ヨハネによる福音書14章25節から31節までを朗読。
27節に「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。
今読みました14,15,16章と続く記事は、イエス様が最後の晩さんの席で、いよいよ御自分が十字架におかかりになることを承知の上で、弟子たちに語られたメッセージ、遺言と言ったらいいかと思います。その中で、27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く」と語っています。言うならば、イエス様が私たちに与えてくださる遺産、受け継ぐべき財産のようなものです。
親は年を取ってきますと、残される家族のために何とかしてやりたい。わずかな年金を積み立てて、孫のために、子供のために何か役に立ってくれればいいと思うようです。家内の父も、そのように思っているのかどうかわかりませんが、一生懸命に蓄えています。今使えばいいと思うのですが、毎日、つめに火をともすようにして古いものを作り変え、作り変えして使っている。「そんなものを捨てて新しいものにしなさい」と言いますと、「いや、これはまだ使える」「だって、残しても仕方がないのだから、全部使ってしまって、いなくなったら何も無かったという、それでいいから」と言うと、「いや、少しでもお前たちのために……」と、なかなか使わない。家内が「どうしてだろうか」と気遣いますが、「いいじゃないの、残してくれるならばありがたく『できるだけ節約してください』と言っときなさい」と言ったのです。親は、たとえ自分が使わなくても、自分は少々不便をしてでも、子や孫を何とか安心させてやることが自分の喜びでもあるのです。自分が少々不自由な思いをしながらでも、何か残してやりたい。自分がいなくなっても、不自由ないとは言えないけれども、ある程度安心が得られれば本望だと言います。ですから、少しでも何かを残してやりたい。残った子供たちや孫たち、あるいは身内のものが路頭に迷わないように、少しでもよかった、安心だと言えるようにしてやりたいのです。
イエス様にも同じような思いがあったと思います。ですから14章1節に「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」。これはイエス様の遺言です。と同時に遺言ばかりでは安心しないから、今度は遺産を残してやる。イエス様が家、蔵、財産を弟子たちのために用意して、私がいなくなったらこれで生活しなさい、ここには定期預金を置いているから、ここにはこういう屋敷があるから、財産があるからそれを使って安心を得なさいと言ったのではありません。そのようなもので安心を得よう、心に平安を得たいと思うのが世の慣わし、常であります。しかし、それだけしたらどれ程の安心があるかと言うと、実は全くありません。
よくテレビで、病気になったらこれだけのお金が掛かるから、保険を掛けましょうと、繰り返しコマーシャルが流されます。お昼時、主婦をねらっていろいろな保険会社が宣伝をします。そして60歳から10年ごとに健康だったらこれだけもらえます。万一病気をしたときは一日これだけあげます。くれる話ばかりです。ところが、あれには裏があって必ず取られる話があるのですが、それは言いません。あげます、あげます、ガンになったらこうなりますと……。私がガンだと聞いた時、家内が「しまった、保険に入っておけばよかった。そしたらこれだけもらえたのに」と言って笑ったのですが、そのコマーシャルでは何と言っているか。「安心があります」、「こうしたら安心ですよ」と言う。私たちのいちばん弱いのはそこです。というのは、普段からなにか不安があり、心配がある。なんだか頼りない思いをしているから、どこかで安心だ、大丈夫だと言われたい。またそれを保障してくれるものがないだろうかと思っている。こちらの保険、あちらの保険と幾つも掛けて、毎日の食事は乏しくなって、保険料だけ毎月たくさん払う。そのような方がおられます。
ところが、何をしてみても、これで大丈夫という確信がありません。常に不安が伴います。ある方がいくつも保険をかけて、日々の生活が苦しいと言われました。「どうしてそんなにたくさん保険をかけたの」尋ねたら、「一つだとちょっと足らないかもしれない。ひょっとしたら……」と、段々エスカレートしていったのです。一つやるとまた不安が次にわいてくる。また次にこうしなければおれなくなってくる。一種の病気だと思いました。皆さんでもそうでしょう。これがあるから大丈夫と思っていない。どこかに不安があって、もう一つこうしておいたほうがいいのではないか。これでは足らないのではないだろうか。ひょっとしてこうなったら、ああなったらと、そのような不安心理が絶えず私たちをかき立てるのです。ですから、物やお金では決して安心は得られません。
イエス様は27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く」と言われます。これが遺産です。イエス様が天に帰ったらこれを使いなさいと、私たちに残してくださったものがある。それを得ようとしないで、ほかのものに平安を求めようとするから、満足しない、安心にならない。これが現実です。主が私たちに与えてくださる平安とは何でしょうか。27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」と言われるのです。「与える」と言っているのですから、もらわないのはもったいない話です。イエス様は残していく、あげるとおっしゃいます。どうぞ、今日、イエス様があげると言われるのですから「はい、いただきます」と、その平安をいただこうではありませんか。
イエス様が私たちに与えてくださる平安は、そこにあるように、「わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」のです。この世の与える平安は、先ほど言いましたように、保険を掛けてみたり、貯金をたくさんしたり、あるいは投資をしたり、家、蔵、財産と言いますか、そのような不動産を手に入れることでしょう。万一のときにはこれを処分してと思っているに違いない。しかし、それでは決して私たちの心に安心はありません。
「ルカによる福音書」にイエス様が語った例え話があります(ルカ12:16-20)。ある金持ちが、大豊作だったとき、その収穫したものをどうしようかと思いました。そして、自分の持っている蔵を全部作り直して、大きなものにして、収穫したものを全部そこへ入れた。魂に「安心せよ、これで私は大丈夫。さぁ、飲め、食え、楽しめ」。ところが、そのとき神様は「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そうしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか」と言われる。この世が与える安心とはまさにそこです。そのような目に見える経済状況、あるいはそういうたぐいのものには、一時的な安心はありますが、永遠のいのちにつながる安心はありません。
ところが、イエス様は「わたしは平安をあなたがたに残して行く」と言われます。イエス様が与えてくださる平安は、「わたしの平安」、イエス様ご自身が持っていたものです。イエス様はピラトの法廷やカヤパの屋敷で裁判を受けられました。父なる神様によって十字架の刑を受けたのです。しかし、その中でイエス様は一言も激しい言葉を出さず、言い訳をしない、粛々(しゅくしゅく)と言いますか、平然とその中に立っていることができる。その平安は何であったのか? イエス様は、私たちがこの地上でたとえ死に直面するような事態や事柄の中に置かれても、揺るがないで立つことができる平安を与えようと言われる。これがあったら、どんなに心強いかわかりません。これがあれば他のものは無くても大丈夫です。それはどのような平安だったのでしょうか。
ヨハネによる福音書14章23,24節を朗読。
23節に「わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」と。イエス様が私たちに与えてくださる平安、イエス様ご自身が持っていた平安と言うのは、ここでイエス様が言われるように「わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」とのことです。誰が? 父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神、三位一体の神、この神様が「わたしたち」と言っているのです。イエス様と聖霊なる神と父なる神の三位一体の神様が「その人と一緒に住むであろう」。皆さんと「一緒に住む」と言われるのです。こんな驚くべき言葉があるでしょうか。住んでくださるといっても、どうすればいいのでしょうか。
それは「わたしの言葉を守る」ことです。23節「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう」。イエス様を愛する人、すなわち言葉を守る人と共に住んでくださる。私たちはイエス様を目で見ることはできません。父なる神様の御声を聞くことも、その姿を見ることもできませんが、御霊なる神が、聖霊が私たちの内に宿ってくださって、御言葉を通して、信じ従う者に「我らと共にいます」という幸いな平安をもって、日々を送らせてくださるのです。
ですから、23節の後半に「わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」。「その人」とは誰のこと? それは皆さんのことです。私のことです。私と一緒にイエス様は住んでくださる。父なる神様が共にいてくださる。聖霊なる御方が私と一緒にいてくださる。その条件はただ一つだけ。それはイエス様の御言葉を信じて、それに従っていく。これがただ一つの条件です。イエス様がそう言われるから「はい、そうします」と、私たちがそれに従ったとき、「わたしたち」、言い換えますと、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神御自身が共にいてくださる。
だから、いろいろな問題の中で御言葉に立ち返って、それに心をぴたっと添わせていくとき、言葉に言い表せない平安、安心、望みと喜びが、私たちのうちに満ちてくるのです。これは確かなことです。いろいろな問題に会い、事柄に会った時に、まず、主の御言葉に立ち返る。そして御言葉に信頼して、心を委ねていくとき、約束の御霊が、神様の霊が、キリストの霊が私たちの内に宿ってくださる。それは取りも直さず、キリスト御自身が、また父なる神御自身が私たちの内にあるのと全く同じことなのです。だから、25節以下に「これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」とあります。ここに「助け主」とありますが、それは「父がわたしの名によってつかわされる聖霊」と言い換えられています。イエス様が死からよみがえった後、40日間御自分のよみがえられたことを証しした後、弟子たちの見ている目の前から天にお帰りになりました。そして、イエス様は弟子たちに「エルサレムにとどまって父の約束を待ちなさい」と命じました。彼らはエルサレムにとどまって、一生懸命に心を合わせて、一つになって祈っていたとき、10日目の朝、ペンテコステの日に天から聖霊が注がれました。それは私たちに対する約束を、右代表で弟子たちが受けた出来事です。それから後、父なる神様の約束のものである聖霊が、信じる者に絶えず注がれています。ここが大切な事です。イエス様がよみがえって、今私たちと共にいてくださる。イエス様の姿かたちは見えないけれども、神の御霊、聖霊、「キリストの霊」とも言われますが、イエス様の力が私たちの内に絶えず臨んでくださる。その条件は、私どもが御言葉に従うときです。主の御言葉を心に抱いて守るときです。
先日も、若い両親が息子の一歳の誕生日にお祝いをしたいと計画しました。レストランを予約して、どのくらいの予算で食事を出そうか、相談してきました。初めての子供ですから、両親も嬉しくてどんなにでもしたいと願っていますが、現実的な費用の問題になると、渋くなってきます。勿体ない、惜しいという気持ちが働きます。一人あて幾らにするか、悩んでいたのです。そのとき、私は一緒にお祈りをして、神様が可愛い子供を与えてくださった感謝と喜びを表すのだから、金銭的なことより、精一杯できることをしてはどうかと勧めました。惜しむくらいなら、何もしなければいいのです。何のためにするのかを考えると、神様への感謝以外にありません。そのようなとき、聖書にはなんとあるか。聖書には、「受けるよりは与える方が、さいわいである」とあります。また、「いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい」ともあります。みことばに思いをむけるとき、損得利害を離れて、純粋に主に対する感謝の気持ちを具体化することが出来ます。御言葉に従うとはそこです。このときにはこうしなさいとか、あのときにはああしなさいと、このくらいの予算でこのくらいのお土産をつけてなどとは、どこにも聖書には書いていないけれども、聖書を読んでいれば、何をしてあげたらいいのか、神様を第一にするとはどうしたらいいのかは、おのずから見えてくる。そうではないでしょうか。ところが、案外私たちは知っていながら、そんなことをしたら勿体ない、そこまで私が犠牲になる必要がない。あの人がまず先にすべきだと言って、せっかく御霊が御言葉を通して語ってくださっているのに、それを拒んでいる。そして自分の欲得、そろばんずくで事をやってしまう。その揚げ句、なんだかむなしい、あんなことをしなかったらよかった。つぶやきと不平、不満が残るだけになるのです。平安がない。
ところが、イエス様が、私たちに与えてくださる平安、それは御言葉を信じて、それに従うときに、聖霊がわたしたちの心に宿ってくださる。共に住んでくださる。先ほどの23節後半に「その人と一緒に住む」。「一緒に」ですよ。しかも「住む」と言うのですから、ただ単にちょっと会う程度ではない。いつも一緒にいてくださる。主が私と共にいてくださることを体験していただきたい。それはただ御言葉を信じて、自分を捨ててかかるのです。主がこのことを願っていらっしゃるからそうしましょうと、……。
私は最近教えられることですが、若い人たちはこの世のしきたりや習慣、そのようなものになじんでしまって、聖書が語っていることがどういうことかが見えなくなってしまっている。生活の具体的な歩み方の中で、御言葉が語ってくださること、それをどのように具体的に受けとめたらいいかが見えない。そのためにせっかく神様の祝福にあずかるべき事柄が台無しになってしまうケースがある。だから、いつも御霊に導かれることを願って、御言葉に絶えず立ち返ることです。いろんな問題があります。心配なことや不安なことがあります。しかし、そこで御言葉にしっかりと根差していこうではありませんか。だから、御霊は私たちに「わたしの語ったことを思い起させる」と26節に記されています。主の御言葉をわたしたちに教えてくださる。日々の生活の中でいろいろなことに出会うとき、御霊は今ここでこうしなさいと御言葉を思い起させます。そのときに、その御言葉を信じて「はい、主よ、あなたの御心に従います」と、従った途端に御霊が私たちの内に平安を与えてくださいます。喜びに満たしてくださる。これが私たちの受ける平安です。そこで初めてイエス様が私と共にいらっしゃる、私のような者と共にイエス様がいてくださると知るのです。そうすると、次に新しい問題や心配なことに出会っても、もう動かない。揺るぐことがない。またイエス様に信頼する。主よと、すぐに主を呼び求めることができるようになる。それを繰り返し、繰り返し積み重ねていく日々が私たちの人生です。だから、いろいろなことがある度ごとに御言葉に立ち返って、主がこのように言われるから、主がこのことを願っているからと、常に心に置いていかなければならない。
私どもはいろいろなことに出会います。先だっても、ある方のことでそのようなことがありました。人は一生懸命に親身になっていろいろな心配をするのですが、その心配で相手に対する思いが行き過ぎると、今度は非難する。「あの人は、あんなことをするからもう駄目!」と、相手を非難する。よく聞いてみると、あまりにも相手のことを思い過ぎているのです。肉の思いで思うから、段々と激しい非難になるのです。「もう、あんな人の顔を見たくもない」と言い始める。私は、あれ、あれまぁ、大変なことだと思う。聖書には「人を裁くな」、「その測りであなたも裁かれる」と書いてあります。しかし、カーッとなっているときは、「聞く耳を持たず」です。普段、いろいろな御言葉が、私たちの心に絶えずありながら、肉の思い、相手を思えばこそ情が深くて、逆にひどく神様に背いた生き方しかできなくなってしまう。
だから、絶えず御言葉に素直になりたいと思います。これがよみがえってくださった主に、共にいていただく秘訣です。いろいろな問題に会うとき、さまざまなことに出会うとき、素直に主の御言葉に従う。しかし、これがなかなか難しい。難しいからできないと言ったら、私たちは永遠の滅びです。そこでもう一度、自分がどのようなところからあがなわれ、神様の憐れみにあずかっているか、自分の「切り出された岩、掘り出された穴を思いみよ」とおっしゃる。立ち返ってへりくだり、主の御言葉に従うことです。
イザヤ書30章19節から21節までを朗読。
19節に「シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない」。「シオンにおり、エルサレムに住む民」とは誰のこと? これは私たちのことです。イエス様の十字架のあがないによって罪を赦され、神様が私たちを所有としてくださった。神様のものとしてくださった。信仰によって、私たちはエルサレムに住む者、シオンに住む民であります。しかし、そうでありながら、現実、肉にあって生きています。この世にあって生きています。そのためにさまざまな悩み、困難、苦しみ、悲しい出来事に絶えずさらされています。しかし、「あなたはもはや泣くことはない」と言われる。
イエス様がよみがえられたとき、マグダラのマリヤが墓に残って泣いていました。イエス様はよみがえってマリヤに近づいてくださった。イエス様が「女よ、だれを捜しているのか」と問われました。マリヤは「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」と答えました。「マリヤは、その人が園の番人だと思った」と記されています。そのとき、泣いていたマリヤに主が「女よ、なぜ泣いているのか」と声を掛けてくださいました。それでもまだマリヤは主であることがわからなかった。ところが、「マリヤよ」と、イエス様が再び声を掛けたときに、マリヤは「おお主よ、ラボニ」と、イエス様に出会って涙が消え喜びに変わったのです。
それと同じです。19節に「あなたはもはや泣くことはない」。皆さん、泣くような問題や事柄の中に置かれていますか。泣かなくていいのです。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」といわれました。主があなたと共に住んでいるではないか。主が一緒にいらっしゃるではないか。よみがえってくださったイエス様は、あなたと共に住んでおってくださる。19節「主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される」。だから、泣かないで、主を呼び求めればいい。「求めなさい。そうすれば与えられる」とおっしゃる。「何事も思い煩うな、ただ、事ごとに祈りをなし、願をなし、感謝して汝らの求めをに告げよ」とおっしゃるではありませんか。御言葉を知りながら、そっちのけにして、世の考え、方法でどうしたら泣かないで済むだろうか、どうしたら喜びがあるだろうか、どうしたら望みがあるだろうかと、そちらのほうばかりを追い求めやすい。ここに「主はあなたの呼ばわる声に応じて」とあります。皆さんが呼べば呼ぶだけ、求めれば求めに応じて、主は答えてくださる。そして「主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる」。主は私たちの求めるところに直ちに答えてくださる。これが私たちの持っている平安です。主がよみがえって私と共にいてくださる。御霊なる神が私と共に住んでくださっている。
20節「たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る」。どのような悩みであっても、困難であっても、イエス様はそこに絶えずいてくださる。弟子たちがガリラヤ湖を船で渡っていました。向かい風で難儀をしていたときに、夜明け方、イエス様は波の上を歩いて弟子たちに近づいて「恐れるな」と言われた。イエス様は遠く離れているように思えても、すぐに私どものそばに立ってくださる。いつでもどんなときにでも、この主を私たちの平安の源である御方をしっかりと握っていきたい。ともに住んでくださる方をはっきりと知っておきたいと思います。
21節「また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで『これは道だ、これに歩め』と言う言葉を耳に聞く」。主が絶えず私たちにこの道を行きなさい、そこで止まりなさい、進みなさいと語ってくださっている。私たちはその御霊の声に素直に聞き従っていこうではありませんか。そのとき、不安に思う、心配する、思い煩うことはいっさいなくなります。主は絶えず励まし、慰め、望みと力を与えてくださるからです。
「ヨハネによる福音書」14章27節に「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」。「わたしの平安」とおっしゃいます。イエス様が、どんな時でも共にいてくださる主を、父なる神様を信頼し続けて、あの十字架の上ですらも平安に過ごすことができる。このような平安を今日主は私たちに与えてくださると言われる。ただ、主が与えてくださると言われますから、主の御言葉を信じて、はい、と従いましょう。イエス様が私と共にいてくださって、どんな中でも呼べば答えてくださる。呼び求める者にただちに答えてくださる主がいらっしゃることを体験し、喜び望みを得させていただこうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
27節に「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。
今読みました14,15,16章と続く記事は、イエス様が最後の晩さんの席で、いよいよ御自分が十字架におかかりになることを承知の上で、弟子たちに語られたメッセージ、遺言と言ったらいいかと思います。その中で、27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く」と語っています。言うならば、イエス様が私たちに与えてくださる遺産、受け継ぐべき財産のようなものです。
親は年を取ってきますと、残される家族のために何とかしてやりたい。わずかな年金を積み立てて、孫のために、子供のために何か役に立ってくれればいいと思うようです。家内の父も、そのように思っているのかどうかわかりませんが、一生懸命に蓄えています。今使えばいいと思うのですが、毎日、つめに火をともすようにして古いものを作り変え、作り変えして使っている。「そんなものを捨てて新しいものにしなさい」と言いますと、「いや、これはまだ使える」「だって、残しても仕方がないのだから、全部使ってしまって、いなくなったら何も無かったという、それでいいから」と言うと、「いや、少しでもお前たちのために……」と、なかなか使わない。家内が「どうしてだろうか」と気遣いますが、「いいじゃないの、残してくれるならばありがたく『できるだけ節約してください』と言っときなさい」と言ったのです。親は、たとえ自分が使わなくても、自分は少々不便をしてでも、子や孫を何とか安心させてやることが自分の喜びでもあるのです。自分が少々不自由な思いをしながらでも、何か残してやりたい。自分がいなくなっても、不自由ないとは言えないけれども、ある程度安心が得られれば本望だと言います。ですから、少しでも何かを残してやりたい。残った子供たちや孫たち、あるいは身内のものが路頭に迷わないように、少しでもよかった、安心だと言えるようにしてやりたいのです。
イエス様にも同じような思いがあったと思います。ですから14章1節に「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」。これはイエス様の遺言です。と同時に遺言ばかりでは安心しないから、今度は遺産を残してやる。イエス様が家、蔵、財産を弟子たちのために用意して、私がいなくなったらこれで生活しなさい、ここには定期預金を置いているから、ここにはこういう屋敷があるから、財産があるからそれを使って安心を得なさいと言ったのではありません。そのようなもので安心を得よう、心に平安を得たいと思うのが世の慣わし、常であります。しかし、それだけしたらどれ程の安心があるかと言うと、実は全くありません。
よくテレビで、病気になったらこれだけのお金が掛かるから、保険を掛けましょうと、繰り返しコマーシャルが流されます。お昼時、主婦をねらっていろいろな保険会社が宣伝をします。そして60歳から10年ごとに健康だったらこれだけもらえます。万一病気をしたときは一日これだけあげます。くれる話ばかりです。ところが、あれには裏があって必ず取られる話があるのですが、それは言いません。あげます、あげます、ガンになったらこうなりますと……。私がガンだと聞いた時、家内が「しまった、保険に入っておけばよかった。そしたらこれだけもらえたのに」と言って笑ったのですが、そのコマーシャルでは何と言っているか。「安心があります」、「こうしたら安心ですよ」と言う。私たちのいちばん弱いのはそこです。というのは、普段からなにか不安があり、心配がある。なんだか頼りない思いをしているから、どこかで安心だ、大丈夫だと言われたい。またそれを保障してくれるものがないだろうかと思っている。こちらの保険、あちらの保険と幾つも掛けて、毎日の食事は乏しくなって、保険料だけ毎月たくさん払う。そのような方がおられます。
ところが、何をしてみても、これで大丈夫という確信がありません。常に不安が伴います。ある方がいくつも保険をかけて、日々の生活が苦しいと言われました。「どうしてそんなにたくさん保険をかけたの」尋ねたら、「一つだとちょっと足らないかもしれない。ひょっとしたら……」と、段々エスカレートしていったのです。一つやるとまた不安が次にわいてくる。また次にこうしなければおれなくなってくる。一種の病気だと思いました。皆さんでもそうでしょう。これがあるから大丈夫と思っていない。どこかに不安があって、もう一つこうしておいたほうがいいのではないか。これでは足らないのではないだろうか。ひょっとしてこうなったら、ああなったらと、そのような不安心理が絶えず私たちをかき立てるのです。ですから、物やお金では決して安心は得られません。
イエス様は27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く」と言われます。これが遺産です。イエス様が天に帰ったらこれを使いなさいと、私たちに残してくださったものがある。それを得ようとしないで、ほかのものに平安を求めようとするから、満足しない、安心にならない。これが現実です。主が私たちに与えてくださる平安とは何でしょうか。27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」と言われるのです。「与える」と言っているのですから、もらわないのはもったいない話です。イエス様は残していく、あげるとおっしゃいます。どうぞ、今日、イエス様があげると言われるのですから「はい、いただきます」と、その平安をいただこうではありませんか。
イエス様が私たちに与えてくださる平安は、そこにあるように、「わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」のです。この世の与える平安は、先ほど言いましたように、保険を掛けてみたり、貯金をたくさんしたり、あるいは投資をしたり、家、蔵、財産と言いますか、そのような不動産を手に入れることでしょう。万一のときにはこれを処分してと思っているに違いない。しかし、それでは決して私たちの心に安心はありません。
「ルカによる福音書」にイエス様が語った例え話があります(ルカ12:16-20)。ある金持ちが、大豊作だったとき、その収穫したものをどうしようかと思いました。そして、自分の持っている蔵を全部作り直して、大きなものにして、収穫したものを全部そこへ入れた。魂に「安心せよ、これで私は大丈夫。さぁ、飲め、食え、楽しめ」。ところが、そのとき神様は「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そうしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか」と言われる。この世が与える安心とはまさにそこです。そのような目に見える経済状況、あるいはそういうたぐいのものには、一時的な安心はありますが、永遠のいのちにつながる安心はありません。
ところが、イエス様は「わたしは平安をあなたがたに残して行く」と言われます。イエス様が与えてくださる平安は、「わたしの平安」、イエス様ご自身が持っていたものです。イエス様はピラトの法廷やカヤパの屋敷で裁判を受けられました。父なる神様によって十字架の刑を受けたのです。しかし、その中でイエス様は一言も激しい言葉を出さず、言い訳をしない、粛々(しゅくしゅく)と言いますか、平然とその中に立っていることができる。その平安は何であったのか? イエス様は、私たちがこの地上でたとえ死に直面するような事態や事柄の中に置かれても、揺るがないで立つことができる平安を与えようと言われる。これがあったら、どんなに心強いかわかりません。これがあれば他のものは無くても大丈夫です。それはどのような平安だったのでしょうか。
ヨハネによる福音書14章23,24節を朗読。
23節に「わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」と。イエス様が私たちに与えてくださる平安、イエス様ご自身が持っていた平安と言うのは、ここでイエス様が言われるように「わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」とのことです。誰が? 父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神、三位一体の神、この神様が「わたしたち」と言っているのです。イエス様と聖霊なる神と父なる神の三位一体の神様が「その人と一緒に住むであろう」。皆さんと「一緒に住む」と言われるのです。こんな驚くべき言葉があるでしょうか。住んでくださるといっても、どうすればいいのでしょうか。
それは「わたしの言葉を守る」ことです。23節「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう」。イエス様を愛する人、すなわち言葉を守る人と共に住んでくださる。私たちはイエス様を目で見ることはできません。父なる神様の御声を聞くことも、その姿を見ることもできませんが、御霊なる神が、聖霊が私たちの内に宿ってくださって、御言葉を通して、信じ従う者に「我らと共にいます」という幸いな平安をもって、日々を送らせてくださるのです。
ですから、23節の後半に「わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」。「その人」とは誰のこと? それは皆さんのことです。私のことです。私と一緒にイエス様は住んでくださる。父なる神様が共にいてくださる。聖霊なる御方が私と一緒にいてくださる。その条件はただ一つだけ。それはイエス様の御言葉を信じて、それに従っていく。これがただ一つの条件です。イエス様がそう言われるから「はい、そうします」と、私たちがそれに従ったとき、「わたしたち」、言い換えますと、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神御自身が共にいてくださる。
だから、いろいろな問題の中で御言葉に立ち返って、それに心をぴたっと添わせていくとき、言葉に言い表せない平安、安心、望みと喜びが、私たちのうちに満ちてくるのです。これは確かなことです。いろいろな問題に会い、事柄に会った時に、まず、主の御言葉に立ち返る。そして御言葉に信頼して、心を委ねていくとき、約束の御霊が、神様の霊が、キリストの霊が私たちの内に宿ってくださる。それは取りも直さず、キリスト御自身が、また父なる神御自身が私たちの内にあるのと全く同じことなのです。だから、25節以下に「これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」とあります。ここに「助け主」とありますが、それは「父がわたしの名によってつかわされる聖霊」と言い換えられています。イエス様が死からよみがえった後、40日間御自分のよみがえられたことを証しした後、弟子たちの見ている目の前から天にお帰りになりました。そして、イエス様は弟子たちに「エルサレムにとどまって父の約束を待ちなさい」と命じました。彼らはエルサレムにとどまって、一生懸命に心を合わせて、一つになって祈っていたとき、10日目の朝、ペンテコステの日に天から聖霊が注がれました。それは私たちに対する約束を、右代表で弟子たちが受けた出来事です。それから後、父なる神様の約束のものである聖霊が、信じる者に絶えず注がれています。ここが大切な事です。イエス様がよみがえって、今私たちと共にいてくださる。イエス様の姿かたちは見えないけれども、神の御霊、聖霊、「キリストの霊」とも言われますが、イエス様の力が私たちの内に絶えず臨んでくださる。その条件は、私どもが御言葉に従うときです。主の御言葉を心に抱いて守るときです。
先日も、若い両親が息子の一歳の誕生日にお祝いをしたいと計画しました。レストランを予約して、どのくらいの予算で食事を出そうか、相談してきました。初めての子供ですから、両親も嬉しくてどんなにでもしたいと願っていますが、現実的な費用の問題になると、渋くなってきます。勿体ない、惜しいという気持ちが働きます。一人あて幾らにするか、悩んでいたのです。そのとき、私は一緒にお祈りをして、神様が可愛い子供を与えてくださった感謝と喜びを表すのだから、金銭的なことより、精一杯できることをしてはどうかと勧めました。惜しむくらいなら、何もしなければいいのです。何のためにするのかを考えると、神様への感謝以外にありません。そのようなとき、聖書にはなんとあるか。聖書には、「受けるよりは与える方が、さいわいである」とあります。また、「いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい」ともあります。みことばに思いをむけるとき、損得利害を離れて、純粋に主に対する感謝の気持ちを具体化することが出来ます。御言葉に従うとはそこです。このときにはこうしなさいとか、あのときにはああしなさいと、このくらいの予算でこのくらいのお土産をつけてなどとは、どこにも聖書には書いていないけれども、聖書を読んでいれば、何をしてあげたらいいのか、神様を第一にするとはどうしたらいいのかは、おのずから見えてくる。そうではないでしょうか。ところが、案外私たちは知っていながら、そんなことをしたら勿体ない、そこまで私が犠牲になる必要がない。あの人がまず先にすべきだと言って、せっかく御霊が御言葉を通して語ってくださっているのに、それを拒んでいる。そして自分の欲得、そろばんずくで事をやってしまう。その揚げ句、なんだかむなしい、あんなことをしなかったらよかった。つぶやきと不平、不満が残るだけになるのです。平安がない。
ところが、イエス様が、私たちに与えてくださる平安、それは御言葉を信じて、それに従うときに、聖霊がわたしたちの心に宿ってくださる。共に住んでくださる。先ほどの23節後半に「その人と一緒に住む」。「一緒に」ですよ。しかも「住む」と言うのですから、ただ単にちょっと会う程度ではない。いつも一緒にいてくださる。主が私と共にいてくださることを体験していただきたい。それはただ御言葉を信じて、自分を捨ててかかるのです。主がこのことを願っていらっしゃるからそうしましょうと、……。
私は最近教えられることですが、若い人たちはこの世のしきたりや習慣、そのようなものになじんでしまって、聖書が語っていることがどういうことかが見えなくなってしまっている。生活の具体的な歩み方の中で、御言葉が語ってくださること、それをどのように具体的に受けとめたらいいかが見えない。そのためにせっかく神様の祝福にあずかるべき事柄が台無しになってしまうケースがある。だから、いつも御霊に導かれることを願って、御言葉に絶えず立ち返ることです。いろんな問題があります。心配なことや不安なことがあります。しかし、そこで御言葉にしっかりと根差していこうではありませんか。だから、御霊は私たちに「わたしの語ったことを思い起させる」と26節に記されています。主の御言葉をわたしたちに教えてくださる。日々の生活の中でいろいろなことに出会うとき、御霊は今ここでこうしなさいと御言葉を思い起させます。そのときに、その御言葉を信じて「はい、主よ、あなたの御心に従います」と、従った途端に御霊が私たちの内に平安を与えてくださいます。喜びに満たしてくださる。これが私たちの受ける平安です。そこで初めてイエス様が私と共にいらっしゃる、私のような者と共にイエス様がいてくださると知るのです。そうすると、次に新しい問題や心配なことに出会っても、もう動かない。揺るぐことがない。またイエス様に信頼する。主よと、すぐに主を呼び求めることができるようになる。それを繰り返し、繰り返し積み重ねていく日々が私たちの人生です。だから、いろいろなことがある度ごとに御言葉に立ち返って、主がこのように言われるから、主がこのことを願っているからと、常に心に置いていかなければならない。
私どもはいろいろなことに出会います。先だっても、ある方のことでそのようなことがありました。人は一生懸命に親身になっていろいろな心配をするのですが、その心配で相手に対する思いが行き過ぎると、今度は非難する。「あの人は、あんなことをするからもう駄目!」と、相手を非難する。よく聞いてみると、あまりにも相手のことを思い過ぎているのです。肉の思いで思うから、段々と激しい非難になるのです。「もう、あんな人の顔を見たくもない」と言い始める。私は、あれ、あれまぁ、大変なことだと思う。聖書には「人を裁くな」、「その測りであなたも裁かれる」と書いてあります。しかし、カーッとなっているときは、「聞く耳を持たず」です。普段、いろいろな御言葉が、私たちの心に絶えずありながら、肉の思い、相手を思えばこそ情が深くて、逆にひどく神様に背いた生き方しかできなくなってしまう。
だから、絶えず御言葉に素直になりたいと思います。これがよみがえってくださった主に、共にいていただく秘訣です。いろいろな問題に会うとき、さまざまなことに出会うとき、素直に主の御言葉に従う。しかし、これがなかなか難しい。難しいからできないと言ったら、私たちは永遠の滅びです。そこでもう一度、自分がどのようなところからあがなわれ、神様の憐れみにあずかっているか、自分の「切り出された岩、掘り出された穴を思いみよ」とおっしゃる。立ち返ってへりくだり、主の御言葉に従うことです。
イザヤ書30章19節から21節までを朗読。
19節に「シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない」。「シオンにおり、エルサレムに住む民」とは誰のこと? これは私たちのことです。イエス様の十字架のあがないによって罪を赦され、神様が私たちを所有としてくださった。神様のものとしてくださった。信仰によって、私たちはエルサレムに住む者、シオンに住む民であります。しかし、そうでありながら、現実、肉にあって生きています。この世にあって生きています。そのためにさまざまな悩み、困難、苦しみ、悲しい出来事に絶えずさらされています。しかし、「あなたはもはや泣くことはない」と言われる。
イエス様がよみがえられたとき、マグダラのマリヤが墓に残って泣いていました。イエス様はよみがえってマリヤに近づいてくださった。イエス様が「女よ、だれを捜しているのか」と問われました。マリヤは「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」と答えました。「マリヤは、その人が園の番人だと思った」と記されています。そのとき、泣いていたマリヤに主が「女よ、なぜ泣いているのか」と声を掛けてくださいました。それでもまだマリヤは主であることがわからなかった。ところが、「マリヤよ」と、イエス様が再び声を掛けたときに、マリヤは「おお主よ、ラボニ」と、イエス様に出会って涙が消え喜びに変わったのです。
それと同じです。19節に「あなたはもはや泣くことはない」。皆さん、泣くような問題や事柄の中に置かれていますか。泣かなくていいのです。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」といわれました。主があなたと共に住んでいるではないか。主が一緒にいらっしゃるではないか。よみがえってくださったイエス様は、あなたと共に住んでおってくださる。19節「主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される」。だから、泣かないで、主を呼び求めればいい。「求めなさい。そうすれば与えられる」とおっしゃる。「何事も思い煩うな、ただ、事ごとに祈りをなし、願をなし、感謝して汝らの求めをに告げよ」とおっしゃるではありませんか。御言葉を知りながら、そっちのけにして、世の考え、方法でどうしたら泣かないで済むだろうか、どうしたら喜びがあるだろうか、どうしたら望みがあるだろうかと、そちらのほうばかりを追い求めやすい。ここに「主はあなたの呼ばわる声に応じて」とあります。皆さんが呼べば呼ぶだけ、求めれば求めに応じて、主は答えてくださる。そして「主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる」。主は私たちの求めるところに直ちに答えてくださる。これが私たちの持っている平安です。主がよみがえって私と共にいてくださる。御霊なる神が私と共に住んでくださっている。
20節「たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る」。どのような悩みであっても、困難であっても、イエス様はそこに絶えずいてくださる。弟子たちがガリラヤ湖を船で渡っていました。向かい風で難儀をしていたときに、夜明け方、イエス様は波の上を歩いて弟子たちに近づいて「恐れるな」と言われた。イエス様は遠く離れているように思えても、すぐに私どものそばに立ってくださる。いつでもどんなときにでも、この主を私たちの平安の源である御方をしっかりと握っていきたい。ともに住んでくださる方をはっきりと知っておきたいと思います。
21節「また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで『これは道だ、これに歩め』と言う言葉を耳に聞く」。主が絶えず私たちにこの道を行きなさい、そこで止まりなさい、進みなさいと語ってくださっている。私たちはその御霊の声に素直に聞き従っていこうではありませんか。そのとき、不安に思う、心配する、思い煩うことはいっさいなくなります。主は絶えず励まし、慰め、望みと力を与えてくださるからです。
「ヨハネによる福音書」14章27節に「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」。「わたしの平安」とおっしゃいます。イエス様が、どんな時でも共にいてくださる主を、父なる神様を信頼し続けて、あの十字架の上ですらも平安に過ごすことができる。このような平安を今日主は私たちに与えてくださると言われる。ただ、主が与えてくださると言われますから、主の御言葉を信じて、はい、と従いましょう。イエス様が私と共にいてくださって、どんな中でも呼べば答えてくださる。呼び求める者にただちに答えてくださる主がいらっしゃることを体験し、喜び望みを得させていただこうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。