いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(31)「神の子として」

2013年10月22日 | 聖書からのメッセージ
 ローマ人への手紙8章12節から17節までを朗読。

 今朝は14節に「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」。
教会に来ますと、神様という言葉を聞きます。そればかりでなくて、キリスト教ですからイエス・キリストの話も聞きます。そのうえ、聖霊とか御霊という言葉もしょっちゅう耳にします。そういうのを聞いていると、一体何がどうなっているのか、ごちゃごちゃして訳が分からんと思う。神様だけなら一番わかり易い。教会に行かなくても、日本にいると、気が付かない内に、神様を意識する。手近かなところでは、お正月に三社参りとか、初詣をします。また、夏祭りなどでは、祇園太鼓をドンチャカ、ドンチャカやって、やはり神様と結びついている。日本の社会には、年中そういう行事があって、神様には違和感がない。その言葉に対して抵抗がありません。

ところが教会に来ると、神様ばかりではないみたい。イエス・キリストも居る。そうなると、神様とイエス様とはどんな関係だろうか。聖書の話を聞いていると、神の子であるとか、御子であるとか、ひとり子であると言う。神様に子が居たら奥さんはどういう人だろうかと、馬鹿なことばかり考えて、愈々訳が分からなくなります。そのうえ、御霊であるとか霊であるとか、何か変なものがニョロニョロと出てきそうな話になる。霊という言葉は日本人にとってあまり良い意味で使われない。霊魂と言いますが、案外この霊魂という言葉も忌み嫌われる言葉で、ネガティブな、否定的な意味で使われます。人間には霊魂があるというのはいい意味ですが、霊が甦ってくるとか、死んだ人の霊が舞い戻ってくるなどと聞くと、気持ちが悪い。悪霊であるとか、背後霊だとか、そういう話もあります。だから、霊とは怖いものと思っています。

ある人が、「先生、やっぱり霊というのはありますなぁ」と言う。「どうして分かったの?」。「この前お盆に家族と一緒に先祖の墓参りに行きました。その時家族四人と親戚の者と七人で写真を撮ったら、後ろの列に立っていた娘の左側の腕が消えている。その横の方に何か影らしいものが写っていたのです」と言う。私は興味深く「ほう、その写真を是非見せてください」と言ったら、次の日曜日に持って来ました。見るけれども、「たまたま手が後ろにいっているのじゃないの」、「いやちゃんとここの所に手が出ていた筈です」と。「でも、光の加減か屈折でこういう事はあり得るのでは」と言ったのです。「そんな事はない。先生は霊の事が分かりませんなぁ」と言う。霊という言葉を聞くと、何か怖い、まがまがしい、そういう雰囲気が漂ってきます。キリスト教にはそんな事はあるまいと思ったら、何のことはない、キリスト教もしょっちゅう霊だとか、聖霊だとか、御霊だとか…の話になる。

今日は、キリスト教の信仰の上で大切なペンテコステという聖霊降臨記念の日でもあります。ペンテコステというのは、正に聖霊の働いたときです。霊が働いたら、人が狂喜になって踊りだしたり、訳の分からんことを喋りだしたり、わめきだしたりするものと思われている。勿論、霊の働きにはいろいろあるから、そういう事も無いとは言えません。また、私たちは霊魂というように、霊があって生きている者でもあります。いろんな霊があるとも聖書に記されている。悪霊と呼ばれる霊、この世の霊などと言われています。ですから、先ほど申し上げた、写真に写った霊があって、人を脅かしたり、人を誘惑するという、それも霊であるかもしれません。しかし、聖書に言う御霊、神の霊は、そういう霊ではありません。

神様は生きていて、人格ではなく、神格と言ったらいいでしょうか、神としての権限、権能、力を持っている。そして神様が全てのものを支配している。旧約聖書の一番最初、創世記1章1節に「元始(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」と、全てのものに先立って神様がいたと記されています。神様は、私たちの創造者、全てのものの根源です。それに対して私たちは造られた者、被造物です。造られた者(被造物)と神様(創造者)とは、全然次元が違います。だから、私たちが、神様に近づくとか、神様を呼び求めるかとか、神様にお願いするなんて、到底不可能です。私たちは一方的に神様によって造られた者。造られた者と造り主とは絶対に相容れません。接点が無い。

ところが、日本の神と称する神様は、スケールが小さ過ぎると思います。近くに有名な天満宮があります。その神社に行って見ると、大勢の人が来て、柏手を打って暫く何かお祈りをしている。それを見ながら、神様ってそんなに気安いものかなぁ、神様ってそんなに軽いものかなぁと思います。ポケットにあった僅かなお賽銭で神様にお願いが出来る。どこどこの大学に合格させて下さい。こういう事をして下さい。ああして下さいと言えるなんて、いとも楽なことです。もし、神様がその程度のものだったら、どれほど信頼出来るでしょうか。神様は、もっともっと大きくて、人の想像の及ばない存在であるのは当然のことです。人が考えられる範囲の中で、想像のできる範囲の神様だったら、それは人間よりも低いものです。しかし、本来神様は、もっともっと大きな方、私たちと気安く話が出来るどころか、近づくことすら許されないはず。

そのような神様が神のひとり子をこの世に遣わして下さった。イエス・キリストというのは、神が人となってこの世に来て下さった方です。それは神様が人間をどんなに愛して下さっているかを証ししているのです。何故、神様はひとり子をこの世に遣わして下さったか。神様は人と隔絶した方です。直接人と話をするようなことは出来ない。ある意味で人格的な存在に似たものですが、だからといって神様は、直接私たちとお話をすることは出来ません。旧約聖書には、神様に近づいたら、一瞬にして殺されるほど厳しい、また、権威と力を持っていると語られています。神様に対して私たちは何一つ為す術が無い、近づく道も無い。神様は敢えて主イエス・キリストとなって、この世に遣わされて下さった。これは実に驚くべき、奇跡的な出来事です。しかも、それは全人類の歴史の中で、ただ、一回だけ、その瞬間だけなのです。

二千年前に、イエス様はベツレヘムの馬小屋に生まれて下さいました。しかし、二千年前とか、年数をカウントできるよりももっと早くから宇宙の歴史があります。これから先どれだけ続くか分かりませんが、やがて終わりの時が来るでしょう。宇宙の始まりから終わりまでの中で、イエス様の時代は、恐らく正に歴史の中心点ではなかったでしょうか。神様がこの長い、果てしもない歴史の中で、ある一瞬、閃光のごとく神が人となって、降って下さった。神様が、御子なるイエス様が、人の世に住んで下さって、神様が私たちに身近なものとなって下さった。イエス様の生涯は、地上における33年と数ヶ月の旅路、これだけです。イエス様の使命は、十字架に命を捨てて、全ての人々の罪の贖いとなり、父なる神様の刑罰、呪いを受けることです。それによって、全ての人々にもたらされる呪い、神様の罰を取り除いて下さった。そしてイエス様は死んで墓に葬られます。しかし、それでお終いではありません。神様は、死からイエス様を甦らせて下さいました。甦ったイエス様は、聖書にあるように、40日間多くの人に御自分のよみがえったことを証詞して、天に帰られました。もう、この地上にはイエス様はいない。それだけだったら、私たちは神様に近づく道もなければ、神様のみこころに適った生活をどうやって生きるべきか分かりません。再び、罪の道に戻っていくでしょう。私達は、罪を潔められた者であるといえども、肉にあって今もこの地上に生きている被造物にすぎません。

イエス様のいなくなった後に、聖霊を与えて、イエス・キリストによって潔められ、罪を赦された私たちが、神様と交わることが出来る道となって下さった。今私たちは「天のお父様」或いは、「イエス様」と呼びかけて祈ることが出来ます。御霊なる神、聖霊なる神様が、共にいて下さって、父なる神様に執り成して下さるから、祈ることが出来るのです。私たちと神様の間に仲立ちとなって、取り次いで下さるのです。だから、もし御霊なる神様がいなかったら、私たちは神様と交わることは到底出来ない。たとえイエス様が、私たちのために呪いを受けて下さって、罪を赦して下さったと言われても、被造物である私たちが、神様と直接お話をするとか、神様の許に近づくことは出来ません。

神様が私たちと共にいて下さるために、どうしても無くてならないものがある。それは、被造物である私たちと神様との間に立って下さる方です。しかも、時代を超え、人種を超え、常に変わる事のないものでなければ役に立ちません。そのために、神様はイエス様に代えて、聖霊を送って、私たちと共にいて下さるものとしてくださいました。聖霊なる神は、父なる神と私たちとの間にあって、仲立ちをして執り成してくださいます。私たちにとって、父なる神様、全能者でいらっしゃる神様、これは欠くことの出来ない方であると同時に、主イエス・キリストもまた同じです。それと同時に、御霊なる神も私たちにとって無くてはならない方です。イエス様が天に帰られ、地上に肉体を持っていたイエス様はいません。しかし、御霊、聖霊なる神が私たちと共にいて下さる。これは大きな恵み、賜物と言いますか、祝福です。御霊が私たちと共にいて下さる事を信じるのです。御霊はいつ私の所に来て下さるだろうかと思いますが、既に御霊は私たちの内に宿っていて下さるのです。大切なのは、私どもがそのことを認めることです。ヨハネの黙示録3章に「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」とあります。戸を叩いて下さっている。神様の霊が、御霊なる神様が、親しく皆さん一人一人に、私たちの魂の中に宿って下さっているのです。

いつになったら聖霊を貰えるだろうか、聖霊を貰うためには何をしたらいいだろうかと考える。「私は、ちょっと駄目かも知れない。人様には言えないけれど、心の中には憎しみと苛立ちと怒りが渦巻いて、あのひとは許せん、チャンスがあったら殺してやりたい」と思うほど、心の中にいろんな思いがある。そうすると、「私なんか駄目だわ、こんな穢れた者、傲慢な者、欲深い者、こんな者に神様の霊が宿って下さるなど、ありようが無い。もう少しましになってから…」と考えてしまう。「教会にいらっしゃいませんか」と誘うと、「いや、先生、ご存じないでしょうけれども、私はもう、ヤクザですよ。こんな者が、どうして教会なんかに行けますか。もうちょっと修行を積んで、まともになったら、行きましょう」と言う。私は「まともになる時はあるの?」と訊きます。私達はどうにもしょうがない。自分の力では、自分一人どうにもならない。人を恨むまいと思いながらも、つい恨んでしまう。或いは、もっと優しくしようと思いながら、出来ない、愛せない。

ある方のご主人が退職して、24時間365日、家に居るようになった。今までそんなことに気が付かなかったが、「家の主人て、うっとうしいんですよね」と言う。「趣味はないし、話題はないし、ケチでお金は使いたがらないし、一日中テレビを見て、話題にする話もない。こちらが何か話したら『ウン』『そう』『駄目』と二文字返事ばかりが返ってくる。先生、これからどうしたらいいでしょうか」。「そうですね。ご主人は今幾つですか」。「65歳です」、「まぁ。良くて後20年、悪ければ30年はありますね、その間どうしますか」。「私は離婚したい」と言うのです。「でも、ここまで30何年結婚生活をして、今更離婚してどうしますか。もう一つ、ご主人を愛する者に変わろうじゃありませんか」。「でも、自分もそう思うのだけれども、顔を見ると愛せない。離れているといい」と言うのです。「神様の前に出て、自分自身を変えていだだかなければ、これはどうにもなりませんよ」と言った。本人もそれは分かっている。「先生の話を聞くと、自分のことばかりを言われているようで、身につまされるけれども、しかし、言われたからと言って直るわけじゃないし…」と。本当に深刻です。私はしみじみと、「今こそ聖霊の時代だなぁ。神様の御霊に満たされることが、私たちは何よりも大切なことだ」と。自分の力で自分を変えることも、自分の思いを変えることも出来ない。自分のものだ、私の身体だ、私の生活だと言いながら、自分では何にも出来ない、無能、無力です。そういう私たちを造り変えて下さるのは、神様の御霊、聖霊なる神様が、私たちの内に宿って、圧倒的な力をもって働いて下さることです。

イエス様が天にお帰りになった後、弟子たちがエルサレムに留まって、祈っていました。やがて10日ほど経った時に、彼らが集まって祈っていた家に、暴風が吹くような大音響が響いて、天から炎のような舌のようなものが一人一人の上に降った。ところが、そこにいた人々がみな、様々な異なった国の言葉で話し始めたとあります。神様の霊が一人一人に臨んだ。これは二千年前の弟子たちだけに起こった事ではなくて、実は私たちに注がれる御霊の働き、力を証詞するために、敢えて弟子たちにそのようなことを、神様はして下さいました。弟子達は私たちの代表者として聖霊を受けたのです。卒業式で、右代表で名前を呼ばれた一人だけが卒業生を代表して卒業証書を貰います。貰ったその人だけが卒業して、後は卒業出来ないのではありません。みんな卒業するが、卒業証書はその人が代表で貰う。それと同じで、それから後、イエス様の霊が私たち全ての人に注がれているのです。

その霊と言うのは、神様の思いを私たちに伝えて下さる。神様と私たちの間を絶えず結び付けて下さる力です。神様が持っている一切のものを私たちに注いで下さるのが御霊です。私たちの心にある思いや、すべての願いを、その求めるところを神様に伝えて下さるのも、御霊なる神様がいらっしゃるからです。

「いや、私はバプテスマを受けていないし、まだイエス様を信じたと言ったことも無いから、私のような者はだめかも知れない」と、そんな事はどこにも書いていません。皆さんが心からイエス様を信じて、「私にも今日神様は、御霊なる神、聖霊なる神様が、私と共にいて下さるのです」と信じる事です。そんな厚かましい、誰の許可も受けなくていいのだろうかと不安になることはいりません。神様は、私たち一人一人、「信じる者」に、「従う者」に御霊を与えて下さいます。

その時集まった人々は、他国の言葉で語りだした。エルサレムには世界各国から、ユダヤ人たちが、自分たちの神殿に礼拝するために集まっていました。だから、いろんな国の人たちがいた。その人たちの言葉を彼らが喋れるようになったというのは、事実その通りだと思います。しかし、それと同時に、この言葉が与えられて、彼らが新しく造り変えられた。御霊が私たちの内に働いて下さる時、私たちがどの様に変わることが出来るかという証詞です。

ガリラヤ湖で長年漁師をしていて、学歴もなかった、知恵も、知識も、或いは、そういう教育を受けたわけでもない。ただ、ごくありふれた、その時代の一般的な市民であった彼等が、突然他国の言葉を喋りだした。我々ですら英語一つ喋れない。それだのに彼らが喋りだしたというのは、言葉がしゃべれるというのは、新しい命と力が与えられた事の証詞です。私たちもそうです。イエス様の霊が内に宿って下さっていると信じて、御霊の導かれる所に従う時に、私たちは自分を変えていくことが出来る。自分の思いを180度変えてしまう力が与えられます。神様がそれをして下さいます。だから、自分を変えたい、ああなりたい、こうなりたいと夢を描きますが、変わる力は私たちには本来ありません。しかし、神様の霊が働いて下さる時、私たちは、愛せない者が愛することが出来るように、許せない者が許せることが出来るように、従うことが出来ない者が従うことが出来る者となり、信じられない者が信じる事が出来るように、神様の方が私たちを変えて下さいます。聖霊の力、聖霊の業がそこにあるのです。

今の時代は聖霊の時代とも言われています。使徒行伝を読みますと、繰り返し、繰り返し、「聖霊に導かれ」、「聖霊によって」、「聖霊が働いて」と、記されています。言うならば、使徒行伝と言いますが、ある方はこれは“聖霊行伝”、聖霊の業が行われた証詞の書だと言います。そこには、聖霊に従う者は、人の思いもよらない、自分も考えもしなかった業をします。その全てがこの使徒行伝に記されている。

今も神様は、その霊を注いで下さっています。私自身がここにこうして立たせられているのも、神様の御霊の働きによるのです。私は牧師の家庭に生まれましたが、初めから将来自分は伝道者になりたい、牧師になりたいと夢を描いていたのではありません。いや、それどころか、正反対です。牧師なんかに絶対になりたくないと思っていました。両親にも重々言い渡していた。私もそんなのになりたくないと思っていました。しかし、御霊が働いて下さいました。御霊が臨んで、私の思いを造り変えて下さいました。ひっくり返して、頑なな心を砕いて、神様の求めていることが何であるかを、明らかにして下さいました。その時。人が変わるのです。

だから、私はどんな人を見ても失望しません。一人の姉妹は90歳を超えていましたが、体が不自由になって娘さんの家で介護をされていた。その方は若いときから教会に来ていましたが、非常に我侭な性格、頑固な性格で、娘さんが言っても聞こうとしない。体が弱って、足がおぼつかなくなったのですが、言う事を聞かない。とうとうある時、夜10時頃でしたか、娘さんから電話がありました。「先生、母にちょっとてこずっています」、「どうしたんですか」「昼間、ヘルパーの方が来てお風呂に入れて貰おうとしたのですが、“あのヘルパーは気に入らないから絶対に風呂に入らん”と言うものですから、帰って貰いました。今日は母の風呂は無しにしようと思って、他の家族だけで終ったら、今になって母が“お風呂にどうして私を入れてくれない”と言う。断わったんですが、どうしてもと言うもので、二階から抱えて下ろしました。一人では危ないから、私が一緒に付き添って入ろうと言うと、“私は一人で入れる、あんたは来なくていい”そう言って、大喧嘩をして、とうとう私は堪忍袋の緒が切れて、母を一人にしました。そしたら、母が風呂場で、上がり切れなくてもぞもぞしている。横で見ている私が手を出して良いのか悪いのか、さっき喧嘩したばかりだから、ちょっと手も出したくない、嫌です。先生どうしましょうか」と。私は「放っときなさい」と言ったのです。「でも、風邪を引いたら…」「引いて肺炎を起したら、神様の所へ帰るから良いよ」と言った。しかし、娘さんも可愛そうになって「分かりました。何とかします」と。他人から「放っとけ」と言われると、したくなる。「そんなに言わないで、優しくしてあげなさい」と言われると、へそを曲げる。なかなか難しい、ものの言い方も…。先生が言うように肺炎を起こして、天国が近くなったら困るからと思って、風呂から上げてあげたという。私は気になったから次の日、訪問に行きました。娘さんのご主人、退職していましたが、私が帰りがけに出てきて、玄関先で「先生、ちょっと話がある」、「何でしょうか」、「母は何年教会に行ってますか」「かれこれ、4、50年になりますね」。その方は職人だったのです。「私等の職業でも、弟子を採って、訓練をすれば10年もしたら一人前になりますよ。40年も経って、あのざまは何ですか、先生!あんたの責任でしょうが…」と言われた。私はもう参りましたね。

でも、私はその時に、「でも、私の責任じゃないよなぁ、神様だよなぁ」と思ったのです。神様は、頑なにしょうとするものを頑なにし、自由自在です。この姉妹が頑なでいることも、これは神様の大きな御計画があり、神様が用いているのだと思いました。また、同時に神様は必ずその姉妹を整えて新しくして下さると信仰を持っています。何故なら、主の御霊が働いて下さる、聖霊なる神様が、今もその方の中にいらっしゃると信じます。御霊が働いて下さる。どんなに人から言われても、自分では変われないのです。しかし、神様の霊が臨んで働く時に、人はどんなにでも変ります。だから、信仰を持っていただきたい。自分自身に対して信仰を持っていただきたい。何故なら、私はこんなだけれど、大丈夫、神様の御霊によって、私は造り変えていただけるんだと信じて、そのために、神様に従う事を努めていけばいい。御霊に従って行きさえすれば、神様は、力を注いで、私たちを造り変えて、一体、あの人はどうなったの、最近全く人が違ったように変わったねと、言われるようになる。そういう例も沢山あります。神様の霊、神の御霊が、今も私たち一人一人の内に宿って下さっていることを信じて、熱心になって祈ろうではありませんか。そして御霊の導きに従おうではありませんか。

ローマ書8章14節に「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」。神の御霊に導かれている、言い換えると、神様の霊に従って行こうとすること。私たちが、神様の御霊に従いますと心を定めて御覧なさい。そうすると神様は皆さんに力を与えて、何をどうしたらいいか、どこへどうすれば良いか、何処へ行けばいいか、何処には行かないで良いか、一つ一つ教えて下さる。よく訊ねられます。「先生、神様の御心は分かるのだけれども、御心は私の願いとは正反対、いつも神様は、嫌なことばかりを私に求めますが、どうしたらいいでしょうか」と言われる。「いいから、嫌な事だと思っても従いなさい」と言ったのです。そうしたら、その姉妹が、後で「先生、不思議ですね、神様に従おうと心を定めたら、今まで嫌だと思っていた心がコロッと変わった。むしろ喜んでそれをすることが出来るようになりました」と。これは事実です。神様は御自分に従わせて、御心に適うようにしようとする時は、嫌なことを無理強いするような方では決してありません。私たちの心を造り変えて、喜んでしたいと思うようにして下さいます。神様は、凄い教育家だと思います。人間が人を教育する時は嫌なことを我慢させて、叩き込むという事をします。しかし、神様は、そんなことを為さらない。聖霊なる神は、私どもと共にいて、私たちがそう願って「はい、従います」と心を定めるならば、それを喜んですることが出来る、それに対して全力を尽くすことを喜びとするように、私たちを変えてくださいます。

私は「先生、大学の教授をしていて、こんな牧師になられて辛いでしょうなぁ」と、よく言われる。「大変でしょうなぁ」と。その方から見ると、昔、私が繰り返し“牧師なんかにならん”というのを聞いていたから、「嫌な事をさせられて可愛そうに」と思ったのです。ところが私はそうじゃない。最高の道に神様は憐れみをもって導いて下さったと、日々感謝します。嫌々ながら、しぶしぶ、仕方なしにやっているわけでは決してないのです。

神様は、そういうねんごろな方です。行き届いていらっしゃる。だからどうぞ、この14節に「すべて神の御霊に導かれている」、神様の霊に導かれる者となりたい。何故なら、それが神の子供だからです。神に愛される、神の子供となるというのは、ただ一つだけです。御霊なる神様のお声に従うこと。そのことに力を尽くしていきたいと思います。そこに私たちが、神の子供として生きる、新しい人と変えられていく、命があり力があるからです。

ご一緒に、お祈りをいたしましょう。



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