ヘブル人への手紙11章1節から6節までを朗読。
6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」とあります。
この11章1節以下には「信仰によって」と、信仰に生きた多くの人々の証詞が語られています。1節に「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と、信仰についてはっきりと語られています。「望んでいる事」「見ていない事実」を確信し、確認すること。言うならば、私たちが見ていること、分かっていること、理解できること、それは信仰ではないというのです。私どもは手で触って、目で見て、耳で聞いて、あれこれと確かめ、そしてなるほどそうだと分かったら信じよう、理由があるから、分かった、では信じる、という生き方をしている。分からないこと、目に見えないこと、あるいはただ夢として希望を持っているだけのこと、そのようなものは信じてはいない。そうなればいいな、という夢を語ります。夢を語るとき、初めから実現しようがない、あり得ないことを前提にしています。新しい年を迎えると初夢を見るとか、この一年について夢を描く。そのようなものは大抵できないこと、自分には不可能と思っている事を夢として描く。だから、「夢を語ろう」なんていうとき、「できるかできないか分からないから、なんでもいい」と思う。夢というのは、それは不可能なこと。だから、できないことを夢みたいな話だ、と言いますね。
目に見ている事柄、あるいは手で触ってはっきりと自分で確信する事柄を信じる。このようになるに違いない。インターネットなどでいろいろな情報を見て、こうなったらこうなるに違いない、そして、あの人もこの人も、十人が十人そう言っているから、きっとそうなるに違いない。そのような理屈をつけて、なるほどそうだなと信じる。
私もそのような失敗をいたしました。2年前、病気になりまして、先のことがどうなるか分からない。初体験ですから、二度も三度もないと思うのですが、初めての体験でしたから、これからどうなるだろうかと……。そうなると、経験者はどうしたか、過去の人はどうだったか、いろいろ知りたい。だからさまざまな情報を得ます。その意味では、今は非常に素晴らしい情報時代です。インターネットで検索のキーワードを入れると、ズラーッと出てきます。見ていると次から次へ、私はこのような状態だった、私はこうだったと体験談が、それもこと細かく絵が入っています。時には写真入で出てきますから、現実味がある。この人は三年たって再発したらしい。この人は手術の後こうなったらしい。なるほどこうかと、いろんな情報がきます。すると、だんだん怖くなってしまう。私は入院して手術を受けまして、その後、担当の先生が来たとき、自分の知識に基づいて、「私はこれからこうなるでしょうね」と尋ねました。そのとき、主治医ではなくて、助手をしていた若手の先生でした。彼が、「インターネットに出てくる情報は、自分が悪かったものばかりが出るのですよ。いいことのあった人は書かないですよ」と言われた。「そうか」と、私はそのとき目が開かれたのです。自分の状態が悪い状態になった。こうなったらこういう状態になったということをみんなに言いたい。言わないといられないから、言うわけです。インターネットの情報というのは、そのようなものなのだということです。病気が治って、医者とは縁が切れた人はいちいちそのようなことを書かない。ところが、いつまでも医者と縁が切れない、薬と縁が切れない、次から次へといろいろな問題が起こる人がその状態を書く。だから出てくる情報は全部そのようなものばかりです。八割から九割はそのように駄目だったケース、駄目ということはないでしょうが、しかし苦労に苦労を重ねた体験談が好まれるから、そのようなものが出てきます。
その時、自分自身の信仰とは何か、と問われました。この1節に「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」。信仰、信仰といいますが、それはいったい何なのか。 それは私たちがまだ見ていないこと、まだ望んでいる事柄、いうならば夢を信じることです。目の前に見ていること、手で触ってはっきりしていること、あるいは聞いて確かなこと、そのようなことを信じても、それは信仰ではない。3節に「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」。ここに「見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」と、何か分かったような、分からないような言葉です。「見えるもの」「現れているもの」とどのような違いがあるのか。ここで言っているのは、「見えるもの」とは一つの結果であり、「現れているもの」とはその原因となっているものです。原因結果の関係に基づいて、世界が造られたのではないと言うのです。分かりやすく言いますと、一つの料理を作ります。たとえば、カレーライスを作ります。そのカレーライスはちゃんとそれになるべき材料がある。お肉や玉ねぎ、ルーも買う、そのような現れているものによって見えるものであるカレーライスが出来てくる。
ところが、世界はそうではないのです。世界は何から出来ているかと言うと、神様の言葉で創られたというのです。いうならば、材料がない。「見えるものは現れているものから出てきたのでない」と言いますのは、そういうことです。何か材料があって、それを用いて見えるものが出来てきたというのではない。何にもなかった。だから創世記の1章1節以下に「はじめに神は天と地とを創造された。2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」。何にもなかった。あったのは何か? 初めにあったのは神様ご自身だったのです。神様がいただけで、そのほかに何にもなかった。そこから神様は「光あれ」と言葉を出した時に光があった。光が出てくる、それからあとの一つ一つ、天地創造の事態や事柄が書かれていますが、どれ一つ取っても神様がどこかから、材料を持ってきて創ったというのではない。空を創り、海を創り、陸を創り、そしてそこに生きとし生ける一切の森羅万象を、言葉を発して、何にもなかったところから創り出されたのです。
最近マジックがはやっています。私も機会があると、テレビで見ますが、実に不思議なことをしますね。何にもないのにパッと出して、「あらら」と思います。種があると思うのですが、不思議です。「種も仕掛けもありません。はい、何もありません」と言って、耳からトランプがパッパッと出てくる。口の中からお金がパラパラと出てくる。しかし、人の目には何にもないところから出てきているように見えますが、かならず仕掛けがある。仕掛けがあるけれども、それがどのようになっているのか分からないから、だまされて喜んでいるのです。マジシャンの側に立ってみたら、これほど面白い話はない。仕掛けがあるのにそれが分からないために、「ワーッ!」「キャー!」と言って喜ぶ姿を見ると、マジシャンは痛快でたまらないでしょう。
しかし、神様はマジシャンではありません。仕掛けがどこかにあって、「光あれ」と言って、裏側で一生懸命に、材料を持ってきたというのではなく、3節にあるように、「見えるものは現れているものから出てきたのでない」。
ローマ人への手紙4章16節から21節までを朗読。
17節の中ほどに「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」。今、読んだ記事は、アブラハムの信仰について語られた一節です。アブラハムは信仰の父と呼ばれています。彼は何ゆえに信仰の父と呼ばれたか。それがここに書かれています。「無から有を呼び出される神を信じる」。神様が「無から有を」創り出す、いうならば、見えないものを見えるものに創り出してくる。何にもないところから創り出すことができる方である。これが私たちの信じる神様です。神様が私たち一人一人を造っておってくださる。どうでしょうか。この一年を振り返ってみて、年頭に今年はこういうことと、こういうことと、こういうこととが必ずわが身に降りかかるに違いない。だからあれを用意してこれを用意して、前もってちゃんと準備万端したとおりになった、と言える方はいないでしょう。新年の初めには、365日過ぎた年末にこのような状態に自分はなっているに違いない。中には、自分はこの世にいないはずの方もいるかもしれない。自分の予定ではですよ。年頭には「もう、今年いっぱい生きていたらいいかな」とぐらいに思った人もいるかもしれない。あるいは、今年は厄年だから大きな病気をするに違いない。ひょっとしたらそれはガンであって、それっきりになって、自分は若いけれども死ぬかもしれない。家族が悲しむだろうな、と思って、今年の正月を迎えた人がいるかもしれません。でも、一年間を振り返ってみて、今ここに、こうして生かされている、ここにある。その間、いろいろなことがありました。
今日も家内と車で来るときに振り返ってみまして、年頭からまず新年聖会もありましたし、それからインフルエンザがはやりまして、家内のメモを見ますと1月9日に家内がインフルエンザになって、金生家も次から次へと全滅しました。そして家内もインフルエンザになって、木曜会に来てみましたら、栄子先生は切迫流産をしそうになって入院中だった。そのようなことをズーッと思い返していますと、いろいろなことがあったなぁ、と思います。次から次へと、その後のことも考えてみると、事の多い一年であったと、家内と感謝しました。自分の思わない、計画にない、考えもしない一年を過ごしてきました。皆さんも恐らく同じでしょう。
誰が事の多い一年を造り出したのか。正月に入って新しいカレンダーをめくって、一月一日、その後12枚もカレンダーが月ごとにあります。中には二ヶ月分が一枚に載って6枚で一年のものがあります。この一年は長いなぁ、と思ったことでしょう。そして、どんどんめくってきて、今は一枚だけになっている。それを取ると、後は何もない、おしまいです。もちろん、新しいカレンダーはありますが、その新しいカレンダーの中で私たちはどのような生き方をするのでしょうか。何がそこに待ち受けているか。もしかしたら、私の葬式があるかもしれない。またどなたかの葬式をするかもしれない。想像してご覧なさい。ご自分がこの講壇の前で棺おけの中に入っているという、そのような事態をいったい誰が計画しているのでしょうか。望むと望まないにかかわらず、何にもないところに造り出している方がおられる。まさにこのアブラハムの信仰は、そこです。17節に「すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神」。この一年、神様が私たちを造り生かし、何にもなかった一年の365日という、時間に換算しましたら何千時間になるのか分かりませんが、何にもない空間に、神様が皆さんを一日、一日造ってくださる。日々新しい創造の業を進めてくださる。「創造の業」と言っても、だんだん年を取って、しわが増える、白髪は増える、足腰が弱る。どうしてこれが神様の創造だろうかと疑います。しかし、神様は私たちを新しいものに造り変えてくださるのです。動けた人が動けなくなるという、新しい世界へ入れられるのです。新しくなると言うと、すぐ自分勝手に、今よりももっと元気になる、と期待しますが、新しいとは、自分にとって今まで経験のない世界のことです。だから今まで若くてぴちぴちして、飛び回っていたあのようになりたいと願いますが、あれはもう済んだことです。もっと新しいところへ、今度は寝たきりの中に入れられる。これも神様の業です。一年間の日々の生活を誰が造ってくださっているか。私ではない。皆さん一人一人、自分の人生だから、自分の生活だから、自分の家庭だから、自分の仕事だから、私が頑張ってここまでやったと思うなら、それは大間違いです。ここが信仰によって生きるということです。「無から有を呼び出される神」、何の書き込みもない新しいカレンダーの中に、書き込んでくださったのは神様です。私たちは勝手に「何月何日にどこどこへ行く」、「この人と会う」「ここに買い物に行って」と、予定を書きます。「この日は病院」「この日はレントゲン」「この日は何の検査」と、それらは全部「無から有を呼び出される」のです。私たちが自分で造っているのではない。
18節に「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである」。アブラハムは「神を信じた」と。神様を信じるとは、神様の何を信じるか? 神様の約束の言葉を信じることです。私たちの創造者、造り主、「わたしは神である、今より後もわたしは主である」(イザヤ43:13)と宣言している神様が、私たちに約束してくださったことがあるのです。それを着々と神様は日々実現してくださっている。この年頭に私どもが与えられましたみ言葉「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(2コリント3:18)、私たちをその栄光の姿に造り変えるために、何にもなかったカレンダーに私たちの一日、一日を書き加えて、生きる命を与える。この神様を信じ、約束の言葉を信じていく。神様は私たちの罪を赦し、自分のものとしてあがない、神の子供としたと、約束してくださいました。ところが、それを信じられなくて、どこに神の子としての姿かたちがあるだろうかと、自分を疑うことがしばしばでした。それでも神様は着々と約束を果たしてくださったのです。確かに、一年を振り返ると、いろいろな問題や事柄を通して、そこで神様に触れることができ、恵みの中を通ってきたことは、疑いのない事実です。去年よりも今年、今年よりも来年と、神様は「栄光から栄光へと」キリストの姿かたちが形作られるまで、生みの苦しみをする、と言われます。神様は熱心になって私どもを持ち運んでくださっている。私どもがそれを信じられず、目先のことだけに一喜一憂、ああなった、こうなったとしょげてみたり、上がってみたり、浮いたり沈んだり、絶えず繰り返しています。しかし、神様の計画は着々と進んでいるのです。
この時アブラハムは自分の状態がどうであれ、19節に「すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった」。現実を見る。これはやむを得ません。目の前にいろいろと自分の姿かたちがあります。周囲のいろいろな条件や事柄、見えるものばかりです。ああなったらどうしようか、こうなったら……、と思い煩うことがたくさんあります。しかし、その見えるものを超えて見えないものに目を注ぐ。これが信仰です。そして見えない神様に「無から有を呼び出される神」、その方が真実をもって約束をしてくださった言葉に堅く寄り頼んでいく。これがアブラハムの信仰です。「あなたにひとりの男の子を与える」と約束されたが、自分の実際を見ますと、体を見ますと「死んだ状態」、子供が持てるような状況ではなかった。しかし、「サラの胎が不妊であるのを認めながらも」でしょう。「見ざる・聞かざる・言わざる」、私の信仰がなくなるといけないから、そんな話を聞かせないで、私には何も言わないで、というのではない。見ているのです。ちゃんと現実をはっきりとこのような状態にある。絶望的であることも知っています。しかし、その現実に捕らわれるのではない。それに自分を置くのではなく、神様の約束の言葉に自分を置いていくのです。これが信仰です。
だから、家族の救いについても、ご主人のために、また息子や娘たちが何とか信仰を持って欲しいと願いますね。見える現実は実に希望がない、「絶望的」と言われます。「もう絶望的、駄目ですよ。うちの主人は、もう救われません」と決めてかかる。その現実を見れば、そのようにしか言いようがない。「もう、あきらめます」と言うかもしれません。ところが「無から有を呼び出される」、「死人を生かすことのできる神様」でしょう。かたくななご主人の心ですらも瞬時にして打ち砕いて、救いに引き入れることができる方です。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)との約束の一言に全てを懸けて信頼していく。そして、一生懸命に、自分が信仰に立って歩んでいかなければ、神様の救いにあずかることができません。
20節に「彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ」と。これは素晴らしいですね。現実を見て失望するような状態だけれども、今度はもう一つ神様の約束の言葉を信じることによって、「信仰によって強められ」というでしょう。私たちは現実を見て悲観し、落胆し、御言葉を見て半分ぐらいちょっと心が上がって、また現実を見て落ち込む。一歩進んで二歩下がるという、御言葉で一歩進んだと思ったら現実を見て二歩下がって、どんどん後退してくのが現実です。ところがアブラハムは違う。現実を見て一歩後退、御言葉を信じて二歩前進、これが信仰の生き方です。来る新しい年も真っ更なカレンダーの中に、一年の中に、神様が私たちを造り出してくださいます。そこに素晴らしいドラマを神様が描いてくださるのです。シナリオライターである神様が私たちのために備えてくださることがある。そう言うと、「え!」という顔をなさる。「神様が備えてくださるものがありますよ」と言うと、「え!何だろうか。大丈夫だろうか」と怖がる。ひょっとしたらひどいことをされるのではないだろうかと。それは神様の愛を疑うからです。神様は愛するものに、そのような無茶なことをなさるわけがない。いや、それよりももっと素晴らしい大きなこと、神様は恵もうとしていてくださるのですから、神様の約束のお言葉、愛の言葉を信じてしっかりと立って行こうではありませんか。
もう一度、へブル人への手紙11章6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」。誠にそのとおりです。神様に喜んでいただくには、ただ一つだけ、「信仰がなくては」。その信仰とは、今申し上げましたように、神様の約束を信じ、神様を信じていくことです。そして、もうひとつ具体的にその先に、「なぜなら」とありますが、信仰とは何かをもう一度言い換えています。「神に来る者」、すなわち、神様を信じる者、神様を求める者は「神のいますこと」をまず信じる。それから「求める者に報いて下さること」を信じる。この二つのことです。信仰とはこの二つだけです。「神様がいらっしゃる」、そして「神様は必ず答えてくださる」ことを信じる。「神様がいらっしゃる」ことを信じるとは、神様が私を造り、私の全てであること、今日も生かしてくださる根源、私の今ある一番の源が神様だと認めることです。「神様がいらっしゃる」ことを信じるとは、取りも直さず私がその神様によって造られたものであり、神様に握られているのだと認めることです。そこが分離してしまう。神様はいらっしゃる、でも私もここにいる。だから私のことは私がする。神様のことは神様がなさる。私と神様が、分離してしまうのです。これが一番厄介と言いますか、私たちの信仰の妨げです。神様を信じることは、自分が神様の中に握られている、神様によって造られ、神様のものとなっていることを認めなければならない。だから、神様がいらっしゃるから、私はこのように生きてしゃべっているし、元気でいられる。また、神様がいらっしゃるから、寝たきりになるし、神様がいらっしゃるから私は病気になっていると、全ての原因が神様であると認めることです。これを普段自覚しないで生きています。神様はどこかにいるに違いないが、それと私とは関係がないと思っている。私の生活、私の家庭、私の台所、私の財布の中は、神様に関係ないよと思っているならば、「神のいますこと」を信じているとはならない。神様がいるから、私の財布の中に残り少なくなった。神様がいるから、こうやって元気でいられる。昨日は元気だったけれども、今日は元気がなくなった。ちょっと疲れが出た、それは神様がしてくださったこと、何もかも原因は神様にあることを認める。これが「神のいますこと」を信じることです。だから箴言にあるように「すべての道で主を認めよ」(3:6)というのはこのことです。どれもこれも神様がなさることです。そこに信仰の第一歩があります。
そして、その後に「自分を求める者に報いて下さること」とあります。神様に信頼するとき、神様に求めていくとき、神様に期待するとき、それに答えてくださる。応答してくださることです。生きていらっしゃることを信じるのです。神様はいらっしゃるけれども、うんともすんともいわないと思うのは間違い。祈ればそれに答えてくださる。私たちが御言葉に従って歩みさえすれば、その約束を具体化してくださる。そのような結果を伴って、私たちを導かれる方です。だから、今その結果が出ていない、今、事がどのようになっていくか分からない。でも、神様は必ず時を定めて、きちっとそのことを実行してくださる。
今、時はまさにクリスマスですが、クリスマスとはそのようなことでしょう。神様の約束が具体化した証詞です。東方の博士は旧約の聖書の中に預言者が預言した言葉を信じて、その言葉を信頼して出てきました。どのくらいの日数をかけて出てきたのか分かりませんが、玄関の所にクリスマスのナティビティードール(キリスト生誕の人形)がありますが、あれを見ますとらくだがいますから、恐らくらくだに乗って来たのかな、と思いますが、聖書にはらくだに乗った博士とは書いていませんから、徒歩で来たのかほかの何かできたのか分かりません。でも砂漠をらくだに乗って来るのは、非常にロマンチックで話としては面白いと思います。しかし、らくだにこだわる必要はないのです。そのようなことはどちらでもいいことです。いずれにしても大切なのは、その三人の博士が、困難をいとわないで、はるばるとイエス様を求めて来たその理由は何だったでしょうか。それは聖書の預言の言葉を信じたからでしょう。預言の言葉が本当に実現しているのだと、信じなければ、旅立つことはできません。行って無駄になるかもしれません。ところが、博士たちは、必ずその言葉のとおりになることを信じているのです。事実、星に導かれてとありますから、星という証詞はありました。しかし、その星だって本当にそこに救い主が生まれているのかどうか、これは行ってみないことには分かりません。結果が分からないのです。でも、神様は必ずそれに答えてくださる、と信じた。この約束の言葉は、時を定めて必ず成就すると博士たちは信じたのです。それが信仰です。三人の博士たちは信仰を持って、神様の言葉を信じて出てきた。そのとき結果がどうなるか疑いません。必ず、そのようになると信じて来たのです。
6節、「神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」。これがないならば信仰とは言えません。「お祈りはしたけれども、神様は聞いてくださるかどうかは分かりませんよ」という程度ならば、それは信仰ではない。そうなればいいし、ならなければ駄目で元々というのだったら、それは信仰ではない。必ず、そのようになると信じていく。神様の約束ですから、主がそのようにおっしゃっているから……と。私たちはいつもこの信仰に立って生きる者でありたいと思います。なぜならば、そうでなければ「神に喜ばれることはできない」。日々の生活にいろいろと次から次へと事が起こってきます。しかし、その度に、私たちは御言葉に立ち返って、主の約束を信じる。主の約束と言っても、目の前の具体的な事柄を「右にしなさい」「左にしなさい」「行け」「止まれ」と指示するマニュアルではありません。しかし、聖書の言葉に慰められ、励まされ、力づけられて、与えられた問題を通して、へりくだって神様を呼び求めつつ、御霊の御声に従うと、神様のほうが、私たちの信頼に答えてくださるのです。御言葉を絶えず、絶えず心に受け入れて、それによって力を得て、励まされ、慰められ、与えられた問題の中で、「無から有を呼び出される」神を信じて、必ず「報いて下さる」主を信じて、問題を引き受けていく、これが私たちの日々の生き方です。
神様は私たちを通して何をしてくださるか分かりません。しかし、分からなくてもいいから、ただ一日、一日、目の前に与えられた事柄の中で、この信仰に立って、「神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを」堅く信じて、主のなさる業を、その結果を味わい喜び、また感謝する者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」とあります。
この11章1節以下には「信仰によって」と、信仰に生きた多くの人々の証詞が語られています。1節に「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と、信仰についてはっきりと語られています。「望んでいる事」「見ていない事実」を確信し、確認すること。言うならば、私たちが見ていること、分かっていること、理解できること、それは信仰ではないというのです。私どもは手で触って、目で見て、耳で聞いて、あれこれと確かめ、そしてなるほどそうだと分かったら信じよう、理由があるから、分かった、では信じる、という生き方をしている。分からないこと、目に見えないこと、あるいはただ夢として希望を持っているだけのこと、そのようなものは信じてはいない。そうなればいいな、という夢を語ります。夢を語るとき、初めから実現しようがない、あり得ないことを前提にしています。新しい年を迎えると初夢を見るとか、この一年について夢を描く。そのようなものは大抵できないこと、自分には不可能と思っている事を夢として描く。だから、「夢を語ろう」なんていうとき、「できるかできないか分からないから、なんでもいい」と思う。夢というのは、それは不可能なこと。だから、できないことを夢みたいな話だ、と言いますね。
目に見ている事柄、あるいは手で触ってはっきりと自分で確信する事柄を信じる。このようになるに違いない。インターネットなどでいろいろな情報を見て、こうなったらこうなるに違いない、そして、あの人もこの人も、十人が十人そう言っているから、きっとそうなるに違いない。そのような理屈をつけて、なるほどそうだなと信じる。
私もそのような失敗をいたしました。2年前、病気になりまして、先のことがどうなるか分からない。初体験ですから、二度も三度もないと思うのですが、初めての体験でしたから、これからどうなるだろうかと……。そうなると、経験者はどうしたか、過去の人はどうだったか、いろいろ知りたい。だからさまざまな情報を得ます。その意味では、今は非常に素晴らしい情報時代です。インターネットで検索のキーワードを入れると、ズラーッと出てきます。見ていると次から次へ、私はこのような状態だった、私はこうだったと体験談が、それもこと細かく絵が入っています。時には写真入で出てきますから、現実味がある。この人は三年たって再発したらしい。この人は手術の後こうなったらしい。なるほどこうかと、いろんな情報がきます。すると、だんだん怖くなってしまう。私は入院して手術を受けまして、その後、担当の先生が来たとき、自分の知識に基づいて、「私はこれからこうなるでしょうね」と尋ねました。そのとき、主治医ではなくて、助手をしていた若手の先生でした。彼が、「インターネットに出てくる情報は、自分が悪かったものばかりが出るのですよ。いいことのあった人は書かないですよ」と言われた。「そうか」と、私はそのとき目が開かれたのです。自分の状態が悪い状態になった。こうなったらこういう状態になったということをみんなに言いたい。言わないといられないから、言うわけです。インターネットの情報というのは、そのようなものなのだということです。病気が治って、医者とは縁が切れた人はいちいちそのようなことを書かない。ところが、いつまでも医者と縁が切れない、薬と縁が切れない、次から次へといろいろな問題が起こる人がその状態を書く。だから出てくる情報は全部そのようなものばかりです。八割から九割はそのように駄目だったケース、駄目ということはないでしょうが、しかし苦労に苦労を重ねた体験談が好まれるから、そのようなものが出てきます。
その時、自分自身の信仰とは何か、と問われました。この1節に「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」。信仰、信仰といいますが、それはいったい何なのか。 それは私たちがまだ見ていないこと、まだ望んでいる事柄、いうならば夢を信じることです。目の前に見ていること、手で触ってはっきりしていること、あるいは聞いて確かなこと、そのようなことを信じても、それは信仰ではない。3節に「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」。ここに「見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」と、何か分かったような、分からないような言葉です。「見えるもの」「現れているもの」とどのような違いがあるのか。ここで言っているのは、「見えるもの」とは一つの結果であり、「現れているもの」とはその原因となっているものです。原因結果の関係に基づいて、世界が造られたのではないと言うのです。分かりやすく言いますと、一つの料理を作ります。たとえば、カレーライスを作ります。そのカレーライスはちゃんとそれになるべき材料がある。お肉や玉ねぎ、ルーも買う、そのような現れているものによって見えるものであるカレーライスが出来てくる。
ところが、世界はそうではないのです。世界は何から出来ているかと言うと、神様の言葉で創られたというのです。いうならば、材料がない。「見えるものは現れているものから出てきたのでない」と言いますのは、そういうことです。何か材料があって、それを用いて見えるものが出来てきたというのではない。何にもなかった。だから創世記の1章1節以下に「はじめに神は天と地とを創造された。2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」。何にもなかった。あったのは何か? 初めにあったのは神様ご自身だったのです。神様がいただけで、そのほかに何にもなかった。そこから神様は「光あれ」と言葉を出した時に光があった。光が出てくる、それからあとの一つ一つ、天地創造の事態や事柄が書かれていますが、どれ一つ取っても神様がどこかから、材料を持ってきて創ったというのではない。空を創り、海を創り、陸を創り、そしてそこに生きとし生ける一切の森羅万象を、言葉を発して、何にもなかったところから創り出されたのです。
最近マジックがはやっています。私も機会があると、テレビで見ますが、実に不思議なことをしますね。何にもないのにパッと出して、「あらら」と思います。種があると思うのですが、不思議です。「種も仕掛けもありません。はい、何もありません」と言って、耳からトランプがパッパッと出てくる。口の中からお金がパラパラと出てくる。しかし、人の目には何にもないところから出てきているように見えますが、かならず仕掛けがある。仕掛けがあるけれども、それがどのようになっているのか分からないから、だまされて喜んでいるのです。マジシャンの側に立ってみたら、これほど面白い話はない。仕掛けがあるのにそれが分からないために、「ワーッ!」「キャー!」と言って喜ぶ姿を見ると、マジシャンは痛快でたまらないでしょう。
しかし、神様はマジシャンではありません。仕掛けがどこかにあって、「光あれ」と言って、裏側で一生懸命に、材料を持ってきたというのではなく、3節にあるように、「見えるものは現れているものから出てきたのでない」。
ローマ人への手紙4章16節から21節までを朗読。
17節の中ほどに「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」。今、読んだ記事は、アブラハムの信仰について語られた一節です。アブラハムは信仰の父と呼ばれています。彼は何ゆえに信仰の父と呼ばれたか。それがここに書かれています。「無から有を呼び出される神を信じる」。神様が「無から有を」創り出す、いうならば、見えないものを見えるものに創り出してくる。何にもないところから創り出すことができる方である。これが私たちの信じる神様です。神様が私たち一人一人を造っておってくださる。どうでしょうか。この一年を振り返ってみて、年頭に今年はこういうことと、こういうことと、こういうこととが必ずわが身に降りかかるに違いない。だからあれを用意してこれを用意して、前もってちゃんと準備万端したとおりになった、と言える方はいないでしょう。新年の初めには、365日過ぎた年末にこのような状態に自分はなっているに違いない。中には、自分はこの世にいないはずの方もいるかもしれない。自分の予定ではですよ。年頭には「もう、今年いっぱい生きていたらいいかな」とぐらいに思った人もいるかもしれない。あるいは、今年は厄年だから大きな病気をするに違いない。ひょっとしたらそれはガンであって、それっきりになって、自分は若いけれども死ぬかもしれない。家族が悲しむだろうな、と思って、今年の正月を迎えた人がいるかもしれません。でも、一年間を振り返ってみて、今ここに、こうして生かされている、ここにある。その間、いろいろなことがありました。
今日も家内と車で来るときに振り返ってみまして、年頭からまず新年聖会もありましたし、それからインフルエンザがはやりまして、家内のメモを見ますと1月9日に家内がインフルエンザになって、金生家も次から次へと全滅しました。そして家内もインフルエンザになって、木曜会に来てみましたら、栄子先生は切迫流産をしそうになって入院中だった。そのようなことをズーッと思い返していますと、いろいろなことがあったなぁ、と思います。次から次へと、その後のことも考えてみると、事の多い一年であったと、家内と感謝しました。自分の思わない、計画にない、考えもしない一年を過ごしてきました。皆さんも恐らく同じでしょう。
誰が事の多い一年を造り出したのか。正月に入って新しいカレンダーをめくって、一月一日、その後12枚もカレンダーが月ごとにあります。中には二ヶ月分が一枚に載って6枚で一年のものがあります。この一年は長いなぁ、と思ったことでしょう。そして、どんどんめくってきて、今は一枚だけになっている。それを取ると、後は何もない、おしまいです。もちろん、新しいカレンダーはありますが、その新しいカレンダーの中で私たちはどのような生き方をするのでしょうか。何がそこに待ち受けているか。もしかしたら、私の葬式があるかもしれない。またどなたかの葬式をするかもしれない。想像してご覧なさい。ご自分がこの講壇の前で棺おけの中に入っているという、そのような事態をいったい誰が計画しているのでしょうか。望むと望まないにかかわらず、何にもないところに造り出している方がおられる。まさにこのアブラハムの信仰は、そこです。17節に「すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神」。この一年、神様が私たちを造り生かし、何にもなかった一年の365日という、時間に換算しましたら何千時間になるのか分かりませんが、何にもない空間に、神様が皆さんを一日、一日造ってくださる。日々新しい創造の業を進めてくださる。「創造の業」と言っても、だんだん年を取って、しわが増える、白髪は増える、足腰が弱る。どうしてこれが神様の創造だろうかと疑います。しかし、神様は私たちを新しいものに造り変えてくださるのです。動けた人が動けなくなるという、新しい世界へ入れられるのです。新しくなると言うと、すぐ自分勝手に、今よりももっと元気になる、と期待しますが、新しいとは、自分にとって今まで経験のない世界のことです。だから今まで若くてぴちぴちして、飛び回っていたあのようになりたいと願いますが、あれはもう済んだことです。もっと新しいところへ、今度は寝たきりの中に入れられる。これも神様の業です。一年間の日々の生活を誰が造ってくださっているか。私ではない。皆さん一人一人、自分の人生だから、自分の生活だから、自分の家庭だから、自分の仕事だから、私が頑張ってここまでやったと思うなら、それは大間違いです。ここが信仰によって生きるということです。「無から有を呼び出される神」、何の書き込みもない新しいカレンダーの中に、書き込んでくださったのは神様です。私たちは勝手に「何月何日にどこどこへ行く」、「この人と会う」「ここに買い物に行って」と、予定を書きます。「この日は病院」「この日はレントゲン」「この日は何の検査」と、それらは全部「無から有を呼び出される」のです。私たちが自分で造っているのではない。
18節に「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである」。アブラハムは「神を信じた」と。神様を信じるとは、神様の何を信じるか? 神様の約束の言葉を信じることです。私たちの創造者、造り主、「わたしは神である、今より後もわたしは主である」(イザヤ43:13)と宣言している神様が、私たちに約束してくださったことがあるのです。それを着々と神様は日々実現してくださっている。この年頭に私どもが与えられましたみ言葉「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(2コリント3:18)、私たちをその栄光の姿に造り変えるために、何にもなかったカレンダーに私たちの一日、一日を書き加えて、生きる命を与える。この神様を信じ、約束の言葉を信じていく。神様は私たちの罪を赦し、自分のものとしてあがない、神の子供としたと、約束してくださいました。ところが、それを信じられなくて、どこに神の子としての姿かたちがあるだろうかと、自分を疑うことがしばしばでした。それでも神様は着々と約束を果たしてくださったのです。確かに、一年を振り返ると、いろいろな問題や事柄を通して、そこで神様に触れることができ、恵みの中を通ってきたことは、疑いのない事実です。去年よりも今年、今年よりも来年と、神様は「栄光から栄光へと」キリストの姿かたちが形作られるまで、生みの苦しみをする、と言われます。神様は熱心になって私どもを持ち運んでくださっている。私どもがそれを信じられず、目先のことだけに一喜一憂、ああなった、こうなったとしょげてみたり、上がってみたり、浮いたり沈んだり、絶えず繰り返しています。しかし、神様の計画は着々と進んでいるのです。
この時アブラハムは自分の状態がどうであれ、19節に「すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった」。現実を見る。これはやむを得ません。目の前にいろいろと自分の姿かたちがあります。周囲のいろいろな条件や事柄、見えるものばかりです。ああなったらどうしようか、こうなったら……、と思い煩うことがたくさんあります。しかし、その見えるものを超えて見えないものに目を注ぐ。これが信仰です。そして見えない神様に「無から有を呼び出される神」、その方が真実をもって約束をしてくださった言葉に堅く寄り頼んでいく。これがアブラハムの信仰です。「あなたにひとりの男の子を与える」と約束されたが、自分の実際を見ますと、体を見ますと「死んだ状態」、子供が持てるような状況ではなかった。しかし、「サラの胎が不妊であるのを認めながらも」でしょう。「見ざる・聞かざる・言わざる」、私の信仰がなくなるといけないから、そんな話を聞かせないで、私には何も言わないで、というのではない。見ているのです。ちゃんと現実をはっきりとこのような状態にある。絶望的であることも知っています。しかし、その現実に捕らわれるのではない。それに自分を置くのではなく、神様の約束の言葉に自分を置いていくのです。これが信仰です。
だから、家族の救いについても、ご主人のために、また息子や娘たちが何とか信仰を持って欲しいと願いますね。見える現実は実に希望がない、「絶望的」と言われます。「もう絶望的、駄目ですよ。うちの主人は、もう救われません」と決めてかかる。その現実を見れば、そのようにしか言いようがない。「もう、あきらめます」と言うかもしれません。ところが「無から有を呼び出される」、「死人を生かすことのできる神様」でしょう。かたくななご主人の心ですらも瞬時にして打ち砕いて、救いに引き入れることができる方です。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)との約束の一言に全てを懸けて信頼していく。そして、一生懸命に、自分が信仰に立って歩んでいかなければ、神様の救いにあずかることができません。
20節に「彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ」と。これは素晴らしいですね。現実を見て失望するような状態だけれども、今度はもう一つ神様の約束の言葉を信じることによって、「信仰によって強められ」というでしょう。私たちは現実を見て悲観し、落胆し、御言葉を見て半分ぐらいちょっと心が上がって、また現実を見て落ち込む。一歩進んで二歩下がるという、御言葉で一歩進んだと思ったら現実を見て二歩下がって、どんどん後退してくのが現実です。ところがアブラハムは違う。現実を見て一歩後退、御言葉を信じて二歩前進、これが信仰の生き方です。来る新しい年も真っ更なカレンダーの中に、一年の中に、神様が私たちを造り出してくださいます。そこに素晴らしいドラマを神様が描いてくださるのです。シナリオライターである神様が私たちのために備えてくださることがある。そう言うと、「え!」という顔をなさる。「神様が備えてくださるものがありますよ」と言うと、「え!何だろうか。大丈夫だろうか」と怖がる。ひょっとしたらひどいことをされるのではないだろうかと。それは神様の愛を疑うからです。神様は愛するものに、そのような無茶なことをなさるわけがない。いや、それよりももっと素晴らしい大きなこと、神様は恵もうとしていてくださるのですから、神様の約束のお言葉、愛の言葉を信じてしっかりと立って行こうではありませんか。
もう一度、へブル人への手紙11章6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」。誠にそのとおりです。神様に喜んでいただくには、ただ一つだけ、「信仰がなくては」。その信仰とは、今申し上げましたように、神様の約束を信じ、神様を信じていくことです。そして、もうひとつ具体的にその先に、「なぜなら」とありますが、信仰とは何かをもう一度言い換えています。「神に来る者」、すなわち、神様を信じる者、神様を求める者は「神のいますこと」をまず信じる。それから「求める者に報いて下さること」を信じる。この二つのことです。信仰とはこの二つだけです。「神様がいらっしゃる」、そして「神様は必ず答えてくださる」ことを信じる。「神様がいらっしゃる」ことを信じるとは、神様が私を造り、私の全てであること、今日も生かしてくださる根源、私の今ある一番の源が神様だと認めることです。「神様がいらっしゃる」ことを信じるとは、取りも直さず私がその神様によって造られたものであり、神様に握られているのだと認めることです。そこが分離してしまう。神様はいらっしゃる、でも私もここにいる。だから私のことは私がする。神様のことは神様がなさる。私と神様が、分離してしまうのです。これが一番厄介と言いますか、私たちの信仰の妨げです。神様を信じることは、自分が神様の中に握られている、神様によって造られ、神様のものとなっていることを認めなければならない。だから、神様がいらっしゃるから、私はこのように生きてしゃべっているし、元気でいられる。また、神様がいらっしゃるから、寝たきりになるし、神様がいらっしゃるから私は病気になっていると、全ての原因が神様であると認めることです。これを普段自覚しないで生きています。神様はどこかにいるに違いないが、それと私とは関係がないと思っている。私の生活、私の家庭、私の台所、私の財布の中は、神様に関係ないよと思っているならば、「神のいますこと」を信じているとはならない。神様がいるから、私の財布の中に残り少なくなった。神様がいるから、こうやって元気でいられる。昨日は元気だったけれども、今日は元気がなくなった。ちょっと疲れが出た、それは神様がしてくださったこと、何もかも原因は神様にあることを認める。これが「神のいますこと」を信じることです。だから箴言にあるように「すべての道で主を認めよ」(3:6)というのはこのことです。どれもこれも神様がなさることです。そこに信仰の第一歩があります。
そして、その後に「自分を求める者に報いて下さること」とあります。神様に信頼するとき、神様に求めていくとき、神様に期待するとき、それに答えてくださる。応答してくださることです。生きていらっしゃることを信じるのです。神様はいらっしゃるけれども、うんともすんともいわないと思うのは間違い。祈ればそれに答えてくださる。私たちが御言葉に従って歩みさえすれば、その約束を具体化してくださる。そのような結果を伴って、私たちを導かれる方です。だから、今その結果が出ていない、今、事がどのようになっていくか分からない。でも、神様は必ず時を定めて、きちっとそのことを実行してくださる。
今、時はまさにクリスマスですが、クリスマスとはそのようなことでしょう。神様の約束が具体化した証詞です。東方の博士は旧約の聖書の中に預言者が預言した言葉を信じて、その言葉を信頼して出てきました。どのくらいの日数をかけて出てきたのか分かりませんが、玄関の所にクリスマスのナティビティードール(キリスト生誕の人形)がありますが、あれを見ますとらくだがいますから、恐らくらくだに乗って来たのかな、と思いますが、聖書にはらくだに乗った博士とは書いていませんから、徒歩で来たのかほかの何かできたのか分かりません。でも砂漠をらくだに乗って来るのは、非常にロマンチックで話としては面白いと思います。しかし、らくだにこだわる必要はないのです。そのようなことはどちらでもいいことです。いずれにしても大切なのは、その三人の博士が、困難をいとわないで、はるばるとイエス様を求めて来たその理由は何だったでしょうか。それは聖書の預言の言葉を信じたからでしょう。預言の言葉が本当に実現しているのだと、信じなければ、旅立つことはできません。行って無駄になるかもしれません。ところが、博士たちは、必ずその言葉のとおりになることを信じているのです。事実、星に導かれてとありますから、星という証詞はありました。しかし、その星だって本当にそこに救い主が生まれているのかどうか、これは行ってみないことには分かりません。結果が分からないのです。でも、神様は必ずそれに答えてくださる、と信じた。この約束の言葉は、時を定めて必ず成就すると博士たちは信じたのです。それが信仰です。三人の博士たちは信仰を持って、神様の言葉を信じて出てきた。そのとき結果がどうなるか疑いません。必ず、そのようになると信じて来たのです。
6節、「神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」。これがないならば信仰とは言えません。「お祈りはしたけれども、神様は聞いてくださるかどうかは分かりませんよ」という程度ならば、それは信仰ではない。そうなればいいし、ならなければ駄目で元々というのだったら、それは信仰ではない。必ず、そのようになると信じていく。神様の約束ですから、主がそのようにおっしゃっているから……と。私たちはいつもこの信仰に立って生きる者でありたいと思います。なぜならば、そうでなければ「神に喜ばれることはできない」。日々の生活にいろいろと次から次へと事が起こってきます。しかし、その度に、私たちは御言葉に立ち返って、主の約束を信じる。主の約束と言っても、目の前の具体的な事柄を「右にしなさい」「左にしなさい」「行け」「止まれ」と指示するマニュアルではありません。しかし、聖書の言葉に慰められ、励まされ、力づけられて、与えられた問題を通して、へりくだって神様を呼び求めつつ、御霊の御声に従うと、神様のほうが、私たちの信頼に答えてくださるのです。御言葉を絶えず、絶えず心に受け入れて、それによって力を得て、励まされ、慰められ、与えられた問題の中で、「無から有を呼び出される」神を信じて、必ず「報いて下さる」主を信じて、問題を引き受けていく、これが私たちの日々の生き方です。
神様は私たちを通して何をしてくださるか分かりません。しかし、分からなくてもいいから、ただ一日、一日、目の前に与えられた事柄の中で、この信仰に立って、「神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを」堅く信じて、主のなさる業を、その結果を味わい喜び、また感謝する者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。