いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(91)「主を待ち望め」

2013年12月21日 | 聖書からのメッセージ
イザヤ書40章27節から31節までを朗読。

31節に「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」とあります。

日々さまざまな問題や事柄の中で絶えず、神様に信頼して、神様からの支え、励まし、力をいただいて生きている。しかし、ともすると、神様から心と思いが離れていく。神様がいらっしゃる手応えを感じれないきがあります。いつも感謝しているのだが、なんだか疲れた思いがする。楽しい気分にならない。無気力な感じがする。年のせいであるとか、季節の変わり目であるとか、天候がはっきりしないから、と思ったりします。しかし、よくよく考えてみると、神様に委ねているつもりがですが、気が付かないうちに自分の力で生きようとしている。私たちの力は「肉の力」だと記されている。どんなことにも、自分で頑張ろうとする。一生懸命に自分でできる限りのことをしなければ思って、頑張って、奮い立って、元気を出してと言って自分を鼓舞し励まして努力します。そこには、神様に信頼する、より頼むことが欠けています。

私は最近いろいろなことを通して教えられるのですが、頼られると、その人は何とかしようとします。ところが、自分を低くしなければ頼れません。子供のように何もできないと、大人に抱っこされたり、身近な人に頼ったり、自分からすすんで頼っていく。ところが、長年生きてくると、素直に「私はこれができないのよ。お願い助けて」と言えない。素直に言えるとかわいいのですが、突っ張るのです。「いい、そんなに人に頼らんでもいい。できる!」と。年を取ると特に頑固になってきます。段々と体が動きにくくなる。いろいろなことが不自由になってくるとき、「私はこんなだから、ごめんね、助けてね」と言ってくれると、若い人が「よし、やってあげよう」となりますが、なかなかそうは言わない。自分ができると思っている。だから、そばで見ていると、苦しそうにしていても、手を出すと「いい!」と拒否される。素直になることがどんなに大切か、いろいろなことを通して教えらます。皆さんも、「若い者に頼っておれん。うちの息子はいつまでも当てにならん」と思っているでしょう。だから「私がしっかりしなきゃ」と。それはそろそろ止めたほうがいいと思います。まずもって、かわいくないです。やはり素直に「お願いね、私、できないからこれ助けてよ」と言われると、するほうもうれしいし、してもらって感謝ができる。それが無いから、自分の力で踏ん張る。人に対して素直になれないことは、見えない神様にも素直になれないのです。聖書にありますように、見える人を愛せなくて、見えない方をどうして愛せるかと。私どもは、目の前にいる人に素直になれないのに、神様の前に素直になれるわけがない。

世間でも、“身のほどを知る”と言います。自分の弱さを認めることです。「私の生きがいがなくなる。私の存在価値がなくなる」と思う。自分でなにかできると思いたい。この気持ちはわかります。しかし、私たちはできるから値打ちがある、何か人の役に立っているから存在意義があるわけではなくて、神様が私たちをここに置いてくださったから、神様が大切な存在であると言って下さるから価値があるのです。ここに絶えず返らないといけません。これまで家庭で主婦として、あるいは主人として力を振るう、何でも自分の思い通りにやってきた。そのまま年を取っても、いつまでも「私が天下だ」と思っている。だから、少々弱くなっても、弱みを見せたくない。娘や息子たちに同情されてたまるものか、と突っ張るのはわかりますが、それは神様の前には良いことではない。なぜなら、自分の力で立とうとしているからです。自分の努力、自分の力で、これは「肉の力」です。本来、神様が私たちに日々の糧を与え、力を与え、備えてくださっている。だからこそ存在しているのであって、それを認めないのが「肉の力」です。「私はまだこのくらいできる。子供たちが言うほどの年じゃない」と言って、突っ張るところに私たちの「肉」がある。

だから、この27節に「ヤコブよ、何ゆえあなたは、『わが道は主に隠れている』と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、『わが訴えはわが神に顧みられない』と言うか」と問われています。神様にお祈りしても、どうも手応えがない、神様に頼っても、私の祈りは拒まれているように思える。私の願いに神様は知らんふりをしている。私の願いは棚ざらしになっていて、全然答えてくださらないと。ところが神様はそうではないと言われます。なぜそのように思えるかと言うと、自分の力で頑張ろうとしているからです。肉の力で何とかしようと思って、それでもできないから、一生懸命にお祈りする。それでは神様の力を得ることができません。自分がここまでがんばるから、神様、そのために力を与えてくださいと言いますが、私たちは自分の思いを捨てて、神様に全面的に頼ることをしない。だから、神様の手応えがないのです。

私の家内の父は90歳になって、耳も遠く、足もともおぼつかない。それでも、自分ができると思っている。あるとき、区役所に届出をしなければいけない。それで自分は人の話を聞いても耳は遠いし、受付の人の声は聞こえないし、「どうしようか、どうしようか」と言うから、家内が「じゃ、代わって行ってあげるから」と言うと、「お前なんかに世話にならん。おれが行かなきゃわからん」と言いながら、「どうしようか、どうしようか」とつぶやく。とうとう「どうしたいの?」と言ったら、今度は家内に「付いて来い」と言う。「じゃ、私が行って、してあげるから」と言うと、「いや、せんでいい」「じゃ付いて行ってどうするの?」「おれが区役所の二階の窓口まで行くのに階段を上がる。そのとき、係りの人がなんと言われるか心配で、胸がドキドキするから、階段を上がるときに、おれの背中をさするために付いて来い」と言われて、「その程度のために私を呼び出して、私ははるばる遠くからお父さんの背中をさするために出てくるわけ!」と家内が怒りまして、大笑いをしました。

私たちも神様にそのようなことを願っているのです。私が一生懸命にするから、神様、私がくたびれたところで、背中をなでてください。ちょっとうちわであおいでと、手伝いを求めるから、神様はお前がしたらと手を引いて見ていらっしゃる。神様の前にはゼロなのですから、全く自分は何にもない、むなしい者になりきらないと、神様の力を受けることができない。自分ができるから、足らないところだけ、神様、補ってください。ちょこっとだけでいいですよ。私にあまり深入りしないでください。ここのところだけをちょっとと、そのような気持ちで神様に接していると、27節に言われているように、神様は私の言うことを聞いてくれないという不平不満が出てくる。

ところが28節に「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい」とあります。神様は、できない方、不可能な方ではない。やっぱり神様にもできないことがあるんだなどと思っているとすれば、これは大きな間違いです。神様は私たちにどのようなことでもして下さる。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできる」(マルコ10:27)と言われる神様が、「私に頼りなさい」とおっしゃる。それなのに、「神様、私がするから足らないところだけ、階段をあがったとき、息が切れるからそのときだけ背中を押してください」と、そのような求め方、そういう態度で神様に近づこうとします。しかし、神様は主ですから、私たちのしもべにはならない。「では、お前ができるだけやってみなさい」と、私たちがお手上げになるまで手を引かれます。

だから、皆さんのお子さん方でもそうですよ。うちの娘は、うちの息子は、私たちのことを何にも考えてくれない。私はこんなに苦しんでいるのに、少しでも助けてくれたらいいのにと、不平を持つならば、もう一度自らを顧みたらいい。「あんたたちの世話にはならん」と言いながら、必要なことだけ「ここだけやって、ここだけ!そこはせんでもいい!」とやっている間は駄目です。全面的に降伏しなければ。そうしますと、思いもかけない恵みにあずかる。神様にも同じです。28節に「とこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい」。この神様の前に自分は全くゼロなのだと認めること。どんなことでも、神様、あなたによらなければ、私には力がない。私たちは自分に力があると思っている。しかし、私たちにある力とは体力や知力であったり、あるいは財力であったり、政治力のようなものです。あるいは人間関係を操る力、人の力であったりします。ところが、年を取ると財力も、体力も、知力も減ってくる。私たちがそのような力を頼っている間、どうしても神様に頼れない。神様はそんなものとは違う力を与えてくださる。

使徒行伝3章1節から8節までを朗読。

これは、生まれながら足がきかないために、物乞いをしていた人の記事であります。ペテロとヨハネが祈るために宮に上ってきたとき、門前町ですから神の神殿の門の所に一人の物乞いをする人が置かれていた。ここに「かかえられて」「宮の門のところに、置かれていた」。運ばれて置かれる。まるで物のような存在でありました。彼は門前を行き来する人たちに物乞いをして、生活の糧を得ていた。金銀を求めていたのです。そのとき、ペテロとヨハネがやって来ました。彼は声を掛けました。「恵んでください」と言ったのでしょう。そうするとペテロとヨハネが立ち止まって、「わたしたちを見なさい」と言ったものですから、大いに期待したに違いない。これはもらえるぞと思ったのです。だから、5節「何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目して」とあります。ところが、6節にペテロが「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」言った。私はこの記事を読むと、ここなんだなと思います。「金銀はわたしには無い」。金銀とは直接的にはお金のことですが、言うならば、この世の力、肉の力です。先ほど申し上げました、体力、気力、あるいはそのような財力であるとか、あるいは知力、人力であるとか、この世の力、これを象徴した言葉が金銀です。もちろんペテロとヨハネは大金持ちではなかった。お金も無かった。事実そうだと思います。そればかりでなくて、この世でのそのような力も彼らには無かった。政治力も、経済力も無い。世の有力者と言われる人ではない。「金銀はわたしには無い」と言う。ペテロはそれを認めたのです。

私たちはそこまで徹底して神様の前に謙遜になっていない。私は空っぽ、力が無い、体力も知力も何も無い。だから、何とか体力をつけてください。あるいは何とか経済力を与えてください。何とか……と、この世の肉の力を求めて神様に近づいていくから、神様は沈黙しておられる。そんなものをいくらもらっても、それは命につながらない。「肉の思いは死である」(ローマ8:6)とあるでしょう。私たちは、肉によっては立つことができない、命に生きることができません。だから、このときペテロは「金銀はわたしには無い」、私にはそんなこの世の力は何にも無い。私たちもそうです。ただ、私たちは体力も経済力も何も無いと言ってしまったら、ほかに何にも無いから、いよいよ心細くなる。「わたしにあるものをあげよう」と言えない。ここでペテロが、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう」。この世の力、この世の権力、この世の肉に付ける力は無いけれども、それに代わるものがわたしにはあると言える。ここにペテロとヨハネの強さがある。私たちにはそれが無いから、いつも無い、乏しい、年々減っていく体力を何とか鍛えようと、あるいは何とかぼけないように頑張ろうとしますが、そんな力はいくら求めても消えます。それははかないものです。私たちに必要なもの、神様が与えようとしているものは、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものを」と言えるものです。ペテロが持っていたものは何であるか?それは、主イエス・キリストを信じる信仰、言うならば、イエス様を信じて、イエス様からの力に満たされていた。聖霊の力を彼は持っていたのです。

神様は健康を与えよう、あるいはお金を与えよう、あるいは記憶力が薄れないように、知力を与えようかと言わない。それどころか、そんなものは無い。それよりももっと素晴らしいものは何か!聖霊、神の霊です。このとき、ペテロは「わたしにあるものをあげよう」と。それは二章にあるように、ペンテコステの日に彼らに下った神の力です。私どもも、この神様の力、聖霊に満たされることが大切です。だから、このときペテロは「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と。聖霊の力によって立ちなさい!と引き上げたのです。そうしたら、生まれて以来歩いたことのない人が、一瞬にして立ち上がった。それで立ち上がって、行ってどこか土木作業に就いたとは書いてない。今まで彼は神殿に背を向けて、道を行く人ばかりに向いていた。ところが、今度はその逆に、8節に「踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして」、「神をさんび」したのです。今まで彼は神様を賛美することができなかった。神の神殿の真ん前にいながら、神様とは縁の無い生活をしていた。この世の力を求めて、通り行く人々のわずかな金銀を求めて、自分の生計を立てていた。力が無かったのです。

神様の力に満たされたとき、もちろん足は良くなりました。そのように健康も与えられました。しかし、その健康を使って、明日の糧のためにどこか収入のいいところに働きに行ったのではなくて、「宮にはいって行った」のです。神様を褒めたたえ賛美する者へと変わった。私はこの記事を読むたびに、この人の前と後、使用前、使用後の姿です。これは大変な違いです。私たちにもこの同じ力を今も神様は与えようと、どんなに願っているかわかりません。ところが、私どもは、聖霊、それもいいだろうが、早く目の前のこの問題が、私の健康がもっとこうなって欲しい、もっと元気づいて、徹夜しても大丈夫な体にして欲しいと、そのようなことばかり求めているから、命につながらない。ましてや、力が無いのに偉そうに、神様、あれだけやってください、このことだけやってください、背中だけ押してくださいと、そんなことばかり願っているから、命にあずかることができない。生まれながらに足のきかなかった人は、イエス・キリストの名を信じて、神様の霊に満たされて、神様の力にあふれたとき、なえた足も飛び跳ねることができるようになり、今まで縁がなかった、背を向けていたところへ、神様のほうに心が向き、神殿に入っていく。「彼らと共に宮にはいって行った」。

9節に「民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見」とあるでしょう。神様を賛美する者へと変わっていく。これは大変ドラマチックな、劇的な変化です。こんなだから駄目、あんなだから……、もっとこうなったら、もっとこういう力があったら、もっと私がこうだったら、神様、あの力をください、ここを何とかしてください、あそこを何とかしてくださいと、そんなことばかりを求めているから、神様を褒めたたえることができない。神様は私たちにもっと違った大きな力を与えようと願って、「求めなさい」と言われる。「求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」と。

イエス様は、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」(使徒1:4)と言われました。弟子たちはじっとそこで待った。なぜなら、神様の力に満たされなければ、どうにもならないのです。動けない、何にもできない、そのような自分です。この生まれながらに足のきかなかった人は、人に抱えられなければ動けない、自分に力のないことを知っていました。それで一生懸命に生活を支えるため、人の施しを乞うていた。私たちもそのような生き方をしているのではないでしょうか。あの人が助けてくれたら、この子が私のことを何とかしてくれたら、あの人が何とかしてくれたらと、人に期待する。社会制度や何かが変わって、介護保険がもう少し良くなればとか、わずかな年金が少しでも増えればと願う。しかし、何をさておいても、神様が私を立たせてくださる、歩ませて、命を与えてくださると信じなければ、力を受けることができません。

この生まれながらに足のなえていた人は、ペテロたちが「金銀はわたしには無い」と言ったときがっかりしました。でもその後に「わたしにあるものをあげよう」と言われ、それが何であるのか彼は知りませんでした。しかし「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と手をとられたとき、その言葉を信じたのです。言葉を信じた瞬間、「神がご自身に従う者に賜る聖霊」(使徒5:32)とありますが、彼の内に神様の霊が、ドッと一瞬にして注がれました。その瞬間、今まで歩けなかった人が立ち上がって、今まで神様を褒めたたえたことのなかった彼が神様を賛美する者と変わってしまった。神様はその力を私たちに与えようと言われる。

もう一度、イザヤ書40章28節に「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい」。神様は、どんなことでもお出来になる、全能の神であると語っています。29節「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる」。どんなことをしてでも力を与えることが出来る。人が肉の力で立っている限り、それは限界があるとはっきり記されています。若いから、壮年だから大丈夫、そんなのは何の役にも立たない。ではどうするのか。31節に「しかし主を待ち望む者は」、「主を待ち望む」とは神様に力を求めていくことです。「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」と、日々に神様の力を求めるのです。

これは私たちに今与えられた大きな祝福と恵みです。まず、朝起きて、主の霊に満たされること、聖霊に自分をささげていく。私の内に入って、あなたが私の力となってくださいと、主を待ち望む者、神様ご自身を求めていくのです。私どもの内に神様を迎えること、言い換えると、神様の力をいただくのです。そうするとき、肉の力によるのではなく、霊によって生きる者と変わります。もちろん肉体の力も神様は与えてくださるでしょう。何もかも、どんなことでも神様の力によるとき、できないことはない。だから、31節「主を待ち望む者」と、神様に期待して主の霊が注がれるまで耐え忍んで待つこと、神様の力に立って生きなければ、命に生きることができません。だから、もし肉体的に力がなくなったと感じるなら、感謝したらいい。これからは神様の力で生きるのだと。段々ぼけて記憶力を失って、いろいろなことで間違いが起こってきたら、感謝したらいい。これからは、イエス様が私の知恵となってくださる、イエス様が私のすべてとなってくださるのだと、主の力を体験する恵みのときです。だから、年をとって肉体が弱ることは感謝ですよ。肉の力に頼れないのですから。これからが人生です。主の霊に満たされて、ばら色の人生、先ほどの足のなえた人のように、神様を賛美し、喜び歌うのです。使徒行伝にありますように「老人たちは夢を見るであろう」と。終わりのときに神は霊を注ぐと言われます。それは私たちが喜びにあふれて神を賛美する者へと変わっていくためです。

ところが、事情境遇が良くなったら喜ぼう、肉の力で何とか喜ぼうとしているから、どんどん喜びが削られてしまい、細ってしまう。肉の力はもう無いのですから、私どもは「しかし主を待ち望む者は」とあるように、神様の力を受けて生きる。「汝の能力(ちから)は汝が日々に需(もと)むるところに循(したが)はん」(申命記33章25節文語訳)と、神様は約束してくださいました。毎日毎日、神様の前に、主よ、私のためにすべての力を与えてください、あなたが私の力となってくださいと、自分を神の霊に委ねていこうではありませんか。それがこの「主を待ち望む者は新たなる力を得」と言われていることです。神様は朝ごとに恵みを注ぎ、霊を与えてくださる。そして、今日も、主よ、あなたの力によって生き、神様、あなたが私を持ち運んでくださる方ですと、主の霊の力に絶えずより頼んでいこうでではありませんか。そのとき「わしのように翼をはって、のぼることができる」。

鷲は大きな鳥です。だから、羽を広げると1メートルとか2メートルとかになります。そういう鳥は、すずめのように、ばたばた羽は動かしません。パッと広げるだけです。空気の流れ、動きに自分を任せます。谷底から吹き上がる上昇気流に乗って、上っていきます。あるいは上から吹き降ろしてくる山を越えて降りてくる気流に乗って下がっていく。上がったり下がったり、そして横から吹いてくる風に乗って、何キロ、何百キロでも飛んでいく。あんな大きな翼を1分間に何十回もパタパタやれば、何分もしないうちに地に落ちてしまいます。すずめは翼が小さいからパタパタやらなければ飛べない。だから、「わしのように」じっと手を広げているだけで、聖霊の力に吹かれて上がっていく、下りていく、遠くまでも私たちを持ち運んでくださる。

私たちは、いつも主の霊に満たされ、神の力に満たされること、これがすべてです。ほかのものは無くてもいいのです。病気で寝たきりであろうと何であろうと、主の霊に満たされさえすれば、私たちは喜び感謝し、主を褒めたたえて生きるいのちにあふれさせてくださいます。だから、御霊に満たされることほど最高の生涯はありません。私は格別そのことを近ごろ教えられます。主の霊に満たされてさえおれば、後はどうにでもなるのです。だから、目の前のことにとらわれないで、主を待ち望む日々でありたい。今日も主よ、あなたの力に満たしてください。あなたの霊を与えてください。あなたの知恵によって導いてくださいと、主の御霊に満たされることを願っていく。

「エペソ人への手紙」5章に「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて」とあります。霊と賛美をもって主を褒めたたえなさいと。いつも御霊に満たされて、毎朝、今日も一日、主よ、あなたの御霊に満たして私を導いてくださいと、明け渡して、素直により頼んでください。神様に素直な気持ちになって、突っ張らないで、「できる!いや、そんなにまで神様の世話にならんでもいい。神様がしてくれるなら、これだけしてもらいたい。後のことは私がする」と、そのようなことを言っていると、神様は放ったらかしますよ。そうではなくて、本当にできないのですから、知恵のない者ですから、今日も主よ、あなたの知恵に満たして、あなたの力に満たして、導いてくださいと、全面的に神様の手に委ねて、主を待ち望んでいくとき、神様は「新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」者としてくださる。

私どもが、「はぁー」とため息をつくとき、「自分のない力を振り絞ろうとしていたんだな」と思って、もう一度悔い改めたらいいのです。「今日は、もう起きる元気もない。このまま布団をかぶって寝ておこうか」と思ったとき、自分の力を頼っているのだなと悟って、布団の中で悔い改めて、「神様、ごめんなさい、どうぞ、あなたの力に満たして、主よ、あなたは御霊をあげると言われたから、どうぞ、その力を私に与えてください」と、主を待ち望む。そうしますと、神様は、私たちの魂に力を与えてくださる。思いもかけない喜びがあふれてきます。31節に「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得」、毎日、毎日、それは毎日ですよ。マナと同じですから、その日でなければ駄目ですよ。だから、今日一日、また今日一日、一日、主の霊に満たされて、力に満たされて、知恵に満たされてまいりますと、神様はどのような中でも、私たちを導き、思いもかけない、私たちの想像もできない業をしてくださいます。自分ではできないと思ったことでも、できるようにしてくださいます。神様の力が働いてくださいます。31節に「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」。いつも主を待ち望んで、絶えず主の力に満たされて走っていこうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。







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