちが造られたものでありながら、造り主でいらっしゃる神様を畏(おそ)れない、神様から遠ざかってしまっている。神様を忘れてしまっている、ここに問題がある。私たちが神様を畏れることがない。だから自分が神になる。私は正しい、私はどこも間違いがない、私はこんなに一生懸命にやっている。そう言って自分を王とする、神とする。これがいちばんの根源ですよ。いや、そんなことはない。私は病気があるから、この病気のために私は喜べない、望みが持てないと言う。確かに病気があること、確かにそのとおりだろうと思う。私はそのような病気をしましたから、そのことはよく分かります。しかし、この病気のゆえに私は悲しい思いをしているから、病気が何とか治ればと。しかし、実は病気を与えておられる神様がいらっしゃる。神様が、その病気を通して、何か教えてくださる、また何かを与えようとしてくださる。そのように神様を自分の前に置かないから、自分の思い通りの人生を生きられないから、この病気は嫌だ、こんな悩みに遭うのは嫌だと、私どもは言います。病気をなぜ嫌がるかよく考えてみると、やはり自分の我を通したい。自分の思いどおりの人生でない、自分が思い描いたものではなくて、こんなときにこんな病気をしてしまって、私の人生はこれからどうなるかしら、私の思ったとおりにいかない。「何でだ!こんなことは嫌だ!」と言って怒りがある。神様に向かって怒っているのです。ところが、そんなことは自覚しません。「神様、私はあなたに対して怒りますからね」と言う人は誰もいない。ただ腹の中で「何でこんなことになった。どうして!私の食生活が間違っていたのかしら」と。

ある姉妹が病気になって落ち込んでいる。「先生、こんな病気になってしまって、何か私に悪い所があったでしょうか」、「いや、無いと思いますよ」「いや、何か私の食べ物がよくなかったからこんな病気になったのでは……」、「そんなに悪いものをあなた食べていたの? 」と言いましたら、「いや、普通だと思います」、「それなら関係がないじゃないの」、「じゃ、どうしてこんなになったのでしょう? 」「だから、神様でしょう」と、「どうしてですか。神様が私にこんなものを与えるのですか!」と、「聖書にはちゃんと書いてあります。神様が『わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する』(イザヤ 45:7)とおっしゃる。あなたは神様によって造られて、神様の手の中にあるじゃないですか」、「でも、こんなになってしまって」と言って喜べない。その喜べない原因は結局のところ、病気がどうとか、事情境遇事柄がこうだから喜べないのではなくて、私の思いどおりでない、私の計画したとおりにいかない。私が願ったような人生でなくなって、こんな所でつまずいてしまった、こんな穴に落ち込んでしまって、こんな予定は無かった。病気になるのは80歳ぐらいになってから、私はまだ若いのだから、そんな病気になるわけはないと。では、誰が決めたのか。自分がでしょう。80歳の方は「いや、私は80だけれどもまだ若い。あの人よりもこの人よりもまだ若い。90ぐらいにならんとこんな病気にはなるまい」と、それは大間違いです。そのように自己本位と言いますか、自己中心の思い、それがいちばんの問題です。私たちは自己中心になると、神様を畏れなくなる。神様を認めようとしない。神様は、全知全能、すべてのものを自在に支配している御方であって、私たちは生かされていることを認めるべきです。しかも、神様は私たち一人一人にいちばんよいことをしてくださるのです。「神は愛である」(1ヨハネ 4:16)と記されているでしょう。神様は愛をもって私たちを顧(かえり)みてくださっている。神様を身近に喜び、神様の手にあることを、何も分からないけれども、神様が愛によっていちばん良いことをしてくださる。そればかりでなく、神様は私に一番良いことをしてくださっているのだ、と言えるためには、自分を捨てなければならない。自分の思いを握っていて、自分の計画、自分の考えをしっかりと握っていて、私はこうだから私はこうなりたい、私の人生はこうだから、こういう人生を生きる。このときには何をしようと、自分で計画を立てて生きているから、とんでもないことが突然起こったら「偉いことになった。何でこんなになった!」と。

先だっても、ある方とお話をしていましたら、その方も一つの病気を与えられて、この半年近く悩み悩んで、その後で「先生、この病気を通して私は本当にいろいろなことを教えられた」としみじみ語っていました。その一つは、「自分で生きているのではないことを痛切に教えられた」と言うのです。なぜなら、もし自分で自分の人生を思いどおりに生きることができるのだったら、すべてのものが大体予見できる。前もって知ることができる。そうでしょう。ここはやめとこう、ここはこうしよう、あそこはああしよう、来年の今ごろはこうなっておこうと、自分で作られるのなら作ったらいい。ところが、分からない。明日のことも分からない。何も分からないで、思いがけないことがポカッ、ポカッと、人生に起こってくるのはなぜか。それをつらつらよく考えて「これはもう神様がいらっしゃるとしか言いようがない」と、その方は言うのです。私もそのように思う。神様がいらっしゃるとどうして分かるかと問われますが、自分の人生を考えたら分かるでしょう。これまでの人生を振り返ってみて、今日ここにある私が10年前、あるいは若いとき、二十歳のころに予定したとおりの人生だったなら、その人が神様ですよ。自分が思ったのとみんな違う。だからタイムカプセルというのがあるでしょう。同窓会などがあって、30年くらい過ぎて、昔自分たちが書いた作文などを読む。「バスの運転手になりたい」とか、あるいは「看護師になりたい」とか、子供のころの夢を書いている。「ハハーン、私にもこんな時があったか」と笑いますが、もし、自分の人生を自分で決定し、自分で作り出すことができるならば、思いどおりにやったらいい。やれないのです。なぜやれないのか。それは明らかですよ。自分で生きているのではなくて、見えない神様の力によって、私たちは生かされ、持ち運ばれているからです。私たちの人生に病気を作り、また楽しい家族を作り、いろいろな喜びや楽しみや災いをも作って、私たちを楽しませ、喜ばせ、感謝させようとしていらっしゃる。決して、悲嘆にくれさせ、悲しみと悩みの中にあって、眉間(みけん)にしわを寄せて生涯を送るようにと、神様は造られたのではない。神様を喜んで感謝して、「ああ、今日も一日生きてよかった、ああ、今日も神様がこのような素晴らしい楽しみを与えてくださった」、「このような病気の中にも神様が置いてくださったから感謝します」と言える喜びを与えるために造ってくださった。ところが、現実の私たちはそのようにはなっていない。

だから、11節「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった」のです。イエス様は神様に対して犯してきた罪、言うならば、神様をないがしろにし、神様を信じられなくなった、信頼しきれなくなった私たちの罪を取り除いて、私たちと神様とを結び付けてくださる。私たちが神様に遠慮なく信頼できる者に造り変えようと来てくださった。私どもは、自分が自分がと思うその自分を捨てて、私のために来てくださったイエス様が私の主、私の主人、私の神となってくださる。そのために、イエス様はあえて神の位を捨て、この世に来てくださった。イエス様が私の罪を赦して、今日も父なる神様の愛の手の中に、私を置いてくださっていると信じていくとき、目の前の問題や悩みや事柄が何であっても、喜ぶことができる、感謝することができるのです。

イエス様が33年半近くのご生涯を歩んだその最後は、あの十字架のみ苦しみを受けることでした。十字架にご自分の命を捨ててくださった。それは、あなたのためでしょう。私のためでしょう。私どもが神様に罪を犯して、喜べない感謝できない、憤りと怒りとつぶやきの中に生きているその罪を赦して、神様を心から信頼することができる者にしてくださった。その罪を負って、イエス様は、あの十字架に裁きを受けてくださいました。本来神様から滅ぼされるべき私たちの身代わりとなって、イエス様は死んでくださいました。そして死んでくださったばかりでなく、墓から三日目の朝早くによみがえってくださったイエス様は、時代を越え地域、社会、文化、一切のものを越えて、すべての人々、ここに語られて約束された「見よ、すべての民に」と、すべての人々にいのちを与え、喜びを与えてくださるのです。私たちの目には見えませんが、信じる者のそばにいてくださる。私たちと共にいてくださる御方、「神われらと共にいます」(マタイ1:23)、神様がいつも私の助け手、私の主ですと、そう言い得る者に変えてくださった。

私のための救い主でいらっしゃる、救いを与えてくださる、このイエス様を信じる者となりたいと思います。神の位を捨ててまで、私の主となってくださった。このイエス様を信じるとき、私たちは、「自分が、自分が」と、我を張ることがいらなくなる。イエス様が私を愛して、私のために命まで捨ててくださった。その神様が私を愛してくださる。そればかりでなく、日々の糧、一日を生きる食べるものも、着るものも、住む所も、すべてを神様が備えてくださったと、喜ぶことができる。ところが、そこまで神様を認めないから、おれが頑張ってこれだけになった。この一年もおれが頑張ったからこうなったと、「自分が、自分が」と言い募っているから、与えられたものを感謝できない。これで当たり前、ちょっと不足していると、もうちょっと何とかならないかしらと、いつも不満になる。感謝ができないのはなぜか。自分がいつまでも支配しているからです。イエス様が私の主となってくださった。私の命も生活も、一切が実は、私は知らなかったけれども、神様が恵んでくださったものでした。神様はひとり子を賜うほどに私たちを愛してくださって、罪を赦して生きる者としてくださるばかりでなく、やがて地上の生涯が終わるならば、私たちの住まいを御国に、永遠の御国に備えてくださる。もう死ぬことを恐れることはいらない。私たちをいつも喜ぶ者と変えてくださる。

先だっても、ある方が「私は今本当に幸いです」と言われる。「何がですか」と聞くと、「いや、イエス様が私と共にいてくださることと、私が生きているのではなくて、イエス様がよみがえって生かしてくださっていることを、日々喜んで、感謝することができる身分とされたことは、うれしくて仕方がありません」と。だから、その方は、朝、目が覚めると、パッと起き出す前に、布団の中で「イエス様、今日も命を与えていただいて感謝します。今日の一日を神様、あなたはどのように導いてくださるでしょうか。私をあなたのみ手に委ねますから、あなたのみ心を成してください」と祈って、お布団から出るのです。そうすると、素晴らしい一日を送れる。もちろん、いろいろな問題や悩みがある。しかし、それもこれも私を愛していらっしゃる神様がついているから大丈夫と、いつもそこに心が向いていくのです。こんなうれしい話はありませんと。確かにそうです。イエス様のことを、まず心に置いて生きてご覧なさい。朝、起きるなり、「あいつが何とか、あの人が何とか、今日はあれもしなければ、でも嫌だな」と思って起きるのと、「イエス様、感謝します。今日も一日命を与えられてうれしいです」と言って起きるのと、大違いです。今朝、皆さん何を思って起きましたか? 「今日も礼拝か、行かんといかんな」と思ったなら、これは気の毒な話です。イエス様、今日もあなたが私の王です、主です。私はあなたに従いますと、イエス様を信じる者となって生きたい。そうすると、私たちの人生を輝いたものへと変えてくださる。朝、起きて最初に心に思うことが、その人の人生を決めるのです。だから、心は大切ですから、いつもイエス様を前に置いて、主を見上げて生きるものとなりましょう。命を懸けて愛してくださるイエス様が、私の救い主、私を救って永遠のいのちに、死を越えてなお永遠の御国にまで、私を導き入れてくださる方です。このことをいつも信じて歩む者となりたいと思います。それがクリスマスです。

11節に「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった」。ある方は「先生、最近私は聖書を読むとき『あなたがた』というと、何かたくさんの中の一人のようだから、わたしは『あなた』と単数形にして読んでいるのですが、いいでしょうか」と。「そうすると聖書が全部自分にだけ語られた言葉に聞こえてきます」と言うのです。皆さんも聖書を読まれるとき「あなたがた」という所で「あなた」と、またご自分の名前をいれて読んでご覧なさい。襟を正さざるを得なくなります。「あなたがた」と言われると、「いいか。私一人ぐらいは」と、どこか逃げてしまうでしょう。この11節に「きょうダビデの町に、あなたのために救主がお生れになった」。「このかたこそ主なるキリスト」、主でいらっしゃる。私たちの主人でいらっしゃる、私が主ではなくてイエス様が私の主です。

どうぞ、お生まれくださったイエス様を救い主、私の主ですと信じて、この御方に従っていきたい。この方を常に心に置いて生きる者でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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