ヨハネによる福音書3章16節から21節までを朗読。
16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。
この言葉は私たちにとって誠に大きな喜びです。一言で言うなら、神様が私たちに対してどのような思いを持っているか、そのことを明確に、しかも的確に語った言葉です。ある方は、これがなければ聖書は無きに等しいとまで言われます。そこまで言わずとも、確かにこの言葉は、私たちの望みであり、また力です。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とありますが、「この世」とは、私たち一人一人のことです。ですから、「この世」という所に自分の名前を入れて読みなさいと、昔から勧められています。「神はそのひとり子を賜わったほどに、榎本を愛して下さった」と、私は読みます。「この世」と言うと、漠然として、誰か他のことに違いない、私ではないだろうと、思ってしまいやすい。しかし、この言葉は誰が読んでも、その読んでいる人に対して、神様が今語っていることです。ですから「この世」と言うのは、誰でもない、実は私であり、皆さん一人一人です。神様が私たちを愛してくださっている。これはどんなに大きい喜びであろうかと思います。愛されていることは、うれしいことです。
皆さんでもそうだと思います。子供さんやお孫さんや、あるいは、若い人は彼女や彼や、そのようなさまざまな人から「私はあなたを愛しているよ」と口先だけでも言われてご覧なさい。実にうれしい。心が温まるでしょう。たとえそれがウソであっても。「いつまでもだましておいてほしい」と歌った人がいますが、取りあえず「あなたを愛しているよ」と言われることはうれしい。言葉だけでも、言われるとうれしいものです。うれしさに慣れてきますと、今度は厚かましくなる。「『愛してくれる』とは口先ばかりね」と言い出します。初めは口で言われただけでうれしい。ラブレターをもらったらもっとうれしい。
昔を思い出してください。ラブレターを一つもらっただけでもうれしくて、夜眠れなかったことがあった。ところが、ラブレターばかり何十枚たまっても何の喜びもなくなる。「愛しているなら、形のあるものを見せてよ」と、何かを求めたくなる。だから、ある作家は『惜しみなく愛は奪う』という小説を書いた人がいますが、確かに人の愛は、いろいろなものを求めます。「愛している」と下手に言ったらえらいことです。後でいろいろなことを要求される。だからみんな口をつぐんで、言うまいとしているでしょう。世の中はそれでギクシャクする。「愛している。あなたが大好きよ」と言うと、そしてそれに対して私どもは、「では、愛しているならば何をしてくれるの」とこうなるのです。「あなた、何もしてくれないではないの。結婚して三十年、あなたの『愛する』という最初の言葉はあったけれども、それっきり、何にもない」と言いたくなるでしょう。そのように私どもはすぐに「愛の証を見せてほしい」。『金色夜叉』ではありませんが、「ダイヤモンドに目がくらむ」と言う。愛されると、そのような具体的な形や物を求めます。
だから、16節にありますように、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。といって「そうか、愛されているのか。うれしい」と思って、はたと自分の周囲を見回す、あるいは自分自身を振り返ってみると、いったいどこに神様の愛の印があるだろうか。生活は困っているし、健康ではないし、だんだんと年は取ってきて、あちらもこちらも悪い。お祈りはするけれども、神様は一向に聞いてはくれないし、口先ばかり、愛しているよ、愛しているよと、いったい神様の愛はどこにあるのだ、と思う。神様に対して、そのような不信感を持ちやすくなる。ところが、神様は口先だけではない。具体的に私たちを愛してくださった事態、事柄があるのです。それは、「ひとり子を賜わったほどに」ということです。神様は、私たちのためにご自分の愛するひとり子である、主イエス・キリストをこの世に遣(つか)わしてくださいました。しかも、私たちと同じ肉体をもった人となるために、ベツレヘムの馬小屋に生まれてくださった。それは神様からの私たちへのプレゼント、愛のプレゼントです。神様の御愛はどこにあるか? それは、生活がよくなる、あるいは事情、境遇が都合よくなり、問題がなくなって、あれが楽しい、これがうれしいと、そのようなことばかりになるから、だから神様が愛してくださっているのだ、というのではありません。
ヨハネの第一の手紙4章10節を朗読。
この言葉は、繰り返し教えられる言葉の一つですから、つい「そうか」と軽く聞き流してしまいやすい。しかし、これは非常に大切な言葉です。「わたしたちが神を愛したのではなく」、そのとおりであります。私たちは神様を愛したことは一度もありません。それどころか、神様は、神様から造られた私たちを愛して、雨を降らせ日を照らせ、作物を与え、着るものを与え、住む所を与え、仕事を与え、知恵を与え、力を与え、健康を与えて、この地上に置いてくださって、養い育(はぐく)み、持ち運んでくださっている。でもそのようなこととは露知らず、神様を放ったらかしにして、自分の力と、知恵と、努力で今の地位を築いた、この生活をやってきたと自負している。そのような私たちほど、忘恩の輩、恩を知らない者はいないと思います。犬でも、三日飼ったら飼い主を忘れない、というでしょう。三日どころではない。皆さん、七十年、八十年、九十年近い間、神様は何のお金を取ったわけではない、ただ一方的に恵んでくださって、日々、健康を与えてくださっている。いや、私の望んだ健康ではない。あそこも痛い、ここも痛い、年を取ったら、またあそこも悪くなった、と言って、不平不満を言います。しかし、神様は、それでもなお、今日生きる命を与えてくださっている。私たちは、そのようにすぐにないものばかりをねだる。欠けているところの不平ばかりを言う。しかし、神様は、私たちに必要な物を必要なだけ必要な時にきちっと備えて、それでよろしいと言われる。それは、私たちを愛している証詞です。
そればかりでなく、ここにありますよう、「神がわたしたちを愛してくださって」と。神様を一度も愛したこともない身勝手な、自分勝手な生き方をしていた私たちを、神様のほうが愛してくださいました。神様のほうが愛して、何をしてくださったか? 「罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」。「ひとり子を賜わった」。言うならばクリスマスです。ひとり子、イエス様が人となって、おとめマリヤを通して、この世に生まれてくださいました。そのことによって、「ここに愛がある」と言われます。神様が私を愛してくださるその証拠はどこにあるか。神様は私を愛してくださると、言葉ばかりでなくて実態を見せてくれ。それに対して神様はちゃんと「ここにあるではないか」と。それがこのクリスマスの起こった出来事です。「ベツレヘムの馬小屋に幼子を見るであろう」と神様は、あの羊飼いに預言なさいました。そのとおりに馬小屋に幼子が飼い葉おけの中に寝かされていました。まさにそれが神様の愛なのです。そしてそのひとり子は、何のために来てくださったか?
先だって木曜会で教えられたことですが、終わりまして家内から「あなたの今日のメッセージは、暗すぎる。クリスマスはもっと明るくて、楽しくしなければいけない。あんなに暗い十字架の話や死んだ話や、イエス様の苦労話を聞かされても、誰もうれしくないよ」と言われました。もう一度考え直しまして、何かうれしいことはないかしらと。でも、イエス様の生涯は誠に暗いのは事実です。なぜならば、私たちの人生がそうだからです。イエス様は私たちと同じものとなってくださいました。私たちと同じ生きる悩み、死の恐れ、また病に悲しみ、苦しむ人々の思いを知り、その中に寄り添ってくださった方です。だから、礼拝で「まことの光があって、世にきた」と教えられたように、イエス様は光なる方ですが、人の世に降ってくださったイエス様の生活の中には、どこに光があったか? それはただ一つだけ、父なる神様との交わり、そこに光が差していたのです。イエス様の生涯は闇のような生涯です。そして最後は十字架の非業の死を遂げる。その真っ暗と思えるような生涯の中で、イエス様は、自分がまことの光を受けて生きる生き方がどこにあるかを明らかにされた。確かに外側から見て、イエス様の生活を私たちと比べるならば、どこにも違いがない、それどころか、全く闇の中を生きてくださいました。しかし、イエス様はその中で絶えず光を受けて、光の中に歩み続けることはどんなに大きな勝利であるかを、私たちに実証する、実体験させるために生きてくださった。だから「まことの光」、それはイエス様ですが、父なる神様からの光を絶えず受け続けることで、「まことの光」となってこの世に生きたのです。イエス様は、悩みの中に、悲しみの中に、病の中に、また苦しみの中に、あの十字架の死の恐怖と恐れの中に、自分を置いて、それでもなお失望することのない力と命が注がれてくる源があることを、私たちに証詞している。私たちにもその命を受けてほしい、これはイエス様の切なる願いです。だから「あなたがたは、この世ではなやみがある」(ヨハネ16:33)と言われます。確かに、この地上の生活を生きている間、悩みから解放されることはありません。ゼロになることはありません。しかしイエス様はその闇のような人の世にあって、そこが闇だけではなく、実は隠された光があることを、生涯を通して証詞してくださいました。イエス様が、父なる神様からの愛を受けていたことです。父なる神様と愛によって結ばれた信頼、ここにイエス様の地上における闇を生き抜く命と力があったのです。イエス様はヨハネによる福音書の15章の中ほどに「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」と語っています。「わたしの愛のうちにいなさい」と、イエス様はお勧めになられました。そこでイエス様は「父がわたしを愛されたように」と言われます。イエス様は父なる神様から、自分が大変愛された存在であることを知っていました。しかし、愛してくださる父なる神様は、イエス様に何を求めたでしょうか? 十字架の死を求めたのです。
親が愛する子供にそのようなことを求めるでしょうか? 息子に対して「お前はおれの息子だ。お前を本当に愛しとるから、ひとつ死んでくれ」なんて言いますか? 病気になって死にかけている息子に向かって、「おい、お前を愛しているからな、安心して死ねよ」なんて言えたものではないでしょう。ところが父なる神様は、イエス様にまさにそのようなことを求めたのです。もし、私たちが親からそのような扱いを受けたら、自分がこの親から愛されているとは思わないに違いない。いや、自分が親から一番憎まれ、嫌われている者に違いないと思う。
ところが、イエス様は、父なる神様に対してそのような疑いはみじんもない。それどころか、父が私を愛してくださっている。イエス様は、父なる神様に対する絶対的な愛の信頼に結びついている。それがイエス様の「まことの光」なのです。私たちがイエス様のご生涯と一つになっていく。イエス様のご生涯の中から私たちが命をつかみ取っていく道は、まさにここです。10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。「ここに愛がある」のです。イエス様が、神の位を捨て、人となって私どもの所へ来てくださいました。来てくださった目的は、罪人として十字架に死ぬために来たのです。三十三歳と半年、いわゆる人生の最高の時期でありましょう。その時に十字架におかかりになり、罪なき方が罪人となって、人の罪を負って、私たちのために死ぬ。それは愛する父なる神様が、愛してくださっているゆえに与えてくださった大きな使命であることを、イエス様はご存じで、この地上の生涯を歩まれた。そのイエス様の生涯は、さきほど申し上げましたように、誠に闇のご生涯でありますが、そこに絶えず望みの光が差していた。その光はどこからきていたか。「父がわたしを愛されたように」。イエス様は徹底して父なる神様は、わたしを愛してくださっていることを一分一厘疑うことなく、百パーセント信頼しきって、生涯を歩まれた。ここに愛があるのです。私たちが神様の御愛の中に絶えずとどまっていくところに「まことの光があり」、その光は私たちを照らし、命と力を注いでくださいます。
「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」。私たちの罪、どのような罪か? 私はどこも悪いところはない。すぐそのように思います。しかし、考えてみると、私たちは罪の塊です。自分のことだけしか考えることができない。神様を畏(おそ)れることを知らない。自分が、自分がと、そして、どんなことでも自分の都合の良いように、まさに私たちの心は何でもありのような状態です。イエス様は人を見て憎いと思ったら、それは人殺しだと言われます。物を見てそれが欲しいと思ったらそれは盗んだのと同じだと。神様の厳しい基準で計られたならば、どうでしょうか? 私たちは、今日、今死んで、神様の前に「はい、イエス様」と喜んで立てる自分であるか? と問われるならば、決してそうとは言えない。そのような私たちの罪の代償として、私たちが死ぬべきところを身代わりとなるために、イエス様はこの世に来てくださいました。そして、ついにあの十字架に苦しみを受けて、命を捨ててくださったのです。これが神様の愛です。この神様の大きな愛を抜きにしては命がない。
ヨハネによる福音書3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。私たち一人一人のために、ひとり子であるイエス様をこの世に送ってくださいました。そして私の罪のために十字架に命を捨ててくださいました。今、私たちを赦(ゆる)してくださっている。主の許しにあずかって、生かされている。
私も主の赦しにあずかった喜びを、今も持ち続けています。そのことが分からないでいたときは苦しかった。見るもの聞くもの、何もかもしゃくの種、正しいのは自分だけ。あいつが悪い、こいつが悪い、心にはそのような人を裁く思い、自分を義とする、自己主張する、突っ張る思いが、絶えず心にあります。そのとき、平安はありません。闇です。ところが、そのような中に私がいましたとき、初めてイエス様が誰のために「父よ、彼らを赦し給え」と祈っているのだろうかと、真剣に考えました。この穢(けが)れた、醜(みにく)い、どうにも仕様のない私のために、イエス様が死んでくださって、「父よ、彼らを赦し給え」と、主の赦しに与えてくださっている。私が地上に命を与えられて、生きているのは、赦されているゆえ、生きているのだ。それを知ったときに、うれしくて、心のなかの何かが崩れていくようでした。それまではかみしもを着たと言いますか、よろいかぶとをかぶって、世の中を歩いていた。人に隙を見せまい。自分をけなすようなことを言われたり、批判されたくない。正しい生き方をと、身構えていましたから、なかなかきついのです。そして人をさげすむ、あいつがあのようなところがあるから駄目、こいつはあんなところが駄目と、常に駄目!駄目!駄目!
自分はそんなことはないと思っているかもしれませんが、人から何か言われたときに、「そうね。本当に私はそのようなところがあるよね」と、素直に言える人はまずいない。「あなたはこのようなところがあるね」と言われれば、「いいや!」と。「あなたは、このような良いところがある」と「いいや!悪いところがある」と、必ずそうですよ。「先生、私もこのようなところがありまして」と言われるので、「いいえ、そのようなことはありません。あなたは良いですよ、このようなところがあって、素晴らしいではないですか」と褒めてやる。褒めてやると嫌がるのです。「いいえ、そんなことはありません。私はこんな悪いところが、こんなところがあって」と言われる。ですから、次は「あなたは、このような悪いところがありますね」と言いましたら、「いいえ!私は……」と反発する。「はい」と素直になれない。それは自分が正しいと思っているからです。だから、子供や周囲の人から、「お母さんはどう」とか、「お父さんは何とかねぇ」と言われたら、「そうだよ、お父さんはそうなんだよ」と、素直に言えるためには、神様の赦しにあずかっていなければできない。イエス様はそのために死んでくださったのです。イエス様は十字架に今日も命を捨ててくださって、「父よ、彼らを赦し給え」と執り成してくださる。主は赦してくださって、私たちを神様の愛の中に置いてくださいます。神様の愛が今日も注がれている。私を愛してくださる神様がいることをしっかりと心においてください。生活に何が起こってきても、どのような問題があっても、どのような悩みの中に置かれても、大丈夫、ひとり子を賜うほどに私を愛してくださる神様がいる。しかも、その方が私たちを、問題や事柄の中に置いている。だから、決してうろたえることはいらない。
ローマ人への手紙8章31節から35節までを朗読。
31節に「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」。そうですね。神様が私たちの味方となり、後ろ盾となってくださる。これが、神様が私たちを愛してくださるということです。神様はひとり子を賜ったほどに愛して、愛の証詞である十字架を立ててくださいました。それによって私たちの罪を赦して、「わたしはあなたを愛しているよ」と告白してくださいました。主が私たちを愛していることは、言葉を変えて言うなら、私の側に立ってくださる、私の後ろ盾となってくださることです。神様が私たちの味方ですから、私たちを害するもの、敵するもの、私たちを何とかくじけさせようとするどんなものでも、神様によって防ぎ得ないものはない。ところが、まぁ、この位だったら神様はできるかもしれないけれども、これはちょっと難しそうだから、これは神様でも無理かもしれないと。私たちは神様の愛と力を疑う。神様が味方なのですから、私たちの側に立ってくださっているのです。神様は私の味方である、私を愛してくださっていると堅く信じましょう。そして、神様は私の全てを握って、私を今、生かし、動かし、持ち運び、全ての業の中に置いてくださっている。だから神様が知らないで、神様の知らないところで、とんでもないことになったなど、決してありません。何か問題があり、事柄があるならば、それは神様が起こしている。「どうしてか? 」「何でか? 」、理由は分からないけれども、神様が私を愛してくださっていることを、とことん信じ続けていく。
32節に「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。神様が愛するひとり子すらも、この世に送って、罪のあがないの供え物とし、十字架にまで命を捨ててくださった。それほどまで惜しみなく愛してくださっている。「これ以上何をしたらあなたは私の愛が分かってくれるか」と嘆いていますよ。イエス様の命よりも、もっとちっぽけな安っぽいものを望んで、「神様、ああしてください。こうしてください。これをしてくれたら、あなたの愛を信じます」と言いますが、どのような奇跡を見ようと、天変地変、驚くようなことを体験しても、それで神様の愛を決して知ることはできません。もし、それができるならば、波の上を歩いたイエス様を見た弟子たちは、すぐに信じたでしょう。あるいはラザロを墓からよみがえらせた時に、それを見た人たちは神様の愛を信じたでしょう。ところがどうでしょうか。誰も残らなかった。イエス様が十字架におかかりになったとき、弟子たちすらもイエス様を見捨てました。目に見える事情や境遇、あるいは奇跡や不思議な業、どんなことをもってしても、私たちは神様の愛をしっかりと握ることはできません。ただ一つだけです。神様の愛を知るのは、このような私のために、今日もイエス様が十字架に死んで、自分の血を携えて、「父よ、彼らを赦し給え」と執り成してくださる主がいること、それによって赦され、生かされていることを自覚する以外に神様の愛につながる道がない。32節に「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。ひとり子すらも惜しまないで、私たちに与えてくださった神様は、どうして私たちの求めることを聞き流すでしょうか。いくら祈っても神様は答えてくださらないなどと、えらそうなことを言いますが、そうではない。神様は一番良いことを備えて、私たちが知らない将来のこと、いろいろなことを全部、愛のうちにきちっと定めておられる。その主が今日も「わたしはあなたを愛しているよ」と語っています。
35節に「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」。どのような問題に遭っても、患難に遭おうと、苦悩に、また迫害に遭っても、主の愛を疑わない。あのクリスマスの喜びは、ひとり子が神の位を捨てて、私のために来てくださった喜びです。どのような問題の中、悩みの中、病の中に置かれましても、私たちの心からこの愛を奪い去ることはできない。ところが、私たちはすぐに忘れるのです。ちょっと痛いこと、つらいこと、思いがけないことが起こりますと、「神様!神様がいながらこんなことになって、お祈りしているのにどうしてこのようになったのですか」と時々食って掛かる。なぜであるか、私たちには分からない。しかし、神様は愛なる方です。だから、何がどうかなのか分からなくていいのです。この問題がどうして起こっているのか? これから先どうなるのか? 私の老後がどうなるのか? 死ぬときどうなるのか? ぼけるのか、ぽっくりいくのか、寝たきりになるのか分からない。いいのですよ、どれでも。愛されているのですから。どのようなことに置かれても、「患難であろうと、剣であろうと、飢えであろうと、裸であろうと、神の愛から私たちを引き離すことはできない」と言えるならば、幸いです。ところが、患難どころか、ちょっと黒い雲がわいてくると「どうして」と、すぐに神様を放ったらかして、捨てて、神様の愛を疑って右往左往うろたえる。31節に「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」。大丈夫、神様は私たちを愛してやまない方です。何が起こってきても、主は愛です、「神は愛なり」と言い切っていく生涯でありたい。
初めのヨハネによる福音者3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。「永遠の命」、この地上にあるばかりでなく、死んでから先も永遠に変わることのない命の生涯が、イエス様を信じる私たちに、神様の愛に根差して生きる私たちに、備えられていることを感謝していきたいと思います。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。
この言葉は私たちにとって誠に大きな喜びです。一言で言うなら、神様が私たちに対してどのような思いを持っているか、そのことを明確に、しかも的確に語った言葉です。ある方は、これがなければ聖書は無きに等しいとまで言われます。そこまで言わずとも、確かにこの言葉は、私たちの望みであり、また力です。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とありますが、「この世」とは、私たち一人一人のことです。ですから、「この世」という所に自分の名前を入れて読みなさいと、昔から勧められています。「神はそのひとり子を賜わったほどに、榎本を愛して下さった」と、私は読みます。「この世」と言うと、漠然として、誰か他のことに違いない、私ではないだろうと、思ってしまいやすい。しかし、この言葉は誰が読んでも、その読んでいる人に対して、神様が今語っていることです。ですから「この世」と言うのは、誰でもない、実は私であり、皆さん一人一人です。神様が私たちを愛してくださっている。これはどんなに大きい喜びであろうかと思います。愛されていることは、うれしいことです。
皆さんでもそうだと思います。子供さんやお孫さんや、あるいは、若い人は彼女や彼や、そのようなさまざまな人から「私はあなたを愛しているよ」と口先だけでも言われてご覧なさい。実にうれしい。心が温まるでしょう。たとえそれがウソであっても。「いつまでもだましておいてほしい」と歌った人がいますが、取りあえず「あなたを愛しているよ」と言われることはうれしい。言葉だけでも、言われるとうれしいものです。うれしさに慣れてきますと、今度は厚かましくなる。「『愛してくれる』とは口先ばかりね」と言い出します。初めは口で言われただけでうれしい。ラブレターをもらったらもっとうれしい。
昔を思い出してください。ラブレターを一つもらっただけでもうれしくて、夜眠れなかったことがあった。ところが、ラブレターばかり何十枚たまっても何の喜びもなくなる。「愛しているなら、形のあるものを見せてよ」と、何かを求めたくなる。だから、ある作家は『惜しみなく愛は奪う』という小説を書いた人がいますが、確かに人の愛は、いろいろなものを求めます。「愛している」と下手に言ったらえらいことです。後でいろいろなことを要求される。だからみんな口をつぐんで、言うまいとしているでしょう。世の中はそれでギクシャクする。「愛している。あなたが大好きよ」と言うと、そしてそれに対して私どもは、「では、愛しているならば何をしてくれるの」とこうなるのです。「あなた、何もしてくれないではないの。結婚して三十年、あなたの『愛する』という最初の言葉はあったけれども、それっきり、何にもない」と言いたくなるでしょう。そのように私どもはすぐに「愛の証を見せてほしい」。『金色夜叉』ではありませんが、「ダイヤモンドに目がくらむ」と言う。愛されると、そのような具体的な形や物を求めます。
だから、16節にありますように、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。といって「そうか、愛されているのか。うれしい」と思って、はたと自分の周囲を見回す、あるいは自分自身を振り返ってみると、いったいどこに神様の愛の印があるだろうか。生活は困っているし、健康ではないし、だんだんと年は取ってきて、あちらもこちらも悪い。お祈りはするけれども、神様は一向に聞いてはくれないし、口先ばかり、愛しているよ、愛しているよと、いったい神様の愛はどこにあるのだ、と思う。神様に対して、そのような不信感を持ちやすくなる。ところが、神様は口先だけではない。具体的に私たちを愛してくださった事態、事柄があるのです。それは、「ひとり子を賜わったほどに」ということです。神様は、私たちのためにご自分の愛するひとり子である、主イエス・キリストをこの世に遣(つか)わしてくださいました。しかも、私たちと同じ肉体をもった人となるために、ベツレヘムの馬小屋に生まれてくださった。それは神様からの私たちへのプレゼント、愛のプレゼントです。神様の御愛はどこにあるか? それは、生活がよくなる、あるいは事情、境遇が都合よくなり、問題がなくなって、あれが楽しい、これがうれしいと、そのようなことばかりになるから、だから神様が愛してくださっているのだ、というのではありません。
ヨハネの第一の手紙4章10節を朗読。
この言葉は、繰り返し教えられる言葉の一つですから、つい「そうか」と軽く聞き流してしまいやすい。しかし、これは非常に大切な言葉です。「わたしたちが神を愛したのではなく」、そのとおりであります。私たちは神様を愛したことは一度もありません。それどころか、神様は、神様から造られた私たちを愛して、雨を降らせ日を照らせ、作物を与え、着るものを与え、住む所を与え、仕事を与え、知恵を与え、力を与え、健康を与えて、この地上に置いてくださって、養い育(はぐく)み、持ち運んでくださっている。でもそのようなこととは露知らず、神様を放ったらかしにして、自分の力と、知恵と、努力で今の地位を築いた、この生活をやってきたと自負している。そのような私たちほど、忘恩の輩、恩を知らない者はいないと思います。犬でも、三日飼ったら飼い主を忘れない、というでしょう。三日どころではない。皆さん、七十年、八十年、九十年近い間、神様は何のお金を取ったわけではない、ただ一方的に恵んでくださって、日々、健康を与えてくださっている。いや、私の望んだ健康ではない。あそこも痛い、ここも痛い、年を取ったら、またあそこも悪くなった、と言って、不平不満を言います。しかし、神様は、それでもなお、今日生きる命を与えてくださっている。私たちは、そのようにすぐにないものばかりをねだる。欠けているところの不平ばかりを言う。しかし、神様は、私たちに必要な物を必要なだけ必要な時にきちっと備えて、それでよろしいと言われる。それは、私たちを愛している証詞です。
そればかりでなく、ここにありますよう、「神がわたしたちを愛してくださって」と。神様を一度も愛したこともない身勝手な、自分勝手な生き方をしていた私たちを、神様のほうが愛してくださいました。神様のほうが愛して、何をしてくださったか? 「罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった」。「ひとり子を賜わった」。言うならばクリスマスです。ひとり子、イエス様が人となって、おとめマリヤを通して、この世に生まれてくださいました。そのことによって、「ここに愛がある」と言われます。神様が私を愛してくださるその証拠はどこにあるか。神様は私を愛してくださると、言葉ばかりでなくて実態を見せてくれ。それに対して神様はちゃんと「ここにあるではないか」と。それがこのクリスマスの起こった出来事です。「ベツレヘムの馬小屋に幼子を見るであろう」と神様は、あの羊飼いに預言なさいました。そのとおりに馬小屋に幼子が飼い葉おけの中に寝かされていました。まさにそれが神様の愛なのです。そしてそのひとり子は、何のために来てくださったか?
先だって木曜会で教えられたことですが、終わりまして家内から「あなたの今日のメッセージは、暗すぎる。クリスマスはもっと明るくて、楽しくしなければいけない。あんなに暗い十字架の話や死んだ話や、イエス様の苦労話を聞かされても、誰もうれしくないよ」と言われました。もう一度考え直しまして、何かうれしいことはないかしらと。でも、イエス様の生涯は誠に暗いのは事実です。なぜならば、私たちの人生がそうだからです。イエス様は私たちと同じものとなってくださいました。私たちと同じ生きる悩み、死の恐れ、また病に悲しみ、苦しむ人々の思いを知り、その中に寄り添ってくださった方です。だから、礼拝で「まことの光があって、世にきた」と教えられたように、イエス様は光なる方ですが、人の世に降ってくださったイエス様の生活の中には、どこに光があったか? それはただ一つだけ、父なる神様との交わり、そこに光が差していたのです。イエス様の生涯は闇のような生涯です。そして最後は十字架の非業の死を遂げる。その真っ暗と思えるような生涯の中で、イエス様は、自分がまことの光を受けて生きる生き方がどこにあるかを明らかにされた。確かに外側から見て、イエス様の生活を私たちと比べるならば、どこにも違いがない、それどころか、全く闇の中を生きてくださいました。しかし、イエス様はその中で絶えず光を受けて、光の中に歩み続けることはどんなに大きな勝利であるかを、私たちに実証する、実体験させるために生きてくださった。だから「まことの光」、それはイエス様ですが、父なる神様からの光を絶えず受け続けることで、「まことの光」となってこの世に生きたのです。イエス様は、悩みの中に、悲しみの中に、病の中に、また苦しみの中に、あの十字架の死の恐怖と恐れの中に、自分を置いて、それでもなお失望することのない力と命が注がれてくる源があることを、私たちに証詞している。私たちにもその命を受けてほしい、これはイエス様の切なる願いです。だから「あなたがたは、この世ではなやみがある」(ヨハネ16:33)と言われます。確かに、この地上の生活を生きている間、悩みから解放されることはありません。ゼロになることはありません。しかしイエス様はその闇のような人の世にあって、そこが闇だけではなく、実は隠された光があることを、生涯を通して証詞してくださいました。イエス様が、父なる神様からの愛を受けていたことです。父なる神様と愛によって結ばれた信頼、ここにイエス様の地上における闇を生き抜く命と力があったのです。イエス様はヨハネによる福音書の15章の中ほどに「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」と語っています。「わたしの愛のうちにいなさい」と、イエス様はお勧めになられました。そこでイエス様は「父がわたしを愛されたように」と言われます。イエス様は父なる神様から、自分が大変愛された存在であることを知っていました。しかし、愛してくださる父なる神様は、イエス様に何を求めたでしょうか? 十字架の死を求めたのです。
親が愛する子供にそのようなことを求めるでしょうか? 息子に対して「お前はおれの息子だ。お前を本当に愛しとるから、ひとつ死んでくれ」なんて言いますか? 病気になって死にかけている息子に向かって、「おい、お前を愛しているからな、安心して死ねよ」なんて言えたものではないでしょう。ところが父なる神様は、イエス様にまさにそのようなことを求めたのです。もし、私たちが親からそのような扱いを受けたら、自分がこの親から愛されているとは思わないに違いない。いや、自分が親から一番憎まれ、嫌われている者に違いないと思う。
ところが、イエス様は、父なる神様に対してそのような疑いはみじんもない。それどころか、父が私を愛してくださっている。イエス様は、父なる神様に対する絶対的な愛の信頼に結びついている。それがイエス様の「まことの光」なのです。私たちがイエス様のご生涯と一つになっていく。イエス様のご生涯の中から私たちが命をつかみ取っていく道は、まさにここです。10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。「ここに愛がある」のです。イエス様が、神の位を捨て、人となって私どもの所へ来てくださいました。来てくださった目的は、罪人として十字架に死ぬために来たのです。三十三歳と半年、いわゆる人生の最高の時期でありましょう。その時に十字架におかかりになり、罪なき方が罪人となって、人の罪を負って、私たちのために死ぬ。それは愛する父なる神様が、愛してくださっているゆえに与えてくださった大きな使命であることを、イエス様はご存じで、この地上の生涯を歩まれた。そのイエス様の生涯は、さきほど申し上げましたように、誠に闇のご生涯でありますが、そこに絶えず望みの光が差していた。その光はどこからきていたか。「父がわたしを愛されたように」。イエス様は徹底して父なる神様は、わたしを愛してくださっていることを一分一厘疑うことなく、百パーセント信頼しきって、生涯を歩まれた。ここに愛があるのです。私たちが神様の御愛の中に絶えずとどまっていくところに「まことの光があり」、その光は私たちを照らし、命と力を注いでくださいます。
「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として」。私たちの罪、どのような罪か? 私はどこも悪いところはない。すぐそのように思います。しかし、考えてみると、私たちは罪の塊です。自分のことだけしか考えることができない。神様を畏(おそ)れることを知らない。自分が、自分がと、そして、どんなことでも自分の都合の良いように、まさに私たちの心は何でもありのような状態です。イエス様は人を見て憎いと思ったら、それは人殺しだと言われます。物を見てそれが欲しいと思ったらそれは盗んだのと同じだと。神様の厳しい基準で計られたならば、どうでしょうか? 私たちは、今日、今死んで、神様の前に「はい、イエス様」と喜んで立てる自分であるか? と問われるならば、決してそうとは言えない。そのような私たちの罪の代償として、私たちが死ぬべきところを身代わりとなるために、イエス様はこの世に来てくださいました。そして、ついにあの十字架に苦しみを受けて、命を捨ててくださったのです。これが神様の愛です。この神様の大きな愛を抜きにしては命がない。
ヨハネによる福音書3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。私たち一人一人のために、ひとり子であるイエス様をこの世に送ってくださいました。そして私の罪のために十字架に命を捨ててくださいました。今、私たちを赦(ゆる)してくださっている。主の許しにあずかって、生かされている。
私も主の赦しにあずかった喜びを、今も持ち続けています。そのことが分からないでいたときは苦しかった。見るもの聞くもの、何もかもしゃくの種、正しいのは自分だけ。あいつが悪い、こいつが悪い、心にはそのような人を裁く思い、自分を義とする、自己主張する、突っ張る思いが、絶えず心にあります。そのとき、平安はありません。闇です。ところが、そのような中に私がいましたとき、初めてイエス様が誰のために「父よ、彼らを赦し給え」と祈っているのだろうかと、真剣に考えました。この穢(けが)れた、醜(みにく)い、どうにも仕様のない私のために、イエス様が死んでくださって、「父よ、彼らを赦し給え」と、主の赦しに与えてくださっている。私が地上に命を与えられて、生きているのは、赦されているゆえ、生きているのだ。それを知ったときに、うれしくて、心のなかの何かが崩れていくようでした。それまではかみしもを着たと言いますか、よろいかぶとをかぶって、世の中を歩いていた。人に隙を見せまい。自分をけなすようなことを言われたり、批判されたくない。正しい生き方をと、身構えていましたから、なかなかきついのです。そして人をさげすむ、あいつがあのようなところがあるから駄目、こいつはあんなところが駄目と、常に駄目!駄目!駄目!
自分はそんなことはないと思っているかもしれませんが、人から何か言われたときに、「そうね。本当に私はそのようなところがあるよね」と、素直に言える人はまずいない。「あなたはこのようなところがあるね」と言われれば、「いいや!」と。「あなたは、このような良いところがある」と「いいや!悪いところがある」と、必ずそうですよ。「先生、私もこのようなところがありまして」と言われるので、「いいえ、そのようなことはありません。あなたは良いですよ、このようなところがあって、素晴らしいではないですか」と褒めてやる。褒めてやると嫌がるのです。「いいえ、そんなことはありません。私はこんな悪いところが、こんなところがあって」と言われる。ですから、次は「あなたは、このような悪いところがありますね」と言いましたら、「いいえ!私は……」と反発する。「はい」と素直になれない。それは自分が正しいと思っているからです。だから、子供や周囲の人から、「お母さんはどう」とか、「お父さんは何とかねぇ」と言われたら、「そうだよ、お父さんはそうなんだよ」と、素直に言えるためには、神様の赦しにあずかっていなければできない。イエス様はそのために死んでくださったのです。イエス様は十字架に今日も命を捨ててくださって、「父よ、彼らを赦し給え」と執り成してくださる。主は赦してくださって、私たちを神様の愛の中に置いてくださいます。神様の愛が今日も注がれている。私を愛してくださる神様がいることをしっかりと心においてください。生活に何が起こってきても、どのような問題があっても、どのような悩みの中に置かれても、大丈夫、ひとり子を賜うほどに私を愛してくださる神様がいる。しかも、その方が私たちを、問題や事柄の中に置いている。だから、決してうろたえることはいらない。
ローマ人への手紙8章31節から35節までを朗読。
31節に「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」。そうですね。神様が私たちの味方となり、後ろ盾となってくださる。これが、神様が私たちを愛してくださるということです。神様はひとり子を賜ったほどに愛して、愛の証詞である十字架を立ててくださいました。それによって私たちの罪を赦して、「わたしはあなたを愛しているよ」と告白してくださいました。主が私たちを愛していることは、言葉を変えて言うなら、私の側に立ってくださる、私の後ろ盾となってくださることです。神様が私たちの味方ですから、私たちを害するもの、敵するもの、私たちを何とかくじけさせようとするどんなものでも、神様によって防ぎ得ないものはない。ところが、まぁ、この位だったら神様はできるかもしれないけれども、これはちょっと難しそうだから、これは神様でも無理かもしれないと。私たちは神様の愛と力を疑う。神様が味方なのですから、私たちの側に立ってくださっているのです。神様は私の味方である、私を愛してくださっていると堅く信じましょう。そして、神様は私の全てを握って、私を今、生かし、動かし、持ち運び、全ての業の中に置いてくださっている。だから神様が知らないで、神様の知らないところで、とんでもないことになったなど、決してありません。何か問題があり、事柄があるならば、それは神様が起こしている。「どうしてか? 」「何でか? 」、理由は分からないけれども、神様が私を愛してくださっていることを、とことん信じ続けていく。
32節に「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。神様が愛するひとり子すらも、この世に送って、罪のあがないの供え物とし、十字架にまで命を捨ててくださった。それほどまで惜しみなく愛してくださっている。「これ以上何をしたらあなたは私の愛が分かってくれるか」と嘆いていますよ。イエス様の命よりも、もっとちっぽけな安っぽいものを望んで、「神様、ああしてください。こうしてください。これをしてくれたら、あなたの愛を信じます」と言いますが、どのような奇跡を見ようと、天変地変、驚くようなことを体験しても、それで神様の愛を決して知ることはできません。もし、それができるならば、波の上を歩いたイエス様を見た弟子たちは、すぐに信じたでしょう。あるいはラザロを墓からよみがえらせた時に、それを見た人たちは神様の愛を信じたでしょう。ところがどうでしょうか。誰も残らなかった。イエス様が十字架におかかりになったとき、弟子たちすらもイエス様を見捨てました。目に見える事情や境遇、あるいは奇跡や不思議な業、どんなことをもってしても、私たちは神様の愛をしっかりと握ることはできません。ただ一つだけです。神様の愛を知るのは、このような私のために、今日もイエス様が十字架に死んで、自分の血を携えて、「父よ、彼らを赦し給え」と執り成してくださる主がいること、それによって赦され、生かされていることを自覚する以外に神様の愛につながる道がない。32節に「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」。ひとり子すらも惜しまないで、私たちに与えてくださった神様は、どうして私たちの求めることを聞き流すでしょうか。いくら祈っても神様は答えてくださらないなどと、えらそうなことを言いますが、そうではない。神様は一番良いことを備えて、私たちが知らない将来のこと、いろいろなことを全部、愛のうちにきちっと定めておられる。その主が今日も「わたしはあなたを愛しているよ」と語っています。
35節に「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」。どのような問題に遭っても、患難に遭おうと、苦悩に、また迫害に遭っても、主の愛を疑わない。あのクリスマスの喜びは、ひとり子が神の位を捨てて、私のために来てくださった喜びです。どのような問題の中、悩みの中、病の中に置かれましても、私たちの心からこの愛を奪い去ることはできない。ところが、私たちはすぐに忘れるのです。ちょっと痛いこと、つらいこと、思いがけないことが起こりますと、「神様!神様がいながらこんなことになって、お祈りしているのにどうしてこのようになったのですか」と時々食って掛かる。なぜであるか、私たちには分からない。しかし、神様は愛なる方です。だから、何がどうかなのか分からなくていいのです。この問題がどうして起こっているのか? これから先どうなるのか? 私の老後がどうなるのか? 死ぬときどうなるのか? ぼけるのか、ぽっくりいくのか、寝たきりになるのか分からない。いいのですよ、どれでも。愛されているのですから。どのようなことに置かれても、「患難であろうと、剣であろうと、飢えであろうと、裸であろうと、神の愛から私たちを引き離すことはできない」と言えるならば、幸いです。ところが、患難どころか、ちょっと黒い雲がわいてくると「どうして」と、すぐに神様を放ったらかして、捨てて、神様の愛を疑って右往左往うろたえる。31節に「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」。大丈夫、神様は私たちを愛してやまない方です。何が起こってきても、主は愛です、「神は愛なり」と言い切っていく生涯でありたい。
初めのヨハネによる福音者3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。「永遠の命」、この地上にあるばかりでなく、死んでから先も永遠に変わることのない命の生涯が、イエス様を信じる私たちに、神様の愛に根差して生きる私たちに、備えられていることを感謝していきたいと思います。
ご一緒にお祈りいたしましょう。