ルカによる福音書1章26節から38節までを朗読。
38節「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った」。
ここでマリヤは神様のみ前に「はしため」となると告白しています。殊に、「はしため」という言葉は、最近、死語といいますか、廃(すた)れてしまいまして、こんな言葉を聞いても「何のことかな」と、若い人は言いますが、「しもべ」「はしため」と言われるように、いわゆる主人に仕える人たち、召使いなのです。いろいろなお宅に行って、家事、掃除、洗濯をしたり、そういうことを含めて主人に仕える人のことです。「僕」(しもべ)もまたそのような意味です。今の時代、そのような人があまり見られないのは確かです。昔は、女性があまり社会に出て働くところがありませんから、大きなお屋敷などで、素封家(そほうか)であるとか、資産家のうちに家事見習い奉公として、住み込みで手伝いをする生活制度がありました。だから、身近に「あの方はお手伝いさんだ」とか、そういう言葉がよく使われましたが、今はそういうことがほとんどありません。お手伝いさんを置いている家などまずありません。最近は「ヘルパー」という言葉を使いますが、「ヘルパー」と「はしため」とは違います。「ヘルパー」は助け人ですから、命令に従う関係ではありません。最近は介護保険などが行き渡って、ホームヘルパーの方が家に来てくださる。ヘルパーの方はその人にいちばん良いように考えて、こういうお手伝いをしましょう、こういうことを助けてあげましょうということであって、その家の僕になるために行っているのではありません。ヘルパーをなさる方から苦情が来る。「あの家に行くとあれも、これもさせられ、私がしてあげようと思ったことは何もできなかった」と言われます。「私たちはそんな僕ではありません。お手伝いさんになったわけではありません。ヘルパーです!」と。なるほどそのとおりだろうと思います。だから今の時代、「僕になる」とか、ましてや「はしため」という言葉の持っている意味、それが意味することが分らなくなってきました。
しかし、マリヤさんは「わたしは主のはしためです」と言いました。これは私どもの信仰の原点だと思います。と言うのは、イエス様の救いにあずかるのは、私たちの幸せのためとか、家内安全、無病息災、商売繁盛、交通安全、学業成績優秀のためではありません。また、そのようなことのために、イエス様が十字架に架かられたのではありません。イエス様が私たちをあがなうためです。それは私たちを神様の所有、神様のものとしてくださる。イザヤ書43章に「わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」と言われています。神様の所有になる、神様の思いのままに用いられる者となることです。お店に行ってお金を出して品物を買って来ます。その買ったものをどのように使おうと、それは買った人の自由ですね。買い取った人がそれを自分のものとした以上、どぶに捨てようと、あるいは倉庫に仕舞い込もうと、どこにどう使おうと自由です。神様が私たちを買い取ってくださった、との意味は、よくよく考えたら、神様が私たちの生殺与奪の権、生きるも死ぬも全てを神様が握ったことです。だから、時々、そこまで考えないままに、「こんな私を神様のものとしてくださった。うれしい、うれしい」と言われるが、言うならば神様に握られて自由がなくなることを承知の上で喜んでいるかと思うと、案外そうではない。「神様は私を買い取ってくださった。あがなってくださって、神様のものとなった。わー、うれしい!」と言いますが、そんなにうれしいことなのか。神様のお気に召すまま、言うならば、神様の手の内で自在に動かされて当然ですと言っているのであって、「神様が私と共にいてくださる。私は神様のものになったから、これでもう万々歳、後は寝て暮らす」と、三食昼寝付きの生活だという、そのような意味ではないのです。だから、案外と聖書の言葉を自分の都合の良いように解釈して、「神様のものになったら、これはもう天国だ、これから生活の心配はないし、私のしたいことができる。うれしい」という意味で理解されるなら、神様のみ心、み思いとは大違いです。神様が私たちをあがなったと言うのは、私たちをしもべにしてくださるということです。もちろん、神様は子供として取り扱ってくださると言われます。そのように子供として扱ってくださる御方です。しかし、あがなわれるとは、むしろ神様のしもべ、はしためになることです。
御使ガブリエルがマリヤさんに「あなたはみごもって男の子を産むでしょう」と、神様のご計画を伝えました。そのとき「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」と答えます。「そんなのは嫌です。私はそんなことはできません」と言って拒んだのです。それは神様のご計画が分からないし、世間と違った、世の人から見るなら、とんでもない大変な事態になる、誤解を受け、そして命を失うか分からない。そんな危険に身をさらすことはできない。いくら神様だって、私は従えませんと思ったでしょう。しかし、そうであるかぎり、神様の救いにあずかることはできません。今も変わらない事です。神様が私たちを救ってくださるのは、自分の都合のよいように、自分のしたいことができ、自分の嫌なことはしないでおく生活が保たれるのではなくて、自分の好まない、願わない、自分にとっては損になる道、それがたとえどのような道であっても、従うときです。今年の年頭に与えられました御言葉、「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである」(イザヤ 43:10)とあるように、神様は私たちを僕にしよう、神様に仕える者となさるのです。
37節に「神には、なんでもできないことはありません」と、御使ガブリエルが申しました。自分の力で神様に仕えていこうとする、神様の僕になろうとしてもこれはできないが、神様はオールマイティーな御方、できないことのない御方であるから、あなたを僕にしてあげるから、と言ったのです。「わたしに従いなさい」と神様は求められた。だから38節に「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』」。神様、私はあなたの僕ですと。これは私たち、救いにあずかった者の一つの生き方、大切な生き方であります。私どもは神様にあがなわれて、神様の所有となった。それはただに私たちの幸せや安楽のためではなく、一人一人が神様に仕える者になるのです。神様の僕となって生きる、これが私たちの使命であります。私達は神様に仕える者であって、神様を僕にするわけにはいかない。神様に「私たちはこうしたいのだから、神様これをやってください」と、神様にじか談判をすると言いますか、強引に徹夜交渉でもしようかという、そんな信仰は本当の信仰ではありません。37節に「神には、なんでもできないことはありません」と言われて、38そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです」。神様に仕える奴隷、僕です。神様が業を進められるのであって、私どもが司令官になるわけではない。ともすると、私たちは気がつかないうちに、自分が司令官に、自分が王様になり、自分でこうあって、こうなってこれがいい、神様どうぞこのようにしてくださいと、スケジュールからシナリオまで書き上げて、結論も私が決めて、神様やってくださいと。これはないでしょう。どうも私どもの信仰はどちらかと言うと、自分が神様よりも上になる。上になるとは思わないけれども、気がつかないうちに神様を自分で動かしたい、思いどおりにしたいという、そのような思いが心に絶えず芽生えようとする。
38節「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』」。マリヤはこのとき、「嫌です、そんなことはできません。私はそれは嫌です」と拒んでいる。いくら神様が言われたって、私はそんなことはできません。そうであるかぎり僕になれません。はしためにはなれません。しもべ、はしため、奴隷は、主人の言うことには「はい」と従う。右にするにも左に行くにも、止まるにも、どんなことの中にも、主人が「せよ」と言うことに、「はい」と従う。これが私たちの使命です。私たちが神様の救いにあずかって、代価を払い買い取られて、神のものとしてくださった。それは私たちを神様の僕として神に仕える者とするためです。私たちは今いろいろな所に、生活の場に置かれていますが、そこに遣わされ、神様に信頼して、神様のみ声に聞き従っていくためです。
神様に従うために、主が備えてくださるところはどこなのか。「わたしは主のはしためです」と、このことに徹底していく。私どもはすぐ「どうして私がこんな事をしなければならない」、「私ばかりがこんな事をして」、「私にはもっと違った世界がある。もっと大きなことができる」、「もっと私は……」という不満をいつも抱いている。そうではなくて「わたしは主のはしためです」。これ以外にない。今、ここに主が私を置いてくださった。「わたしは主のはしためです」。イエス様に仕える場所は台所であったり、あるいは地域社会の何かであったり、そこでイエス様に従うことです。「いや、私にもっと時間があって、私がもっとあれができたら、これができたら、もっとこんなことができたら、神様のために役立つのに」と思いやすい。そんなものを神様は求めていない。「神には、なんでもできないことはありません」、神様はどんなことでもおできになるのですから、私たちのお手伝いが必要なわけでも、私たちが知恵を貸してあげなければならないわけでもない。憐(あわ)れみによって、神様の御用に用いていただいているのです。このことを決して忘れてはならないし、これが信仰の基本です。
だから38節に「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』」。全身全霊と言いますか、自分のすべての存在を神様のものとしてささげていく。献身という言葉をよく言いますが、イエス様の救いにあずかるとは、まさにそのような意味で献身です。私たちの身をささげる、生涯を主のものとして、そして僕となって主に仕えていく。
コリント人への第二の手紙6章3節から8節前半までを朗読。
この4節、8節に「神の僕として、自分を人々にあらわしている」。これはパウロが語った言葉であります。パウロは自分が神の僕であることに徹底したのです。彼は「キリストの奴隷である」とも語っています。イエス様は私たちをすべてのものから解放して、自由を与えてくださったとあります。しかし、私たちはむしろ喜んで自分をキリストの僕として、主のはしためとなって、神の僕となって、人々の前に立っていく。8節に「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても」、どんなことがあっても主に仕える者となる。どうぞ、このことをしっかりと心に置いて、神様を動かしてどうこうするのではなくて、私たちが神様に仕える者となる。そして仕える場所は教会に来ている礼拝中だけではない。仕える場所は今置かれている生活の場であり、与えられる問題や事柄を通して、主が「負え」と言われる重荷を負うことを通して、主に従っていくのです。これが私たちの使命です。
ヨシュア記5章13節から15節までを朗読。
イスラエルの民がヨルダンを渡ってカナンの地へ入りました。このときモーセはいませんで、ヨシュアがその指導者となっていました。最初に出会った町がエリコの堅固な町です。城塞都市です。周囲が城壁によって囲まれた堅固な、難攻不落と思えるような町でありました。彼等は長年、四十年近く荒野の旅をしていますから、戦いの武器や戦車を持っているわけではない。この町をどうやって攻略しようかと、本当に困っておったのです。方法がない、お手上げだったのです。それで彼は一人、民から離れて、エリコの町が見える近くまでやって来ました。さぁ、どうしようかと、悩んでおった。そのとき向こうから一人の人がやって来る。見ると手に剣を持っている。鞘(さや)を抜き払って、今にでも攻撃しようかという姿勢でやってくる人を見る。ヨシュアはびっくりして、「敵か味方か、お前はどっちだ」と聞いたのです。そのとき、その人が「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。言うならば「わたしは神様の軍の司令官として今きた」と。それまでヨシュアは自分が責任者だ、自分がこの民を率いてきた。これから自分がどのような指令を出し、どういう作戦を立ててこの町を攻略しようか、思案投げ首、なすすべがなかったときに、そうではない、お前ではない、わたしが主だよと神様のほうが使いを遣わしてくださいました。この人が主の軍勢の将として、将軍として、今来たというのです。そのときヨシュアはどうしたかと言うと、14節の後半に「ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った」と。彼は「そうだ。私は司令官でも何でもない。この方が主です」と、その方の前にまずひれ伏したのです。そして、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」と問いました。その将軍の前にひれ伏して、「どういう作戦を与えてくださいますか」と聞いたのです。するとその人は、「あなたの足のくつを脱ぎなさい」と。「エー!何だい」と思うような言葉です。目の前のエリコの町を攻略する方法と何の関係もない。でもこのとき、軍勢の将がヨシュアに求めたのは「あなたの足のくつを脱ぎなさい」。くつを脱ぐと言うのは、僕になること、奴隷の生涯になる。現代のようにすべての人がくつを履いた時代ではありません。くつといってもサンダルかそれに似たような類のものでしょう。自由人はそれを履くことが許されて、奴隷ははだしの生活を強いられた時代ですから、くつを脱ぐとは、自分が僕になるということです。「奴隷になれ」と言ったのです。
私はここを読むときに、マリヤの記事と全く同じことなのだと思います。「神には、なんでもできないことはありません」と言われたとき、マリヤが「わたしは主のはしためです」と答える。言うならば足のくつを脱いだのです。それまで、私にはそんなことはできません。まだ結婚もしないのに、そんなことは嫌です。そんなことは駄目ですと、しっかり自分の足にくつを履いて、自分の力で立っていた。そのとき、マリヤが足からくつを脱ぎ、神様こそが全能者であることを認めた。「ああ、そうだった」。そして、マリヤが「わたしは主のはしためです」。このときヨシュアが主の前に、15節の終わりに「ヨシュアはそのようにした」。まさにそのときヨシュアは間髪を入れずにパッと足からくつを脱いだのです。僕になりきったのです。
その後で6章以下にありますように、神様は驚くべき作戦を与えられました。もし、僕になりきっていなかったら、この与えられた作戦を聞いて従う気にはならないでしょう。一日に一回ずつ巡って7日目は7回回ってワーッと声をあげなさい。そんなことで、そのくらいで城が落ちるはずがないと、私どもはいろいろなことを考える。「うちの主人は頑固でエリコの城どころではない。あれほどかたくななのでお祈り一つぐらいで、おちるはずがない」と考える。それは僕にならないからです。私どもが足のくつを脱いで「主よ、僕に何とお告げになりますか」と謙る。「ここで主に従え」と言われて、そんな事をして何の役に立つのですか、今更そんな事をしてどうなりますかと思う時、そこでくつを脱ぐ。主がそうおっしゃる、「はい」と従うところに、私たちの信仰の真髄があります。神様を自分の思いどおりに動かそうとか、ああなってこうなったら次はこうなって、最後に私がこうなってと、自分でどうこうするのではなく、主のみ心はいかに、「お言葉どおりこの身に成りますように」と委ねきってしまう。ヨシュアがこのとき足のくつを脱いで「主のお言葉どおりに従います」と言った。そうしたとき、彼は荒唐無稽(こうとうむけい)、とんでもない、そんなことが何の役に立つと思われるような神様の作戦をも喜んで従う。そして、従った結果があの驚くべきエリコの町の崩壊につながっていくのです。
もう一度初めのルカによる福音書1章38節に「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った」。どうぞ、私どもも僕となりきって、はしためとなりきって、主が置かれるところ、持ち運んでくださるところ、そこで私は今主に仕える者となる。目の前のこの人のために、あの人のために、あの子のために、この子のために、そんなためにしているのではない。私は、今主に仕えている、主の僕ですと。どのような場合も僕として自分を人々にあらわしているとパウロは言っている。私たちも主の僕であることに徹底して主に信頼していきましょう。主に従っていく者になりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
38節「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った」。
ここでマリヤは神様のみ前に「はしため」となると告白しています。殊に、「はしため」という言葉は、最近、死語といいますか、廃(すた)れてしまいまして、こんな言葉を聞いても「何のことかな」と、若い人は言いますが、「しもべ」「はしため」と言われるように、いわゆる主人に仕える人たち、召使いなのです。いろいろなお宅に行って、家事、掃除、洗濯をしたり、そういうことを含めて主人に仕える人のことです。「僕」(しもべ)もまたそのような意味です。今の時代、そのような人があまり見られないのは確かです。昔は、女性があまり社会に出て働くところがありませんから、大きなお屋敷などで、素封家(そほうか)であるとか、資産家のうちに家事見習い奉公として、住み込みで手伝いをする生活制度がありました。だから、身近に「あの方はお手伝いさんだ」とか、そういう言葉がよく使われましたが、今はそういうことがほとんどありません。お手伝いさんを置いている家などまずありません。最近は「ヘルパー」という言葉を使いますが、「ヘルパー」と「はしため」とは違います。「ヘルパー」は助け人ですから、命令に従う関係ではありません。最近は介護保険などが行き渡って、ホームヘルパーの方が家に来てくださる。ヘルパーの方はその人にいちばん良いように考えて、こういうお手伝いをしましょう、こういうことを助けてあげましょうということであって、その家の僕になるために行っているのではありません。ヘルパーをなさる方から苦情が来る。「あの家に行くとあれも、これもさせられ、私がしてあげようと思ったことは何もできなかった」と言われます。「私たちはそんな僕ではありません。お手伝いさんになったわけではありません。ヘルパーです!」と。なるほどそのとおりだろうと思います。だから今の時代、「僕になる」とか、ましてや「はしため」という言葉の持っている意味、それが意味することが分らなくなってきました。
しかし、マリヤさんは「わたしは主のはしためです」と言いました。これは私どもの信仰の原点だと思います。と言うのは、イエス様の救いにあずかるのは、私たちの幸せのためとか、家内安全、無病息災、商売繁盛、交通安全、学業成績優秀のためではありません。また、そのようなことのために、イエス様が十字架に架かられたのではありません。イエス様が私たちをあがなうためです。それは私たちを神様の所有、神様のものとしてくださる。イザヤ書43章に「わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」と言われています。神様の所有になる、神様の思いのままに用いられる者となることです。お店に行ってお金を出して品物を買って来ます。その買ったものをどのように使おうと、それは買った人の自由ですね。買い取った人がそれを自分のものとした以上、どぶに捨てようと、あるいは倉庫に仕舞い込もうと、どこにどう使おうと自由です。神様が私たちを買い取ってくださった、との意味は、よくよく考えたら、神様が私たちの生殺与奪の権、生きるも死ぬも全てを神様が握ったことです。だから、時々、そこまで考えないままに、「こんな私を神様のものとしてくださった。うれしい、うれしい」と言われるが、言うならば神様に握られて自由がなくなることを承知の上で喜んでいるかと思うと、案外そうではない。「神様は私を買い取ってくださった。あがなってくださって、神様のものとなった。わー、うれしい!」と言いますが、そんなにうれしいことなのか。神様のお気に召すまま、言うならば、神様の手の内で自在に動かされて当然ですと言っているのであって、「神様が私と共にいてくださる。私は神様のものになったから、これでもう万々歳、後は寝て暮らす」と、三食昼寝付きの生活だという、そのような意味ではないのです。だから、案外と聖書の言葉を自分の都合の良いように解釈して、「神様のものになったら、これはもう天国だ、これから生活の心配はないし、私のしたいことができる。うれしい」という意味で理解されるなら、神様のみ心、み思いとは大違いです。神様が私たちをあがなったと言うのは、私たちをしもべにしてくださるということです。もちろん、神様は子供として取り扱ってくださると言われます。そのように子供として扱ってくださる御方です。しかし、あがなわれるとは、むしろ神様のしもべ、はしためになることです。
御使ガブリエルがマリヤさんに「あなたはみごもって男の子を産むでしょう」と、神様のご計画を伝えました。そのとき「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」と答えます。「そんなのは嫌です。私はそんなことはできません」と言って拒んだのです。それは神様のご計画が分からないし、世間と違った、世の人から見るなら、とんでもない大変な事態になる、誤解を受け、そして命を失うか分からない。そんな危険に身をさらすことはできない。いくら神様だって、私は従えませんと思ったでしょう。しかし、そうであるかぎり、神様の救いにあずかることはできません。今も変わらない事です。神様が私たちを救ってくださるのは、自分の都合のよいように、自分のしたいことができ、自分の嫌なことはしないでおく生活が保たれるのではなくて、自分の好まない、願わない、自分にとっては損になる道、それがたとえどのような道であっても、従うときです。今年の年頭に与えられました御言葉、「あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである」(イザヤ 43:10)とあるように、神様は私たちを僕にしよう、神様に仕える者となさるのです。
37節に「神には、なんでもできないことはありません」と、御使ガブリエルが申しました。自分の力で神様に仕えていこうとする、神様の僕になろうとしてもこれはできないが、神様はオールマイティーな御方、できないことのない御方であるから、あなたを僕にしてあげるから、と言ったのです。「わたしに従いなさい」と神様は求められた。だから38節に「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』」。神様、私はあなたの僕ですと。これは私たち、救いにあずかった者の一つの生き方、大切な生き方であります。私どもは神様にあがなわれて、神様の所有となった。それはただに私たちの幸せや安楽のためではなく、一人一人が神様に仕える者になるのです。神様の僕となって生きる、これが私たちの使命であります。私達は神様に仕える者であって、神様を僕にするわけにはいかない。神様に「私たちはこうしたいのだから、神様これをやってください」と、神様にじか談判をすると言いますか、強引に徹夜交渉でもしようかという、そんな信仰は本当の信仰ではありません。37節に「神には、なんでもできないことはありません」と言われて、38そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです」。神様に仕える奴隷、僕です。神様が業を進められるのであって、私どもが司令官になるわけではない。ともすると、私たちは気がつかないうちに、自分が司令官に、自分が王様になり、自分でこうあって、こうなってこれがいい、神様どうぞこのようにしてくださいと、スケジュールからシナリオまで書き上げて、結論も私が決めて、神様やってくださいと。これはないでしょう。どうも私どもの信仰はどちらかと言うと、自分が神様よりも上になる。上になるとは思わないけれども、気がつかないうちに神様を自分で動かしたい、思いどおりにしたいという、そのような思いが心に絶えず芽生えようとする。
38節「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』」。マリヤはこのとき、「嫌です、そんなことはできません。私はそれは嫌です」と拒んでいる。いくら神様が言われたって、私はそんなことはできません。そうであるかぎり僕になれません。はしためにはなれません。しもべ、はしため、奴隷は、主人の言うことには「はい」と従う。右にするにも左に行くにも、止まるにも、どんなことの中にも、主人が「せよ」と言うことに、「はい」と従う。これが私たちの使命です。私たちが神様の救いにあずかって、代価を払い買い取られて、神のものとしてくださった。それは私たちを神様の僕として神に仕える者とするためです。私たちは今いろいろな所に、生活の場に置かれていますが、そこに遣わされ、神様に信頼して、神様のみ声に聞き従っていくためです。
神様に従うために、主が備えてくださるところはどこなのか。「わたしは主のはしためです」と、このことに徹底していく。私どもはすぐ「どうして私がこんな事をしなければならない」、「私ばかりがこんな事をして」、「私にはもっと違った世界がある。もっと大きなことができる」、「もっと私は……」という不満をいつも抱いている。そうではなくて「わたしは主のはしためです」。これ以外にない。今、ここに主が私を置いてくださった。「わたしは主のはしためです」。イエス様に仕える場所は台所であったり、あるいは地域社会の何かであったり、そこでイエス様に従うことです。「いや、私にもっと時間があって、私がもっとあれができたら、これができたら、もっとこんなことができたら、神様のために役立つのに」と思いやすい。そんなものを神様は求めていない。「神には、なんでもできないことはありません」、神様はどんなことでもおできになるのですから、私たちのお手伝いが必要なわけでも、私たちが知恵を貸してあげなければならないわけでもない。憐(あわ)れみによって、神様の御用に用いていただいているのです。このことを決して忘れてはならないし、これが信仰の基本です。
だから38節に「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』」。全身全霊と言いますか、自分のすべての存在を神様のものとしてささげていく。献身という言葉をよく言いますが、イエス様の救いにあずかるとは、まさにそのような意味で献身です。私たちの身をささげる、生涯を主のものとして、そして僕となって主に仕えていく。
コリント人への第二の手紙6章3節から8節前半までを朗読。
この4節、8節に「神の僕として、自分を人々にあらわしている」。これはパウロが語った言葉であります。パウロは自分が神の僕であることに徹底したのです。彼は「キリストの奴隷である」とも語っています。イエス様は私たちをすべてのものから解放して、自由を与えてくださったとあります。しかし、私たちはむしろ喜んで自分をキリストの僕として、主のはしためとなって、神の僕となって、人々の前に立っていく。8節に「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても」、どんなことがあっても主に仕える者となる。どうぞ、このことをしっかりと心に置いて、神様を動かしてどうこうするのではなくて、私たちが神様に仕える者となる。そして仕える場所は教会に来ている礼拝中だけではない。仕える場所は今置かれている生活の場であり、与えられる問題や事柄を通して、主が「負え」と言われる重荷を負うことを通して、主に従っていくのです。これが私たちの使命です。
ヨシュア記5章13節から15節までを朗読。
イスラエルの民がヨルダンを渡ってカナンの地へ入りました。このときモーセはいませんで、ヨシュアがその指導者となっていました。最初に出会った町がエリコの堅固な町です。城塞都市です。周囲が城壁によって囲まれた堅固な、難攻不落と思えるような町でありました。彼等は長年、四十年近く荒野の旅をしていますから、戦いの武器や戦車を持っているわけではない。この町をどうやって攻略しようかと、本当に困っておったのです。方法がない、お手上げだったのです。それで彼は一人、民から離れて、エリコの町が見える近くまでやって来ました。さぁ、どうしようかと、悩んでおった。そのとき向こうから一人の人がやって来る。見ると手に剣を持っている。鞘(さや)を抜き払って、今にでも攻撃しようかという姿勢でやってくる人を見る。ヨシュアはびっくりして、「敵か味方か、お前はどっちだ」と聞いたのです。そのとき、その人が「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。言うならば「わたしは神様の軍の司令官として今きた」と。それまでヨシュアは自分が責任者だ、自分がこの民を率いてきた。これから自分がどのような指令を出し、どういう作戦を立ててこの町を攻略しようか、思案投げ首、なすすべがなかったときに、そうではない、お前ではない、わたしが主だよと神様のほうが使いを遣わしてくださいました。この人が主の軍勢の将として、将軍として、今来たというのです。そのときヨシュアはどうしたかと言うと、14節の後半に「ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った」と。彼は「そうだ。私は司令官でも何でもない。この方が主です」と、その方の前にまずひれ伏したのです。そして、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」と問いました。その将軍の前にひれ伏して、「どういう作戦を与えてくださいますか」と聞いたのです。するとその人は、「あなたの足のくつを脱ぎなさい」と。「エー!何だい」と思うような言葉です。目の前のエリコの町を攻略する方法と何の関係もない。でもこのとき、軍勢の将がヨシュアに求めたのは「あなたの足のくつを脱ぎなさい」。くつを脱ぐと言うのは、僕になること、奴隷の生涯になる。現代のようにすべての人がくつを履いた時代ではありません。くつといってもサンダルかそれに似たような類のものでしょう。自由人はそれを履くことが許されて、奴隷ははだしの生活を強いられた時代ですから、くつを脱ぐとは、自分が僕になるということです。「奴隷になれ」と言ったのです。
私はここを読むときに、マリヤの記事と全く同じことなのだと思います。「神には、なんでもできないことはありません」と言われたとき、マリヤが「わたしは主のはしためです」と答える。言うならば足のくつを脱いだのです。それまで、私にはそんなことはできません。まだ結婚もしないのに、そんなことは嫌です。そんなことは駄目ですと、しっかり自分の足にくつを履いて、自分の力で立っていた。そのとき、マリヤが足からくつを脱ぎ、神様こそが全能者であることを認めた。「ああ、そうだった」。そして、マリヤが「わたしは主のはしためです」。このときヨシュアが主の前に、15節の終わりに「ヨシュアはそのようにした」。まさにそのときヨシュアは間髪を入れずにパッと足からくつを脱いだのです。僕になりきったのです。
その後で6章以下にありますように、神様は驚くべき作戦を与えられました。もし、僕になりきっていなかったら、この与えられた作戦を聞いて従う気にはならないでしょう。一日に一回ずつ巡って7日目は7回回ってワーッと声をあげなさい。そんなことで、そのくらいで城が落ちるはずがないと、私どもはいろいろなことを考える。「うちの主人は頑固でエリコの城どころではない。あれほどかたくななのでお祈り一つぐらいで、おちるはずがない」と考える。それは僕にならないからです。私どもが足のくつを脱いで「主よ、僕に何とお告げになりますか」と謙る。「ここで主に従え」と言われて、そんな事をして何の役に立つのですか、今更そんな事をしてどうなりますかと思う時、そこでくつを脱ぐ。主がそうおっしゃる、「はい」と従うところに、私たちの信仰の真髄があります。神様を自分の思いどおりに動かそうとか、ああなってこうなったら次はこうなって、最後に私がこうなってと、自分でどうこうするのではなく、主のみ心はいかに、「お言葉どおりこの身に成りますように」と委ねきってしまう。ヨシュアがこのとき足のくつを脱いで「主のお言葉どおりに従います」と言った。そうしたとき、彼は荒唐無稽(こうとうむけい)、とんでもない、そんなことが何の役に立つと思われるような神様の作戦をも喜んで従う。そして、従った結果があの驚くべきエリコの町の崩壊につながっていくのです。
もう一度初めのルカによる福音書1章38節に「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った」。どうぞ、私どもも僕となりきって、はしためとなりきって、主が置かれるところ、持ち運んでくださるところ、そこで私は今主に仕える者となる。目の前のこの人のために、あの人のために、あの子のために、この子のために、そんなためにしているのではない。私は、今主に仕えている、主の僕ですと。どのような場合も僕として自分を人々にあらわしているとパウロは言っている。私たちも主の僕であることに徹底して主に信頼していきましょう。主に従っていく者になりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。